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日中医学研修制度30期生が修了式 装い新たに9月に再スタート [2008年03月31日(Mon)]


日中笹川医学研究者制度終了式歓送会

中国の医師や看護師が日本の大学病院や研究機関で1年間研修する「日中笹川医学研究者制度」の第30期生の修了式が3月24日、東京都文京区のホテルで行われた。今回、修了式に臨んだ研修生は78人で、昨年4月から日本各地の大学病院を中心にした研究機関で研修を受けた。1987年にスタートしたこの制度は、日中両国の保健医療の普及向上を目的に「日中医学協会」「笹川記念保健協力財団」「中国衛生部」の3者が日本財団の助成を受けて進めてきた。30期生で一応の区切りとなり、ことし9月からは装いを新たに再スタートする。(写真:研修生と歓談する笹川会長)

これまでにこの制度で来日した中国の研究者は1682人で、さらに256人が特別研究者として再来日、帰国後は日中友好の懸け橋となり、中国医療界の中心メンバーとして活躍している。修了式では尾形武寿日本財団理事長が、この制度を始めた経緯に触れたあと「20年の長い歴史を持つこの制度は終わるが、9月からは少数精鋭の方針に替え、より質の高い研究ができる制度にしたい」と述べ、さらに「中国の格差社会の現状は感心できない。これを直すのは皆様の仕事です」と、研修生を激励した。
(写真:研修生を激励する尾形理事長)

研修生は森亘日中医学協会会長から一人ひとり修了証を渡された。この後、研修生を代表して東大大学院医学系研究科で予防看護学(看護管理学)を学んだケ芳麗さん(32)が「長いようで短い1年だった。中国にいるだけでは得られなかった貴重な経験をできた。『中国では滴水の恩、まさに湧泉のごとく相報いるべし』(与えてもらった恩を何倍にしても返す)ということわざがあるが、この気持ちを持って今後の仕事に生かしたい」とお礼のあいさつをした。

引き続き開かれた歓送会で笹川陽平日本財団会長が「20年間続けることができたのは日中医学協会の先生や全国の指導教官の献身的な努力があったからだ。穏やかな日中関係をつくるためにも、皆さんは日本をよく知る人になっていただきたい」とあいさつした。歓送会では、20年前の1期生が人民服で来日したという思い出話も披露され、時代の変化を感じさせた。

9月から再スタートする制度は、翌年の8月までの1年間に30人を受け入れるもので、当面5年間継続する予定だ。研修生の年齢上限はこれまでは40歳としていたが、今後は日本入国時35歳までとなる。


*動画はコチラ(1:54秒)

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ブックマークに追加する Posted by 日本財団 広報チーム at 09:25 | 国際 | この記事のURL | コメント(0)
比残留日系2世 新たに姉弟3人の就籍認める 3件目、父は沖縄出身 [2008年03月28日(Fri)]


日本国籍取得が認められた神山さん3姉弟(提供:PNLSC)

戦争の混乱で日本人の父親の戸籍が確認できないままフィリピンに残された日本人2世の姉弟3人が日本国籍取得に向け就籍を求めた審判で東京家裁は3月26日、これを認める決定を出し、28日までに3人に伝えられた。フィリピン残留2世の就籍が認められたのは3回目、計7人となった。近く本籍地を置く東京都千代田区に就籍届けを提出し、晴れて日本国籍を取得する運びとなる。

新たに就籍が認められたのはフィリピン・ミンダナオ島タグム市に住む神山ローレンシアさん(85)=日本名ツキコ=、アンドレスさん(82)=同シゲル=、サルッドさん(79)=同サツコ=の3姉弟。父親の神山鴻助さんは沖縄県・名護の出身で、戦前、ミンダナオ島に渡り塩や米、砂糖などの行商をし、1915年、現地女性と結婚、3人を含め計9人の子をもうけた。(写真:3人が住むミンダナオ島の街なみ)

