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きょうの福祉

「障がい者というコトバを
    使わなくて済む社会になればいいなぁ」
 障がいのあるひとが、
 地域で役割を担い、ふつうに生きる。。。
 この願いに向かう kyokyo の日々をつづります。


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きらいちがいけいい  [2021年01月21日(Thu)]


過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
次のような文章を 目にしました。


――世の中、じぶんの好きな人ばっかりだったら
 なんの問題もないわけで。
 好きな人ばっかりいるわけじゃないのが、
 「世の中」というゲームボードなんですね。

 ちょっとこらえ気味に言えば、
 だからおもしろいんでね、
 毎日晴天じゃなくて、
 雨風雪嵐もあるから変化もあるし、
 ゲームのなかに
 「嫌いだなぁ」という人だっているから、
 変化もスリルもあるということでしょうか。
 ま、それも、
 がまんして考えればということです。
 どんなにご陽氣な人にだって、
 嫌なものはありますさ。

 ぼくも、
 じぶんがなにを嫌だと思っているのだろうと、
 考え続けてはきましたよ、
 こらえ気味に、おちついてね。
 考えのちがい、趣味のちがい、生き方のちがい、
 望みのちがい、国籍や人種のちがい、
 性別のちがい、よくよく考えてみると、実は、
 そういうことでは
「嫌いだなあ」とは思えないんです。
 かつて、吉本隆明さんが語っていた話で、
 鶴見俊輔さんが数寄屋橋公園で座り込んで、
 ハンガーストライキをやっていたとき、
 道を隔てた向こう側では
 赤尾敏が街宣車で演説している。
 この景色がだんだん馴染んできたら、鶴見さん、
 向こう側にいる赤尾敏さんに
 親近感をおぼえてきた、
 吉本さんも「そういうことはありますよね」と。
 右と左で絶対相容れないように見えて、
 正反対に思える相手のなかに「じぶん」を見る。
 ぼくも、ほんとうに、
 そういうことはあると思えます。

 じゃ、「嫌だ」って、なんなんだ?と考えてきて、
 このごろ「これかもしれない」と思うのは
 「敬意」というものの有る無しなのではないか、と
 そんな結論に達しつつあるんですよね。
 敵であれ味方であれ、
 低いものであれ、異なものであれ、
 その相手への「敬う気持ち」がほしいんです。
 犬や猫に対してでも、赤ん坊に対してでも、
 悪人や罪人に対してでも、
 最低限の「敬意」は必要で
 それを蔑ろにしている人を、
 ぼくは嫌っているようです。
 ま、ほんとは「敬意」のない人に対しても、
 こちらからは「敬意」を失わないことが
 大切ですけどね。 ――




コロナ禍の社会で
さまざまな報道、情報が流れる中、
心無い言葉を
ボソリと言ったり
ドリャーと投げかけたりする場面が、
目の前というより
SNS上で見られることが増えています。

それらを
あたかも直接見聞きしたかのように
メディアは 拾って、流す。

それを見たひと、とくに
ニュースをはじめの一行しか見ない
見出しの一行で
わかったと思っている若いひとが
勘違いしたり思い込んだ情報を拡散したり、と
ちがったとらえ方をした報道内容が
散在する社会になったのではないかと
思われてなりません。


どのような意見を持っているひとにも
まずは「 最低限の敬意 」があって、初めて
自分の意見が 発言できるのであって。

どのような状況下においても
敬意を失わないことが
どれだけ 大切なことかを
今、だからこそ気付き、考えてほしい。

敬意を捨てたひと が
新型コロナウイルス と同じように
蔓延する社会に
なってほしくありません。















家族の在り方に決まりはない 2021 [2021年01月03日(Sun)]


