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きょうの福祉

「障がい者というコトバを
    使わなくて済む社会になればいいなぁ」

 障がいのあるひとが、
 地域で役割を担い、ふつうに生きる。。。
 この願いに向かう kyokyo の日々をつづります。



「今出来ること」という一人ひとりの小さな道が一緒になって大きな道へ
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選挙に行くこと、投票するということ 6  [2020年03月28日(Sat)]

選挙が終わるたびに
いつも 聞こえてくる言葉、
投票率。

その投票率の低さが、
選挙のたびに
言われ続いています。

その理由を
有権者の意識の低さのせいにするのではなく、
投票率が上がる方法の議論を
「 選挙で選ばれたひとたち」が 進めていない
という 現実を直視し、
大きく捉えなければなりません。

意識の低さ、だけではなく
天候に左右される投票方法、そう
家からなかなか出れないひとたちの投票についてや
障がいのあるひと
一人ひとりに合った投票方法が
より改善できるという意見に対して、
真摯に 向き合わない
「 選挙で選ばれたひとたち」。

投票は有権者の義務、と言うならば、
その義務を果たせるような
環境に整えてからでないと
その言葉は生きない ということを
理解しようとしていない
「 選挙で選ばれたひとたち」。

このような状態で
政治は 暮らしとつながっている、と
言えるでしょうか。


「 投票という行動」を 誰もが起こせる日本へ。


障がいのあるひとの投票方法について、
地域によって
ばらつきがあったり
投票所によって
ちがいがあることは 事実ですが、
それ以前に
疑問に
不快に
思っていることがあります。

あの投票所の雰囲気は、何とかなりませんか。

あまりにも無機質で 異質にすら感じ、
暮らしの延長とは ほど遠い空気が漂い、
失敗は許されない
ひとを萎縮させ緊張させ
書くことを書いたらサッサと出よ、と
ばかりの投票所。

違和感とともに
不信感をも感じ、
今在る投票所そのものが
投票を遠ざける理由のひとつと
言えるのでは、と。

政治に参加してください、と言うのなら
その前に
誰もが投票できる環境に整えてから
言ってくれ。

いつになく
荒い口調になりましたが、
今回の新型コロナウイルス感染拡大に関する
自治体や行政、政府の対応や
場当たり的な発言や
必要以上の混乱を招いているこの現状は、
市民国民が選挙の投票によって
つくられたものだ、ということなのです。

市民国民一人ひとりの意見が、
高い投票率で
公平に反映されているとは言えない日本で
上記のような状況が起きていることに、
憤りを感じています。

そして、こう思います。

ガラパゴス化していると
他国から呼ばれている
日本独特の 自書式の投票方法を、
世界で主流とされている
投票用紙に印を付ける 記号式の投票方法に
変えようという声があるにもかかわらず、
「 名前を書いてもらえるのが仕事、
政治家冥利に尽きる 」という
時代錯誤の言葉を今も口にする
「 選挙で選ばれたひとたち」に
掻き消されてはならない、と 強く。

他国をみると、
オーストラリアの投票方法は
チェックボックス方式で、
投票は 義務なので
行かない人は 罰金が課されますが、
健康上の事情などの免除もでき、
投票率は 常に90%以上 だそうです。

「 できないこと 」ではないのです。

「 やらない 」だけなのです。

今、このようなときだからこそ、考えたい。
「選挙に行くということ、投票するということ」は
このままで よいのでしょうか。













自由  [2020年03月22日(Sun)]

過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
次のような文章を目にしました。

――いろんな罪に対して罰というものがあります。
 罪を犯したこと自体が罰である、というような考えも
 あるにはありますが、やはり罪には罰が追いかけます。

 その罰のなかに、自由を奪い取るという刑があります。
 いや、近代では死やら痛みやらをともなう刑は、
 ほとんどなくなっているから、
 ほとんどの刑罰は、自由を制限するものでしょう。