ところが1930年、マラリアで急死。残された妻子は、その後、勃発した第2次世界大戦で日本軍に自宅を提供するなど協力を求められたが、終戦時には、10年以上前に鴻助さんが亡くなっていたこともあって日本に送還されることなく現地に残留した。5男4女の姉弟のうち6人は既に亡くなり、残った3人が2006年8月、就籍の申し立てを行い、同10月には父親の出身地、沖縄を訪れ、父親の戸籍は確認できなかったものの従兄弟との面会を果たし、今回の就籍に道を開いた。(写真:沖縄を訪れた神山さん姉弟)

東京家裁は従兄弟の存在のほか、フィリピンの教会に残された「コウスケ カミヤマ、出身日本、沖縄県」の記載などを決め手に申し立てを認めた。3人には日本財団などの支援を受け現地で残留2世の支援活動を進める「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)のメンバーから東京家裁の決定が伝えられ、3人はそれぞれ「うれしいのひと言」(ツキコさん)「我慢してきた甲斐があった。就籍が認められたことですべてが報われた気がします」(シゲルさん)「日本人の子と認められ何の問題もなくなった」と喜びを語った。

3人はいずれもフィリピン人と結婚、8人から13人の子宝に恵まれ家族と生活している。3人が日本国籍を取得すると、3世、4世にも日本での就労の道が開かれることになる。

これまでに就籍が認められた3件のうち1件は父親の身元が判明していたケースで、父親の戸籍が確認できないまま就籍が認められたのは2件目。東京家裁にはこのほか55人が就籍の申し立てを行っており、PNLSCや代理人を務める「さくら共同法律事務所」によると、ほかの残留2世に関しても順次、就籍の申し立てが行われる予定。

(英文記事はコチラ
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ブックマークに追加する Posted by 日本財団 広報チーム at 15:59 | 国際 | この記事のURL | コメント(0)
体験クルーズ30周年 約590人が小笠原−晴海を往復 [2008年03月28日(Fri)]


晴海を出航したふじ丸


「ブルーシー・アンド・グリーンランド財団」(B&G財団)が海の体験を通して、青少年の健全な育成を進めようと実施してきた「体験クルーズ」がことしで30周年を迎えた。その記念クルーズの客船「ふじ丸」(2万3235トン)が26日午後、参加者・スタッフ約590人を乗せ、東京・晴海ふ頭から寄港地・小笠原に向け5泊6日の船旅に出航した。

体験クルーズは、1978年に「少年の船」として中学生・高校生を対象にスタート。寄港地はグアム・サイパンだった。98年からは現在の体験クルーズに名前を変え、99年からは小中学生(小学4年生−中学3年生)を対象にし、02年からは寄港地を「東洋のガラパゴス」といわれる小笠原に変更し、現在に至っている。(写真:あいさつする笹川会長)




出航に先立ち、ふじ丸内で結団式が行われた。この中で、クルーズ団長を務める広渡英治B
&G財団専務理事が歓迎のあいさつをした後、このクルーズを支援している日本財団笹川陽平会長が「日本は海洋国といわれるのに、意外に海のことを知らない人が多い。海を楽しみ、素晴らしい思い出をつくって帰ってきてください」と激励した。

  


写真左:式に参加した中村さん(右端)、谷川さん(左から2人目)と左端が広渡団長
写真右:誓いの言葉を述べる舘野さん

式には特別講師として乗組む中村真衣さん(シドニー五輪水泳・背泳で銀、銅の2つのメダルを獲得)、元競艇選手の植木通彦さん(生涯獲得賞金が歴代3位の約22億6200万円)やマラソンランナーでB&G財団評議員の谷川真理さんも出席、親と離れて旅立つ子どもたちに笑顔を見せていた。結団式の終わりに、ふじ丸に乗る子どもたちを代表して、栃木県の小学生5年生、舘野丹郁奈さん(11)が「たくさんの友だちをつくり、海の素晴らしさを多くの人に伝えたい」と誓いの言葉を述べた。

