• もっと見る
« 運営 | Main | 授業»
校庭のさくらんぼ [2023年05月23日(Tue)]

木々にやわらかな葉がそよぎ出すころ、子どもたちがうれしそうにさくらんぼの話をしはじめる。

「ねえ、もう食べた?」

「食べた。めっちゃ赤いの。」

「いいな、うちのクラスまだ。」

校庭の桜の木にさくらんぼが実りはじめるのだ。

実を摘む番は低学年のクラスからめぐってくる。

その年の実りに合わせ一人数粒ずつ。

この季節がやってくると、1〜12年までみんな心待ちに桜の木をのぞきこむ。そして、実が色づくごとに子どもたちの顔もほころんでくる。

この桜はいったいいつ植えられたのだろう。

はじめは小さな苗で実もならなかっただろう。

かつてだれかが、いつか子どもたちが実を摘める苗を、と選んで植えてくれたのだろうか。

今年はとりわけたくさん実ったらしい。

実り、分け合い、笑顔を増やす。

この学校もそんな風に豊かに実り続けて欲しい。

U.

3188 cherries JPG.JPG

Posted by 京田辺シュタイナー at 22:13 | 生活 | この記事のURL
子ども部屋を片付ける日 〜卒業生保護者より〜 [2023年03月17日(Fri)]
いま我が家は大掃除の真最中。息子の部屋にあるものを全て片付けて、我が家の「書斎」にすることにしたのです。息子はもうすぐ大学4回生になります。遠い地方の大学に進学し、家を離れて一人暮らしをしています。このコロナ禍のこともあり、ほとんど帰省していません。

「部屋の片づけは本人がするもの。」という考えもあることでしょうが、息子の帰省を待っていたらいつになるかわかりません。そういうわけで、今後の暮らしをすっきりさせるためにも、夫と二人で「子ども部屋」を片付けています。

息子の部屋からは、懐かしいものがたくさん出てきます。手仕事で作ったものやエポックノート。そして…、膨大な量の紙があります。書かれている内容を一つ一つ見るわけではありませんが、備忘録的なものから、何かの練習などもあり、『思考して書く』機会が多かったことが感じられ、この積み重ねが今につながっているのかなと想像しています。

息子が大学に進学したのは、コロナ禍が始まった2020年春のことでした。世のなか全体に緊迫感がある中、準備も不十分なまま、ほぼ身一つで現地入りしてアパート暮しが始まりました。
入学式は中止となり、入学してからも登校には大きな制限がありました。たった一人でアパートにいる毎日。大学側も学生も、慣れないオンライン授業のスタート。すべてが手探りの中、ほとんど一人で乗り越えた初年度でした。
ただ、オンラインでの授業にも良い点はあったようです。たとえば、予習復習の時間を確保しやすいとか、わからないところを質問しやすいとか。なので、内容についていけずに困ることはなかったそうです。なにより、そのような状況の中でも、専門の研究者による大学の講義はとても面白く、知的な世界に触れることが刺激的だった様子がうかがえました。
そうこうするうち、次第にサークル活動やアルバイト、実習、リアル授業が始まり、2年目、3年目と大学生活は充実していきました。

口数の少ない息子はあまり多くのことは語りませんが、この数年ですっかり大人の顔つきになりました。いまは、大学での専攻が決まり、研究室も決まり、行きたい将来の方向も見えてきたようです。おそらく数年内には社会に出てゆくことでしょう。

今後、息子が帰省したとき、滞在するのは、『子ども部屋』ではなく『書斎』になります。親子であることに変わりはないのですが、子育ては終わり、新たな時代が来たのを感じます。

最後に、私が大好きな言葉を紹介します。京田辺シュタイナー学校のウェブサイト『自由への教育』にある文章です。

喜びを持って生きること
自ら考え、自分の行動に責任をもち、社会の力となっていける人
自分らしく、生き生きと世界に関わっていける人
私たちは、子どもがそのように育っていくことを願っています。


T.S.
Posted by 京田辺シュタイナー at 11:58 | 生活 | この記事のURL
田んぼや畑のお仕事 [2023年02月22日(Wed)]
冬の田んぼは稲刈りを終え広々としています。
柔らかい小さな草の霜がきらきらと日に照らされ、田んぼの土は静かに春の訪れを待っています。
我が家は、家族が食べるものは自分たちで育てたい!と、息子たちが小さな頃からお米と野菜作りに励んでいます。息子たちは田んぼや畑で水路に住む生き物を捕まえるのを楽しんでいましたが、だんだんと田畑仕事を真似て手伝ってくれるようになってきました。