 「刑務所に暮らして、決められた労働をしなさい」
 という懲役が基本的な刑なのでしょうが。
 雨露しのげる屋根も壁もある場所で寝起きして、
 食事も、選べないけれど、三度々々いただけて、
 入浴も最低限だけれどできて、作業義務という労働も
 辛いことをさせられて懲らしめられるわけじゃない。
 だとしたら、刑務所の外にいる人と、
 ほとんど同じとも言えそうじゃないですか。
 シャバと呼ばれる外の世界とのちがいは、
 どこかに出かけたり好きなものを食べたり遊んだり
 というような自由が制限されているということだけ。
 「だけ」とあえて書いたけれど、その「だけ」が、
 どれほどつらいものなのか、ということですよね。
 仕事が忙しくて、食べものだって選んでられなくて、
 移動は家と仕事場の往復だけで、
 なにかして遊んでるという実感もない…なんて人、
 刑務所の外だって、けっこういると思うんです。
 でも、外の人は「遊ぶぞ」とか
 「うまいもの食うぞ」とか
 「できるけれどしてない」んですね。
 あ、あと、会いたい人に会うというのも重要だな。
 つまり、人間が罰を受けるというのは、
 「自由」でなくさせられること、なんです。
 そう、それだけ。

 「自由」というものが、意識しない空気みたいにあって
 それを当たり前のように呼吸して生きているって、
 すごいことなんだよなぁと、思うんですよ。
 新しい場所に行き、新しい人に会い、こころを通わせる。
 こういうことが、きみもぼくも、いつでもできる。
 刑務所にいたら、そういうことに憧れるだろうなぁ。
 あと、まぁ、大福とかあんぱんとかもね。――



今、世界のあちこちで
新型コロナウイルスが 蔓延しています。

日本のあちこちでも。

生活の中で
さまざまな制限が発生し、
その余波は 日本中のひとびとに及んでいます。

とくに、幼稚園や小中高校に通う子たちにとっては
今までに経験したことのない
言いようのない不安、そして憤慨が
カラダのなかに
溜まっているのではないでしょうか。

大人たちも
日々のあらゆる面で辛さを感じ、
生活し続けることに
集中せざるをえない状況の中で、
「 自由 」という言葉を
忘れてしまいそうな日常が続き、
この先に思いを巡らせる「 余裕 」を
遠い場所へ忘れてきたように思えるひとも
多いのではないでしょうか。

「 自由 」を
取り立てて意識もせず
あたりまえのように呼吸をして生きて、
新しい場所へ行き
新しいひとに会い
話をして食事をともにすることなど
いつもできていたことが、
できなくなってはじめて
「 自由 」の意味の一辺を知る。

そして 思います、
誰かの支援がないと生活できないひとたちの
「 自由 」が、
置き去りにされる社会であってはならない と。

このような不測の事態であっても
「 自由 」に、そこに、
目を向けられるひとで在りたいと
思う3月です。

そして、
いつまでこのような状況が続くのかを
嘆くのではなく、このような状況のなかで
「自由」を
子どもたち から
支援がないと生活できないひとたち から
奪わずに暮らせる日常を、
どうやって保っていくのか を
考えられるひとが増えなければ、と。

そう、
どんなときも立ち止まって考えられるひと で
在りたいです、
在ってほしいです。













ケアラー  [2020年02月27日(Thu)]

障がいや疾病、高齢で
援助が必要な親族に対して
無償で 継続的に
日常の世話や介護、看護をしているひとのことを
意味する「 ケアラー 」。

この「 ケアラー 」という言葉を
耳にする機会が 増えています。

ケアラーの支援について、
そのサポートへ向けて、
さまざまな団体さんの発信を
目にすることも 増えました。

このような中で、
ケアラー支援条例の制定へ
動き始めた自治体があります。


「 埼玉県で全国初、ケアラー支援条例の制定へ 
 支え合いの社会づくりを推進 」
 ( 2020年2月14日付け: 福祉新聞 )