これまでに
耳にしたことがなかった言葉が行き交った
2020年。

STAY HOME.
コロナ禍。
緊急事態宣言。

おどろおどろしいそれらは、
わたしたちの心まで
むしばもうとしました。

そんな時、そばにいられなくても
心が安らぐ存在は「 ひと 」。

会えなくても、
リモートで対話したり
電話で話したり
ビデオ通話したり、と
それらのカタチがあったおかげで
幾分か 救われた思いがありました。

家族でも
自由に会えないという
これまでに 想像できなかった状況が
あたりまえに なりつつある中で、
“ 家族 ” の在り方について
考える時間が、増えたひとも多いのでは
ないでしょうか。


家族とは
血がつながっているひとだけではなく。

家族とは
一緒にいたいと思ってくれる
ひとたちのことで。

家族とは
あなたに笑顔でいてほしいと
願ってくれるひと。

たとえ
どんなことが起きても、
あなたを
愛し続けてくれるひとたちのこと。

人生のなかで
ともに 助け合えるひとが
それが “ 家族 ” だ と。


血や籍が つながっていなくても
あなたにとっての
“ 家族 ” は 誰ですか。

友人、恋人、ご近所さんに仕事仲間。

それぞれにそれぞれのカタチがある
“ 家族 ” を、
社会全体が認め 包み込める一年に
なりますやうに。

今在る 自分の位置が
どのような場であっても、
“ 家族 ” とともに
健やかな一年に なりますやうに。














心開き、心通う  [2020年12月28日(Mon)]

先日、「 夫婦や親子が一緒に
命を絶つケースが 相次いでいる 」という
報道を 目にしました。

東京都内で、
先月末の3日間で 6人が亡くなるなど
1ヵ月ほどの間に
全国で 合わせて36人が
亡くなっていたことがわかった とありました。

これについて、専門家は
これまでの悩みや苦しみが
新型コロナウイルスの感染拡大の影響で悪化し
死に追い込まれ、
家族の無理心中や
複数での自死につながっているのではないか と
指摘しています。

コロナ禍による生活環境の変化は
誰にでもあることだと 言われるかもしれません。
が、悩みを抱えながら
ずっと 耐え続けてきたひとにとっては、
生活環境の変化によって生じる
新たな 苦しみやストレスの負担が
どれだけ大きなものか は、
そうなっているひとにしかわかりません。

感染予防対策の徹底から、
ひととひとのつながりが希薄になり、
周囲のひとが
悩みの深刻化のサインに 気づきにくい状況が
否が応でも生まれ、そして
さまざまな悩みや苦しみが さらに悪化し、
死を選ぶところまで追い詰められるケースが
増えていることは 明らかです。

「 悩みを抱えながら 耐えつづけてきたひと」。

その中には、障がいのあるひととその家族、
高齢のひととその家族もいる と思います。


福祉施設や福祉事業所さんは
今年、コロナ禍が長く続く中で
障がいののあるひとや高齢のひとへ
できる限りに
これまでの日常と変わらない支援を
続けてきました。

精一杯、できることを、
模索しながら、一所懸命に。

感謝の気持ちとともに、
もう少しだけ
考えを深めてほしいことがあります。

通所する、入所しているひとたちの
“ 家族 ” の現状です。

コロナ禍の家庭 という
限られた空間の中で、
悩みや苦しみを抱え続けている家族。

障がいのあるひとや
高齢のひとと同居する家族にも
そのような家族が存在し、
その数は
少なくない、と。


通所する入所している
障がいのあるひとや高齢のひとたちの家族 を
思い浮かべてください。

「 あのひとに限って 大丈夫 」という思いは
コロナ禍において存在しない、と
言い切っていいと わたしは思います。

「 コロナ禍が続く中で 困っていることがあれば、
些細なことでも、言ってくださいね 」。

いつもの連絡帳のやりとりや伝言に加えて、
直接、伝えてもらえたなら。

きっと、
伝える側の心は 温かくなって、
受け取った側の心も 温かくなって。

「 心を開く、きっかけを掴むひとが生まれる」。


どうか、来る年が
どのひとにとっても
より良い1年になりますように、と願います。














自助  [2020年11月14日(Sat)]