3年生の息子は学校で園芸の授業がはじまりました。
息子は園芸の授業を毎週とても楽しみにしています。
「今日は麦の種をまいたよ。」
「藍の葉を育ててすごく繁ってるよ。」
「田んぼの雑草をピンクの虫が食べてくれるんだって。でも稲も食べちゃうから、みんなで増えすぎないように拾い集めたよ。」
などと、新しい学びに目を輝かせて、嬉しそうに話してくれます。
秋には「学校の田んぼで育てたお米がたくさん収穫できた!」と驚いていました。またそのお米に感謝をささげて収穫祭をしたあと、3年生がおにぎりにして全校生徒に食べてもらったことをとても誇らしげに話してくれました。

我が家の田んぼでは、1年中食べられるほどのお米は到底収穫できません。そこで、そのお米から麹を作って1年分の味噌にします。寒い冬、冷たい水に息子たちと手を真っ赤にさせながら30キロのお米を洗います。それでもその後、蒸しあがったお米に麹菌をつける作業では手がほかほか艶々になります。

昨年は初めてゴマの栽培をしました。ゴマは収穫したあとの作業がとても大変でした。小さなゴマを飛ばさないように気をつけながら草やゴミを除きました。それでも息子たちと手足を使ってひとつひとつ収穫したものは愛しく、家族にとって何よりのごちそうになっています。

K
たんぼ2.jpg

たんぼ写真1.jpg
Posted by 京田辺シュタイナー at 20:36 | 生活 | この記事のURL
子どもが卒業して数年。さて親が思うことは・・・ [2023年02月04日(Sat)]
京田辺シュタイナー学校を長男が卒業して6年、長女が卒業して4年たちました。
長男は春から社会人2年目。長女は大学4年生になります。
14年間毎日3つ作り続けたお弁当は、今夫の分1つだけになってます。
大学入学と同時に長男は地方の大学に入学して家を出、その2年後に娘も地方の大学に入学。夫とわたしの2人の暮らしは4年目になります。
そして「この暮らしもわるくないな」というのが今の感想です。

昨夏、長男が職場の休暇で、そして娘が大学の休みで京田辺に帰省した時、わたしは自然に普段より少し頑張って食事の支度をし、子どもの予定を聞きながら自分の予定を立て、出来るだけ家にいるようにしようとしていました。
子どもたちがそれぞれの住処に帰ったあと、なんだか肩の力が抜け少しほっとしている自分に気付きました。
以前は子どもがいるのが当たり前の毎日だったはずなのに。子どもたちよ、ごめん!
そして思ったのです。
「あぁ、わたし子どもたちがいた頃、少し肩に力が入ってたんだ」
子どもたちがシュタイナー学校に通っていたころ、幸いなことに大きな苦労や心労があった訳ではありません。
でも、やっぱり少し毎日「親をがんばる」をしていたのだな、と気が付きました。
あの日々も面白かった。
けれど、肩の力が抜けた今の暮らしもわるくない。

「子どもさんがシュタイナー学校を卒業されて、親として良かった、と思うことは何ですか?」と聞かれることがあります。
きっと、それぞれの親御さんにそれぞれの答えがあるでしょう。
わたしは「子どもたちがいい大人に出会えたこと」と答えたいと思います。
大人というのは先生方に限りません。素敵な大人であるたくさんの親たちにも彼らは出会えました。
そのお陰で、彼らは根底で「人は信頼するに足る」と思いながら生きていけるようになったのではないだろうか、と思います。
もうひとつ挙げるとしたら「子どもたちが一生の友人に出会えたこと」を挙げたいと思います。
シュタイナー学校で長い長い期間をともに過ごし、良いも悪いも互いに知り尽くした友人は、子どもたちにとって何ものにも代え難い存在のようです。
子どもらはシュタイナー学校で出会った大人たちや友人たちから「生きていくお守り」をもらったのだなぁ、と思います。

「お守り」をもらって家を出た子どもたちは、この先しんどいことやつらいことがあっても、きっと自分らしく生きることを楽しみながら暮らしていくんじゃないだろうか。
わたしがのんきに「今の暮らしもわるくない」と思っていられるのは、心のどこかでそんな安心を感じているからなのだろうなぁ、と今頃気づいたのんきな母親です。

k/k
Posted by 京田辺シュタイナー at 12:19 | 生活 | この記事のURL
クレヨンが小さくなると [2022年04月07日(Thu)]
春休みのある日、1年生を終えた娘は、学校から持ち帰った物を手提げ袋から取り出して、鼻歌まじりに何かを始めました。
娘が鼻歌をうたうのはご機嫌な証拠です。
フンフン♪しながら手を動かすうちに、段々と歌詞もついてきます。
「かわいい かわいい キイロちゃん、だいすき だいすき〜♪」
一年間学校で使ったクレヨンを、綺麗にお掃除しているのです。ガラスの器にオイルを入れて、ウェスにオイルを含ませて、優しく磨いています。

