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悲しみを乗り越えて 福岡・三丁目の花やの平野さん [2013年04月26日(Fri)]

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大邸宅を利用した在宅ケア施設

福岡市西区の住宅街にある邸宅に、高齢者が日々集まってくる。NPO緩和ケア支援センターコミュニティ(平野頼子代表)が運営する小規模多機能型居宅介護施設「三丁目の花や」だ。認知症や末期がんの高齢者が、自分が生活してきた街で最期まで安心して暮らすことができるよう願って活動する同NPOは、発足以来7年となり、運営する施設も5つになった。
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身内の悲劇を乗り越えて活動する平野さん

代表の平野さんは福岡県出身で、福岡市で看護師になり、同市内の赤十字病院や国家公務員共済組合連合会・浜の町病院などに勤務した。平野さんがターミナルケア(終末期医療)を強く意識したのは、兵庫県に住んでいた新婚の弟ががんのため33歳の若さで亡くなったことだ。最初に行った病院ではがんとは分からず、別の病院で末期の肝臓がんと診断され、余命は3カ月しかなかった。たまたま作家の柳田邦夫さんが新聞にターミナルケアの訪問看護について書いたコラムを読んだ平野さんは、福岡市医師会の訪問看護ステーションの管理者を経て、2006年、NPOを設立する。

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三丁目の花やで過ごす人たち

「ターミナルケアをやりたいという思いは、大きな組織では機能しない」と思ったからだ。最初に開設したのが2006年4月の看護ステーションはなで、「三丁目の花や」は翌5月にオープンした。私たちが暮らす町・コミュニティの意味を込めた名前の施設は、元会社社長の自宅を借りた敷地561平米(170坪)の2階建ての一軒家だ。現在、主に認知症の高齢者ら18人を預かっており、利用者のうち5、6人が泊まりのサービスも受けている。7割が医療機関からの依頼を受けた人たちだ。この施設に対し笹川記念保健協力財団君和田桂子基金からも支援をしている。

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平野さん(左)と管理者の森本剛さん/利用者が作るちぎり絵が評判。JRの駅にも展示されている

昨年、こんなことがあった。ある病院からの依頼で引き受けた70代の末期がんの男性患者が教会での娘の結婚式に車いすで出席、平野さんらも付き添った。病院から派遣された若い主治医は、この男性が弱々しい病院の顔と違って、凛とした父親の顔になっていることに驚いたという。この人は2日後に亡くなったが、平野さんは「これが在宅ケアなのです」と言う。そんな平野さんは弟に次いで34歳の長男を3年前に弟と同じがんで失っている。会社をやめNPOの仕事を手伝い始めた矢先の悲劇だった。いま、長男の妻がその遺志を継いでNPOで働いている。

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玄関わきの前庭の巨大な石。庭にも大きな石がある

「三丁目の花や」の建物は築35年で、現在の建築基準法の防火基準を満たしていないとして福岡県から2017年までに建て替えるよう求められている。施設の一部を地域のサロンとして開放していることもあって、この地域とのつながりを大事にする平野さんは、災害時のシェルター(避難所)的役割を兼ねた建て替え策を考えているという。(石井克則)
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Posted by 日本財団 広報チーム at 09:17 | 福祉・医療 | この記事のURL | コメント(0)
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