• もっと見る
<< 2012年01月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
鈴木 常久
TOKYOアイヌ 試写会 (11/01)
橋元 國雄
川口9条の会総会 (10/02)
コウダン
川口のたたら祭りを変えたい (08/25)
マートル(おっくう)
聴覚トレーニング (05/24)
マートル(おっくう)
大下痢 (05/09)
マタンゴ
大下痢 (05/08)
jojo(ゆきこ)
NPO法人学生キャリア支援ネット (05/06)
みや
川口たたら祭り (04/28)
齋藤康行
降りてゆく生き方 (04/20)
最新トラックバック
鹿嶋市太陽光発電システム見学[2011年09月17日(Sat)]
県の補助金と投資企業の資金により鹿島市の費用負担はゼロだそうです。しかも若干の金額を家賃として支払うというシステムを開発し、全国の都道府県に提案している企業の現地見学・説明会に行ってきました。

今お金のない市町村は当然興味を持ち、八王子・小平・徳島・開発会社・ビルのオーナーなどが見学に来ていました。NPO法人は私だけです。

見学したところは鹿嶋市役所・鹿嶋中学武道館・スポーツセンター・老人ホームなどです。規模は20〜70kwの施設です。私たちが市民共同発電所として考えている3.5KWとは桁が違いました。

メンテ・事故管理から発電量の管理まですべてこの会社が責任を持って20年間保証するそうです。それだけ太陽光は変動リスクが少ないそうです。

心配している工事も屋根に穴を開けないで締め付ける方法を独自開発しているそうです。それでも想定外の危険性もあるだろうな?もちろん保険もクリアしているそうです。む〜、すごい!
あれから半年[2011年09月11日(Sun)]
地震に関しては西川口の事務所での揺れをはっきり覚えています。そして何かの前触れのような変な予感を感じていました。
 その半年ほど前から原発の危険性、内部被ばくのこと、祝島の原発反対運動、浜岡原発のことなどがどんどん情報として入ってきて、何かやらなくてはという想いがありました。

 でもいざ起こってしまってからは地震・津波そして福島原発の事故とつづきそんなことさへ忘れていました。考えてみれば起こるべくして起こったといえるとおもいます。

 今、若い人たちを中心に日本全国の人たちが何らかの形で東日本大震災復興の応援に動いています。
 私はというといろいろな動きをよく言えば俯瞰的に観させていただいています。後方支援と言ってもいいのかな?悪くいえば傍観者じゃないか?

 その通りだな、この事件に関係なく、3月で仕事が終わって以来どんどん
自分の内向きに変わってきています。一人でバイクに乗ったりサックスを練習したり千羽鶴の糸通しをしたり、独り住まいのお年寄りの助っ人をしたりで、結構充実しています。何かの時を待っているような気もしています。
やばい!線量計[2011年09月06日(Tue)]
昨日からモードを変えてDOSE(たぶん累計量)だと思いますが、ときどきピー!と音がなるので何かと思うと数字が0.1上がっているのです。昨日寝るときにみた数字が26.4μ㏜で今現在(夜の9時)でな、な、なんと29.8μ㏜、つまり24時間弱で3.4μ㏜あがってしまいました。これを365倍すると1241μ㏜か???

1m㏜までは大丈夫だけどこれを20年間受け続けるとどうなるか?
その前に私の寿命は終わっているだろうけど?癌になる確率が高くなるというだけで、あたふたしていてはいけないような気がします。

やはり除染する意識と同じように原発に頼ろうとか必要などという哀しい気持ちこそ除染する活動を私はしていきたいです。
線量計[2011年09月05日(Mon)]
先日の中学校の理科の先生川根真也さんの講演から、国や自治体の数値に頼らず自分で計った数値で判断しようとなけなしの金を払って中国産の線量計を買いました。それは小数点以下0・1までしかでないので、ずっと0.1μ㏜(マイクロシーベルト)から変わらなかったのですが、今朝家を出るといきなり0.3μ㏜/hがでているではありませんか?
自転車で少し走ると0.2に戻ってしまいました。福島で何かおこったのでしょうか?

