社会が人権意識を高めて! 大谷藤郎さんに聞く [2009年02月25日(Wed)]
現在84歳の大谷藤郎さん ハンセン病患者の強制隔離を定めた「らい予防法」の廃止に寄与した国立ハンセン病資料館名誉館長で元国際医療福祉大学総長の大谷藤郎さんは、ハンセン病問題を解決するには社会全体の人権意識を高めることが必要だと指摘する。3月で85歳という高齢ながら笹川記念保健協力財団の理事としてもハンセン病問題について助言を続けている大谷さんは、生きる上で大きな影響を受けた恩師について執筆するなど、多忙な日々を送っている。以下、大谷さんに人生の一部を振り返ってもらった。 |
―ハンセン病問題について 日本のハンセン病問題は解決したといっても、まだ社会的な差別解消とかやるべきことは多い。もう一つは、精神障害や難病の人々など社会的、経済的に被害を受けている人のことを社会全体で考えないといけない。社会全体が人権について考え直す必要がある。このままでは平等な社会とはいえない。(大谷さんの信念は「人間はみな平等であり、健常者も障害を持つ人も互いに人間として尊重しあう共に生きる社会を目指す」ことだという)
―生きる上で支えになったことは 京大在学中に「らいは恐ろしい伝染病ではないと」いう信念でハンセン病の患者を大事にした小笠原登先生と出会ったことだ。先生は僧侶で兄の哲学者の秀実先生もすごい人だった。登先生との出会いが支えになり、何をやっていても「先生ならどう思うか」と考えた。在学中に結核になり、滋賀県の実家で2、3年寝たきりの生活を送り、生きる希望を失った。ストレプトマイシンがない時代だった。厚生省(現在の厚生労働省)に入ってからは結核体験を隠していたが、課長時代にある難病団体との交渉の席で初めて自分も元結核患者だと話した。大声で抗議していた団体の人たちが急に静かになったことを覚えている。医者は優しさが必要だ。私は結核を経験してそれを痛感した。(小笠原博士らの思い出について、現在執筆中だ) ―団塊の世代の人々など、人生の後輩へのアドバイスは 働ける限り働くことが大事だと言いたい。病気になってまで働けとは言わないが、私は結核をやりさらにがんにもかかってもくじけずに働いた。振り返ると、がんセンターに通いながら国際医療福祉大学や高松宮記念ハンセン病資料館の仕事を続けた。激務だったと思う。周囲からはいい加減に休んだらといわれたが、自分の限界は分かるのでやることができた。大事なことは、社会のために恩返しをして役立つことだと思う。 ―急激に進行する高齢化社会の社会福祉のあり方について 高福祉・高負担の北欧方式で行かざるを得ないと思う。かつて北欧に半年留学し、帰国後北欧の社会福祉を賞賛したら袋だたきにあったことがある。しかし、中福祉・中負担では中途半端でうまく行かない。日本を救うためには、国民の暮らしを質素にしても高福祉・高負担を実現すべきだ。消費税の引き上げは難しいが、政治家は国民が納得するよう話をしてほしい。 ―歩んだ道の思い出は 大学を出た後、保健所でアルバイトをしていた。その時の上司が中央に行って揉んでもらって来いと、厚生省に入ることを勧めてくれた。ハンセン病を専門にやろうと思っていたが、医療を国や社会が大事にしないといけない、日本の医療をよくしようと思い、自信がないまま厚生省に入ったのは35歳の時だった。私よりも若い人が上にいてショックを受けた。結核によって、人生では10年近いブランクがあったが、この間に医学以外の哲学書や宗教書を読み、ラジオでクラシック音楽を聞いたことが教養を高めることになり、あとで考えればよかったのだと思う。(趣味は絵を描くことであり、、著書は「現代のスティグマ ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難=頸草書房=など多数」 大谷さん略歴 1924年滋賀県生まれ、京大医学部卒。滋賀県内の保健所や京都府衛生部勤務後、旧厚生省に入り、医系技官トップの医務局長で83年に退官。退官後「らいは治る。患者を隔離しておくらい予防法は人権侵害であり、廃止すべきだ」と訴え続け、1996年に「らい予防法」が廃止された。その後提訴された熊本地裁のハンセン病国家賠償請求訴訟でも証人として出廷し「らい予防法は人権侵害」と証言した。裁判は原告が勝し、当時の小泉首相が控訴を断念した。国際医療福祉大学総長や高松宮記念ハンセン病資料館館長などを歴任した。93年に社会医学・公衆衛生分野で功績があったとしてWHOレオン・ベルナール賞を受賞した。(石井克則) |