そんな姿を見ると、入学して登校し始めた頃からのこの一年を思い出さずにはいられません。
クレヨンは、1色ずつ先生から手渡され、そのたびに新しい色と出会っていきます。
クレヨンを先生から貰った日には、
「今日は、青のクレヨンもらったよ!」
「黄色のクレヨンもらったよ。ただの黄色じゃないよ!“あたたかい黄色”って色なんよ!」と、前のめりで話してくれました。
そして、絵を描いた日には「クレヨンを、こうして持つと、綺麗に塗れるんよ、見ててね!」と、描いて教えてくれました。
また、文字を習った時には、
「先生が教えてくれた字で、お手紙書いてあげようか??」
『月火水木金土日 あいうえお あいうえお あいうえお あいうえお』と、習った字がズラリと並んだお手紙を書いてくれた事も。

たくさんの色にときめいて、大好きな先生のお話を描き、初めて出会う文字を書き、学ぶ喜びを感じた一年間を過ごしました。
初めは大きく角ばっていたブロッククレヨンも、今、磨かれ娘の手の中にあるのは角に丸みがあり、あの頃よりひと回り小さくなっています。
クレヨンが小さく見えるのは、娘の手も大きくなっているのかな。
クレヨンが小さくなるたびに、娘の心も身体も大きくなっていくようです。

入学前に、「絶対に桃色よ!」とせがまれて、クレヨンケース.jpg
作ったクレヨンケースも、使い込まれて娘の手にすっかり馴染みました。

この春から、娘は2年生。
親の私が、何よりもいちばん嬉しい事は、娘が「学び」を「喜び」と感じている事。
2年生でも、たくさんの喜びを感じて、ぐんぐん大きくなってね!
鼻歌をうたう娘の後ろ姿に、そっと想いを寄せました。
k.y

1年生の学びの様子はこちらをご覧ください。
Posted by 京田辺シュタイナー at 22:24 | 生活 | この記事のURL
本との出会い [2022年02月22日(Tue)]
ある日の学校からの帰り道。
「先生が、今日から家で本を読んでいいって言ってた!」と2年生の娘。そう話す彼女の眼はキラキラして、待ちに待ったこの日を迎えた喜びを噛みしめているようでした。

娘のクラスでは、家で本を読むのはクラスで読本の学びをしてからということになっています。
帰宅後、私は彼女が遊んでいる隙に急いで本を探します。
「字は大きめで、本人が自由にイメージできるように挿絵は少なめで、あとファンタジーな要素も欲しいよなー」と贅沢を言いながら本棚をひっくり返すものの、そんな都合の良い本はないか、、、と半ば諦めかけたそのとき、「モモちゃんとプー」といういかにも小さい人向きの文庫本を発見!字は大きめで挿絵は少し、数ページ読んだその内容は、“押し入れにねずみの王様が住みついていて…”、なんだか分からないけどファンタジー!

翌朝、その本を彼女に渡すととっても大事そうに両手で受け取ってくれました。その日は電車で出かけたのですが、移動中も寸暇を惜しんで本を開き、帰りの電車で「もう読み終わった!すごく面白かった!」と言う彼女。えー!もう読んだの!?とびっくり仰天の私。
幸いこの本はシリーズのうちの1冊だったので、後日急いで図書館に走り、彼女が開き戸に大事にしまっていた本の隣に借りてきた本をそっと並べておきました。翌朝、開き戸をあけた彼女からは「わぁ!!」と大歓声。「新しい本ありがとう!!」と飛んで跳ねてのお祭り騒ぎでした。それは、サンタさんからサプライズプレゼントをもらったときのような喜びようで、見ている私まで幸せな気持ちになりました。

彼女と本との出会いがこれほど大きな喜びとなったことに、そしてそのように導いて下さった先生に心から感謝しています。彼女に芽生えた「本、大好き!」の思いが育ち続け、どうか彼女の人生を支えてくれますように。