ケアラー支援についての基本理念を
「 すべてのケアラーが 個人として尊重され、
健康で文化的な生活を
営めるように 行われなければならない 」とし、
教育、児童、障がい、高齢などの
関係機関や事業者、
県民の役割を明記した 支援条例です。

同時に、県の基本方針や
具体的な施策を盛り込んだ推進計画も
策定しています。

ケアラーのうち
18歳未満は ヤングケアラー と定め、
このヤングケアラーについては
教育を受ける機会の確保や
健やかな成長を支援することも
明記されています。

そして、この条例案に対する意見募集では
「 ケアラーの現状が変わるように
強制力のある 内容にしてほしい 」という趣旨の
要望が多かった とありました。

ケアラーについて
日本は 明らかに後進国で、
イギリスやオーストラリアでは
国の支援法があります。

埼玉県では
ケアラー支援条例の
今年度中の成立を 目指しているとありました。


皆さんの周りに
ケアラーに該当するひとは いますか。

福祉にたずさわるひとの周りには
必ずいる、と思います。

ヤングケアラー であれ
ケアラー であれ、
まだまだ社会の認識は 低く、
その現状を 顕在化させることから
始めなければなりません。


「 ケアラーを支援するということは
これまでの日本の概念から 大きく外れている 」
とも 言われていますが、だからこそ
新しい概念を 浸透させるために
このような条例をつくり
支援へつなげることは
とても意義がある と言えます。

これまでも、今も、
家族の支援は家族が行う という概念が
日本には 深く根付いていて、
それが イイ悪い ということでなく、
家族で支援することが難しくなった時に
声を上げられる社会を
構築することが必要です。

ケアラー以外のひとたちの中にも
変わることを望んでいるひとが増えていることに
社会は、もっと反応してほしい。

日本は、もっと反応してほしい。


障がいや疾病、高齢で
援助が必要な親族に対して
無償で 継続的に
日常の世話や介護、看護をしているひとが
どれだけいる と思いますか。

想像したことが ありますか。

見えない、わからない、と
想像できない、は
ちがいます。

想像してください。

あなたは、想像できますか。













ドキュメンタリー映画『 うたのはじまり 』 [2020年02月15日(Sat)]

音は、
どんな色をして
どんな形をしているのだろうか、
“ うた ” は、どこから来たのか ――

ドキュメンタリー映画『 うたのはじまり 』は、
聾の写真家、齋藤陽道さんが
嫌いだった “ うた ” に 出会うまでのストーリー。





齋藤さんは 幼少期の頃の苦い経験から
“ うた ” が 嫌いで、
音楽は “ 振動 ” としか
捉えることができずにいました。

1983年生まれの彼は
東京都立石神井ろう学校を卒業後、
20歳で 補聴器を捨て カメラを持ち、
聞くことよりも 見ることを 選びます。

2010年に
第33回キヤノン写真新世紀優秀賞を 受賞。
2013年には
大規模な個展『 宝箱 』を開催。
昨年末には 写真集『 感動、』を刊行。

そして、
聾の写真家 麻奈美さんと結婚し、
息子を授かります。
息子さんは 聴者でした。

ある日、生後間もない息子が泣いているときに
自分の口から ふと こぼれた
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」。

心から
こぼれおちた
それは “子守歌 ” でした。

無意識に現れた “ うた ” は
一体 どこから来たのだろう。
音は
どんな色をして、
どんな形をしているのだろうか。

子育てを通して
斎藤さんが見つけ出した
音楽への答え、とは。


このドキュメンタリー映画『 うたのはじまり 』は
今月22日(土)より
シアター・イメージフォーラム(東京都渋谷区)での
公開を皮切りに、
3月27日(金)より
京都シネマ(京都市)、
3月28日(土)より
シネ・ヌーヴォ(大阪市)で、
そして
名演小劇場(名古屋市・日時未定)で、
劇場公開されます。


