ちがい
[2021年10月28日(Thu)]
ひとは それぞれ
個性や特性といった
「 違い 」を持っています。
ひとは 時にして
その「 ちがい 」をマイナスにとらえ、
「 相手を否定する 」行為をとることがあります。
ひとは 生まれて
成長する過程で、
自分で見て感じたことから
「 ちがい 」を 知ることがありますが、
暮らす生きる環境から
「 ちがい 」を 刷り込まれることが
往々にしてあり。
3、4歳頃から集団生活に入り、
自宅以外の場所で
一日のほとんどを過ごすようになった時、
そこを統率する大人の影響が
親の知らない間に
「 ちがい 」の意識を変えていることも
往々にしてあり。
学校という場では、
正解を求めることに重きを置き
その正解も1つで
わずかでも違えば誤答だと言われることも
往々にしてあり。
そこから「 ちがい 」を
マイナスとして捉えかねない状況が生まれ、
認知され、
それが 人間関係にも 反映されて。
「 ちがい 」を 否定する教育が常となり、
「 ちがい 」を よくないものとする考え方を
つくり出している場がどこか、と考えてみると。
子どもたちの周りに
ちがいのある子がいても、そこが
「 ちがい 」を 肯定的に捉える環境ならば
「 ちがい 」を マイナスに捉えない環境ならば、
「 違う 」という認識は 生まれません。
そして
学校という場が、
一人ひとりの「 ちがい 」を
「 ちがいのよさ 」を発見できる場であるなら、
学校現場で起こっている
さまざまなトラブルと呼ばれているモノは
解消できるはずです。
たとえば、「 ちがい 」が
「 左利き 」だったらどうでしょう。
左利きのひとが
利き腕では扱えない道具を使う仕事を任されたら
うまくいかないのは 当然のことです。
でも、そのことが理由で
叱責されたり
解雇を告げられたら、
そのひとにとって
「 左利き 」は「 障がい 」です。
しかし、利き手に関係なく
作業ができる職場に配置されたとしたら、
「 左利き 」は「 障がい 」ではないのです。
知的や精神や身体や発達に障がいのあることについても
同じこと ではないでしょうか。
不足している部分や
できないところだけに注目して、
「 ちがい 」という
マイナスのレッテルを貼ってしまう。
その場を
そのような環境を
変えたい。
日々のあらゆる場面で、
ささいなことでも「 ありがとう 」と言えて、
互いの「 ちがい 」を知り
尊重し合える環境が
広がることを願っています。
「 ちがい 」は、互いを認め合うために
あるのではないでしょうか。