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雨ニモマケズ 風ニモマケズ

- 災害系ボランティア情報 ブログ-

日本は台風・火山・地震と世界でもっとも自然災害の多い国です。

阪神・淡路大震災以降、大規模災害でのボランティアによる救援活動は、いまや被災地の復興には欠かせぬものとなり、その活動は被災者へのエールにもなっています。
雨にも負けず、風にも負けず、汗を流す災害ボランティアに対する各方面からの応援をよろしくお願い申し上げます。         


朝日山復興隊【13】 [2006年06月06日(Tue)]
朝日山復興隊【4】において、この朝日山が戦場となった北越戦争について掲載させていただきましたが、北越戦争の戦いに敗れた長岡藩士達は、藩の再興を願い、家老の河井継之助を追うように、会津に向かいました。その数は藩士家族も含め1500名にも上ったとあります。しかし、会津に抜ける八十里越は西軍の追っ手迫る中、難渋を極め、空腹と疲労で行き倒れも多く、中には病人や幼児を見殺しにせざるを得ないこともあったようです。

その越境した藩士たちを温かく迎えてくれたのが、会津領只見村(現在の只見町)の人たちでした。そこで十分な休養を得た藩士らは行軍を開始し、会津坂下常林寺にて600名による隊を編成、会津へと転戦していきます。その指揮をしたのが、神童と誉れ高き若者、弱冠24歳の山本帯刀(写真)でした。

※山本家は一度断絶を強いられているが、あの山本五十六元帥がこの家名を復興させたのです。

この朝日山復興春の陣に、その只見町の「只見ぶなの木倶楽部」さんが参加されます。只見と中越とは縁が深く、只見町からの参加はとても意義深いものを感じます。

只見ぶなの木倶楽部さんは名前の通り環境系の市民団体ですが、地域でさまざまな活動もされています。また中越地震では只見ルートから救援に駆けつけ、ボランティアが比較的少なかった地域を中心に活動をされていました。

なお、会津からはさらに会津JCの皆さんがエントリーされています。
朝日山復興隊【12】 [2006年06月05日(Mon)]
今回の朝日山復興春の陣をお知りになった桑名市の歴史家の加藤勝己さん(82歳)から連絡がありました。自分は高齢で足も不自由ですが、長年に亘り桑名藩ゆかりの地をお守りいただいている皆様へ是非お礼を述べたいとのことで、桑名から小千谷へ来られます。

この春には戊辰戦争での桑名藩ゆかりの地を訪ねるツアーに参加されましたが、当然、震災で崩壊した朝日山は登ることが出来ず、無念ながら麓から手を合わせさせていただいたとのことでした。

そのこともあり、今回の企画に対して周りが止めるのも聞かず参加を決意したとのことでした。加藤さんには是非とも頂上に登っていただき西軍参謀山縣有朋を苦しめた桑名藩の名将、立見鑑三郎(後の陸軍大将)と勇猛果敢な桑名雷神隊を偲んでいただけたらと思います。

八十里越えの継之助ではありませんが、戸板に乗せてでもボランティアで力を合わせ頂上まで担ぎ上げるつもりです。朝日山復興隊の皆さんよろしくお願いします。その陣頭指揮は京都の盟友、袖さんにお願いしています。

また、桑名市からは加藤さんの他、災害系のボランティア団体くわな防災支援ネットの水谷慎吾さんも参加されます。水谷さんとは04年台風21号で被害のあった三重県海山町にて一緒だったようです。

※写真は立見尚文(鑑三郎)大将:東軍の将ながら、西南戦争・日露戦争の活躍で陸軍大将までなった人物

明日は、会津からの参加者をご紹介させていただきます。
朝日山復興隊【11】 [2006年06月02日(Fri)]
朝日山復興隊の作業は主には山での仕事になります。森林ボランティアのスタイルを参考にしてください。

