一隅を照らす
[2015年03月28日(Sat)]
わたしの住むまちに
毘沙門堂という
天台宗の寺院が あります。
春は 枝垂桜、秋は 紅葉と
四季折々の 情緒あふれる場所で、
全国から訪れる観光客だけでなく
地元のひとにも 親しまれている場所です。
その毘沙門堂で
何度か目にしたことのある言葉があります。
それは 「 一隅を照らす 」。
これまでは、この言葉を自分流に
「 社会の片隅を照らすことのできるひとは
立派なひと、そういうひとで在りなさい 」
と 解釈していたのですが、
最近になって、そうじゃないと知りました。
「 一隅を照らす 」
この言葉は、
平安時代に 比叡山延暦寺を開いた
最澄が 著した
『山家学生式(さんげがくしょうしき)』
の冒頭に 書かれています。
― 国宝とは何物ぞ
宝とは道心(どうしん)なり
道心ある人を
名づけて国宝と為す
故に古人(こじん)の言わく
径寸十枚(けいすんじゅうまい)
是(こ)れ国宝に非(あら)ず
一隅(いちぐう)を照らす
此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと ―
径寸とは 金銀財宝のことで、
一隅とは 今居る場所のことを指すのだとか。
ここから推察すると、
「 一隅を照らす 」とは
「金や財宝は 国の宝ではなく、
家庭や職場などの 自分自身が置かれた場所で
精一杯努力し、光り輝くことのできるひとが
何物にも代えがたい 国の宝である」と。
「それぞれの持ち場で、
一人ひとりが 力を尽くすことにより
社会全体が 明るく照らされていく」と。
小さな存在の わたしが
今、置かれている場で
自分のできる限りのことをやる、と
言われているように 思えました。
一月 いった、二月 にげた、三月 さった。
新しい年度になり
職場や学校など
身を置く場が 変わっても、
それぞれの持ち場で
力尽くすことに変わりはない と思うと、
清々しい気持ちで
4月を 迎えることができそうです。
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