憲法記念日に思うこと [2013年05月03日(Fri)]
今日、5月3日は憲法記念日。清志郎が生きていたら、彼の目には最近の出来事がどう映っているのだろう?
憲法改正、本当に必要なんだろうか?どうなんだろう? NHKの世論調査によると、憲法第9条は改正する必要があると思う」が33%、「改正する必要はないと思う」が30%、「どちらともいえない」は32%で、ほぼ同じ割合で並んだ。 このうち、「改正する必要があると思う」という回答は6年前の調査よりも5ポイント高くったそうだ。 一方で、「改正する必要はないと思う」という回答は11ポイント低くなりました。 9条を「改正する必要があると思う」と答えた人に理由を聞いたところ、「自衛力を持てることを憲法にはっきりと書くべきだから」が47%、「国連を中心とする軍事活動にも参加できるようにすべきだから」が32%などとなりました。9条を「改正する必要はないと思う」と答えた人に理由を聞いたところ「平和憲法としてのもっとも大事な条文だから」が66%、「改正しなくても、憲法解釈の変更で対応できるから」が16%などとなった。 憲法9条に加え、安倍政権が執拗に推し進めようとしている憲法96条の改正(憲法改正に必要な議席数(衆参両院のそれぞれで、すべての議員の「3分の2以上の賛成」から「過半数の賛成」に緩めるべきだという案)については、「賛成」が26%、「反対」が24%でほぼ同じだったのに対し、「どちらともいえない」が47%で半数近く。またこの問題に対して、「あまり知らない」(30%)と「まったく知らない」(15%)が合わせて45%と、全体の半分近くが現在の議論について十分知らないと答えている。 何が言いたいかというと、自分たちの国の憲法を変えようとする動きに余りにも無関心だというか知らなさすぎることが多いということです。憲法は国の基本法であり、最高法規、日本は国家主権国家ではなく、国民主権国家なので、憲法制定権者は国ではなく主権者たる国民です。その国民の代表が議員。議員たちは憲法を変えようとしているけれど、主権を持っているはずの国民が全然というか余りにも関心を持っていない現状がある。 先日、だーひょーりじは、facebookに「安倍首相=ヒットラー」みたいにコラージュした写真を載せ、反論を買いました。不快な想いをした人には陳謝いたします。でも自分としては安倍そーりや、自民党が憎いわけでも恨みもありません。ただ、いろんな人たちが今の現状を認識し、情報を自分で集め、自らが判断し議論する場や環境がないことが恐ろしく感じているのです。 日本国内での問題は、今や国内だけの問題ではない。情報化社会の中で、日本の一挙手一投足は世界中の人たちに瞬時に伝わります。 @ TTP絶対反対をスローガンにして選挙戦を戦った政党が、TTPを推進している A 憲法9条、96条の改憲を推進している B 原発を積極的に海外に販売しようとしている C 議員による靖国神社の集団参拝をこの時期にやる D 61年目の“節目”に主権回復のイベントを実施し「天皇陛下万歳」\(^^@)/をやっている E ニコニコ動画のイベントで迷彩服を着てはしゃぎまわっているように感じられる件… ここ1ヶ月余だけでも、様々なことが行われており、ちょっと考えろよと言いたくなります。 自分は靖国神社に祀られている英霊に対し敬意を払いお参りする行為は何ら問題もないと思いますが、何でこの時期に集団で参拝しないといけないか?マスコミを連れて行かなければならないのか?本当に英霊に対し畏敬の念を表するのにあんな形でしかできないのか? 自衛隊が国防軍になる!自分は自衛隊は大好きで、国民を守ってくれる大事な役割だと思っていますが、憲法の解釈だけでPKOにも参加できるのに、改憲する必要があるのか?やっぱり必要な理由は?そんなことも知らない人たちが多数いる中で、物事がどんどん決まっていきそうな流れを怖く感じています。より多くの国民が現状と課題を知り、議論した上で変えていくなら、変えていく。知らないままに国防軍になってしまっていいのだろうか? NPO法第2条第2項第2号ハには、NPO法人は、「特定の公職の候補者若しくは公職にある者又は政党を推薦し、支持し、又はこれらに反対することを目的とするものではないこと」と書かれています。確かに、だーひょーりじがWEBでネタにしていることは、この法律に抵触しているように見られがちかもしれません。しかし、日本国憲法の憲法制定権者は国ではなく主権者たる国民なのです。この国がどんな道を今後歩んでいくのか?大人として1人ひとりが自覚し、判断し、よりよい未来を将来の子どもたちに残していく責任はあると思います。 だーひょーりじは右でも左でもありませんし、政治家になりたいとも、どこかの政党を応援することはないです。 日本が経済復興をする道は @ 子どもを増やす A 移民を増やす B 贅沢な暮らしを止める この3つの道しか残されていないという説があります。経済的、軍事的に強い国を目指すのか?それとも別の方向を目指すのか? 今日は憲法記念日、いろいろと考えてみるのにいい機会かもしれません。 ここで清志郎の名言 「腰の引けたイクジ無しどもがこの世の中を動かしてるのさ」 |
それとも、国旗・国歌に関する共通の問題とは関係ない日本独特の問題か。
もしも、それが日本独特の問題であるならば、我が民族の特性に焦点を当てて深く論じなくてはならない。
そうでなければ、理性的な解決は得られない。
「なんで人を殴るのか」と問えば、「態度が悪いからだ」と答える。
相手が自分に対して服従の態度を示さないところが、気に入らないのであろう。
相手の序列メンタリティに対する批判には鉄拳制裁で応ずる。
服従が足りない。当人は、序列メンタリティの虜になって、やけっぱちになっている。
日本語には、階称 (言葉づかい) というものがある。
上と見るか、下と見るかの判断を迫る日本語を使えば、モノの上下に関する判断は常に要求される事項である。
この世俗的な上下感が日本人の理性判断を狂わせている。
理性 (理由・適当) 判断に確信が持てないので、下とみられたものは、上からの暴力に抗することもむずかしい。
序列差法は礼儀作法の一環と考えられていて、礼儀正しい日本人は無防備状態になっている。
上の者の声は、天から聞こえてくると感じられる。これは病的か、正常か。
「下におれ、下におれ」の掛け声は、昔から続いた為政者の要求である。
理屈はない。ただ、日本語の習慣と、指導者の要求のみがある。
世俗の上下制度が唯一の拠り所となっている。
暴力は、「がんばって」の掛け声のようなものか。
序列に基づく精神力 (意気込み・気力) で、大東亜戦争に勝てるのか。
兵士は、頑張っていることを示すために、玉砕をも強いられた。
戦果を論ずるような理性的なメンタリティはない。自分がどうやって死ぬかの問題だけがある。
敗戦により、序列のメンタリティによる努力の空回りに気が付く時が来た。
我々は、気力ではなく、知力 (intelligence) で負けた。
我々は、頭を鍛えなくてはならない。
だが、我が国の学歴社会の中では、理性的な頭を鍛えることは難しい。
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