ひとりの時間
[2021年09月27日(Mon)]
過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
目にした文章があります。
―― わたしには、
わたしがわかっていることと、
わたしがわかってないことがあります。
わたしがわかっていることは、
わたしが見ていること、
わたしが聞いていること、
わたしが触っていること、
わたしが嗅いでいること、
わたしがなめたり噛んだりしていること、
などなどがあります。
そういうふうに考えてみると、
わたしは、わたしをあんまり見たり、聞いたり、
触ったり嗅いだりなめたり噛んだりしていません。
さらに、
わたしはわたしと話してなかったりもする。
語りかけることも、
語りかけられることも、
あんまりたくさんはないような気がします。
だから、わたしは、
わたしのことをよく知らない。
知らないから、
よくわからないということになります。
わたしが、
わたしをわかってないのに、
みんなが、
わたしをわかっているのかもしれません。
みんなも、
わたしのことをそれほど知らないから、
あんまりわかってないかもしれませんけどね。
これほどいつもここにいるのだから、
わたしは、もっと、
わたしに話しかけたほうがいい。
わたしを見てやったり、聞いてやったりもして、
わたしのことを、知ってあげたらどうだろう。
ほんとは、なにが好きなの?
どういうことがしてみたいの?
どんなふうに生きたいの。
あれについてはこれについてはどう思う?
問いかけたり答えたりをして、
わたしとつきあう。
ひとりの時間は、それができる時間です。
ひとりのわたしが、
つよくなれるとしたら、
そのわたしを、よく知ることからはじめる。
知らないわたしは、
弱くさえないままなのだから。
それは、あなたについてもおなじことです。――
わたしを知る。
これを読んだ時、思い浮かんだことがあります。
障がいのあるひとたちにとって
「 わたしを知る 」機会は
十分に取れる環境にあるだろうか、
「 わたしを知る 」時間を
幼い頃から児童生徒として過ごす時期に
取れる環境であるだろうか、と。
成人した障がいのあるひとの悩みで
よく 耳にすることがあります。
「 ひとりの時間を過ごせない 」。
幼い頃、子たちは
日常でさまざまことを遊びにし、
場合によって
それが大人にとって不都合だったりすると
止めさせたり 取り上げたりと
その遊びを妨げることがあります。
障がいのある子についても 同じです。
幼い頃、ひとりで何かごそごそしてると
それを 親や支援者が
取り上げることが よくあります。
これは、その遊びが障がいのある子にとって
親や支援者は よくないことだと思いこみ、
余暇活動だと認めることもなく
止めさせることで、その子は
「ひとりで遊んではダメなんだ」と
学ぶことに つながります。
そして、小中学校生活で
“ 余暇 ”のようにあることは
“ 課題 ”と呼ばれる学校が設定したものをやる
ということであって、卒業後に
“ 課題 ”が無くなれば 何をするのか、
“ 余暇 ”は何をすればよいか、ということに
卒業後に気づくひとが 多く。
もしも、幼い頃から
積み上げる
引っ張る
穴に入れる
紙を破る
いつも同じモノやカタチをかく など
好きな「 ひとりあそび 」があれば、
それを「ひとりあそび」と理解できる環境であれば
“ 余暇活動 ”に困ることはないのです。
そして、こう思います。
小中学校の9年間を過ごす学校生活において、
「 みんなと一緒に、集団で、何かをする 」ことに
重きを置くことにこだわらず、在学時から
「 卒業後の“ 余暇 ”について意識する」ことに
教員、親、支援者が意識をもつことの
大切さを知ってほしい。
学校生活で そのようなことを求めると、
理解どころか
違和感をぶつけてくる教員も多いと思います。
障がいのある子たちの学校卒業後を
知らない
想像できない教員には、
「 ひとりあそび 」の時間の
意味や意義を説明して
学校生活の中でつくる提案をすることから
はじめましょう、
心がしんどくなることもあると思いますが。
「 ひとりの時間があっていいんだよ 」。
すべては、
障がいのある子に携わる
保育士や教員、学童の指導員さんなど
すべてのひとに
この意が伝わってほしいから。
「 ひとりの時間があっていいんだよ 」と
障がいのある子たちを見守る
大人が増えることを 願います。