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続 賛否両論 理由2 [2008年09月05日(Fri)]

理由2 トラウマがでてくる。

治療が終わり、病院と無関係な生活をしていると、自分が病気であったこと、病気と関わっていたことを思い出す回数が、年々減ってくると思います。(こどもを亡くされた親御さんはそうではないかもしれませんが)

しかし、医療関係の仕事に就くことによって、思い出す回数が増え、今まで知らなかった情報が入ってきて、余計な心配が増えます。

例えば風邪をひいたときに、風邪のせいで頚部のリンパ節が腫れていても、『もし再発だったらどうしよう、、、』と一瞬頭をよぎります。なんとか理詰めでねじ伏せますが。

また小児がん医療の世界に入ってから1年に3回くらい再発する夢を見るようになりました。
そして3回に1回くらいは、『治療せずに残りの人生を過ごそう』と決断したときに目が覚めます。

病気であったことは忘れてしまいたい記憶ですが、その記憶を絶対に忘れられない環境に身を置くことを、とても他人にはお勧めできません。

s.kusuki
続 賛否両論 理由1 [2008年08月29日(Fri)]

まさみさまの賛否両論 記事に対する私の考えです。

私は小児がんに関わった本人、またはご家族が、医療関係者になることを、基本的には勧めない主義です。反対するわけではないですが。

理由1 悲しい 医療関係者の不謹慎な会話に耐えられない可能性がある。
不謹慎と言ってもいろいろなレベルがあります。本当にひどい会話もあれば、緊張感を和らげるためのちょっとブラックな冗談のレベルまで。
ただ、これも受け取る側の個人差があると思います。

許せない会話の一例です。
緊急で帝王切開があったときのことです。
帝王切開のときは赤ちゃんが生まれてきますので、手術室の気温を上げる必要があります。手術室の看護師が『まだ気温低いやん』と言うと、麻酔科医が『俺、暑いの嫌いやねん』と言ったことがありました。もちろんそんな麻酔科医の発言は無視して気温は上げるのですが、赤ちゃんを助けるぞ!と気合が入っている研修医時代の私には許せませんでした。
ほかにも、たくさんありますが、もちろんここでは書けません。

また許せるレベルというのは、
手術室で、外科医が冗談を言いながら(下品なネタが好きな人も多いです)手術をするのは許されると私は思っています。
人間ですから、何時間も極度の緊張感を保つことはできないですし、執刀医が気分良く手術をできる環境を整える方が、結果的には全ての人にとって利益があると思うので。
ただ、昔『この患者が治るかどうか、賭けよう』と言う会話を、手術中にしていた医師がいましたが、これはもちろん許容範囲を超えています。

いずれにしても、真面目であればあるほど、傷つく可能性があるのではと思ってしまいます。

ちなみに私は、ご存知の通り毒舌系ですので大丈夫です。

s.kusuki
どちらがつらいか [2008年08月22日(Fri)]

自分がガンになることと、自分のこどもがガンになることと、どちらがつらいか。

私は、こどもがガンになるほうが何十倍もつらいと思います。

『代われるものなら代わってあげたい』
『何も悪いことをしていないのに、なぜ、、』
『こどもがつらい状況なのに、泣いてなんかいられない』
『なにもしてやれない』(もちろんそんなことはありません)
『病気にしてごめん』(もちろん、親の責任ではありません)
など、とても受け入れがたい感情が押し寄せてくると思います。

私の親も精神的に強いとは言えないですし、医療関係者ではなく、田舎の人間なので
ただただ医師にお願いするしかなかったと思います。
小児がんの専門の医師ではない、まだまだ若手の医師に頼るしかなかったのです。

父は仕事が終わった後、よくお寿司を持ってきてくれました。
病院の食事をほとんど食べなかった私は喜んでお寿司を食べていました。
2人前をたいらげた時は、父も喜んでいました。
今では化学療法中にお寿司を食べることは禁止ですが、おそらくあの時代は、そのようなことは誰も気にかけていなかったのでしょう。

母は毎日お弁当をつくって、原付バイクで病院に通ってくれました。
無愛想な私の代わりに、看護婦さんの相手をしてくれていました。
そんな母に私は『別に毎日来んでもええよ』などと、冷たい言葉を吐いていました。
外来通院の時はひとりで早朝から病院玄関に並び、待ち時間が少しでも短くなるようにと、診察番号を取りに行ってくれました。

