障がい者雇用 3
[2018年09月03日(Mon)]
ほぼ日刊イトイ新聞の
「 今日のダーリン 」というコラムで、
過日、このような文章を 目にしました。
――「いつも考えている」という言い方があります。
なにかの答えみたいなものだとか
ヒントを見つけたとき、
「どうして見つかったんですか?」と聞かれたら、
「それについて、いつも考えてきたんだよ」
と言います。
ほんとに、そうなんです。アイディアが
空から降ってくるように言う人もいるけど、
降ってくる前に、
さんざん探してるんですよね。
で、「いつも考えている」というのは、
どういうことか?
これについて、横尾忠則さんが話してくれました。
「いつも考えてるといっても 時間じゃないんだよ」と。
何時間もじっと
そのことを考えてるようなものじゃない。
どれくらい考えてきたかという
「時間」じゃなくて、
「回数のほうが大事なんだよ」と教わったのでした。
ぼくは、その考えの深いところがわからないままに、
「そうですか、時間より回数ですか」
と思いました。
しかし、いまごろになって、わかったのです。
ほんとに、何時間考えたかよりも、
何度考えたかという回数こそが大事なのです。
それは、恋愛のことなんかで説明もできそうです。
「あなたのことを、今日も5時間思った」
ということと、
「あなたのことを いつも何度も思い出してる」では
どっちが「あなた」のあなたを打つでしょうか。
だいたい「5時間思う」って
どういうことなのかちらね。
仕事のアイディアにしても、
同じようなことじゃないか。
「この課題をどうしたらいいのか?」
「これはなにを意味しているのか?」なんてことを、
しょっちゅう考えているから、
答えにたどり着くんです。
もちろん、
ぼく自身のことについても思い当たります。
小学生のときから
考え続けているような問いもあります。
何年も考えていて、
わかりそうでわかってないことも、
なにかが刺激になって
何日か考えていることも‥‥。
気になること興味のあることについては、
何度も何度も、
考えては止めてをくりかえしてる。
そういうことを
「いつも考えている」と言うのでしょう。 ――
仕事のこと、であったり
家族のこと、であったり
未来のこと、であったり と
思うこと、は 日々 存在します。
思うこと、は
よく考えてみると
ほぼ 身近なこと、ですよね。
距離ではなく、その存在が。
先月下旬に表面化した
国や自治体などで雇用する
障がいのあるひとの数を水増ししていた問題。
国の中枢を司る省庁をはじめ、
全国の都道府県、教育委員会、警察など
ここもあそこも
次々と、故意に行われたコトが
明らかになっています。
「 対象者となるかどうかは
障害者手帳で確認しなければならないが
ガイドラインに定められているのみだった」とか
「 チェック機能が、働いていなかった」とか、
「 障がい者への 理解不足があった」とか、
さまざま「 理由 」とされることも
明らかにされています が。
ふと 思いました。
それらを担当しているひとたちが
もし、小さい頃から
身近に 障がいのあるひとと
一緒に過ごす環境であったなら、
障がいのあるひとへの 理解が
ちがっていたのではないか、と。
子どもの頃には
幼稚園で小学校で中学校で、
大人になったら
まちで商業施設で会社で、
自分のまわりに
障がいのあるひとがいる環境だったら、
少なくとも このような
最悪の状況ではなかった と断言できる。
身近に
障がいのあるひとがいる
日々の暮らしが
日本の
どこの場所にも存在していたら、
それらの担当者が
「 理由 」のひとつに挙げていた
「 障がい者への理解不足 」は 解消できます。
距離ではなく、その存在を身近に。
障がいのあるひとが
まちで 得手を活かして働くためには、
「 分けない教育 」は はずせないと、
あらためて、思います。