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輝くスリランカの人たちとの交流 干物づくり指導3年の村上さん [2010年09月22日(Wed)]


現地で主婦たちを指導する村上さん

「これまでの人生で比重が大きいのは中国の長春で送った子ども時代、世界の海を航海した船乗り時代、スリランカのボランティア生活の3つです」。技能ボランティア海外派遣協会(NISVA)からスリランカに派遣され、延べ3年にわたって干物やカツオ節づくりを指導してきた横浜市の村上清一郎さん(74)が、8月に帰国した。村上さんにとってスリランカの人たちとの交流は、自分史の中でひと際輝くダイヤのような存在なのだ。
村上さんは香川県丸亀市で生まれた。父親は電力会社に勤務していたが、軍隊に召集されて旧満州の部隊に配属になり、家族は村上さんが4歳のころ旧満州の新京(現在の長春)に移り住んだ。村上さんは6人きょうだいの長男で、小学校2年生のとき終戦を迎えた。父親は新京からチチハルの部隊に転籍になっていたが、侵攻してきたソ連軍に連行され、ハルビンからシベリヤに向かう列車に乗せられた。この列車から脱走した父親は中国人を装って新京まで逃避行を続け、1945年10月ごろ家族のもとに戻ってきた。

干物を前にスリランカの思い出を語る

しかし体力を使い果たした父親は以前かかったアメーバー赤痢が再発、苦しみながら亡くなった。村上さんは母親を手伝い、家の裏に穴を掘り、父親を埋葬した。旧満州にはこの時代に中国残留日本人孤児として肉親と離れ離れになった人たちが取り残されており、村上さんも中国人の家庭に売られていく子どもたちの姿を忘れることができない。母親と幼馴染だった俳優の故森繁久彌さん(当時は放送局のアナウンサー)が家に遊びにきたことも覚えている。

手がけた真空パックの干物

父親を失った一家はそれから苦労を重ねて飢えをしのぎ、終戦から1年後に帰国した。母親は丸亀で学校の教師をして、子どもたちを育ててくれた。そんな母親を見て、村上さんは少しでも早く母を楽にさせたいと船乗りを目指し、通信士になった。「海によって家族の生活が守られ、自分も育てられた」との思いから、定年後も海に関係する仕事をした後、船乗り時代に習得した干物づくりの技術を生かしてスリランカでのボランティア活動に飛び込んだ。その結果、2006年9月以降一時帰国を挟んで滞在期間は延べ3年に及び、現地指導も南部のタンゴール、コロンボに近い港町ネゴンボ、北部のトリンコマリー、バチカロアと4つの町に広がった。受講者は漁師の奥さんや娘さんたちだ。

衛生にも気をつけようと教える

途中からカツオ節もという要望があり、現地指導はカツオ節と干物の2本立てになった。研修期間は1グループ(15人)2週間で、受講者は累計で約400人になった。家族ぐるみで付き合うほど親しくなった受講者もおり、村上さんは「リタイヤ後の生活で一番満足感があるのはスリランカの生活」と振り返っている。海外でのボランティアの条件として「健康とやる気だ」と断言する村上さんは、今後は町内会の世話などボランティア活動を続け、機会があれば、短期的にスリランカで干物づくりの指導もしたいと考えている。(石井克則)
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Posted by 日本財団 広報チーム at 09:19 | 国際 | この記事のURL | コメント(0)
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