今回の乗船者は北海道から鹿児島県までの小中学生497人。このほかB&G財団の指導員研修を受けたリーダーやボランティアなどのスタッフ68人、報道関係者などを含めると乗船者総数は588人。全行程のうち4日間を船内で生活し、畠村外志行キャプテンや特別講師・講師の話を聞く。小笠原・父島ではカヌーなどのマリーンスポーツ、クジラを観察するホエールウォッチングも体験し、31日朝晴海に帰る。

ふじ丸は午後4時に晴海ふ頭を出発した。ふ頭には、多くの親やきょうだいたちが集まり、大型船の旅を楽しむ子どもたちを見送った。このクルーズには、B&G財団評議員会議長の竹内清治さん(80)や、元共同通信社論説委員長の米倉久邦さん(65)も乗船、少年少女たちに混じって、小笠原の海を楽しむ。


親たちが見送る中で出航
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ブックマークに追加する Posted by 日本財団 広報チーム at 10:36 | 海と船 | この記事のURL | コメント(0)
宮崎県の橘太鼓「響座」ジュニアが優勝 日本太鼓ジュニアコンクール [2008年03月27日(Thu)]


優勝した橘太鼓「響座」ジュニアの演奏


(財)日本太鼓連盟主催の「日本太鼓ジュニアコンクール」が3月23日、石川県白山市の松任総合運動公園体育館に32都道府県の43チームが参加して開催され、宮崎県代表の橘太鼓「響座」ジュニアが優勝した。会場は約3000人の観客で盛り上がり、地元出身の森喜朗元首相も来賓として顔を見せ「太鼓を打つことの素晴らしさは、心がひとつになることだ」と激励した。

コンクールは1999年の第1回以来、今回で10回目。地区予選を勝ち抜いた43チームのほか、前年優勝の長崎県代表「おおむら太鼓連くじら太鼓」とブラジル大会で優勝した「イビウナ龍舞太鼓」が特別参加し、日本太鼓連盟の塩見和子理事長は「太鼓の技術だけでなく、礼と節、感謝、忍耐といった日本人の美徳を学んでほしい」と語り掛けた。

次いであいさつに立った森喜朗元首相は「ヤンキース・松井の出身地で有名だった石川県が、最近では太鼓でも全国の拠点になりつつある」とあいさつ、「バチはしっかり、挨拶は短く」と最後を締め、会場の笑いを誘った。谷本正憲知事、角光雄白山市長が続いて祝辞を述べた後、コンクールに移り各チームが力強いバチさばきを競った。(写真:「太鼓の素晴らしさは、心がひとつになること」と語る森元首相)


優勝した橘太鼓「響座」ジュニアは2年前の愛知地球博出演が結成のきっかけ。8人のメンバーは連日、2時間の早朝練習を続け結成2年で優勝に輝いた。メンバーの一人、宮原直樹さん(15)は「今まで頑張ってきて優勝できた。うれしい」と語った。2位と文部科学大臣賞は石川県代表の輪島・和太鼓虎之介が受賞。昨年の京都大会当日に発生した能登半島地震で思うように練習が出来なかったハンデを乗り越えての受賞。輪島に伝わる「鬼面太鼓」を取り入れ、古式ゆかしい伝統的な演奏を披露した。

出場者の平均年齢は13・5歳、最低年齢は7歳。第7回から審査を担当する渡辺貞夫さんは8人の審査員を代表して「回を重ねるごとに、みんな素晴らしく成長しており、本当に差がない」と講評し、年々レベルが向上していることを裏付けた。

日本太鼓連盟は、全国40都道府県に44支部を持ち約800チームが所属、会員は愛好者を含め2万2千人に上る。今回のジュニアコンクールのほか「日本太鼓全国フェスティバル」、障害者が成果を披露する「日本太鼓全国障害者大会」、高齢者の技術向上と健康増進を目指す「日本太鼓シニアコンクール」など多彩な事業を展開している。

