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きょうの福祉

「障がい者というコトバを
    使わなくて済む社会になればいいなぁ」
 障がいのあるひとが、
 地域で役割を担い、ふつうに生きる。。。
 この願いに向かう kyokyo の日々をつづります。


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「今出来ること」という一人ひとりの小さな道が一緒になって大きな道へ
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障がい者という言葉を使わなくて済む社会になればいいな [2022年08月31日(Wed)]

先日、こちらの記事を 目にしました。

「 障害者政策、改善勧告へ 国連、初の日本審査終了 」
 (2022年8月23日付け:共同通信)

日本が締結している「障害者権利条約」の
国連による
日本政府に対する2日間の審議が終了し、
改善すべき点について
来月中旬までに「勧告」が出される見通しである
と いうものでした。

改善すべき点 とは、
障がいのある子を他の子どもと分ける特別支援教育や
精神科医療の強制入院など、
国際的に遅れが見られる分野、とありました。

この「障害者権利条約」を
日本が締結したのは2014年。

条約締結後、今回初めて審査が行われた、と。

その初めての審査で「勧告」。

ただ「勧告」に拘束力はなく、
政府は どこまで これを尊重するか、
その対応が問われています。

そして 国連の権利委員会委員からは
特別支援学校・学級に通う子が増えている
日本の状況を
疑問視する声が相次いでいた、とありました。


世界からみた日本への
この「勧告」は、至極真っ当です。

これまで 国内からも
今回の「勧告」に近い提言がありました。

日本がどのような反応をするか、
目が離せません。





2010年9月1日、わたしは
“ 障がい者という言葉を
使わなくて済む社会になればいいな ” という
素朴な思いから 拙ブログを始めました。

記したことを、日々
これほどたくさんのひとに読んでもらえるなんて
思ってもみませんでした。

“ 障がい者という言葉を
使わなくて済む社会になればいいな ” と いう
共感するひとがそれだけいるのかしら と思いながら
記し続けました。

そう遠くない未来に
「日本には、昔、障がい者と呼ばれるひとがいました」
と 書かれた教科書を
学校で子どもたちが手にしながら
「障がい者ってどんなひとたちだったの?」
と いう質問に
車いすを使う教員や全盲の教員が
教壇上で教えている日が来る、と
わたしは 思っています。

思うのではなく
願うのではなく
可能にする
可能になる。

そう 確かめながら、
12年間 記し続けた「きょうの福祉」の幕を
今日で 閉じます。

「きょうの福祉」を読んでくださった皆さん、
ありがとうございました。

最後に、この場をつくってくださった
日本財団 CANPAN FIELDS、
運営事務局の皆さん、
ありがとうございました。


















[2022年08月24日(Wed)]


日々さまざまな制限があるなかで、
「やれること」が減った という声を
耳にしました。

「やれること」。

やれることをやるということは大事なこと
ですが、
やれることをやるをやれるひとは
実は少ない ということを
この3年、思うようになりました。

「やれることは いつでもやれる」。

そんな思いも大きく打ち砕かれたり、
やれることをはじめたところで
やれることを続けることが難しい
と 身に沁みたり。


でも、どんなときも
「やれることをやるだけのこと」なのかも。


「やれること」を「やる」。

これは、何時にも変わらないことだと
あらためて気付き、
もう、本当に「やりたい」なら
それを今すぐに「やる」しかない。

これは、
生きていくうえで
日々暮らしていくうえで
大きな “ コツ(骨)” かもしれません。


「 やれること 」を 思いつくことが、
まず「 やれること 」 です。


















楕円   [2022年08月18日(Thu)]


9年前に掲載された、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムの
こちらの文章を 思い出して。

―― いつごろからだったか、
 楕円のイメージで、
 いろんなことを考えるようになった。
 楕円というものの、数学的な定義はよく知らないが、
 中心軸が2つある円というくらいに思っている。

  (中略)

