比残留日系2世を激励 早期の日本国籍取得を熱望 [2007年12月03日(Mon)]
フィリピン・ダバオ市内の様子 戦後、フィリピンに残された日系2世の日本国籍取得を支援する日本財団の笹川陽平会長は11月25日、ダバオ市郊外に住む日系2世2人を訪問・激励した。日本人を父に生まれながら敗戦の混乱で日本国籍を取得できない「フィリピン残留2世」は戦後60年を経て老境を迎え、「生あるうちに日本人と認めてほしい」と訴えている。 訪問したのはダバオ市カリナン地区に住む「シナバラ ヒロコ」さん=フィリピン名フランシスカ・マラビリャス(76)=と「サカガワ トミコ」さん=同イレニア・オンゲイ(推定71)=。本人や2世を支援する「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(東京)によると、ヒロコさんは1931年、ダバオ市トリルで日本人男性とフィリピン人女性の長女として生まれた。。(写真:シナバラ ヒロコさん(左)とユスタキオさん) 7歳の時に父親が病死、母親も終戦後、子供を連れて山中を逃げ回るうち死亡し、写真など父親の身元を知る手掛かりを失った。残されたヒロコさんには父親が「バラさん」と呼ばれていた記憶しかなかったが、最近、ヒロコさんの洗礼証明書が教会で見つかり、父親の欄に「長崎出身のシナバー シナイス」の記載があることが分かった。 結婚歴はあるものの子どもはなく、3人いた弟も既に2人亡くなり、現在は近所に住む末弟のユスタキオさん(70)一家と暮らす。「日本人であることを隠すためフィリピン名を使ってきたが、父が日本人だから私も日本人とずっと思ってきた。早く日本戸籍がほしい」と言葉少なに語った。 一方、サカガワ トミコさんは1936年、5人兄弟の長女として大工をしていた日本人の父「サカガワ ミツヒロ」とバゴボ族の母の間に生まれた。ミツヒロさんは徴用で飛行場建設に従事していた戦中、米軍の爆撃で死亡。トミコさんは19歳で現地の男性と結婚し、8人の子宝に恵まれ、現在も多数の孫やひ孫に囲まれて暮らす。名前も日本語で書け、トミコさんが日本人の子であることを裏付ける知人ら複数の証言もある。。(写真:サカガワトミコさん) 父系主義を採った当時の戸籍法から2人が「日本人」であることは間違いないが、父親の戸籍の所在が未判明の現状で日本国籍を取得するのは難しい。このため新たに戸籍を作って日本国籍を取得する就籍の申し立てが進められており、10月、父親の身元が分からない2世2人が初めて東京家裁で就籍を認める審判を受けた。リーガルサポートセンターによると、トミコさん(8月申し立て)ら53人が現在、審判待ちとなっているほか、年内にさらに20人が同様の申し立てを行う予定だ。 (英文記事はコチラ) |