また日本財団も、日本太鼓連盟が行う国内及び海外への太鼓の普及を支援する傍ら、ブラジル太鼓協会への日本人講師の派遣や(財)海外日系人協会を通じたスカラーシップ事業を進めている。日本人移住者が最も多いブラジルでは、今年6月21日にブラジル太鼓協会の主催で移民開始100周年記念イベントが開催され、日本とブラジルの太鼓奏者1000人がひとつの曲を合同演奏する予定だ。


*第10回日本太鼓ジュニアコンクールの動画はコチラ(0:55秒)

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ブックマークに追加する Posted by 日本財団 広報チーム at 09:07 | 文化・教育・社会問題 | この記事のURL | コメント(1)
「親が変われば子も変わる」自然塾の小野田さんが講演会 [2008年03月26日(Wed)]


600人の聴衆を前に語る小野田さん

フィリピンで戦後30年間ジャングル生活を続けた小野田寛郎さんが3月20日、鹿児島市内で「生きる ―親が変われば子も変わる―」というテーマで講演をした。(財)小野田自然塾が主催したセミナーには約600人が集まり、キャンセル待ちの列ができるほどの盛況ぶりだった。

小野田さんは、戦争終結を知らずにフィリピン・ルバング島のジャングルに残留し孤独な戦闘を続けたという経験を持つ。帰国後、ブラジルに移住し農場を開拓し生活していたが、1980年に日本で起きた少年が両親をバットで撲殺するという事件に衝撃を受け、自分の経験が日本の子どものために役に立てるのではないかと帰国し、小野田自然塾を設立した。1991年には福島県塙町にキャンプ場を創設、以来2006年まで15年にわたりキャンプを開催してきた。フィリピンのジャングルでの生活体験を生かし、現代の日本の子ども達にたくましく生きる力を身につけさせたいという思いで活動している。(写真:小野田自然塾にある「不撓不屈」の文字が彫られた石碑)

小野田さんは講演の中で、ジャングルで埋められずに放置された日本兵の遺体に遭遇した時の話に触れ「一緒にいた部下に『先に死んだ方が楽だったですね』といわれた」と語った。もうあきらめようかとも思ったが、弾を使い切るまでは戦い続けようと決意したという。「やってみなきゃ分からないのが人類。初めからすべてが分かったら、だれも苦労しない。分からないからこそ苦労がある。苦労を乗り切れるかどうかは、自分の意思の強さと健康にかかっている」と、挑戦する姿勢の大事さを強調した。
(写真:会場のかごしま県民交流センター)

小野田さんが活動を始めるきっかけとなった金属バット事件から既に27年が経ち、当時子どもだった世代が親になっている。「給食費を払わずに自分は外車に乗ったり、学芸会で自分の子どもが主役じゃないと文句をいうなど、自己中心的な親が増えている」と小野田さん。小野田自然塾では、当初は子どものみを対象とし親の見学も認めていなかったが、時代の変化を受け、親子一緒に参加するキャンプを行うようになった。2006年からは、日本財団の助成を受け、体験活動のための指導者養成も行っている。

小野田さんは最後に「今の親に一番伝えたいことは、学校に全て任せるのではなく、親が責任をもって子どもを育ててほしいということだ」と注文。さらに「生んだ親が子どものことを一番良く知っている。学校は印刷物と同じで、紙も大きさも一緒にどんどん印刷してくれる。でも子どもは一人ひとり違う。それを一番知っているのは親なんです。親が変われば子も変わる。子どもが社会に立派に通用する人間にするのは自分の責任だということをよく自覚していただきたい」と、締めくくった。(写真:熱心に小野田さんの話に耳を傾ける聴衆)
 
前日に86歳の誕生日を迎えたばかりという小野田さん。3月29日には、名古屋でも講演会の開催が予定されている。自身の貴重な経験を次世代へバトンタッチするための活動は、現在も続いている。