「 自助・共助・公助 」。

今秋、政治に動きがあった頃から
よく耳にするようになった言葉です。

「 自助・共助・公助 」は
ずいぶん前から 使われている言葉です。

とくに、社会保障の分野では
「 自助・互助・共助・公助 」と
4つに分けられて 使われています。

年金や介護、医療などの
さまざまな分野で、
4つの「 助 」が 使われています。

その中の3つを 今、掲げるということは
社会のこれからを
危惧する背景があるから と思えてなりません。

中でも「 政府が まず 自助をと言うことは
政府が果たすべき役割を放棄して言えるに等しい」
という声を耳にしますが、
それは少し 的外れじゃないかな、と。

日々社会で暮らす一人ひとりが
「 自助・共助・公助 」の真意を理解できるように
説明を丁寧に行うことが
足りていないから生じている、と思うのです。

「 丁寧な説明 」が 足りていない状態が続くと、
一人ひとりが果たす
「 自助・共助・公助 」は
いつまで経っても 存在しないものに
なってしまいます。

何事にも「 丁寧な説明 」が必要であり、
それを尽くしていると言えない現状に
社会は、政府は、
真摯に向き合わなければならない と。


住民の一人ひとりが
豊かな生活を送るために努力することを
「 自助 」といい、
近隣のひとびとや市民が豊かな地域づくりに
協力することを
「 共助 」といい、
法律や制度に基づき
行政機関などが提供するサービスなどを
「 公助 」というならば、
これらのすべてを
住民が それぞれの家庭や地域のなかで
理解し、実践していくことができて
はじめて 成り立ちます。

「 ともに支えあい助けあう 」ことを前面に出す前に、
この3つの「 助 」が
適切に 効果的に 展開できる “ 土台づくり ” を
住民に 丸投げせず、
政府を含めて社会全体が
そこに 注視し 着手しないと変わりません。


「 できる限りのことは 自分でやる 」という前に、
その意思を持っているひとが
できる限りやれるような
平等な条件が、
日本に存在しているか を問いたい。

そして、
「 自助ができるのに私は自助が出来ません という
“ 自称弱者 ” が 次々出てきて、
自助をしているひとの果実をかすめとっていくと
社会は 成り立たなくなる 」と 発言しているひとに
こう、問いたい。

「自助ができる “自称弱者” と判断するひとは誰ですか」。

誰が 判断するのですか。
誰に 判断させるつもりなのですか。













ひとつずつ [2020年11月02日(Mon)]

先日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
次のような文章を 目にしました。


――「混乱する」ということがある。
  混乱すると、どうしていいかわからなくなる。
  どうするか、どっちへ行くかを見つける前に、
  ただただ「混乱」のなかに閉じこもって、
  疲れていく。

  軽度の混乱と、重度の混乱があるのだとは思うけれど、
  ぼくも、それなりに「混乱する」ことがある。
  これは、けっこう苦しいのだけれど、
  経験上、抜け出す道筋があるということも知っている。

  混乱の原因は、考えることが「いっぱい」あることだ。
  手のつけようがないほど「いっぱい」あって、
  なにもできないことで胸が苦しくなったりする。

  1.そういうときには、その「いっぱい」のなかで、
  「少しでも後回しにできそうなこと」を、
  いったん外す。
  ノートに書き出してみたほうがいいだろう。
  それが、まず、だれにでもできる最初の仕事だ。
  ほんとうに急いではいないことは、
  たくさんあるはずだ。

  2.次に、「いまはじめたら、すっきりすること」。
  だれかがやっておいてくれたらありがたいのに、
  ということを考えて、これもノートに書き記す。
  もしかしたら、それは部屋の掃除だったりもする。
  書類の読み込みだとか、
  いかにも大変そうに見えること。
  それが、人に頼めることだったら、人に頼もう。
  つまり、頼める相手を探して連絡をすること。

  3.そして、人には頼めないことだったら、
  まず、それを我慢してでもはじめてみよう
  (そのとき、他にも「いっぱい」やることがある、
  と、思い出す必要はないし、
  それは後回しにすることとして
  すでにノートに記して外してあるはずだよ)。
  「できることを、はじめる」それをやりはじめる。