山の道の階段づくり

むささびタマリンの森林づくり入門/山仕事のスタイルから
illustration by Masanobu Ohuchi
朝日山復興隊【10】 [2006年06月01日(Thu)]
浦柄の皆さんとボランティアが「朝日山復興春の陣」という一つの目的に向かって歩む事ができるのは、この4人のボランティアがいたからだと私は思っています。勿論、災害でのボランティア活動は多くの名もなき人達の活動があってこそ、その使命が果たせるのも事実です。

しかし中越地震では、いわゆるよそ者のボランティアが被災者である住民といかに信頼関係を築き上げるかがボランティア活動のポイントだったように思います。和南津でのオールとちぎ、田麦山での愛知ネット、塩谷でのHS神戸や中越元気村等等、これ以外でも法末、蓬平、半蔵金など多くの集落において、被災者とボランティアの枠を超えた強い絆が生まれています。

鈴木隆太さん(神戸)と吉椿雅道さん(福岡)は震災がつなぐ全国ネットワークのメンバーとして震災後から中越入り。浦柄の住民が避難した東小千谷小学校にて昼夜を問わず「足湯」を中心に活動しておりました。そしてまだ避難指示の解けない集落に特別に入り、ボランティアの先頭に立ち泥処理にあたりました。鈴木さんは現在も復興のため、住居を構え活動しています。

また、桑原誠さん(栃木)と柳沢直樹さん(東京)は04救援隊として、前述の両名と協働しながら終始現場作業にこだわり続け、04年雪が降り始めても浦柄にとどまらず南荷頃・朝日・寺沢・岩間木・塩谷と東山全域でその活動は続けられていました。いまでも新潟に通う日々です。

来たる朝日山復興春の陣で彼らを紹介させていただきたいと思います。

※下の写真は浦柄の元気の象徴、ほだれ?、いや「伝説の木」ロケット
朝日山復興隊【9】 [2006年05月31日(Wed)]
前回のブログで紹介した泥と瓦礫にまみれた浦柄ですが、その泥と闘った勇者たちです。

浦柄で活動するあの「04救援隊」の貴重な写真です。

家に流れ込んだ汚泥をポンプで汲み出すSHINCHAN(福島)

高速のSAで拾われた旅人のMASARU(福岡)

使える材を運びだす名城大ボランティア

朝日山復興隊【8】 [2006年05月31日(Wed)]
朝日山復興春の陣で住民とボランティアが共に汗しながら整備する朝日山は小千谷市浦柄地区にあります。
この浦柄地区は集落を流れる朝日川が地震でせきとめられ、また養鯉池の決壊で鉄砲水が集落を襲い、二重三重の被害を受けました。その状況下、住民・自衛隊・ボランティアが一丸となって大量の泥や瓦礫に立ち向かいました。その意味からも多くのボランティアにとっても思いでに残る地です。
この朝日山復興春の陣を機に、浦柄とボランティアとの新たな絆が生まれることと確信しています。

あの日の浦柄をもう一度心に刻み朝日山に臨みたいと思います。
写真は浦柄のHP《ようこそ浦柄へ》から






◇浦柄復興委員会ブログ《うらがらの笑顔》もどうぞ!
  https://blog.canpan.info/uragara/

朝日山復興隊【7】 [2006年05月29日(Mon)]
東軍「朝日山復興隊」の布陣が決まりました。

◇参謀本部(朝日山山頂)
◇前線詰所(白虎隊隊士墓碑)
◇作業隊(麓隊、旧道隊、本道隊、頂上隊、看板隊、昼飯隊、山古志別動隊)
※浦柄隊、長岡連合、風人連合、総勢120名を越える予定
◇武器:唐鍬、スコップ、鎌、鉈、鋸、掛矢、玄能、のぼり、ホラガイ、刈り払い機、チェーンソー、そして朝日山

