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最終便の船長と乗客が再会 青函連絡船就航百周年イベント [2008年03月12日(Wed)]


再会した西尾さんと鈴木船長

本州と北海道を結ぶ大動脈として活躍した青函連絡船が80年の歴史にピリオドを打ったのは20年前の1988年(昭和63年)3月13日。さらにことしは初就航(1908年3月7日)からちょうど百周年となるため、今月7日には東京の「船の科学館」を中心にかつての青函連絡船を使って「汽笛一斉吹鳴」など、さまざまな記念イベントが行われた。船の科学館は連絡船の最終便となった羊蹄丸を係留保存船として一般公開しており、この日は羊蹄丸の元船長や乗客が集まり、連絡船の思い出に浸っていた。(写真:船の科学館に係留されている羊蹄丸)

青函連絡船として最後の上り便(函館−青森)となったのが、午後5時発の羊蹄丸だった。これに乗り込もうと、当時大学2年生だった会社員の西尾徹さん(40)は東京から駈け付け段ボールを持ち込み、3月9日から函館港の桟橋に並んだ。先頭の西尾さんに続いて、次々に10代−20代の若者を中心に列ができ、寒さに震えながら最後の出港を待った。乗船した西尾さんの提案で、列に並んだ乗客たちが大学ノートにそれぞれの連絡船への思いを綴り、船員を通じて鈴木繁船長(72)に贈った。
(写真:鈴木さんを囲む羊蹄丸の乗客たち)

鈴木さんは、青函連絡船廃止後も船舶関係の仕事を続け、現在は北海道恵庭市に住んでいる。ノートには「最後の航海を忘れません」「よい思い出をありがとう」など、連絡船を愛する人たちの心情が記されており、久しぶりに羊蹄丸と再会した鈴木さんは「何度か引っ越したが、その度にノートを読んで感激していた」と話してくれた。ノートは昨年、船の科学館に寄贈され、住所が書いてあった60人に今回の催しの連絡をしたところ、40人から返事があり、西尾さんら12人が出席した。鈴木さんと会った西尾さんは「連絡船の魅力に取りつかれ、写真を撮ろうと5、60回乗りました。懐かしい仲間とも再会でき感激しています」と話し、涙を流していた。

       
   


羊蹄丸の模擬出入港を演じるかつての乗組員たち

この日は最初の連絡船比羅夫丸が青森を出港した午前10時に合わせて、羊蹄丸に加え八甲田丸(青森)、摩周丸(函館)の3隻が各係留地で「どら」を鳴らし、汽笛の一斉吹鳴をした。さらに、午前11時半からは、鈴木さんやかつての乗組員が協力して、羊蹄丸内で函館出港と青森入港時の船長と操舵手、航海士とのやりとりを再現する「模擬出入港」も披露した。

船の科学館では、3月1日から30日まで羊蹄丸内エトランスで「写真と映像で綴る青函連絡船の歴史展」を開催中だ。


*羊蹄丸の記念イベントはコチラからご覧になれます

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Posted by 日本財団 広報チーム at 10:28 | 海と船 | この記事のURL | コメント(0)
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