この線量計は常にONの状態でモードを変えると累計がでるようになっています。年間1ミリシーベルトまではまだ余裕がありますが、その基準をよしとするかどうかはまだわかりません。だめといってもどうしようもないけど
キャットピープルズにはまってます[2011年09月03日(Sat)]
練習する場所と演奏する機会がないのとであきらめていたアルトサックスを再度娘から借り受け、練習再開し、いきなり演奏したのが浦和駅前、それからは迷惑を顧みず川口のパートナーステーションで練習を重ね、老人施設でのオカリナ演奏もサックスでやり始めています。

もともと下手くそな演奏ですから猫の三鬼丸(じゃきまる)さんの三味線がないと盛り上がらないのですが、何でもはもれる夏ちゃんの鍵盤ハーモニカが入るとさらに曲が盛り上がります。

「炭坑節」から入り、「見上げてごらん夜の星を」とか「酒よ」や「荒城の月」をアレンジしたりしています。圧倒的に音が大きくなったので三味線の音も大きくなりました。もう少し練習すると少しは聴けるようになるかもしれません。
子ども環境フォーラム[2011年08月28日(Sun)]
今年は市立在家小学校をお借りして、夏休みの一日楽しく有意義な活動となりました。

在家小学校は見沼田んぼ、通船堀、芝川が近くにあり屋外ワークショップをやるには絶好の場所にあります。

在家小の生徒を中心に98名、講師の先生、付添いの先生、父兄、関係者などボランティアを入れると130名の方がここに集いました。

ご挨拶や注意事項、説明の後、講師の先生とボランティアがついてそれぞれのワークショップに10人前後の子どもたちが参加しました。

@一番の人気はツリークライミング、
Aバードウォッチング
B昆虫観察
Cビオトープ植物観察
D芝川のゴミ拾い(自転車サルベージ)
E通船堀の歴史・民話
F芝川の生き物
G工作材料を探そう(どんぐり等)
H丸太切り
I自然エネルギー実験

どれも面白そうで、私は自転車サルベージのお手伝いをしました。
ロープをつけたフックを川に投げ、自転車を吊り上げます。帝京大学の学生さんがボランティアしてくれました。イヤー、橋の手すりから引っ張り上げるのが大変でした。

みんな時間通りに戻って来られ、教室に分かれてまとめをやりました。

昼食後の昼休みは展示品の見学とエコマーケット(リサイクル品を持ってきてエコチケットをもらい、それで手づくり品などを購入します。勿論お店も生徒がやります。ゴーヤのかりんとうが美味しかった)

午後はそれぞれのワークショップの発表、まとめをやりました。
司会は勿論、私です。
そして団体や個人の研究発表、在家小と戸塚南小のエコクラブや個人では中学生になったT君のエコ生活、高校生の蝶博士K君の発表を行いました。そしてまとめと交流会では来年に向けての抱負などを出し合いました。
峠三吉詩集[2011年08月14日(Sun)]
広島に行った最初に眼についた「原爆展」そして峠三吉詩集、あとでゆっくり読もうと買いもとめたが、なるべく避けてきたと言った方が正しいかもしれません。
峠三吉は爆心地から3000メートルの自宅で被爆し、ガラスの破片創と数か月の原爆症?だけで生き残った、と書かれています。その後まるで記録を取るかのようにこれでもかこれでもかと詩をかきつづけた。

           8月6日
あの閃光が忘れえようか!
瞬時に街頭の三万は消え
おしつぶされた暗闇の底で
5万の悲鳴は絶え

渦巻く黄色い煙がうすれると
ビルディングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯てしない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島

やがてぼろきれのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳しょうを踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列
     
     :
     :
     :

そしてこの詩集のあとがきに峠三吉は書いています。
「私はうす暗い広島療養所の一室でこの稿をまとめた。
まとめてみながらこのことに対する詩をつくる者としての
6年間の怠慢と、この詩集があまりに貧しく、この出来事の
実感を伝えこの事実の実体をすべての人の胸にうち広げて
歴史の進展における各個人の、民族の、祖国の、人類の
過去から未来への単なる記憶でない意味と重量をもたせることに
役立つべくあまりに力弱いことを恥じた。


      中略


私が唯このように平和への願いを詩に歌っているというだけの事で
いかに人間としての基本的な自由をまで奪われねばならぬごとく
時代が逆行しつつあるかということである。
私はこのような文学活動によって生活の機会をほとんど無くされて
いるということは勿論、有形無形の圧迫を絶えず加えられており、
それはますます増大しつつある状態である。
このことは日本の政治的現状が、いかに人民の意志を無視して再び
戦争へと引きずられつつあるかということの何よりの照明にほかならない。

1951.6.1 

まさに朝鮮戦争からベトナム戦争へとつながる時期ではないでしょうか?

人間の歴史は愚道の歴史かもしれません。もう考えている時間などないのかもしれない。人間が立ち直れる最後のチャンスをまたしても逃すのだろうか?