  「混乱」は、もう混乱ではなくなっているはずだ。
  はじめることが怖かったのではなく、
  はじめられないままだから怖かったのである。
  さて、ほら、もう大丈夫だ、はじめようか。――



今年も あと2か月足らずとなりましたが、
2020年は「 想定外 」という言葉に
収まらない年に なりそうで。

「 混乱 」することに
多方面で 多種にわたり 遭遇し。

さまざまな制約がある中で
どうしてもクリアしないといけないことに
目を背けることもなく
立ち向かったひとがたくさんいたことが
強く記憶に 残ります。

医療関係に従事するひとだけでなく、
日々の暮らしが途切れないために
生活必需品の販売に従事するひと
物資を運送するひと や
対面からオンラインに変わったことによる
慣れない日常を送ることになったひと、
そして、外出自粛中でも
障がいのあるひとや高齢のひとが望む日常を
維持し続けてくれたひとたちへの
感謝は 言い尽くせないほどです。


まだまだ混乱は消えませんが、
「 できることを、はじめる 」
それをやりはじめる。

「 はじめることが 怖かったのではなく、
はじめられないままだから 怖かった 」。

この言葉を 何度かつぶやいたら、
ちょっと、グッと、
前へ進めそうな気がしてきました。

慎重に、怖がらず、ひとつずつ。













私は私 [2020年09月20日(Sun)]

ドイツの精神科医
フレデリック・S・バールズ(1893-1970)が
創設した、ゲシュタルト療法。

その思想を盛り込んだ
『 ゲシュタルトの祈り 』という詩が あります。


―― I do my thing, and you do your thing.
   I am not in this world to live up to
   your expectations, And you are not
   in this world to live up to mine.
   You are you, and I am I,
   and if by the chance we find each other,
   it's beautiful. If not,
   it can't be helped. ――
                 ( 原文 )


この詩の日本語訳はいくつかのありますが、
わたしがもっとも
しっくりいくと感じている訳は これです。


―― 私は私のために生きる。
  あなたはあなたのために生きる。
  私は何もあなたの期待に応えるために、
  この世に生きているわけじゃない。
  そして、あなたも私の期待に応えるために、
  この世にいるわけじゃない。
  私は私、あなたはあなた。
  でも、偶然が私たちを出会わせるなら、
  それは素敵なことだ。
  たとえ出会えなくとも、
  それもまた同じように素晴らしいことだ。――


この詩は、
ゲシュタルト療法をはじめ
多くのカウンセリング療法の
精神や哲学を
表していると言われています。

何かの犠牲になることなく
自分を大切にすること
他人を大切にすること、
健全な人間関係は
その上に成り立つということを
語っています。

今までに経験したことのない
さまざまな出来事に翻弄されているひとが
多い中で、今
この詩に スポットを当てたい。



生きていく上で、
「 誰のために 生きているのだろうか 」と
ふと 思うことがあると思います。

そんな時、
「 私は私 」と言える自由を失わないでください。

そして、時には
「 我がまま 」に なってください。

そうすることで
楽になるひとが
あなた以外にも
いると思うから。







※ゲシュタルト療法とは、
気づきに始まり、気づきに終わる
実践的な心理療法と言われています。

過去に とらわれることなく
未来を おそれることなく
自らが求める人生を 得るために、
ひとそれぞれがちがう人間で
大切な存在であることを認めながら
自分らしさを発揮できるように、と。













名前という命 [2020年09月08日(Tue)]


先日、動物の数え方について、
「 それは死んだあとに残るもので決まっている 」
という話を 耳にしました。

牛や豚は 一頭、鳥は 一羽、魚は 一尾、
そして、ひとは 一名。

そこから、ひとが死んだ時に残るものは
「 名前 」と 言われているのだ、と。

「 名前 」
それは 生まれたときに
そのひとを思って 付けられたもので
その存在を 象徴のようなもので
個体を識別する記号ではありません。

ひとには 一人ひとり、名前があります。

でも、そのひとの名前を告げることを
そのひとの名前を付けたひとが拒むことが
ありました。

2016年7月、
神奈川県相模原市にある
障がい者支援施設で起きた殺傷事件で、
被害に遭った
障がいのあるひとのうち、
幾人かの名前が 公表されませんでした。
家族の意向 という理由で。