折しも、今日は節分の日。京田辺シュタイナー学校には恐い?楽しい?鬼が登場し、子どもたちは豆をまいて1年の邪鬼を払い、新しい年を健康に過ごせるように祈りました。
世界が困難にあるこのただ中にあっても、子どもたちの心身の健やかな成長を願い、我々大人にできることを考えたいと思います。

A
Posted by 京田辺シュタイナー at 14:44 | 生活 | この記事のURL
和太鼓 〜わが家のエピソード〜 [2021年11月17日(Wed)]
秋が来た。

わが家の下の子は6年生。例年6年生は秋に和太鼓に挑む。 バチBefore.jpg

学校で練習がはじまって数週間後。ハッと気づくと、夫のお手製ダイニングテーブルがバチで勢いよく叩かれていた。

上の子が和太鼓をしたときには、改築したばかりの家の柱が叩かれた。
そのときは、あわてて日曜大工の残り木をツギハギして木箱を作りあてがったのだが、もしかしたら出番があるかもと、場所が塞がれるのをしのんでその木箱を数年間ベランダに置いていた。

IMG_0613.jpgダイニングテーブルの被害が広がる前に、今でしょ、と夫がその木箱をリビングへと引っ張り出して来た。



数日後…上の子が大事にとっておいたマイバチを抱えてやってきて、おもむろにバチを振り出した。すると、下の子もやって来て、箱の逆側から合わせて叩きだした。曲は一緒。まだまだ負けていないという勢いの姉。自分は現役と食らいつく弟。夢中で叩く2人。気づけば最近運動不足の姉の額から汗がポトリポトリ。。時刻は午後19時、9年の姉は疲れた〜と帰宅してきた、6年の弟は宿題で疲れた〜と言い訳してお手伝いを先延ばししてのびていた矢先…のはずが…

ドンドンドドン。鳴り響く音。急いで家じゅうの窓を締める。

6年男子と9年女子。ケンカも増え距離も開いてきたこの頃。そんな2人の魂が激しくぶつかり合いながらも重なっていく。次第に2人の音がピタリと合いはじめた。そうしてしばらくすると、いつの間にかバチを置きスッキリした表情で方々立ち去って行った。

個々の旅立ちへと向かう思春期の子どもたちの心をも、不思議に魅了し一つにする和太鼓。
和太鼓の「和」についてあらためて思う秋です。 A.H.
バチAfter.jpg


Posted by 京田辺シュタイナー at 23:48 | 生活 | この記事のURL
初めての夏休み [2021年09月01日(Wed)]
今年1年生で入学した娘は、学童期に入って初めての夏休みを過ごしました。帰省先で庭の畑仕事を手伝ったり、畑で採れたお野菜で一緒にお料理したり、川遊びをしたりと、のんびりとした時間の毎日でした。

「シュタイナー学校では、低学年の間は宿題が無いんでしょ?」とよく聞かれますが、実は宿題が存在します。
文字の書き取りや計算など、座学といった意味での宿題はもう少し学年が上がったらありますが、今1年生の娘が取り組む宿題は「お手伝い」です。
家の事を何かひとつ決めて、毎日お手伝いをします。

娘は日頃からお米とぎを手伝ってくれているのですが、夏休みはおにぎりを作れるようになりたい!と毎日せっせとおにぎりを作るお手伝いをしてくれました。

手にお水をつけて、お塩をつけて、ご飯をしゃもじで取り分けて握る。大人だとパパっとしてしまう事でも、当初はとても時間を費やす作業でした。

お手伝いが宿題だなんて、なんて可愛らしいのと初めは思いましたが、毎日続ける難しさの壁にぶつかる日も当然あります。
今日はそんな気分じゃない!という日もありますし、もっと遊びたいのに!という日もあり、毎日すんなりお手伝いをしてくれるわけではありません。
それでも一生懸命続けることで、夏休みの終わりには何となく手際がよくなってきたのです。

小柄な娘は、まだまだムチッとした小さな手をしているので、食卓には可愛らしい小さなおにぎりが、いくつも並びます。

食事の時に、父や兄から「Kちゃんのおにぎりは、特別おいしいわぁ。」「ありがとうね。」「おにぎりもう1個食べようかな〜。」なんて言われると、とても嬉しそうに自信に満ちた顔をする娘。
心があたたかくなる食事の時間となります。