※「生きる ―親が変われば子も変わる―」の動画はコチラ(5:56秒)

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ブックマークに追加する Posted by 日本財団 広報チーム at 09:36 | 文化・教育・社会問題 | この記事のURL | コメント(0)
芸術家の身体ケアセミナー開催 俳優ら87人が参加 [2008年03月25日(Tue)]


身体ケアセミナーのフェルデンクライス

芸術家にとって、体の自己管理は重要だ。舞踊や演劇はもとより、音楽や伝統芸能でも、イメージどおりの表現をするには身体コントロールが欠かせない。しかし、芸術家の身体ケアの重要性は、日本では充分に認識されていないのが現状だ。こうした芸術家の身体ケアについて啓発し実践を促すため、東京・新宿にある「芸能花伝舎」で、8日、「芸術家のくすり箱 第3回ヘルスケアセミナー」が開かれた。

主催した(特)芸術家のくすり箱は、芸術家のヘルスケア支援を目的に設立された国内初の団体。理事長の慶應義塾大学アート・センター副所長・美山良夫教授をはじめ、身体調整法や医学、公益・メセナ活動の専門家らが、芸術家の体づくりと健康管理を支えるために活動している。この日の参加者は、ダンサー、俳優、伝統芸能実演家など87人。会場の「芸能花伝舎」は廃校になった小学校を改修したもので、教室や体育館が現在は稽古場やスタジオとして使われている。この改修事業も支援した日本財団は、今回のセミナーにも協力している。(写真:美山理事長と横山理事)

セミナーでは、複数の「教室」を併用し、体づくりのワークショップや講義、健康診断などを半日以上にわたって同時開催。3年目となった今回は、啓発から一歩進んでジャンルごとの推奨メニューも設定、参加者はそれぞれの分野と興味に応じてメニューを選んだ。今回紹介されたのは、部位を特化したストレッチやピラティス(正確な動きにより心と身体を調和させる調整法)、体や骨格の動きを感じながら身体能力を引き出すフェルデンクライス、応急処置、テーピングなど。参加者からは、「囃子方は膝や肩を痛めやすいが、塗り薬などで対処する程度。こういう(ストレッチ方法などの)情報は全くないので、今回のワークショップはよかった」(長唄協会囃子笛方、福原百七氏)「仲間にも伝えたいと思って参加した。年に1回と言わず回数を増やし、今後も続けてほしい」(振付家、不動まゆう氏)など、身体ケアの必要性や重要性を感じ取ったことを示す言葉が聞かれた。(写真:参加者同士が協力してストレッチ)

実践者であると同時に、教える立場として教室や弟子を持つ芸術家も多い。しかし、本人も弟子も体の使い方を知らないために無理をして故障を招き、キャリアを断たれることも少なくない。ケアを提供する側も、スポーツ医学という分野はあるが、芸術医学という分野は確立されていない。充分な身体ケアの知識を身に付け実践することが、プロの芸術家だけでなくあらゆる芸術活動に携わる人にとって当たり前になることを、芸術家のくすり箱は目指している。「芸術の土台を支えたい」(美山理事長)。華やかな舞台を地道な身体ケアが支えるように、見えないところで芸術を支える活動が始まっている。(写真:ストレッチに取り組む参加者)
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社会復帰へ「貸し画廊」経営 いわき「チャオ」の挑戦 [2008年03月24日(Mon)]


作業所でメール便の袋詰めに取り組む「チャオ」のメンバー

障害があっても地域の中で働き、暮らしていく「ノーマライゼーション」の理念が広がりつつあるが、それをサポートする支援組織の悩みは人手と資金の確保だ。なかでも「資金」は公的支援に加え、独自の事業で収益を上げることが就労支援にもつながり、組織としての知恵の出しどころ。さまざまな試みがみられる中で、「画廊経営」というユニークなジャンルに挑戦しようとしているグループが福島県いわき市にある。