ぜひ観たい、観てほしい映画です。





*ドキュメンタリー映画『 うたのはじまり 』
公式サイト
https://utanohajimari.com/
監督・撮影・編集:河合宏樹
出演:齋藤陽道、盛山麻奈美、盛山樹、七尾旅人、
   飴屋法水、CANTUS、ころすけ、くるみ、
   齋藤美津子、北原倫子、藤本孟夫 他
配給:SPACE SHOWER FILMS
【PG12】











だれもが自己決定できる社会へ2020  [2020年01月03日(Fri)]



――大震災の直後にじぶんが言ったことばを、
 あらためて思い出すことが多い。
 そのなかのひとつに、
 「じぶんのリーダーは、じぶんです」というのがある。

 「周囲の意見とちがっても、じぶんで決めていいんだ」
 というような意味だとか、
 「じぶんで決めることから、逃げないで」
 という気持ちだとか、いろんなことを思いながら書いた。
 あのときには、考えたり行動したりすることの、
 ひとつひとつがとても重い意味を持っていたから、
 ぼくもある覚悟をして、腹の底から言ったつもりだった。

 あの時期の緊張感のなかで
 「じぶんのリーダーは、じぶんです」と言うと、
 受取るほうも、深いところで感じとりやすい。
 だから、「じぶんのリーダーは、じぶんです」は、
 ずいぶん重かったり深かったりすることばとして、
 あのときのような緊張はなくなった現在では、
 忘れられているような気もする。
 (というか、ぼく自身が、しばらく忘れていた)
 
 しかし、あらためて思ったのだった。
 そのことは、重くも、軽くも、言えることなのだ。
 「じぶんのリーダーは、じぶんなのよね〜」とかでもね。

 じぶんというリーダーが、決断したことなら、できる。
 薄着で試合観戦しているラグビー場で、
 「寒い、でも、おもしろい、寒いのなんかいいや」
 と思えるのは、じぶんが決めたことだからだ。
 だれかにお金やお菓子をもらってやってるわけじゃない。
 リステリンでぐちゅぐちゅ口をすすいでいるとき、
 「からい、耐えられないくらいからい、でもやるさ」
 と、ぐちゅぐちゅを続けているのも、
 じぶんというリーダーが、決めたことだからだ。
 だれかに脅かされてやっていたのなら、逃げ出す。
 ここらへん、軽そうだけど、大事なことのように思う。
 どんなことでも、じぶんで決めたことが、いいよね。
 しっかりじぶんで決めたことばかりなら、
 人生、けっこう楽しいんじゃないかな、
 ってことだよね。――