 中心が2つあると、きれいな楕円になる。
 これは、こどもゴコロに、うれしい発見だったっけ。

 社会に出てから、いろんな場面で、
 人々が、中心1つの円の構造を思い浮かべて
 いろんなことをイメージしていることがわかる。

 モノゴトに、起点となるような原因があって、 
 それが拡大していくと、円がどんどん大きくなる、
 というようなイメージで、
 いろんなことが話されている。
 これ、ややこしい言い方をすれば、
 同心円的拡大ということになる。

 中心がひとつ、というのは、
 まとまりがよくて、確固としていて、安心感がある。
 大きな宗教でも、
 イエスというひとりを中心としてキリスト教があり、
 ゴータマ・シッタルダというひとりを中心に仏教が、
 マホメッドというひとりを中心に、イスラム教がある。
 会社では、創業者がひとりいて、
 それを中心にして成長していく。
 そんなふうに、イメージが形成されているものだ。

 でもね、よくよく調べてみるとわかるのだけれど、
 必ず、「もうひとり」の存在があるんだよね。
 ヒトラーにとってのゲッペルスであるとか、
 井深大にとっての盛田昭夫であるとか、
 ホームズにとってのワトソンとか、
 有名な「ふたつの中心」の例もあるけれど、
 そうでない例もたくさんあるように思われている。
 しかし、一見、たったひとりを
 中心としているように見える場合も、
 知られていない「もうひとり」という中心が、
 うまくいった組織には必ずあったのではないかと、
 ぼくは思っている。

  (中略)

 同心円的な広がりというのは、腐りやすい。
 一気に、大きくなるには、都合がいいのかもしれないが、
 円が閉じやすいために、
 外部の変化と関係なくなってしまうのだ。

 1つの中心でなく、2つの中心を持つ楕円は、
 もともとが、一枚岩でない。
 中心どうしが、別々なのだから、
 ひとつの考えや動機が広がっていくわけではない。

 人間の社会だって、実は楕円構造だ。
 男がいて、女がいる。
 世界という楕円は、もともと男と女という
 2つの中心をもった楕円なのだとも言える。
 男女がひとつになってしまったら、
 おそらく、世界は一気に発展して、腐って死ぬだろう。

 ぼくは、いつも、楕円の構造を意識して動いてきた。
 とにかく、いつも中心をひとつにしないようにしてきた。
 円になったら腐るぞ、と、自分に言い聞かせていた。
 ほんとうは、中心をひとつにして、
 円を描くようにしていたほうが、
 無駄なことをしなくていいのだと思っても、
 もうひとつ、たがいに邪魔になるような中心を、
 探してでも持つようにしてきた。

 京都に自宅を引っ越そうか、ということも、
 地域的な中心点を
 ふたつにしようとしているのかもしれないし、
 家庭と仕事という楕円をイメージしているのかもしれない。

 詳しくはわからないし、
 それぞれに事情もちがうのだろうけれど、
 自宅にひきこもっている人たちというのも、
 もしかしたら、ひきこもる場所を2ヶ所にしたら、
 何かが大きく変わるんじゃないかなぁとも思うのだ。

 会社がおもしろくない人は、
 もうひとつの仕事をタダでもいいからと
 はじめてみると
 もうひとつのいい楕円をつくるきっかけになりそう。
 男女の関係が息苦しくなったりすると、
 犬や猫を飼いはじめるのも、
 無意識で楕円をつくろうとしているのかもしれないよ。

 とにかく、一色はいかん。
 純粋とか、たったひとつの中心を信じるとかはいかん。
 というのは、ぼくのたったひとつでない信念さ。――




「 中心をひとつにしないように 」、うんうん。

「 円になったら腐るぞ 」、ホントそうです。

「 もうひとつ、
たがいに邪魔になるような中心を探して持つ 」、なるほど。

「 会社がおもしろくない人は、
もうひとつの仕事を タダでもいいからはじめてみる 」、
地味に 実践しています。


まあるい円は、一見
見栄えがよくて 良さそうに思われますが、
そうじゃないとうなずくひとが
意外に 多くて。

「 あたりまえ 」や「 きれいごと 」に
流されることを食い止める力も、
楕円には あります。

自分のいる “ 場 ” について
今一度、考えてみてください。

そこは「 楕円 」してますか。

“ 楕円 ” しましょうよ。

















つながり  [2022年07月11日(Mon)]