いわき市常磐湯本町のJR湯本駅近くで共同作業所を運営している「地域活動支援センター・チャオ」は、精神障害者の生活や就労を支援する作業所だ。「チャオ」は10年の活動歴を持つNPO法人で、グループホームなどから通ってくる15人余のメンバーが、メール便の袋詰め作業や配達に携わっている。作業所を銀行などが近い市中に確保しているのも、こうした仕事の利便性を考えてで、扱い量は確実に増加している。

また郊外の農場を借り、シシトウ栽培を手がけている。5月から10月のシーズン中は、ビニールハウスでの植え付けから収穫、出荷まで、ボランティアの協力を得ながら畑仕事に汗を流す。6月には最初の収穫が始まり、「遠野シシトウ」のブランドで出荷する。今年で5年目となるシシトウ栽培は、メンバーの屋外活動としても好評だ。

これらの事業を切り盛りする理事長の山田肇さんはアイデアマン。メール便やシシトウ栽培のほかにもリサイクル品をネット・オークションに出品、作業所の貴重な運営費を確保している。市内の廃品回収業者の協力で、そこに集まった「捨てられた家具」などをみんなで磨き上げ、きちんと使えるようにしてオークションにかけるのだ。保管用の倉庫と発送作業が必要となるが、インターネットによる販売だから低コストで効率がいいという。(写真:郊外の澄んだ空気の中で改装が進む「画廊」と山田理事長)

新事業としてグループが乗り出そうとしているのが「画廊」経営だ。いわき市郊外の小川町に、450平米の土地と木造平屋建て170平米の民家を借り受け、個展やグループ展に展示施設を提供しようという、スペース貸しを目指す「貸し画廊」の試みだ。築14年の住宅を、日本財団の助成を受けて作品展示室3、実技室1、休憩室1などに改装中だ。今年夏には第1回の展示会を開催する計画で、プロによる版画教室も開催していく。(写真:民家のリビングを作品展示室に衣替え)

山田さんが「貸し画廊経営」を考えたのは、いわき市の土地柄がヒントになった。「いわき市は、市民運動で立派な市立美術館が建設されたほどの絵の愛好者が多いところで、作品発表のための会場を探している人が多い」というのだ。だから展示スペースを提供すれば、その受付や案内発送など、メンバーが市民と触れ合いながらできる仕事が増えると考えた。こうした事業収入で利用費を抑え、収入をアップして社会復帰に繋げたいのだ。(写真:庭からの採光も十分な展示室)

建設地は市街から車で20分ほどの郊外だが、市民の行楽地である二ッ箭山の麓にあってハイキングコースの入口。ハイカー用の広い駐車場が隣接しており、行楽の行き帰りに立ち寄る人も期待できそうだ。アイデアマンの山田さんは「個展の作者の協力で、展示作品をネット・オークションに出品できないか」などと、早くも「戦略」を練っている。(写真:温泉街の一角に作業所を持つ「チャオ」)
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水面のスターめざし 選手、審判員ら「やまと競艇学校」で卒業式 [2008年03月21日(Fri)]


卒業式で、卒業生を握手で送る蔭山会長

競艇選手を養成する全国唯一の機関である「やまと競艇学校」(福岡県柳川市大和町)で19日、第102期選手、第71期審判員・第72期検査員の卒業式が行われた。卒業したのは選手が男子24人、女子6人の30人で、審判員・検査員は7人(うち女子1人)。卒業により各養成員は待望の資格登録を受け、5月にはプロデビューを果たす。

卒業生のうち選手は18歳から21歳。全国からプロを目指して同校の養成員となり、この1年間、全寮生活を送って操縦や整備、法令など、それぞれのコースで競艇に関する基礎から応用、実践までを学んできた。卒業式は後輩の103期生らが歯切れよく式の進行に務め、全国から駆けつけた父母や来賓とともに卒業生の門出を祝った。(写真:1年間の寮生活を経て、たくましく巣立つ卒業生たち)

