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尖閣の記憶をたどって 沖縄の文献資料編纂会が元漁師へのインタビュー [2013年04月22日(Mon)]

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与那嶺さんに話を聞く國吉さん(左)

領有権問題で緊張状態が続く尖閣諸島周辺で漁業に従事したことがある沖縄県那覇市の与那嶺三郎さんは、現在89歳。現役は引退したが、緯度と経度を聞けば息子たちが操業する漁船がどこにいるか、ピタリと当てることができるという根っからの海の男だ。そんな与那嶺さんら尖閣諸島で漁をした人たちを、尖閣諸島に関する資料の発掘と整理保存をしている那覇市の尖閣諸島問題文献資料編纂会事務局長の國吉眞古さんらが、いまインタビューし、記録としてまとめている。当時の実情を聞き書きし、次世代へその記録を継承するのが目的だ。
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尖閣の漁業問題を調査する國吉さん

國吉さんは、高校の教諭や民間会社勤務のあと、2006年に文献資料編纂会を設立、息子のまこもさんらの協力で尖閣問題の資料を集め、日本財団の支援で2011年に調査報告書「尖閣研究」をまとめた。引き続き文献資料編纂会が取り組んでいるのが与那嶺さんら尖閣諸島周辺で漁をした人たち40−50人を対象としたヒアリング調査だ。このうち与那嶺さんは1925年(大正14)に那覇市垣花で生まれた。父親が漁業に従事していたため漁師になり、15、6歳の少年のとき(戦前)に「飯炊き」(炊事係)として兄たちと一緒の漁船に乗り組んで初めて尖閣諸島に行った。一航海10日くらいかかった。当時の漁法はイシマチャー(石巻き落とし漁)といわれる一本釣りで、その後、ヤマギタと呼ぶ針を10本近く付ける漁法になり、シチューマチ(アオダイ)やアカマチ(ハマダイ・オナガ)などの漁獲量も上がった。与那嶺さんは、このヤマギタを自作したという。大シケで垣花の船が4、5隻一緒に魚釣島の島影に避難し、当時は、垣花の船しか来ていなかったことを覚えている。

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ヤマギタで大漁の与那嶺さん(現役時代)/貴重な写真を保存したスクラップ

47歳で独立。底立てはえ縄漁をするため本土復帰後、自分の船で尖閣周辺に行くと、周辺は200−300隻の中国船で埋め尽くされ、怖くて漁はできず、周辺での漁は断念したこともある。台湾船もおり、みんな「ワッタームンドヤル(俺たちの島だ)といい、ナー、ガーハティ(もう我を張って)あれはおかしいよ」と与那嶺さん。その後南沙諸島などのマグロ漁に切り替え80歳近くまで働いたが、現在は与那嶺さんの長男と次男がそれを引き継ぎ、宮城県気仙沼に水揚げをしているという。

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ヤマギタを持つ与那嶺さん

國吉さんらの今回の聞き取り調査の元尖閣漁師の最高齢は91歳。1955年3月、尖閣諸島海域で操業中に沖縄の漁船が国籍不明の2隻のジャンク船に襲撃され、2人が射殺され、4人が行方不明になった事件の関係者だという。國吉さんによると、尖閣で漁をした人たちは高齢化しており、沖縄本島のほか宮古や八重山に分散している。「何で早く来なかったのかといわれ、インタビューを断られた人もいる」という。そんな中で、國吉さんらは粘り強く通い、記憶をたどってもらう作業を続けている。(石井克則)
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Posted by 日本財団 広報チーム at 09:17 | 海と船 | この記事のURL | コメント(0)
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