過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
こちらの文章を 目にしました。


――「つながり」をつくっては、
 「つながり」に「つなげる」。
 人が生きるということは、
 そういうことなのかもしれない。

 父と母の「つながり」があって、わたしが生まれる。
 つまり、もともとわたしは「つながり」からはじまった。
 生まれても、たったひとりで生きるわけではない。
 母というもうひとりから乳をもらって「つながる」。
 母なのか父なのか、別の人なのかはともかく、
 だれかと「つながる」ことで、今日をまず生きられる。
 生まれたばかりのわたしは、
 なにもできない弱いものであるがゆえに、
 だれかと「つながる」ことになる。
 この「つながり」を「あい」と呼ぶこともある。 

 わたしは、うまれたとたんに、人と「つながる」。
 「つながる」ことができないと生きることはなかった。
 そこから、わたしは、「つながり」続ける。
 ずっとだれかと「つながり」ながら生きてく。
 そのだれかは、他のだれかたちと「つながっている」。

 「つながり」と「つながり」がつながって、
 さらにまた「つながり」になっていく。
 おもしろい「つながり」もあるし、
 むりやりつくられた「つながり」もあるし、
 どうしてできたのか忘れちゃった「つながり」もあるし、
 「つながり」たい「つながり」もあれば、
 「つながり」たくない「つながり」だってある。
 偶然にできた「つながり」もたくさんある。
 そういう大きな「つながり」の網の目があって、
 そのどこかにいるのが、わたしというものなのだ。

 「朱に交われば赤くなる」だとか、
 「類は友を呼ぶ」だとかも「つながり」のはなしだ。
 「つながり」からは離れることもできるし、
 「つながり」をゆるめることもできる。
 あんまりつよくて張りつめた「つながり」があると、
 他の「つながり」とつながりにくくなってしまう。
 後ろを振り返ったら「つながり」が見えるし、
 広さを見渡したら「つながり」が見えてくる。
 未来も、
 まだ新しい「つながり」ができてくるはずだ。――



近年、「つながり」という言葉を
耳にする機会が 増えました。

その度に、わたしは少し
もやもやする気持ちが同居していました。

あまりに つよく
張りつめたような「つながり」が、
気がつかないうちに
自身のまわりにじわじわと貼り付いていくような
そんな社会に
なっていないか、と感じていました。

そうです、
「つながり」は ゆるめることもできます。

ある「つながり」とばかり つながっていると、
ほかの「つながり」が 見えなくなったり
ほかの「つながり」と つながりにくくなってしまう。

そこを 見落としてほしくありません。

後ろを振り返ったり、
少し広いところに出て まわりを見渡したり。

今だけではなく
これからを広く考えるためには
「つながり」という言葉は
ひとつの「障がい」かもしれません、
ひとつの「障がい」と なっているのかもしれません。












ことば  [2022年06月04日(Sat)]

過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
こちらの文章を 目にしました。


――感じていること、思っていること、考えていることを、
 なんとか「ことば」にしようとする。
 どれほどうまく「ことば」にできたとしても、
 なにかちがうような気もするし、
 「ことば」にしたおかげで、
 妙に固まってしまうこともある。
 「ことば」にしようとしすぎると、よくないことも多い。
 「ことば」というやつは、
 すべてを「ことば」にすることはできないんだと思いつつ
 「ことば」にしていくしかないのだろうと思う。

 いま、こうして語っているぼくの「ことば」は、
 まわりくどくて、めんどくさい言い方になっている。
 もっとすっきり言えよ、きっぱりと、とか
 言われそうだけど、
 そうもいかないんだってば。
 もやもやしたままを、
 もやもやっと「ことば」にするのにも、
 それなりの技術は要るし、かんたんなことでもない。