親としては、何か自分に出来ることを少しでもしたかったのだと思います。
自分にできることが、病気を治すことならいいのに、、と思いながら。

こんなにつらいことなのだから、小児がんの治療には、こどものケアだけではなく親のケアも必要です。

だから
『自分のこどもの事なんだから頑張りなさい』
『あなたがしっかりしないでどうするの』なんて気軽に言わないでくださいね。

おもいっきり悲しめる場所と時間、
おもいっきり泣ける場所と時間が絶対に必要です。

s.kusuki

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詳しくはこちら https://blog.canpan.info/kemohouse/archive/341
生い立ち4 [2008年08月21日(Thu)]

メモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモ

昭和63年はバブル景気の絶頂期、そして団塊ジュニア世代のお受験ブームの時代。
私も中学受験戦争に参加し、いわゆる進学校に通っていました。
そんな時代を反映してか、中学受験の国語の問題には「本当の豊かさとは何か」みたいな文章が結構ありました。
「物質的な豊かさ」ではなく「精神的な豊かさ」が大切、という趣旨の受験問題がいくつか出題されていました。
しかし現実は、NTT株やゴルフの会員権や土地の値段が高騰し、財テクでいかに要領よく儲けるかが注目され、
中学生だった私たちも、いかに他人より要領よく、よい成績をとるかということが一番の価値観になっていました。

歌謡界ではローラースケートをはいて口パクで歌っていた光GENJIが大人気でした。
一方で長渕剛さんの「乾杯」がヒットし、ドラマ「とんぼ」も話題になりました。
汗をかきながら、声を搾り出すように一生懸命歌っていた長渕剛さんに私は惹かれました。
ドラマ「とんぼ」の最終回、長渕剛さん演じる英二が東京のど真ん中で刺されて倒れます。
血を流しながら這いずる英二を、通行人は誰も助けず、横目で見ながら通り過ぎていきます。
バブル絶頂で豊かになる一方、他人との関係が希薄になっていることに気がついていた人も多く、だからこそあのドラマがヒットしたのだと思います。

メモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモメモ


正月には頭に「合格」と書いたはちまきをした小学生が学習塾の合宿で「エイエイオー!!」と言ってる姿がテレビでよく放送されていた。僕も中学受験のとき「学業成就」と書いたはちまきをして勉強していた。何がしたいわけでもなく、ただ他人に負けるのが嫌だった。中学では「落ちこぼれないこと」が大切で、成績が悪い生徒は、なにか罪を犯したかのような目で教師から見られた。入院する前、成績がどんどん下がっていたので職員室に呼び出され、 1時間くらい立たされて説教を受けた。今から考えれば、成績が下がったくらいで、なぜ呼び出しをうけないといけないのかと思う。またそのころ、成績が悪い生徒が職員室でビンタされたという情報が回っていた。ただ僕も含めて、そのころの大半の同級生は、そのような状況をそれほど疑問に思っていなかった。成績が悪ければ怒られたり、ひどい扱いをされるのは当たり前だと思っていた。そのような状況に疑問を持っていた同級生で、学校の言うことは聞かず、アウトローな生活をし、学校の成績は悪かったが東大に入った同級生がいた。そのころは変わった奴だと思われていたが、今から思うと彼が正常なのだと思う。

入院した後、僕は「中学から大阪の進学校に通っている頭のいい子」というレッテルを貼られた。僕もそれに応えるような態度をとった。いつも難しい表情で、何事にも動じない、無愛想な態度をとった。注射や点滴、にがい薬の内服、骨髄検査、髄注など、どんな医療行為にも文句を言わなかった。そして日中は、ベット上で時間割を組んで勉強した。おそらく今までの人生で一番勉強した。

s.kusuki
生い立ち3 [2008年08月20日(Wed)]

県立病院の小児科に入院することになった。それまで、ほとんど病気にかかったことがなく、小学生のころは高熱がでても薬を飲んで塾に通っていたような子どもだったので、新しい環境に戸惑っていた。当時中学2年生の僕は、無愛想で、言葉数も少なかった。僕の担当の看護婦さんは、見るからに新米のY口さんという人だった。いつも優しく声をかけてくれるのだが、無愛想に対応していたのを覚えている。
入院し病棟の廊下を歩いていると、ナースステーションで主治医の医師から母親が説明を受けていた。母の表情はこわばり、この世の終わりのような顔をしていた。あの時の母の顔は今でもはっきりと思い出すことができる。

そして、その夜病室で父が僕に「3か月くらい入院しないといけない」とこわばった表情で言った。そのほかにもいろいろと言っていたと思うが、何も覚えていない。ただ、話をする父がこらえきれず涙を流すのを見て、僕の目からもその何倍もの涙があふれ出たことだけは覚えている。