美味しいごはんと、娘のちょっぴりの成長に、母も幸せな夏休みを過ごしたのでした。    K
おにぎりたち.jpg


Posted by 京田辺シュタイナー at 15:11 | 生活 | この記事のURL
夏休みの宿題 [2021年08月08日(Sun)]
抜けるような青い空に湧き立つ雲の峰がまぶしい。
昼寝から目を覚ますと、8年生の娘がエポックノートを広げて、地球をとりまく大気の様子をパステルで描いていた。無色の対流圏の上は、彼女好みのレモンイエローとライムグリーン、そしてラベンダーで色分けされて、下から順に成層圏、中間圏、熱圏と色鉛筆で書いてある。地球学の夏休みの宿題らしい。へー、外の夏空の上の方はこうなっているのか。わたしも習ったはずだけどな。そんなことを思いながら、宿題の1ページが仕上がるのを見ていた。

そういえば、この学校に編入して以来、子どもたちが宿題をする様子を眺めるのが、わたしの楽しみの一つになっている。5本の編み針の扱いに苦戦しながら靴下を編んでいたことや、木塊を削って作った器やスプーンを、根気よくヤスリがけしていたこともある。先生が作ってくださる誕生日の詩を唱えたり、歌や笛のパート練習をしたり、劇の台詞を覚えたり、宿題はさまざまだ。

植物のロゼットを探す宿題が出たときや、俳句作りの宿題が出たときは、5年生だった娘と近所の畦道を散歩した。地面に張り付いて冬越しする葉は、個々に美しい色と形をしていた。それまで目にしていたはずだけれど、見ているようで見ていなかったのかもしれない。さえずりながら空に溶け込んでいく雲雀を一緒に見た。声を頼りに見つけっこするのが楽しかったらしく、娘はそれを俳句に詠んだ。

この学校へきて、娘たちは新しい世界と出会い、わたしは世界と出会い直している気がする。量が多いと嘆く彼女たちをよそに、わたしはこの夏休みの宿題も楽しみにしている。  h


978C8B03-FA3F-4CB5-A3CA-E7A020FD7D47.jpeg 0BA4E212-A3C0-4F7B-8921-DF69DD73F294.jpeg
Posted by 京田辺シュタイナー at 10:30 | 生活 | この記事のURL
クラスの係 [2021年05月17日(Mon)]
 京田辺シュタイナー学校では、各クラスで保護者にも係があります。係の種類はそれぞれのクラスで毎年話し合って決めるので、クラスによって少しずつ違いますが、いずれも各家庭の状況に応じて無理なくできるような形で工夫されています。

 娘のクラスの係の中で、私が特に「この学校らしいな」と思うのは、お茶会とレク(レクリエーション)の企画をする係です。
 お茶会とは、その名のとおり、保護者みんなでおいしいお菓子とお茶を囲みながら、おしゃべりをしてほっこりする会です。その時々で子どものことや自分自身のことを話したり、学年会で話し合ったことをもう一度ざっくばらんに話したりすることが多いのですが、以前には卒業生保護者を囲んで、子育ての悩みへのアドバイスをもらったこともありました。
 レクは、保護者と子ども、そしてスケジュールの許す限り先生もいっしょになって、様々な形で交流する集いです。
 入学早々に、園芸の先生の田植え前の田んぼで行った泥田遊びでは、子どもたちよりも先に、お父さんが頭から田んぼにダイブ。その勇姿に、当時は初対面だった保護者同士の緊張感も一気に吹き飛び、子どもと入り交じってどろんこになるお父さんが続出しました。
 5年生の時、近所の公園で行った大人VS子どものドッヂボール真剣勝負では、楚々としたイメージのお母さんが大活躍し、みんなで目を丸くしました。また、クラスのほぼ全家庭が参加したお泊りキャンプでは、キャンプファイヤーを囲んでの大人たちのかくし芸に、子どもも大人も爆笑しました。

お茶会もレクも娘のクラスらしい賑やかな楽しい時間ですが、いずれも「クラスの子どもの様子を知ること、保護者同士が分かり合うことを通じて、少しでも子どもの成長を支え、クラスをよくしたい」という、至って真面目な思いに支えられています。私自身も、これまで、わが子のことで悩んだり、クラスの子ども同士でトラブルがあったりした時に、「お茶会やレクでの交流があったからこそ乗り越えられたのかもしれない。」と思ったことが多々ありました。今は新型コロナウイルスの影響で、お茶会もレクも難しい状況ですが、状況の許す形での交流をクラスで模索しています。

 今年の私の係は、8年生の卒業式のサポートです。まだまだ、係の仕事は始まっていませんが、心あたたまる卒業式ができるように心から願っています。
C.T

Posted by 京田辺シュタイナー at 22:14 | 生活 | この記事のURL
| 次へ