時効
[2019年08月15日(Thu)]
ある日の
ほぼ日刊イトイ新聞『 今日のダーリン 』の
コラムを読んでの
ひとりごとです。
―― いわゆる太平洋戦争を経験してきた大人たちは、
たとえば「とうもろこし」のことを好きじゃなかった。
米のめしが食いたいのに、とうもろこしを食わされたと、
いやな思い出として語っていた。
とうもろこしを大好きなこどもだったぼくは、
なんでだろうなぁと不思議に思っていた。
おなじように「すいとん」という食べものについても、
大人たちはいろいろ語ってくれたものだった。
「いまのすいとんはごちそうみたいなものだ」と言った。
「ふかしたさつまいも」も、そういうものだった。
豆腐の「おから」についても、同じようなことを言った。
とうもろこし、すいとん、ふかしいも、おから、
そういうものを、おいしいもののひとつに数えるまでに、
けっこうな時間がかかったんじゃないだろうか。
ぼく自身も、幼いときの給食で飲まされた「ミルク」は、
まずいものの代表のように思っていた。
「スキムミルク」がまずいものでないと知るのは、
それから四半世紀も経ってからだと思う。
価値のないとされるもの、いやいや消費するものなど、
いわば「見下されているものごと」は、
過剰にマイナスのイメージをくっつけられる。
偏見というものを身にまとわされてしまうのだ。
しかし、たいていの場合は、
いずれ時間が経ってから名誉回復することになる。
偏見に時効がきてしまったら、
そのままの価値を認められることになるのである。
「おいしいすいとん」「おいしいおからの料理」は、
そこで新しい市場を開拓することになる。
ぼくは、わりと、そういう物語が好みだ。
いまの時代に、余計に低く見積もられているもの、
価値がないどころかマイナスのように語られるもの、
そういうものものが、実は新しい市場をつくるはずだ。
思えば、みうらじゅんプロデューサーのやってること、
「ゆるキャラ」「マイブーム」「仏像」などについて、
あらためて考えてみたらよくわかるだろう。
「捨てたもんじゃない」を、「おいしくする」こと。
おもしろいことは、そこらへんにあるように思う。――
読みながらわたしは、
障がいのあるひとのことが
思い浮かびました。
「 価値のないとされるもの、
いわば 見下されているものごとは、
過剰にマイナスのイメージをくっつけられる。
偏見というものを 身にまとわされてしまうのだ 」。
そうだよね。
今の社会は まだまだそうだよね、と。
「 いずれ時間が経ってから名誉回復することになる。
偏見に 時効がきてしまったら、
そのままの価値を 認められることになるのである 」。
時効。
どうすれば
そのマイナスなイメージや偏見に
時効を迎えさせることが できるのでしょうか。
今、言って、急に
迎えられるものではないことを
誰もが分かっているなかで、
やはり、こう思います。
分けない教育 。
小さい時から、ふつうに隣に
障がいのある子がいたら、
それは「 特別 」ではなく「 日常 」です。
この「 感覚 」は、
学校で 教えるものでもなく、
周りの大人が 植え付けるものでもなく、
子たち 一人ひとりが
経験することから感じるもの と なります。
障がいのあるひとについて、
その理解が得られるには
「 分けない教育 」が 必要だということを
あらためて 思いました。
そして、
「 たいていの場合は、
いずれ時間が経ってから 名誉回復することになる。
偏見に 時効がきてしまったら、
そのままの価値を 認められることになるのである 」。
この一文があることに、
この一文が記されていることに、
少しの安堵を得ました。
タグ:分けない教育
【障がいのことの最新記事】