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雨ニモマケズ 風ニモマケズ

- 災害系ボランティア情報 ブログ-

日本は台風・火山・地震と世界でもっとも自然災害の多い国です。

阪神・淡路大震災以降、大規模災害でのボランティアによる救援活動は、いまや被災地の復興には欠かせぬものとなり、その活動は被災者へのエールにもなっています。
雨にも負けず、風にも負けず、汗を流す災害ボランティアに対する各方面からの応援をよろしくお願い申し上げます。         


小千谷市浦柄地区 [2006年04月25日(Tue)]
新潟県小千谷市浦柄地区にある朝日山は北越戦争(戊辰戦争)において東軍(長岡・会津・桑名を中心とした東軍諸藩)と西軍(薩摩・長州を主力とした西軍諸藩)が激しい戦いを繰り広げたところです。

この浦柄地区は平成16年10月23日に発生した中越地震において震災ダムの影響をもろに受け、町内の多くのか所が大きな大きな被害を受けました。朝日山においても石碑や石段などが大きな被害を受けました。(浦柄地区は皆川優太ちゃんが救出された妙見のすぐ近くです)

【集落に流れ込んできた土砂】



【震災よる土砂災害処理にあたるボランティアたち】


◇朝日山の戦い
(出展:HP「ようこそ浦柄へ」から)

慶応4年(1868年)5月11日から、ここ朝日山をめぐる攻防戦が始まった。前日、浦柄村(小千谷市大字浦柄)をはさんだ榎峠で、東軍と西軍の戦いがあった。その榎峠を長岡藩兵等の東軍が占領すると、戦いは榎峠を見下ろす朝日山に移った。朝日山を奪取した会津・桑名・長岡の各藩兵、それに衝鉾隊は大砲を山頂にあげ西軍陣地を砲撃した。

西軍は朝日山を取り返そうとたびたび攻撃した。とりわけ5月13日早朝の長州藩奇兵隊を中心とした攻撃は激しい戦いだった。参謀時山直八など多くの西軍兵士が命を落とした。その遺体は、小千谷に送られ、のちに船岡山の墓地に改葬された。朝日山の戦場は5月19日信濃川を強行渡河した西軍が長岡落城に成功するとにわかに戦いの要衝としての位置を失った。東軍兵士たちは朝日山の陣地から離れ、戦いの場は蒲原の地に移っていった。残されたのは戦死した東軍兵士の遺体だった。

戊辰戦争が終わり西軍が勝利すると、明治政府は遺体のかたづけを禁じた。なかでも会津藩兵にはきびしい放置を命じた。遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままになった。これをみた小栗山村(小千谷市大字小栗山)の福生寺住職や浦柄村の人びとが、昭和28年に戦死の地に墓標をたて、遺体を手厚く葬るとともにこの地に22基の石碑を建立し英霊を祀った。今も浦柄町には史跡朝日山を守る史跡保存会があり墓地や史跡を大切に守り伝えている。

なお、戦死した中に会津藩白虎隊士新国英之助(16歳)がいる。その墓標は、戦後20数年を経て、父がその遺体を探し当てて建立したものである。
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このような故事からか毎年春と秋に福島県会津で行われる式典に浦柄の方がご招待されています。キラキラ
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