 それでも、「ことば」にすることでのいいことはある。
 たとえば「夢に手足を」と、ぼくは言うことにした。
 これは、「ことば」にできてよかったと思う。
 夢を語りたがる人もいるし、夢を見る人もいるけれど、
 夢があるなら、それをほんとうにするために、
 「今日、いま、なにをするんだい?」という問いかけが
 「夢に手足を」という「ことば」には入っている。
 「大きな夢を持ちたまえ」というよりも、
 じぶんの考えがあらわれているし、
 伝えやすい「ことば」だった。
 「夢」というのが、どういうものなのかよくわからない。
 「手足」がどういうことを表しているのか、
 はっきり言ってない。
 だけど、この「ことば」があってよかったと思っている。
  (後略)  ――



「 ことば 」が あってよかったと、
そう思えたことが 皆さんにはありますか。

わたしはあります、
とても。

ことばにすることは難しい、と
言って終わるのではなく
ちょっとで いいから
書くものを持ったり
ひらがなカタカナローマ字キーボードの前に座ったり、と
手を 身体を 動かしてみてください。

出てきますよ、ことばが。
見えてきますよ、ことばが。


伝えなくても、そこにあるだけいい「 ことば 」。

インターネットから離れて、
ボーッとしていたら
どんな「 ことば 」が浮かんでくるでしょうね。

それを
ちょっと つなげてみてください。

そこから きっと 何かがはじまります。












伝えること  [2022年05月10日(Tue)]

新年度開始の時期は
一年の中でも とくに
学校からのお知らせ(プリント)が続き、
保護者にとって 憂鬱な時期ですね。

この時期に、いつも思うことがあります。
学校からのプリント って
なぜ あんなに わかりにくいのでしょうか。

そんな悩みを持つひとが
実は、全国にいて
でも、それを解決しようとする学校は
何処にあるのだろう、と思っていたら
ある公立小学校の
プリントに関する取り組みを
目にしました。


「 学校からの手紙の書き方を変えます 」。

こう書かれたプリントには 具体例が書かれていました。

「梅雨の候、保護者の皆様におかれましては…」
→「(あいさつ文は書きません)」に、
「お忙しい折とは存じますが、
ご来校いただきますようお願いいたします」
→「学校に来てくださいに」に、
「自転車等でのご来校はご遠慮ください」
→「自転車などの乗り物で学校に来ないでください」に、
「下校時刻を午後3時に変更します」
→「子ども達が学校から帰る時刻は午後3時になります」
と いった具合に
わかりやすい文面にします と、
大阪市内の学校で校長が行った というものでした。

この学校には
外国から来た保護者が多かったことから、
プリントの文章を
時候のあいさつや難しい表現をなくし
誰にでも わかりやすい文面に
あらためたことにより、
連絡もれが減り、忘れ物も減ったそうです。

簡潔な表現で
連絡事項を伝える “ スタイル ” は、
上記以外の 多忙な保護者にも喜ばれる結果となり、
児童生徒が
自分で読めるようにもなったので、
児童生徒自身が
忘れがちな保護者に伝えることもあった、と。

「 学校からのプリントには
小難しい言い回しが多くて
違和感を覚えることもあった 」という保護者からは
さまざまな反応があり、
「 これまで 学校がやってきたことから
誤解が生まれていたということがあからさまになった」、
「 ご連慮くださいより、
しないでください と言う方が適切 」など
忌憚のない意見も届いたことで、
学校側も プリントには文章だけでなく写真も入れて
そこにふきだしを付けて言葉を書くなど、
よりわかりやすいようにと
工夫を重ねるようになり、
学校と保護者、児童生徒の
意思疎通の扉が 大きく開きました。

「 相手に伝える 」。

これまで 学校がやってきた
「 “ 伝える ” ことに対する姿勢 」が
どのようなものだったのかがよくわかった事案で、
「 学校側の 教員の 気持ちの表れ 」が
どのようなものであったかを
知ることにもなりました。