同校はモーターボート競走法に基づき、社団法人・全国モーターボート競走会連合会が運営に当たっており、卒業式では蔭山幸夫連合会会長が一人一人に卒業証書を手渡し、「君たちは明日からプロの厳しい世界を実感するだろう。しかしここで学んだ基本を忘れず、自己を磨いていって欲しい」と訓示した。(写真:参列した父母も感無量)

卒業式に先立ち行われた卒業記念競走は、同校の第1競走水面で行われ、雨天の中で熱戦が展開された。優勝は埼玉県出身の島田賢人養成員が飾り、表彰式で「この1年間は生涯、忘れることがないと思います。同期の仲間にありがとうと言いたい」と感激を語った。(写真:雨天の中で熱戦を展開した卒業記念競走)

102期生は例年以上にまとまりのよさが目立ったといい、卒業式に列席した最年少卒業生・上條嘉嗣養成員の母親は「ここでの1年間は、息子にとって本当に良い経験になったと感謝しています」と語っていた。(写真:記念競走の表彰式で、喜びを爆発させる卒業選手たち)

競艇の選手養成は1951年に大村競艇場で始まり、多くの逸材を輩出してきた。「やまと競艇学校」は、有明海に臨む約40万平米の敷地に2001年に開校した。学校施設、養成員の生活施設のほか、総水量36万立方メートルの「競走水面」2面と水処理施設を備えており、競艇に関するあらゆる教育・訓練が行えるよう、整備されている。

現役の競艇選手は約1500人で、全国24カ所の競艇場を舞台に活躍している。平均年収は約2000万円で、高額の年間賞金を獲得する選手もいる。「やまと競艇学校」の選手養成員は、中学卒業以上21歳までの男女が対象で、年2回募集される。4月4日には第104期の入学式が行われ、36人が新たに寮生活を開始する予定だ。現在「第105期選手養成員」の募集が行われている。
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ママさんたちが初の定期演奏会 神戸のマミーズブラス [2008年03月19日(Wed)]


マミーズプラスの定期演奏会

1995年1月17日の阪神・淡路大震災後に、子育て支援の活動の一環として「子どものための演奏会」を続けてきたNPO「IMMC」(石野靖弘理事長)が結成した母親たちのブラスバンド「マミーズブラス」が3月9日、神戸市内で一般向けの初めての定期演奏会を行った。「もう一度音楽をやりたい」という夢がかなった母親たちは、息の合った堂々としたブラスバンドの響きを披露、詰め掛けた約600人の聴衆からは大きな拍手が送られた。
(写真:石野理事長は写真撮影を担当)

石野さんは音楽大学で打楽器を専攻したが、学生時代のアルバイトである写真の道に進み、神戸市内で写真店を経営している。震災後、感受性の強い子どもたちに音楽を聞かせようと「子どものためのコンサート」を企画、以来年6回のペースでクラッシクを中心に親子で楽しめる演奏会を開いてきた。06年にはNPOの法人となり、活動の幅を広げている。こうした演奏会を通じて、学生時代に楽器に触れたことがある母親たちから「音楽をやりたいが、子育てのために余裕がない」という声を聞いた石野さんは、保育士の協力を得て、神戸市中央区の「北野工房のまち」(昭和6年に建てられた旧北野小学校の校舎を利用した建物)などを利用して、母親たちの吹奏楽のマミーズブラスを結成した。(写真:演奏開始前に記念写真の撮影)

呼び掛けに対し、70人を超える団員が集まり、毎週木曜日の午前中に2時間半の練習を行い、年間で48回を数えた。子どもたちは保育士に面倒を見てもらい、母親たちは元大阪フィルハーモニー交響楽団トランペット奏者の吉田治人さんの指導で懸命に練習を続けた。
日本財団の支援で開いた初の定期演奏会には、臨月近い打楽器担当など60人を超えるメンバーが参加、吉田さんの解説と指揮で「サウンドオブミュージック」など、11曲を演奏した。