2020年が 始まりました。
本年もよろしくお願いいたします。

上記は、
明けた日に読み直し、
あらためて 心に留めたいことが詰まった
ある日の ほぼ日刊イトイ新聞
「 今日のダーリン 」の文章です。


「 じぶんのリーダーはじぶん 」
自分のリーダーは自分 と言われ
「 そうだ 」と自覚して、

「 じぶんで決めていいんだ 」
自分で決めていいんだ と言われ
「 そうだ 」と自覚して、

「 じぶんで決めることから逃げないで 」
自分で決めることから逃げないで と言われ
「 はい 」と自覚して、

障がいのあるひと一人ひとりに、それらの
“ 自分の人生を選択できる実行できる環境 ” が
整っているでしょうか。

自分で決めたことを
「 いいよね 」と
日々の生活で感じながら暮らせている
障がいのあるひとが どれだけいるでしょうか。

自分で決めたことを
「 いいよね 」と
日々の生活で感じながら暮らせるために
必要な支援が そこにあるでしょうか。


言葉が話せなくても
理解する力が低くても
「 じぶんのリーダーはじぶん 」と
だれもが行動に移すことが可能な日本へ。 

まずは、おのおののひとがもつ
「 専門 」というバリアで包まれたソレを
自分で 一度、剥がしてみて。

「 専門 」という縛りを解いて、
「 そのひと 」を中心に置いた支援を
考えることに集中して。


“ 自分の人生を選択できる実行できる環境 ”。

障がいのあるひとに
それが、ある、と言い切れるひとは
ごく少人数だと思います。

少人数でも居ればいいでしょ、なんて
聞きたくない言葉を
福祉のひとから聞いてしまって
がっかりを通り越して怒りを感じた昨年。

誰が どのようなアプローチをすれば
障がいのあるひと一人ひとりが
自分の人生を選択できる実行できる環境で
暮らせるのでしょうか。


福祉にかかわるひと以外のひとたちに
もっと発信しないと、と
考える2020年。

夏にある
世界的なイベントに
翻弄させられる一年にだけはしたくない、と
強く思う2020年。

そして、健康であってこそ。

皆さんにとっても、
無病息災な一年でありますように。

小さな積み重ねを
今年も、あきらめないで続けます。













伝える  [2019年12月16日(Mon)]


過日、メディアで話題として上がっていた
『 人生会議 』。

人生の終わりに
自分が望む 医療やケアを
あらかじめ 決めておく 取り組みで、
諸外国でも 広がりを見せる『 人生会議 』の
PRのためにつくられたポスターに
賛否両論が ありました。

「 患者にも 家族にも 配慮がない 」
「 誤解を招く 」など
患者や遺族からの反発や異論を受け、
このポスターは
お蔵入りとなりました。


―― まてまてまて
 俺の人生ここで終わり?
 大事なこと何にも伝えてなかったわ
 それとおとん、俺が意識ないと思って
 隣のベッドの人にずっと喋りかけてたけど
 全然笑ってないやん。
 声は聞こえてるねん。
 はっず!
 病院でおとんのすべった話聞くなら
 家で嫁と子どもとゆっくりしときたかったわ
 ほんまええ加減にしいや
 あーあ、もっと早く言うといたら良かった!
 こうなる前に、みんな
 「人生会議」しとこ ――
               ( ポスターより )


お笑いタレントさんが
死を目前にした患者として、
青ざめた暗い雰囲気のなかで
酸素チューブを 鼻につけて
ベッドに横たわった状態が 映っていました。

自身の望みを 伝えることができなかった
後悔、不満の文面 とともに、
心電図モニターのような波状の線が
平らになったところが重ねられていて、
ポスターにある状態を 死の直前と思うひとが
ほとんどだと思います。

不快感をもつひと、
患者や家族の気持ちは わかります、
ポスターのインパクトも 強すぎますし。
『 人生会議 』の方向性や
アプローチの仕方に怒る 医療関係者もいます。

本来は 今、健康なひとに見てもらい
考えてもらうためのポスターであって、
人生会議をしなかった「 後悔 」に
焦点を当てたことが
炎上の理由 では、と。


「 人生会議 とは、どこで
どう死にたいかを 話すものではない 」と
思っています。

病気になった時、
どう したいか
どこで 死にたいか、ということばかりを
話すのではなく、
何が好きか
何を大切にしたいか
時間が限られた場合に何を優先させたいか、など
「 自分らしさを最後まで尊重するために話す 」ことが
『 人生会議 』だ、と。

どう生きるか、生きたいかを 話すことは
健康なひとにこそ 必要なこと、だと
このポスターは
言いたかったのでしょう。



今回のことで、
『 人生会議 』は他人事ではないと
気づいたひとも多いと思います。

これを 与えられた機会と捉えて
健康なひとは、なおさら
『 人生会議 』をしてみませんか。

重い病気になり
意思を伝えられない状態になったとき、
自分の望まない 治療や食事、
し好品の制限や 時間の拘束を
強いられたとしたら。

人生を
自分の人生を
どう生きるか、どう生きたいか。

考えるだけでなく、伝えて。

身近なひとに「 伝えて 」こそ、その思いは生きます。

















映画『 THE UPSIDE  最強のふたり 』  [2019年12月03日(Tue)]