当時、メディアでは
さまざまな報道が ありました。

「 何百人もの障害者が集団生活をしている施設が
あるなんて、知りませんでした 」
「 どんな思いで、日々過ごしていらっしゃるの
でしょうね。退屈ではないのでしょうか 」
「 高齢の方も多いと聞きます。どのくらいの期間
ここで暮らしてるのでしょう 」。

あれから、
そもそも どうして
このような大型施設をつくらなければ
ならない社会を
わたしたちはつくったのか、と
提起し 議論を続け、
障がいのあるひとやその家族が
望む暮らしへと
改善が 成されているでしょうか。

「 無理解が ただ 無関心へ 移行しただけ 」
のように、思えてなりません。

「 被害者が 障がい者で、
事件現場となった施設も 特異なもの。
家族の意思もあり そういう判断をした 」
と、神奈川県警捜査一課の担当者が
亡くなられたひとを実名報道しない理由として
語られていたことを思い出しました。

ご家族の意向は 尊重しなければなりません。
でも、
障がい者支援施設を特異なもの と報道したことで
それを 見聞きしたひとたちは
何を感じたか、
感じるものは 何もなかったのでしょうか。

この事件は、多くのひとびとにとって
「 見たくないもの 」として化したのであれば
あの時、被害に遭ったひとびとの命は
何だったのでしょうか。


名前という命は、
最後まで
輝いたものであってほしい、
誰にとっても。












生きる  [2020年08月03日(Mon)]


ALS患者であった女性が
安楽死を選んだという報道に接し、
あらためて 読み返した詩があります。


―― 管をつけてまで
  寝たきりになってまで
  そこまでして生きていても
  しかたがないだろ?
  という貧しい発想を押しつけるのは
  やめてくれないか
  管をつけると
  寝たきりになると
  生きているのがすまないような
  世の中こそが
  重い病に罹っている ――



ご存知のひともいらっしゃると思いますが、
詩人 岩崎航さんの詩集
『 点滴ポール、生き抜くという旗印 』
に収められている
『 貧しい発想 』というタイトルの詩です。

岩崎さんは、
筋ジストロフィーのため
胃ろうからの経管栄養と
NPPV(非侵襲的陽圧換気療法)での
人工呼吸器を使い、
終日24時間ヘルパー介助を得ながら
自宅で 暮らしています。

同じような苦しみをもつひと
苦しんでいる姿を知るひとのなかには
この詩に
違和感を持つひともいるかもしれません。
しかし 彼は、
読む人によってちがう捉え方を知りながら
覚悟を持って、詩を書いています。

『 貧しい発想 』というタイトルにも
彼のそれを 強く感じます。


さまざまな苦難の中においても、
毎日巡ってくる「 生活 」。

「 生活 」をする
「 生活 」ができることが
自分にとって
あたりまえでなかったら と考えてみて。

ただ生きるだけの「生存」とはちがう「生活」。

「生活」ではなく それが「生存」の日々だったら。


生きる とは
それだけ でなく、
日々の生活の中に
大きな生き甲斐でなくても
小さな “ ふくらみ ” のようなものがないと
前向きな原動力を見つけられないし、
維持することもできません。


ALS患者であった女性の
在宅生活の一端を
後日、記事で知りました。そこには
「 音楽好きな彼女は、
ヘルパーらと音楽会へ行くこともあったが、
病状の進行で外出できなくなった昨春には
音楽療法の専門家や音楽家を自宅に招き
演奏会を開催。
ベッドに寝ながら
バイオリンの音色に聞き入り
涙を流していたという 」と。