最後に ひと言、
「 小中学校では、英語の教科があって
英語を話せる教員が 各校にいるのに、
英語表記のプリントが なぜ できないのですか。
日本語と英語の
2段書きのプリントにしたら、
児童生徒たちの
英語への好奇心を
くすぐることになりませんか 」。

こういう発想から
進化したプリントが生まれることも 願って。
( 手間が 時間が と
出来ない理由が真っ先に聞こえてきそうですが )


















まちのかち  [2022年04月22日(Fri)]

過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
こちらの文章を 目にしました。


―― 前に、街の価値ってなんだろう
 というようなことを書いたっけなぁ。
 どういう内容だったか
 ぜんぶは思い出せないのだけれど、
 とにかく最後のところで
 「おいしいパン屋がある」ことは、
 住みたい街の大きな条件になるんじゃないかとか書いた。

 書きながら、もちろんそういう考えに対しての
 「そりゃちがうよ」という
 反論も想像してはいたわけで。
 地域の人たちに親しまれた「おいしいパン屋さん」が、
 「おいしくないパン屋」になっちゃったらどうするのとか
 そのパン屋さんが引っ越したらどうなるのとかも思った。
 実のところ、そこらへんは難しい問題だろうなぁ。
 でも、それにしても、近所に「おいしいパン屋」がある
 ということは、住民にとっての大きな魅力ではある。
 実際のところ、
 自ら名乗る「おいしいパン屋さん」は、
 日本中にずいぶん増えてきたのはたしかである。
 高級食パンだとか、街から離れたところにある店だとか、
 珍しいパンで評判の店だとか、
 一種のブームであるようだ。
 なかには、一過性の大人気大評判の時期を過ぎて、
 閉店することになった店さえも出てきているという。

 なんにせよ、「おいしいパン屋さん」があったら、
 そこで買い物できる人たちは、
 とてもよろこぶのである。
 それは、思えば「パン屋さん」ばかりでなく、
 「おいしい八百屋さん」であろうが、
 「魚屋さん」であろうが、
 「おいしい食堂」であろうが、
 みんな大好きで、あったらうれしいものなのである。
 しかも、
 そこに集まるお客さんたちも感じがいいとしたら、
 その街、その町、その村の
 誇りみたいにさえなるだろう。
 でも、地面の価格があんまり高かったら、
 店を出すにしても家賃を払うにしても、
 「小商い」くらいじゃ維持が難しそうだなぁ。
 特に、道に面した一階の場所なんて、高そうだもの。
 大きな都市では、そういうこともあって、
 「おいしいなんとか屋さん」が
 集まりにくいのかもねぇ。
 地域全体のことを考えたら、街路樹を植えたり、
 公園を整えるみたいに
 「おいしい店」を集めるってこと、
 街の価値を上げることにもつながるんだと思うけどな。
 そういう意味では、「地方」のほうが、
 これからのおもしろい発展が
 考えられそうな気もしてくるねー。――



街の価値。

街の価値を考えた時、
そのひとにとっての「 街 」が
どのようなものなのか が見えてきます。

「街」は ただそこにあるだけのもの であったり
「街」は 住み方に大きな影響を及ぼすもの であったり。

働き、暮らす、中で
「 街 」に
さまざまなおいしい店があると
毎日の楽しみが増えて
がぜん元気がでるタイプの私ですが、
おいしい店以外にも
「 あるといいなと思う 」店や場所は
どのひとにも あるのではないでしょうか。

食べ物関係以外にも。

上記の文章を読んで
真っ先に 浮かんだことがありました。

障がいのあるひとが暮らす
入所施設やグループホームが
「 街 」の一部として
あたりまえに考えられて
認知される日がいつ来るだろうか、と。

あなたの住むまちには
障がいのあるひとが働く場がありますか と聞かれて
答えられなくても、
あなたの住むまちには
障がいのあるひとが暮らす施設やグループホームは
ありますか と聞かれた時には
答えられるひとは きっと いる。

