戦闘機パイロットになり大空を颯爽と飛びたい・・・景気良くなれば、家電の売れ行きがといきたいところですが・・・ [2021年01月27日(Wed)]
自分が、15歳の時だろうか? まだ中学3年生で将来何になりたいとかの夢もなく、平凡な日々を送っていた。 当時の担任が周防大島で、パラグライダーを始めたと聞いた。風の力で浮くこともできるし・前に進むこともできる、ただし後ろにさがることができないのである。 いつかは俺も、パラグライダーに乗って鳥になりたいとか、くだらない夢ばかり思っていた。 時は大きく進み17歳高校2年生の夏、自分は初めて防府北基地航空祭に行って戦闘機の(アフターバナー)爆音に感動してしまった。その前日の夜は子供が遠足行くような気持で興奮しており、なかなか寝付けなかった。(アフターバナー・自動車でいうとターボ。非常に大きな推力が起こり、燃料消費量が増大する。じゃじゃ馬戦闘機のニックネームがついていた、F4ファントムは足癖が悪くて有名) その年の11月9日、第8航空団が所属している福岡県築城基地航空祭に行き、実際に戦闘機(単座(一人乗り)F15Jイーグル)のコックピットに座り記念撮影した事がある。そこでは、実際に編隊を組み離陸や着陸までやっており、機動飛行(アクロバット)を初めて見た時、「俺も戦闘機パイロットになりたい」という夢ができた。 11月下旬沖縄に修学旅行に行き、米空軍嘉手納基地の所属機が、目の前を颯爽と飛んでいくのを見て、「度胸のある飛び方だ!航空自衛隊と全然飛び方が違う」あの時初めて、「かっけー」と感銘を受け、いつか絶対に米軍機に乗りたいなんて思ったこともある。 また時を進めること、18歳の夏休み前の就職活動を始める頃、自衛隊募集事務所の人がうちに来て、「君、自衛隊受けてみないかね?」の問いに「はい!」と答え、いろいろと説明をうけた。俺が憧れたのは高校卒業して、早くパイロットになれる航空学生だったし、なにしろ早く昇進できるのも魅力的だった。入隊して6年後には、3等空尉(少尉)になれる。 一番の心配は、「勉強に付いていかれるだろうか?」「エアーシックになったらどうしょう」だった。 (エアーシック・飛行機酔いの事) 1次試験から3次試験まであるが、9月の下旬頃に最初の関門である1次試験があった。 ひと通り試験問題を解くことができたが、国語の試験で時間が足りなくなって途中で試験終了になり、「あと少しで全部回答していたのにー」と後悔。 試験が終わって1週間後合格発表があったが、結果は・・・「不合格」だった。 その後、気持ちを入れ替えて別の企業に面接に行って、めでたく「採用」になった。 その時両親から、「自衛隊の採用試験に落ちて、まだ戦闘機乗りの夢を捨て切れないのか?」と言われたことがある。 マックを超すスピード・腹に響く爆音、俺にとってのストレス解消の一つである。(マック・米軍パイロットはマッハの事をマックと呼ぶ) これで、俺がなぜ戦闘機に興味を持ったのかの話をしたのだが、実はその前俺はパソコン技術者になりたいと夢があったが、ちょうどそのころ(17歳高校2年生)ネット系の犯罪が多発していた時期があって、「このままでは、俺まで頭がおかしくなってしまう」その後一切パソコンのキーボードを触らなくなってしまい、新たな興味を持つものを探さなきゃということで、なら戦闘機・・・という結論になり、現在に至る。 今もときたまであるが、ストレスが溜まった時にMCAS(海兵航空施設の略)岩国に行って、戦闘機の爆音を聴いて解消している。 ご愛読ありがとうございました。 (viper zero) こんにちは銀時です。 インターネット調べによると昨年の白物家電(冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、エアコン、電子レンジなど)の出荷額が巣ごもり需要で、24年ぶり高水準だったようです。 新型コロナの影響で業績が悪いところもあれば良いところもあるようですね。 日本全体から考えると経済を何とか支えてくれてとても良いことです。 あともう少し頑張ればワクチンなどの力で、また元の生活に戻れます。ここが踏ん張りどころ。人生山あり谷ありを実感しつつ前向きに頑張りたいところです。 (銀時) |