日本人の証を求めて 就籍に望み託す4人 [2007年05月23日(Wed)]
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フィリピン残留2世の国籍取得に向けて5月19日、マニラで開催された日系人大会に関連して、大会を支援する日本財団の尾形武寿理事長ら一行は、就籍による戸籍回復に最後の望みを託す残留2世をダバオに訪ねた。終戦後、厳しい反日感情の中で日本人の子であることを隠して生きてきた2世の生活は苦しく、深く刻まれたしわが戦後60年の苦難の歳月を示している。
![]() ダバオの日系人会館 ダバオはマニラから飛行機で約1時間半、フィリピン南部ミンダナオ島にある。戦前、東南アジア最大、2万人を超す日本人街が形成されたこの街には、「リトル東京」と呼ばれる地区もあり、日本人経営の商店や病院、寺院や病院が立ち並び、日本語の新聞(ダバオ日日新聞)まで発行されていた。 1980年代になって日系人会館などが建設され会員も5500人まで増加、戦争で崩壊した日系人社会が再興されつつある。企業の一線を退いた日本のシニア世代の長期滞在先としても注目され始めており、日本国籍が取得できないまま戦争の後遺症を引きずる残留2世の苦しい生活が余計、際立つ形となっている。 |
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一行は昨年、日本戸籍を取得した井手端早苗さん(78)と今後、就籍による戸籍回復―国籍取得を予定している4人の自宅を順次、訪問した。最初に訪れた井手端早苗さんはダバオ市トリル町に住む。やしの木に囲まれた自宅では中国人の夫と菓子屋を経営、すぐ隣には昨年2月、早苗さんとともに東京家裁から就籍許可の審判を受けた姉の和子さん(83)も住む。広島出身の父、仁市さんは戦前、ダバオに移住しアバカ(麻)農園を経営、フィリピン女性と結婚し、姉妹が生まれた後、病気治療のため日本に帰国し、以後、音信が途絶えた。
その後の調査で帰国後に再婚、終戦後死亡していたことが判明し、2人は就籍の形で新たに戸籍を取得した。早苗さんは戦後、抗日ゲリラの報復を恐れ2年近く山中で暮らした苦しい思い出を語った後、「日本人と認められたことで子や孫が日本で働けるようになった。13人の孫のうち5人が現在、日本で働き、仕送りもしてくれる」と喜びを語った。 ![]() 井手端さん宅から歩いて2、3分。両親は1936年に結婚、大工をしていた父は戦争中、ドモイ空港の滑走路建設に従事し終戦と同時にダリアオンの強制収容所に収容された。たまたま帰宅し、収容所に戻る途中、ゲリラに殺害された。大工道具のほか、マサエさんの出生証明書や日本人であることを示す資料も盗難に遭い、母も亡くなった現在、父に関しては苗字しか分からず、出身地も不明という。現在は7人の子どもの援助で生活する。 「戦争がなかったら父と一緒に日本にも行けたと思う。生きているうちに日本人と認めてほしい」。鍋などわずかな調度が並ぶ高床式の自宅で言葉少なに語った。 ![]() 父親の「ミツヒロ」さんは、やはり大工をしていたが、飛行場建設の仕事に従事していた時、米軍の爆撃で死亡、兄弟も戦争中に亡くなった。引越しを重ねるうち、大切に持っていた父親の写真も失くしたという。「ヤイタ、ヤマグチ・・」と小学校時代の友人の名を指折り数え、孫たちが取り囲む中、カタカナで自分の名前を書いてくれた。現在は3男夫婦と同居。三男の妻エストレリアさんは「日本にはたくさんの仕事もある」とトミコさんの就籍に望みを託している。 ![]() 父「ヨシロ」さんは戦前、ダバオ市にあった「古川会社木材製剤所」で運搬機械の操作を担当。1942年ごろ、夜中に自宅に押し入った3人のフィリピン兵に家族の目の前で殺害された。姉は1958年に死亡したが、ヒロシさん、ミサミさんの2人の弟がダバオに健在で、「3人一緒に就籍の申し立てをしたい」としている。 ![]() 両親は1941年、ダバオ州のカラガで結婚したが、フィデラさんが生まれて間もなく、他の日本人とダバオの町に出掛けたまま帰らず、フィデラさんは10歳の時、母から初めて父が日本人と知らされた。その母も間もなく死亡し、兄弟はない。子どもは7人いるが、うち5人とは音信もないという。次男夫婦と暮らす自宅は町から遠く離れた一軒家で電気もなし。就籍手続きへの思いを聞くと「日本人と認められればうれしいが、日本に行く気はない」と語った。 |