街の価値。

街の価値って
何が在っての価値なのでしょうか。















人生会議(ACP)2 [2022年04月10日(Sun)]

約2年前、拙ブログで記した 人生会議(ACP)

あれから、人生会議という言葉を
見聞きすることは 時々ありますが、
認知されると同時に
誤解されることも増えていて、
必要とされるひとに届いているだろうか、と
ふと 思うことがありました。

万が一のときに備え、
最後に受けたい医療やケアについて話し合う
“ 人生会議 ” =
“ アドバンス・ケア・プランニング(ACP)”。

自らが望む
人生の最終段階における医療・ケアについて
前もって考え、
家族や周囲の信頼するひとや
医療・ケアチームと繰り返し話し合い、
共有する取り組み でもあります。

この “ 人生会議 ” について、
より多くのひとに知ってもらい
人生会議について考えるきっかけになれば と
このほど 厚生労働省が動画を作成し公開しました。

動画には、
在宅医療に従事する
医師の高山義浩さんと紅谷浩之さんの
経験された実話を
再現されたVTRをもとに、
上記の医師とゲストの
“ 人生会議 ” について話し合うようすが
Vol.1〜3、
1話=約20分に まとめられており、
わかりやすい内容となっています。


          < Vol.1 >




          < Vol.2 >




          < Vol.3 >






「 そのひとが大切にしているものに
できるだけ 早く気付いたり、
それを 大事にして揚げることが 大切 」。

「 そのひとが大事にしている信念を共有することで
見えてくるものがある 」。

「 弱さから出た言葉をそのまま終わらせずに
そのひとらしさに 気付かせてあげることが大切 」。

「 家族でなくても、心を許せる関係性があるひとが
近くにいることで 話せることもある 」。

「 生きたい、家族に迷惑をかけたくない、
対極で考えるのではなく 中間の考え方もある 」。


たくさんのキーワードが 心に残ります。

家族、そして
医療従事者、介護従事者、など
さまざまな立場のひとに見てほしいです。


「 揺れる心をくみ取りながら向き合い、
普段の何気ない雑談を大切にしたい 」。

これが わたしの一番の感想です。















主観をもつということ  [2022年03月04日(Fri)]

過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
こちらの文章を 目にしました。


――「主観を育てる」ということを、このごろよく考える。
 わたしが感じる、わたしが思う、わたしが考える。
 それが主観というものだ。
 もともと、だれにだって主観があるはずだ。
 「わぁ、おいしいっ」と本気で言ってるとき、
 それは主観がことばになって飛び出ているのだろう。
 なにかを見て、「きれいだなぁ」と思うのも主観だ。
 「いいな」と思うこと、「いやだなぁ」と思うこと、
 「気持ちいい」と感じること、みんな主観である。
 おおぜいが集まって意見を出し合って決めることじゃない。
 それが正しいかどうか判断しなくてはならないとしても、
 最初に生まれた主観は、あくまでも主観としてあるものだ。

 「きれい」と主観的に感じて、「きれいだなぁ」と思う。
 ところが、たとえば周囲にいる人が
 「そんなのきれいじゃないよ」などと言うとする。
 「え、そうなのか。みんなは、そう思うのか」と知る。
 「これは、きれいじゃないのか」と考え直して、
 はじめに「きれいだなぁ」と思ったことを訂正したくなる。
 こんな経験を繰り返しているうちに、
 「うっかりきれいだとか感じない」ようにしたり、
 周囲に「きれいと思うかどうか」問い合わせたりして、
 いずれ訂正するようなことを思わないようにしたくなる。
 つまり、なまじ主観なんかを持っていたら、
 まちがったことを考えたり行ったりしちゃうんじゃないか、
 人が、そういう心配をしながら生きているように見える。