彼女の「 生活 」に寄り添い
介護を続けてきた看護師やヘルパーら数十人は
献身的だったと思います。

でも、でも。

「 寝たきりになると
生きているのがすまないような
世の中こそが
重い病に罹っている 」。

世の中が重く受け止め、
一人ひとりが
考えを尽くさない限り、
“ 重い病 ” の終わりはない、と。

難病患者や障がいのあるひとを取り巻く
彼らの生を 否定するかのような
社会状況に 問題があることを
死にたいと思わせる社会が問題だ ということを
あらためて 声にしたい。

そして、思います。

生を受けたすべてのひとの
気持ちを弱めないように、
恐れと不安に押し流されないように、今
「 ひとを生かす言葉が必要 」だということを。





*岩崎航さん
http://iwasakiwataru.com/
1976年仙台市生まれ、本名は岩崎稔。
3歳で筋ジストロフィーを発症、
17歳の時、将来に絶望して自殺を考えたが
病をふくめてのありのままの姿で
自分の人生を生きようと思いを定める。












映画『 スペシャルズ!』 [2020年07月02日(Thu)]

2012年9月に
日本で公開されたフランス映画
『 最強のふたり 』。

そのハリウッドリメイク版
映画『 THE UPSIDE 最強のふたり 』
昨年12月、拙ブログで紹介しました。

先日、フランス映画『 最強のふたり 』の
監督・脚本コンビがつくる
最新作の映画情報が 公開されました。

映画『 スペシャルズ! 〜 政府が潰そうとした
自閉症ケア施設を守った男たちの実話 〜 』です。


映画『スペシャルズ!』.jpg


自閉症のある子たちやドロップアウトした若者の
社会参加を支援する団体が 舞台で、
そこに実在する ふたりの男性がモデルの映画です。


自閉症のある子たちをケアする施設を運営し、
社会や政府から理解を得るために
見返りを求めず奮闘する ブリュノ。

どのような問題を抱えていても
断らないため、
さまざまなところで見放された子たちで
施設は いっぱいです。

そして、ドロップアウトした若者を教育する
ブリュノの友人 マリク。

どこから見ても コワモテのふたりが、
社会からはじかれた子たちを
一緒に 見始めます。

そのような中で、
最悪の問題児だったディランと
重い自閉症のあるヴァランタンのあいだに
絆が芽生えたり と
“ 成果 ” が あらわれはじめた頃、
役所から 監査が入ることに。
そして、閉鎖の危機に 迫られます。
さらにそこに、
ディランが目を離した隙に
ヴァランタンが失踪するという事件が…。


施設でのシーンには
自閉症のある若者やその家族らが
本物の介護者とともに
キャスティングされている場面もあったり、
ユーモアと爽快感があふれるタッチで
描かれています。

1994年に、監督・脚本の
エリック・トレダノとオリブィエ・ナカシュは
この支援団体と出会い、
そこで支援するひとたちから
湧き出る活力や にじみ出る人間らしさに感動し、
いつか必ず 彼らを映画化したいと思い続け、
約25年を経て、実現にこぎつけた作品です。

約25年間、支援団体と歩みを共にし
彼らの見せる笑顔、涙、怒りを
同じ目線で 丹念に捉えることができたからこそ
生まれた作品です。


フランスでは
公開されるや否や 熱い支持を受け、
観客動員数 200万人を突破。

スペインのサンセバスチャン国際映画祭では
過去最高得点で 観客賞に輝き、
セザール賞では
9部門に ノミネートされました。

日本では、
9月11日(金)より
TOHOシネマズ シャンテ 他
全国で 順次、劇場公開される予定です。


劇場公開の頃も、
劇場で鑑賞できる状況であり続けていてほしい と
願いながら。

そして、こう思います。
「 この映画を観て ハイ終わり じゃつまらない 」と。





*映画『 スペシャルズ! 〜政府が潰そうとした
自閉症ケア施設を守った男たちの実話〜 』
https://gaga.ne.jp/specials/

原題:Hors Normes( 英題:The Specials )
監督・脚本:エリック・トレダノ、
      オリブィエ・ナカシュ
制作:二コラ・デュヴァル・アダソフスキ
字幕翻訳:丸山垂穂
映倫:G
配給:ギャガ
2019年 /フランス /114分 /フランス語 /カラー












