「みんなの学校」上映会に行ってきました!
[2015年08月17日(Mon)]
FMくらしき 20周年記念事業「みんなの学校」上映会に行ってきました☆彡
公式HP みんなの学校
「不登校も特別支援学級もない、同じ教室で一緒に学ぶ ふつうの公立小学校のみんなが 笑顔になる挑戦 映画『みんなの学校』」 って解説があるけど
「ふつうの公立小学校ではない」からあえて「ふつうの」って書いてあるんだと思う。
挑戦だよね☆彡 ホントはコレがふつうでしょっていう。
不登校とか特別支援とか暴力とかそんなレッテルいらないんだな〜と。レッテルを貼らなくても対応できるからってことだと思う。不登校だから〇〇 とか 暴力を振るう子だからと括っちゃうと楽だからね、ある面。
校長先生のことばに心打たれたり、子どもの素直さやひたむきさに感動したり、周りの大人の暖かさややさしさを感じたりして素直に泣ける映画でした。真っ直ぐで真剣でとことん向き合うというか。あきらめないし。
「みんなでつくるみんなの学校です。
みんなって誰ですか。自分って誰ですか。」
校長先生の問いかけ(朝礼)の場面から始める。
面倒な子に対してその子を見る周りの目が変わったら、(捉え方が変わったら)その子を変えるのではなく、学校が変わる。その子だけではない、誰だって面倒な子の立場になりうる。
その状況を周りが受け入れることで、見方が変わることで、誰もがそこに居場所と存在意義を見出すことができる。
「子どもの力を信じる」力
信じる力 って大きいなぁ
暴力を振るう子がもうしないって宣言したけど
また暴力をふるってしまう。
またか!約束破って! と思わずそう思ってしまう。
だけど、校長先生は「そのとき(もうしないって言って宣言したとき)はその瞬間は真実なんだ。」って言われていた。
その瞬間瞬間、点と点の真実を結び合わせて線にしていくにはどうしたらいいかってまた考える。
瞬間でも「もうしないっ」て心に誓うこととそれがないことの違いは大きい。
校長先生が例え話で
水泳で100メートル泳げる子と1メートルも泳げない子の成長について語られていた。
100メートル泳げる子はさらに泳げるようどう努力できるかが成長であり
1メートル泳げない子は浮けるように努力できるのが成長。
同じことが同じようにできることに目標を置くのではなく、その子その子の成長はその子その子の軸でみていくものという揺るがない信念をもっているように感じた。
できるからしなくていいでもなくて、さらにその子の成長にとっては何が成長なのかっていう視点も持っているように思えた。
また、職員の成長という視点もあって、担任はあるけど、職員全員で児童全員をみているという
安心感と緊張感の両方あるだろうけど。相談できる体制はあるし、気づかせてもらえる組織だなって思えた。
数ヶ月前、いじめで自死を選んだ子のニュースが話題になってそのことがふと頭をよぎった。
担任が自分でなんとかしようとしていた様子が後でわかって、相談できない雰囲気だったのかもしれないって思った。自分で何とかしたかったのかもしれないし。本当のところはわからないけれど。
良くも悪くもオープンなので「助けて」「わからない」が言えたり、伝わるのって大事だと思う。
できないこと、わからないこと、失敗、失態そんなのも含めて大丈夫っていうことが感じられるのが大事なんだと思う。
そんな、自分の関わり方に気づかせてもらえる場面に心打たれたりもした。
学校に数日来れていない子がいて、新任の担任の戸惑いの様子も伝わってきた。校長先生に相談すると「気になったら動いて!」のことばで、すっと身体が動いてその子の家に直行していた。
あぁコレコレって思った。
気になる
どうにかしたい
そんな
内側の思いが行動に移せるって素敵だなぁって。
子どもが変われば親が変わる、親が変われば学校が変わる、学校が変われば地域が変わる。
子どもを見る目が変われば、社会が変わると思う。
「みんなでつくる」 は 「自分でつくっていく」 「そこに関わっている」ってこと。
本当は社会って自分で作っていると同じこと。何らかの関わりを持っていて、つながっているもの。分断されたところに位置づけされるものではない。
だとしたら、自分は社会とどう関わりたいのか、意識することで社会って変わってくる。見方が変わり、関わり方が変わると、自分が変わり、相手も変わり、その波及が社会というところに及んでくる。
自分が安心して心地よく笑顔で暮らしていくためにできることは何かっておのずと見えてくるのではないか、と思うのだ。