     
    
  
         
真剣な表情での演奏           紙やすりを使った楽曲なども紹介

会場には幼児からお年寄りまでが集まり、楽器を持った母親が控え室から姿を見せると「お母さーん」や「がんばれー」といった声援が飛んだ。第1部では正装で演奏したメンバーは第2部ではおそろいのピンクのTシャツとGパン姿で登場、演奏に合わせて飛び跳ねる幼児もおり、会場はなごやかな雰囲気に包まれた。演奏会が終わると、ブラスの1人が「私たちの活動はまだ始まったばかりです。サポーターになってください」と会場に呼び掛けた。ホルンを担当し、メンバーによるコーラスの際感極まって涙を流したという杉本美穂さん(32)は「子どもの体調が悪いと練習に出られないメンバーもおり、その人をみんなで気遣った。思いやりの大事さを学びました」と話していた。
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心と心の通じ合いが大事 ホスピスナース研修会 [2008年03月18日(Tue)]


ホスピスナース研修会の会場

医療分野で大きな位置を占めつつあるホスピス緩和ケアを支える看護師や在宅患者を担当する訪問看護師94人が参加して、3月6、7の両日、東京都港区の日本財団ビルで「第7回日本財団ホスピスナース研修会」が開かれた。1日目の6日には東京・山谷地区で在宅型のホスピス「きぼうのいえ」を運営する山谷・すみだリバーサイド支援機構の山本雅基代表理事がこれまでの取り組みについて講演をした。

きぼうのいえは、マザー・テレサがインドで運営した「死を待つ人の家」日本版として、身寄りがない末期がん、白血病、HIV(エイズ)患者らに残された時間を有意義に過ごしてもらおうと2002年10月にオープンした。入所者の多くが路上生活(ホームレス)経験者で、入所者の生活保護費と寄付金で運営している。山本さんが講演の中で示した「看取りの16例」では、病院からここに移って2日で亡くなった人が2人おり、最長の人は551日を過ごした。平均では半年で亡くなっているという。(写真:きぼうのいえ)

入所者の中には、バブル期6000万円の月収があり、ベンツ3台を乗り回し、クルーザー2隻を持っていたのに、バブルの崩壊ですべてを失ったうえ脳梗塞を発症、よだれを流し続ける状態の男性もいる。この人はリハビリから帰ってきて、職員に「よく帰ってきたね」と声を掛けられると、うれし涙を流すという。山本さんはこのようなケースから、「ここでは言葉のケアによって、入所者の存在そのものを肯定し、心と心の通じ合いが大事なのだ」と話した。

入所者は飲酒、喫煙ができ、外出も自由。夏には施設の前で花火大会も催す。終末期には専門家がボランティアとして訪れ、患者の枕元でハープの生演奏をするという。施設内にはカトリックの礼拝堂があるが、山本さんはどんな宗教でもいのちを前にして目指すところは一つとして、「宗教的多様性がきぼうのいえの特徴だ」と語っている。さらに近くに機動力のある訪問看護ステーションがあり、「ドクターが看取りについてよく知識を持っていれば、在宅ホスピスは運営がやりやすい」と語った。
(写真:講演するきぼうのいえの山本さん)

山本さんは施設のこれまでの体験を通じて「ホスピスは死を避けるのではなく、ともに死を見つめることを通して豊かな生の在り方を体感する場になるはず」と、指摘している。

研修会は山本さんの講演のほか、1日目はグループワーク「私、ホスピス緩和ケア、人生」が、2日目は癌研究会有明病院緩和ケア科部長の向山雄人医師の「癌緩和ケア最前線」と題する講演と参加者のディスカッション「ホスピス緩和ケアと看護」が行われた。(I)
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ブックマークに追加する Posted by 日本財団 広報チーム at 09:53 | 福祉・医療 | この記事のURL | コメント(0)
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