翌日主治医が「君はしっかりしてるから、病気のことも全部話すわな」と言った。「病名はリンパ節炎。まず治療をしてみて、その効果を見てから次の治療を考える」といった趣旨の内容だった。病気なんて治って当たり前で、そんなことより学校を長期休むことで勉強が遅れることが気になった。そのころ勉強への意欲も無くなり、成績もどんどん下がっていたのに、その時は勉強のことが気になった。「ちゃんと勉強しなければ」という気持ちより、「こんな事で他の奴に負けてたまるか」という気持ちでいっぱいだった。その時代は、バブル全盛期で受験戦争真っ只中だった。

s.kusuki
生い立ち2 [2008年08月19日(Tue)]

中学2年生のとき、右の首のところにコリコリしたものができてきた。開業医の耳鼻科では、「何かの感染だろう」ということで抗生剤を処方された。抗生剤は全く効かず、そのコリコリはだんだん大きくなっていったが、痛くもなんともなかった。それでもその耳鼻科医はずっと抗生剤をだしつづけるだけだった。
そして、冬休みも近づいたころ「このまま小さくならなければ、大きい病院で手術をしてもらってください」とのことだった。ちょうどそのころ小学校の同窓会があり、「なんかできものができてるから、今度手術すんねん」と小学生時代の担任や友人に話していたことを覚えている。

結局、冬休みに県立病院の耳鼻科に入院することになり
「首のところには神経がいっぱい通っているので、手術の後、右の頬や唇が動かなくなるかもしれません」という手術説明を受けた。

そして手術日。手術室に入るとき「がんばってきいや」と母親が言った。僕は「うん」とだけ答えた。

手術室に入り、麻酔科医が「1,2,3,4,5,6,7、」と数えるところまでは覚えているが、その後は意識がない。

つぎに覚えている風景は、手術室から出てきた後、ベッドの上で眠っている僕に耳鼻科医が「イーーて言うてみ」と必死な顔で言っていたことだ。僕が「イー」とすると耳鼻科医は「よし」と安堵の表情を浮かべていた。そのときに、右の顔面神経の麻痺を残さず手術が終わったのだなと思った。しかし、しばらくは顔の右半分はピリピリした変な違和感が続いた。

無事退院し、摘出したコリコリが何だったか(つまり病理所見)を聞きに、母親と一緒に耳鼻科を受診した。

耳鼻科医はその場で初めて病理所見の用紙を見たらしく、「え、、」と言葉を失っていた。

そして動揺した表情で母親に、「入院です。長期になります」と告げた。母親が「どれくらいですか」と尋ねると「とにかく長期です」とあきらかに動揺した表情で答えた。

首にコリコリができてから、長期入院に入るまで、いろいろなことがあったと思うが、覚えているのは、これくらい、、、
僕はちょうどこのころ、反抗期のまっさかりで、両親とはほとんど会話もせず、学校の成績もどんどん下がっていた。なにもかもに腹が立ち、サラリーマンが生涯で稼ぐお金が 3億円との情報をどこからか知った僕は「さっさと 3億円ためて、誰にも頼らず1人で生きていきたい」と思っていた。

s.kusuki
生い立ち [2008年08月16日(Sat)]

昭和63年9月ごろより、右の首にしこりができるようになりました。
特に痛みもなく、とりあえず耳鼻科の開業医に通っていました。
毎回同じ抗生剤が出され、とりあえず吸入をして帰っていました。

しかし、しこりはだんだん大きくなり、大きな病院で手術をしたほうがいいということになり、冬休みに手術をすることになりました。

手術は無事終わり、年明けに摘出したしこりの結果を聞きに病院に向かいました。

結果を見た耳鼻科医は、明らかに動揺していました。
「え、、とりあえず、入院になります。長期の入院が必要です」

診断は悪性リンパ腫という小児がんでした。

それから、私は小児科病棟に入院することになりました。

うその病名を告知されていた私は、治らない可能性がある病気だとはまったく考えず、病気のことよりも学校の成績のことのほうが心配でした。

そして、処方された薬を飲まないことも珍しくありませんでした。

約3ヶ月の化学療法入院を5回繰り返し、治療は終了となりました。

自分の病気が小児がんだと知ったのは、医学部に入ってからでした。

そして、私が受けた治療が「間違った医療」であったことを知ったのは小児科医になってからでした。

サバイバーとしての視点からも、これからブログを書いていきたいと思います。

s.kusuki