 しかし、主観そのものを持たないようにしていたら、
 ほんとうに主観がなくなっちゃうぞ、と思うのだ。
 その主観を、口に出して言うかどうかの判断はいるだろう。
 だれかを傷つけたりするような主観だってあるだろうから。
 それでも、主観を無くして生き続けていることはできない。
 主観を抑えているうちに、主観はやせ衰えていくだろう。
 こころに感じること思うことは、豊かで自由なことなのだ。

 だからこそ、あえて「主観を育む」ことが大事だと思う。
 だって、たとえばさ、「幸せだなぁ」って主観だよ。
 (後略) ――



「わたしが感じる、
わたしが思う、
わたしが考える、
それが主観というものだ。
もともと、
だれにだって主観があるはずだ」。

そこで 思いました、
障がいのあるひとや高齢のひとの主観は
守られているだろうか、と。

周りにいるひとたちが
自分たちの都合のいいように
変えていないか、と。

「物事を認識する働き」に衰えがあると感じても
「自分一個の意見」が尊重されることで
そのひとの尊厳を保つことにつながる、という
あたりまえのことが守られていますか。


障がいのあるひとや高齢のひとなど
日常生活に支援が必要なひとがもつ「主観」を
途絶えさせるような行動は
とらないでください。

「豊かな自由」を奪わないでください。

「主観」を育んであげてください。













責任  [2022年02月26日(Sat)]

過日、SNS上で目にしたひと言に、
さまざまな思いが
ぐるぐると頭の中をめぐりました。


「 ママは 人間です 」。


ネット上やメディアでは、
「できる母親」や「頑張っている母親」が
取り上げられ、目立っています。

でも、それを、
「さまざまな理由があってできない母親」や
「さまざまな理由があって頑張れない母親」を
目立たせて取り上げることで、
どれだけの母親の気持ちが楽になり
一歩を踏み出すための後押しができるかを
考えたことがありますか。

それらをひっくるめて
「怠け」というひとがいたならば、
「事実を知らないあなたが怠けだ」と言いたい。


さまざまな理由があって
できない母親、頑張れない母親の中には、
必要とする心理的サポートや福祉サービスを
知ることもできず 知る術もわからず、
たとえ 知ったとしても
どこでどのような手続きをすれば
それを受けられるかを知ることもできず
今に至っている母親が多いことは 事実です。

なのに、何度も何度も
大変です、しんどいです、助けてください、と
言い続けないと届かないのが
「福祉」である現状を、
野放しにして いいはずがありません。


支援を受けるための手続きについて、
必要な書類は何か
その書類はどこでもらえるか
書類の記入方法は誰に聞けばよいか
書類に添付しなければならない書類は
どこでどのような申請をすればもらえるか
その時に費用が必要か、など
一括して教えてくれる場所はありますか
一括して教えてくれるひとはいますか。


「書類一式を準備して手助けしようとすると
上司から、その親の責任だから
甘やかしたらダメだと言われた」と
ある福祉事務所の職員さんから
聞いたことがあります。

その時、衝撃とともに
言い返せない、変えようとしない、変えられない
その職員さん話しぶりに
怒りに似たものを感じ、
支援が必要なひとたちを切り捨てようしている
社会側にこそ障害がある、と
強く思った瞬間でした。

一部で「裏メニュー」的なものがあるという
噂がある中で、
戸惑うことなく
しんどい思いを重ねなくても
全国で地域差がなく
手続きができる状況になるのは
いつになるでしょうか。


「目の前の支援が必要なひとを支援する」仕事に
従事するみなさん、
困りごとを耳にした時に
「そうですよね」で終わらせることを
常としないでください。

「目の前の支援が必要なひとを支援する」仕事に
従事するみなさん、
どうすれば「社会側にある障害」をなくせるかを
現場の声として
行政へ 国へ 伝えてください。

「さまざまな理由があってできない母親」や
「さまざまな理由があって頑張れない母親」のために
福祉の、行政の、
現場にいるひとたちだからこそ
できることがあります、
変えられることがあります。

見て見ぬふりは、もう、やめてください。














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