2011広島報告A[2011年08月11日(Thu)]
平和公園の中には原爆の子の像も含めて50箇所以上の記念碑、慰霊碑があります。まだすべてを回ったことはありません。一つ一つに作られた方たちのつらい想いがあります。そう思って碑を見つけると原爆許すまじを演奏させていただきます。今年も何万という遺骨を埋葬した慰霊塔と韓国人慰霊碑で演奏させていただきました。

被爆体験者のお話を聞く「被爆者証言のつどい」に今年も行きました。Kさんとは別の部屋で一人の被爆者を囲んで5・6人のグループで体験談を聴きます。

私は広島駅近くで被爆された田口さんという83歳の男性でした。建物から出たところ、ピカという強烈な光を感じた瞬間、数メートル吹き飛ばされ気が付いてみると建物は壊れていたそうです。帰り道川を渡ろうとすると水を求めて川に入っていきそのまま顔をつけて亡くなっていくたくさんの人たちを見たそうです。

印象に残ったのは空白の10年間と言われた、みんな必死で生きることだけを考えていた時期のことです。本当はその10年間を一番聴きたいのかもしれません。でも被爆者の方はあまり多くを語りません・・・・。

今東日本の被害者たちは必死で生きていらっしゃいます。どうやって復興していくか?をいろいろ模索されています。いつのまにかではないはずだけど後で考えると空白ではないようにしたい。

昼食後、Kさんが原爆資料館に行ったことがないので、記念公園に戻り資料館を観ました。数年ぶりに訪れました。

以前は素通りしてしまっていた放射線の資料もありました。びっくりするのは広島では被爆後数日間で放射能は百万分の1になっていたそうです。

だから第2被爆者(入市被爆者と言われ、あとから現地に入って被爆した人)が意外と少ない。(福島やチェルノブイリでは今後いつ入れるかわからない)

どうしても東日本の状況と比較してしまいます。

とにかく今年も行ってきた広島ですが、ここから東日本の復興へ何か自分にできることをみつけたいと思っています。
広島報告2011[2011年08月11日(Thu)]
<画像:http://>今年は直前に同行希望者が現れ、新幹線やホテルの予約で追われましたが、一人旅にはない充実した2日間でした。

ホテルから広島平和公園までは徒歩15分ほどで、ビニール袋を両手にぶら下げとにかく「サダコ像」の前に急ぎました。式典に初めて参加するKさんを座らせてあげたいとつい時間を急いてしまったような気がします。

千羽鶴を一つずつラックにかけながら写真を撮りました。報道関係の人が盛んに写真を撮ろうとします。意識しすぎたかな?

昨年長野の山奥から背負子に千羽鶴をつけて各駅で来られたTさんを探したけれど見当たりません。あまり人がまだいないので、オカリナで「原爆許すまじ」を吹かせてもらいました。毎年お会いする盲目のオカリナ吹きのご夫婦に会えるかな?

式典に向かいました。菊の花をもらえたので先に献花させてもらいました。一般席には今年は屋根がありました。去年は出てないのでわかりません。一番後ろの方なので、前で行われる挨拶などは全く見えません。声だけは聴こえるのでじっと聞いていました。

広島市長の平和宣言と子供代表の挨拶が毎年楽しみです。この子どもたちの将来はどうなっているのでしょう?菅総理も脱原発の方向性を国としてしめしたはずですが、総理が変わればどうなってしまうのだろうか?

再度サダコ像の前に戻り、知っている人を探しましたが、紙芝居のおばさん(おじさんの格好をしています。)も盲目の彼女もいない。原爆展物語を続けている「はぐるま座」のみなさんと会えました。東京公演以来ですが、東京事務所がなくなってしまったので、紙芝居版原爆展物語をやってもらうことができません。

式典が始まるころには毎年、デモ隊がシュプレヒコールを上げ始めますが、今年は脱原発の幟ばかりでした。

つづく


千羽鶴を送りました[2011年08月02日(Tue)]
広島にむけて7853羽、宿泊先の法華クラブホテルに発送しました。昨年糸が切れてばらけた折鶴をどうしようかと思っていたら、バラの鶴を置く場所があることに気づき、今年は半端の鶴も折った方の気持ちがこもっていると思い袋に入れて送りました。

南相馬市と気仙沼市に持っていったものが7000羽あるのですごいなと思います。

今年は急きょ広島に行ってみたいという方と2人で行くことになりました。
プロフィール

愚道さんの画像
リンク集
https://blog.canpan.info/koketuan/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/koketuan/index2_0.xml