人生会議(ACP) [2020年06月20日(Sat)]


昨年12月、拙ブログ「 伝える 」で記した
“ 人生会議 ”。

万が一のときに備え、
最後に受けたい医療やケアについて
話し合う “ 人生会議 ” 。

本人、その家族、医師だけでなく、
関係するひと皆で
本人の死に対する思いを共有し納得できるように、
人生会議=ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の
重要性を 知るひとが増えています。

しかし、
ACPの認知が広がる と同時に
ACPの誤解も増えている、と知りました。

患者側では、
エンディングノートの作成とACPを混同したり、
ACPは家族らに迷惑をかけないための
義務だと思ったり。

医療側では、
ACPを終末期を対象とした死に方の選択と考えたり
DNAR(蘇生のための処置をしない)の
確認と同一視したり、
患者が希望する医療措置を決める手段であり
ACPは医療者だけで行う、という誤解があったり。

「 本人の意思の尊重と意思決定の支援にある」という
一番大切なことを置き去りにしているケースがあります。

本人や家族は
人生や死生観を考え、
医療者は
人生の最終段階の具体的な医療措置を考えることが
ACPではないのです。

DNAR(蘇生のための処置をしない)を取るACPも、
延命治療を希望するACPも、あってよいのです。


ACPの正しい理解が進みつつある中で、今
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて
ACPの指針や運用に変化が起きているという
記事を目にしました。

「 医療の意思決定、ACP(人生会議)を考えるE」
( 2020年5月27日付け:読売新聞 )

新型コロナウイルスに感染するなど
急激に重症化する患者の意思を
どう尊重できるか という
重い課題に直面する 医療現場。

欧州各国の医療現場では、
重症化や死亡リスクがある患者と
医療の選択について
事前に話し合うことの重要性を説く一方、
患者が緊急時に聞いてもらいたい価値観などを
記す書式を公開し、「 重症化した患者と
コミュニケーションが取れない状況への備えを
強調した 」とありました。

今回の新型コロナでは、感染した患者の一部が重症化し
数%のひとは 肺炎を発症してから
10日程度で 死に至ることがわかってきました。

重症化した時、人工呼吸器を装着するかどうか、
呼吸器を装着しても 回復できないことが分かった場合
呼吸器を外すかどうか、
短期間での決断が 迫られるなか、
十分に 話し合う時間的余裕が
患者だけでなく 家族らにも 医療者らにも
与えられない状況が 明らかになっています。

これまで、ACPの主な対象は
がんなど 慢性疾患の患者でしたが、
今回の新型コロナ感染拡大において
対象者が 患者だけでよいのか、という問いと
厳しい状況だからといって
ACPや事前の意思決定を強制することは
あってはならない、という思いも。

このような状況の今だからこそ、
死や死にゆくことを
自分や大切なひとのACPの話し合いで育み進める
という 提案もありました。


そして。ACPは、
障がいのあるひとに必要であることは
言うまでもないことです。

障がいのあるひとのACPを 有効にするために、
そのひとの思いが伝わる
コミュニケーションが取れる環境が
一人ひとりに在る 社会でなければなりません。

そして、どのような状況下でも
何時でも コミュニケーションが取れる社会環境を
整えなければなりません。

例えば、医療現場のひっ迫した状況で
会話ができないすべてのひとに対して
〇、×、いたい、あつい、さむい、などが記載された
コミュニケーションボードがあれば、
それを指差す、視線を送ることで
本人の意思を 確認することができます。

このような措置を
すでに取っている医療現場が日本であるかもしれませんが
全国 どの医療現場でも 可能になってほしい。

もしも 自分がそうなったら、と 想像してください。

病院で治療中に、話せない状態になり
意思表示をする方法が 全くなかったら、
意思表示したくても できなかったら。

悔いが残る、という思いで 終わりたくありませんよね。

それは 障がいのあるひとも 同じです。













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