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きょうの福祉

「障がい者というコトバを
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 障がいのあるひとが、
 地域で役割を担い、ふつうに生きる。。。
 この願いに向かう kyokyo の日々をつづります。


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主観をもつということ  [2022年03月04日(Fri)]

過日、ほぼ日刊イトイ新聞の
『 今日のダーリン 』というコラムで
こちらの文章を 目にしました。


――「主観を育てる」ということを、このごろよく考える。
 わたしが感じる、わたしが思う、わたしが考える。
 それが主観というものだ。
 もともと、だれにだって主観があるはずだ。
 「わぁ、おいしいっ」と本気で言ってるとき、
 それは主観がことばになって飛び出ているのだろう。
 なにかを見て、「きれいだなぁ」と思うのも主観だ。
 「いいな」と思うこと、「いやだなぁ」と思うこと、
 「気持ちいい」と感じること、みんな主観である。
 おおぜいが集まって意見を出し合って決めることじゃない。
 それが正しいかどうか判断しなくてはならないとしても、
 最初に生まれた主観は、あくまでも主観としてあるものだ。

 「きれい」と主観的に感じて、「きれいだなぁ」と思う。
 ところが、たとえば周囲にいる人が
 「そんなのきれいじゃないよ」などと言うとする。
 「え、そうなのか。みんなは、そう思うのか」と知る。
 「これは、きれいじゃないのか」と考え直して、
 はじめに「きれいだなぁ」と思ったことを訂正したくなる。
 こんな経験を繰り返しているうちに、
 「うっかりきれいだとか感じない」ようにしたり、
 周囲に「きれいと思うかどうか」問い合わせたりして、
 いずれ訂正するようなことを思わないようにしたくなる。
 つまり、なまじ主観なんかを持っていたら、
 まちがったことを考えたり行ったりしちゃうんじゃないか、
 人が、そういう心配をしながら生きているように見える。

 しかし、主観そのものを持たないようにしていたら、
 ほんとうに主観がなくなっちゃうぞ、と思うのだ。
 その主観を、口に出して言うかどうかの判断はいるだろう。
 だれかを傷つけたりするような主観だってあるだろうから。
 それでも、主観を無くして生き続けていることはできない。
 主観を抑えているうちに、主観はやせ衰えていくだろう。
 こころに感じること思うことは、豊かで自由なことなのだ。

 だからこそ、あえて「主観を育む」ことが大事だと思う。
 だって、たとえばさ、「幸せだなぁ」って主観だよ。
 (後略) ――



「わたしが感じる、
わたしが思う、
わたしが考える、
それが主観というものだ。
もともと、
だれにだって主観があるはずだ」。

そこで 思いました、
障がいのあるひとや高齢のひとの主観は
守られているだろうか、と。

周りにいるひとたちが
自分たちの都合のいいように
変えていないか、と。

「物事を認識する働き」に衰えがあると感じても
「自分一個の意見」が尊重されることで
そのひとの尊厳を保つことにつながる、という
あたりまえのことが守られていますか。


障がいのあるひとや高齢のひとなど
日常生活に支援が必要なひとがもつ「主観」を
途絶えさせるような行動は
とらないでください。

「豊かな自由」を奪わないでください。

「主観」を育んであげてください。













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