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公式HP みんなの学校
「不登校も特別支援学級もない、同じ教室で一緒に学ぶ ふつうの公立小学校のみんなが 笑顔になる挑戦 映画『みんなの学校』」 って解説があるけど
「ふつうの公立小学校ではない」からあえて「ふつうの」って書いてあるんだと思う。
挑戦だよね☆彡 ホントはコレがふつうでしょっていう。
不登校とか特別支援とか暴力とかそんなレッテルいらないんだな〜と。レッテルを貼らなくても対応できるからってことだと思う。不登校だから〇〇 とか 暴力を振るう子だからと括っちゃうと楽だからね、ある面。
校長先生のことばに心打たれたり、子どもの素直さやひたむきさに感動したり、周りの大人の暖かさややさしさを感じたりして素直に泣ける映画でした。真っ直ぐで真剣でとことん向き合うというか。あきらめないし。
「みんなでつくるみんなの学校です。
みんなって誰ですか。自分って誰ですか。」
校長先生の問いかけ(朝礼)の場面から始める。
面倒な子に対してその子を見る周りの目が変わったら、(捉え方が変わったら)その子を変えるのではなく、学校が変わる。その子だけではない、誰だって面倒な子の立場になりうる。
その状況を周りが受け入れることで、見方が変わることで、誰もがそこに居場所と存在意義を見出すことができる。
「子どもの力を信じる」力
信じる力 って大きいなぁ
暴力を振るう子がもうしないって宣言したけど
また暴力をふるってしまう。
またか!約束破って! と思わずそう思ってしまう。
だけど、校長先生は「そのとき(もうしないって言って宣言したとき)はその瞬間は真実なんだ。」って言われていた。
その瞬間瞬間、点と点の真実を結び合わせて線にしていくにはどうしたらいいかってまた考える。
瞬間でも「もうしないっ」て心に誓うこととそれがないことの違いは大きい。
校長先生が例え話で
水泳で100メートル泳げる子と1メートルも泳げない子の成長について語られていた。
100メートル泳げる子はさらに泳げるようどう努力できるかが成長であり
1メートル泳げない子は浮けるように努力できるのが成長。
同じことが同じようにできることに目標を置くのではなく、その子その子の成長はその子その子の軸でみていくものという揺るがない信念をもっているように感じた。
できるからしなくていいでもなくて、さらにその子の成長にとっては何が成長なのかっていう視点も持っているように思えた。
また、職員の成長という視点もあって、担任はあるけど、職員全員で児童全員をみているという
安心感と緊張感の両方あるだろうけど。相談できる体制はあるし、気づかせてもらえる組織だなって思えた。
数ヶ月前、いじめで自死を選んだ子のニュースが話題になってそのことがふと頭をよぎった。
担任が自分でなんとかしようとしていた様子が後でわかって、相談できない雰囲気だったのかもしれないって思った。自分で何とかしたかったのかもしれないし。本当のところはわからないけれど。
良くも悪くもオープンなので「助けて」「わからない」が言えたり、伝わるのって大事だと思う。
できないこと、わからないこと、失敗、失態そんなのも含めて大丈夫っていうことが感じられるのが大事なんだと思う。
そんな、自分の関わり方に気づかせてもらえる場面に心打たれたりもした。
学校に数日来れていない子がいて、新任の担任の戸惑いの様子も伝わってきた。校長先生に相談すると「気になったら動いて!」のことばで、すっと身体が動いてその子の家に直行していた。
あぁコレコレって思った。
気になる
どうにかしたい
そんな
内側の思いが行動に移せるって素敵だなぁって。
子どもが変われば親が変わる、親が変われば学校が変わる、学校が変われば地域が変わる。
子どもを見る目が変われば、社会が変わると思う。
「みんなでつくる」 は 「自分でつくっていく」 「そこに関わっている」ってこと。
本当は社会って自分で作っていると同じこと。何らかの関わりを持っていて、つながっているもの。分断されたところに位置づけされるものではない。
だとしたら、自分は社会とどう関わりたいのか、意識することで社会って変わってくる。見方が変わり、関わり方が変わると、自分が変わり、相手も変わり、その波及が社会というところに及んでくる。
自分が安心して心地よく笑顔で暮らしていくためにできることは何かっておのずと見えてくるのではないか、と思うのだ。