浦柄の興廃この一戦にあり。各員フンドシを締めなおし一層奮励努力せよ!(元04救援隊々長桑原誠


朝日山復興隊【6】 [2006年05月28日(Sun)]
朝日山復興春の陣の記念Tシャツのデザインがほぼ固まりました。「復興意味する日の出朝日」と「災害に負けない不屈の精神を表す力こぶ力こぶ」をイメージし、かつ、ほのぼのひまわりとした雰囲気を見事に調和させたデザインに仕上げてくれました拍手
イラストは中越復興市民会議の事業イメージを描きあげたイラストレーターのhikaruちゃん女の子です。忙しい中汗をこの朝日山復興のために力を貸していただきましたすいません。製作は絆Tシャツ同様、浦柄の星、kuwaさんにまた一肌脱いでいただきましたすいません
1着2000円、ML合わせて200着の限定販売。早い者勝ちです。500円/着は朝日山保全のために浦柄に寄付されます。ご予約は本ブログにコメントにて受付中!残りは当日販売予定。売れ切れの場合はすいません
すでに予約黒電話が殺到していますのでお早めに。
朝日山復興隊【5】 [2006年05月27日(Sat)]
中越地震で朝日山の斜面が崩落し、現在は頂上への道が途絶えています。朝日山復興春の陣ではかつての旧道を整備し、震災前と同様、地域に愛されるのどかな朝日山の再生へ、浦柄の皆さんとあの日あの時浦柄の泥と格闘したボランティアが力を合わせ、正に「復興への道」づくりの始まりです。
    
    「大地鳴き 崩れ落ちたる 山肌に
            復興の道を いざ創らん」 
                       
                 列藩同盟仙台藩士
                  
朝日山復興春の陣(概要)

朝日山復興春の陣(参画・参集団体)

【古戦場朝日山】  ※赤線が今回整備される予定の道です。
朝日山復興隊【4】 [2006年05月25日(Thu)]
朝日山が戦場となった北越戦争について学びましょう!

《北越戦争》

慶応四年(1868年)、西軍は越後における旧幕府派の平定と会津藩征討のため北陸地方を北上、長岡にほど近い小千谷を占領した。この西軍に対し、5月2日、長岡藩家老河井継之助は西軍の岩村精一郎軍監に小千谷慈眼寺で会見。侵攻の中止と会津藩の赦免を願い出るが岩村はこれを拒否。このことをうけ長岡藩は奥羽越列藩同盟に加盟、越後西部諸藩(北越諸藩)もこれに続いて同盟に加わった。

会談の決裂後、西軍は信濃川を渡り、榎峠(長岡市〜小千谷市)を占領する。河井は摂田屋に本陣を置き善戦、朝日山に陣を構える東軍に対し、西軍は再三にわたって朝日山の攻略を目指すが、参謀山県有朋(後の総理大臣)が前線を離れた留守に、時山直八が攻撃を開始し、桑名藩の立見鑑三郎(後の陸軍大将)と戦うが時山は戦死し、西軍は敗走する。

長岡藩は河井継之助の指揮のもとガトリング銃などを使い善戦するが、多勢でしかも近代兵法に長けた西軍には勝てず5月19日、長岡城は占領される。のち長岡藩は会津藩らの援兵を受け、攻防の末に7月24日、長岡城を奪還するが、この戦いで河井は重傷を負う。
5日後の7月29日、西軍は再攻勢をかけて長岡城を再占領し、同日、米沢藩兵の守る新潟が陥落、越後の全域は新政府軍の支配下に入った。これ以降、同盟軍と新政府軍の戦いは東北地方に中心を移してゆく。河井は会津に逃れる途中、会津国境の八十里峠越えにて傷が悪化し死亡する。

八十里峠越えにて継之助は自嘲し次の句を残している。
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
越から敗走する自分を「越抜け」にかけたといわれる。
北越戦争では戦死者数は両軍合わせて2200人を超えたといわれています(合掌)

会見が行われた小千谷慈眼寺の立派な山門
※慈眼寺は地震の影響をうけ、早急な修繕が必要とされています


小千谷朝日山にある東軍兵士の墓
上の写真は福島県只見にある継之助終焉の地に建つ石碑