2012年9月に 日本で公開された
『 最強のふたり 』という映画 があります。

ある事故で
半身不随になった大富豪が、
介護人として雇った
不法移民の青年との出会いから
我慢も遠慮もなしに生ききる と決め、
社会の常識や壁を打ちこわし
人生を楽しむがごとく
さまざまなことにチャレンジしていく姿が
話題となった フランス映画です。

わたしも劇場で
ワクワクしながら観たひとりでした。

その『 最強のふたり 』の
ハリウッドリメイク版となる
『 THE UPSIDE 最強のふたり 』が、
日本で 劇場公開されることになりました。







真逆に見えるふたり。
互いの
ギャップに笑い、
さまざまな経験から
友情が生まれるストーリ―ですが、
フランス映画『 最強のふたり 』とは異なる
感動のエンディングが 待ち受けている、とか。

ふたりが
互いに影響を与えることでたどり着く
人生のアップサイドとは何かが
描かれています。


7年前の
『 最強のふたり 』を観たひとにも
興味深いリメイク版に なっているようです。

12月20日(金)より、
全国で 劇場公開。

痛快、爽快、のあとにくるものを
確かめてみたい映画です。





*映画『 THE UPSIDE 最強のふたり 』公式サイト
http://upside-movie.jp/

原題:The Upside
監督:ニール・バーガー
出演:ケヴィン・ハート、
   ブライアン・クランストン、
   ニコール・キッドマン
2019年/125分/アメリカ













  
映画『 家族を想うとき 』 [2019年11月21日(Thu)]

2017年3月に紹介した
映画『 わたしは、ダニエル・ブレイク 』

イギリスを舞台に、
複雑な制度に振り回され
貧困 という現実に直面しながらも、
人間 としての尊厳を失わず、
助け合って生きる人びとの姿が 描かれ、
イギリスを代表する映画監督
ケン・ローチ監督が 撮った映画です。
この映画を最後に
ケン・ローチ監督は
映画界から 引退を表明されました。

その ケン・ローチ監督が、
引退宣言を撤回して描いた映画
『 家族を想うとき 』が、日本で 公開されます。







舞台は イギリス。父 リッキーは、
マイホーム購入の夢をかなえるために、
フランチャイズの宅配ドライバーとして独立。
母 アビーは パートタイムの介護士として
時間外まで 1日中 働いています。
家族を幸せにするはずの仕事が
家族との時間を奪い、
高校生の長男と 小学生の2人の娘は
寂しい想いを 募らせます。
そのような中で、
リッキーが ある事件に巻き込まれて…。

過酷な労働条件に振り回されながら、
家族のために働き続ける父。

そんな父を 少しでも支えようと、
互いに思いやり
懸命に生きている 母と子たち。

労働者が持つべき力を失っている現実と、
家族に与える壊滅的な影響が、
如実に 描かれています。


「 本当は もっと 一緒に過ごしたい 」。

この言葉が
自分のことのように心に響くひとが
近年 増えている日本で、
12月13日(金)より
劇場公開されます。


最後に。
ある映像で
ケン・ローチ監督が語った言葉を
ここに 残します。


―― 映画の役割の一つは、
  世の中に異議を唱え
  強大な権力に
  立ち向かうひとびとに代わって
  声を上げることだ 。 ――






*映画『 家族を想うとき 』公式サイト
https://longride.jp/kazoku/

原題:Sorry We Missed You
監督:ケン・ローチ
出演:クリス・ヒッチェンズ 、
   デビー・ハニーウッド 、リス・ストーン 、
   ケイティ・プロクター
2019年/100分/イギリス・フランス・ベルギー
※「第72回カンヌ国際映画祭」(2019年)
 コンペティション部門出品


















多様性  [2019年10月08日(Tue)]

数年前から
多様性、という言葉を
よく 耳にするようになりました。

ひとびとの個性を重んじ
順位を付けないことを すばらしいこととし、
自分の長所を伸ばして
自身の幸せを追い求めていこう
という流れが 増長しているように見える 昨今。

多様性、という言葉が
“ 市民権 ” を得ることにより、
これまで あきらめてきたことを
あきらめなくてよくなったり、
主張できる、主張していいんだ、という思いを
これまで 抱けなかったひとに
光が 当たったり、と
明るい未来を想像させる
意義を持つようにも 見えます。


光が 当たる。
でも、強い光が 当たると、
影が できます。

多様性、という言葉を使うと同じくして、
ひとと比べる、
平均値が気になる
ひとたちの存在も 際立ってきます。

多様性、という言葉を使う “ 裏 ” に
それらは 存在する、と。


多様性、という言葉を使うことで、
ひとは そもそも
他者や世間の平均からの “ ちがい ” でしか
自分というものを 感知できない
弱さがある、ということに
あらためて気付かされました。

「 多様性という言葉を使う 」ことは
「 自身の存在価値を問い続ける感覚を強めている」
のかもしれない、と。

多様性、という言葉を使うことで、
「 自分で自分の価値や意義を見いださなければならない」
という “ 影 ” が生まれている、と。

その “ 影 ” は、
わたしたちに
今までにない気付きと
今までを超える社会の在り方を 問うています。

もしかして
多様性、という言葉は、
「 多用してはいけない言葉 」かも しれません。

多様性、という言葉を
多用することで、逆に
生きづらさを感じるひとが 増えるかもしれないと
思えてきました。














困っていることは 何ですか  [2019年09月20日(Fri)]


個別支援計画の面談時などに とくに
たずねられることがあります。

「 困っていることは 何ですか 」と。

困っていることは何ですか、と言われても
すぐに答えるほどの
困っていることがなかったり、
困っていることが
明確に説明できるほどわかっていなかったり、のひとが
実は 多くいると思います。

「 困っていることは何ですか 」と
聞く立場のひとびとは、
明確な返答がないと
そのひとが「 困っていない感覚 」になるのは
分からなくもありません。

でも、「 困っている 」としても、
ひとに言うほどでもない、
迷惑をかけたくない、
ひとに言うなんて恥ずかしい、
自分が何とかしなければ、
という思いから 言えなかったり。

目の前にいるこのひとに
言っても 解決しないだろう と思ったり。

このような思いのひとびとがいることに気付いている
「 目の前にいるひと 」も、
いるのではないでしょうか。


「 目の前にいるひと 」さん、
困っていることを話されると 面倒ですか。


それまでに 困っていることを言った時
流されたことがあったり、
困っていることがあっても
この目の前にいるひとに言っても
わかってもらえないだろうな と
困っているひとが 一度でも思うと
「 もう、話しても 仕方がないかな 」と
思ってしまいます。

目の前にいるひとが、
困っていることを
どうやって探り、
困っていることを
話してもらうにはどうすればよいか、を
考え 行動に移すことが
支援につながる と意識しているなら、
面倒 という感覚にはならないはずです。

面倒どころか、
困っていることを引きだすことは
日頃の支援につながり、
困っているひとにも
目の前にいるひとにも
プラスになることが たくさんあるのに。


「 このひとなら 話してみようかな 」。
そう思えるひとが、目の前に居れば。

このひとなら、
「 ちょっと迷惑をかけても大丈夫かな 」
「 このひとなら受け止めてくれるかな 」と思えるひとが、
皆さんの周りには いますか。


そして、思います。
「 困っていることは 何ですか 」という質問が、
面談などの特別な場所で
投げかけられない社会が広がりますように、と。















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