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[2008年02月27日(Wed)]

話が前後しますが、阪大へ転院し、1ヶ月くらいたったころに向かいの部屋のお子さんが息を引き取られました。
その少し前くらいから、そのお母さんとは少しお話をするようになりました。「付き添いベッドはあそこに売ってるよ」など、闘病生活については何もかも知り尽くしているような方でした。闘病が始まり間もない私に色々と親切に教えてくださいました。

その日の朝はなにか病棟がそわそわしているような、何か違うものを感じました。
向かいの方が廊下にでて、涙を流しながら何人かの方とお話をしていました。

「今朝亡くなった」ということでした。
「いい顔してるねん、、、」「ほんまによく頑張ってくれたわ、、」「大好きな音楽聴きながら逝ってんで」 などというお話がドア越しに聞こえてきました。

当時私はまだ「子どもが亡くなる」ということを理解しきれていませんでした。
娘が入院しているこの病院で、この病棟で、子どもが大人より先に亡くなる。娘と同じ小児がんで亡くなる。私たちが寝ている間に向かいの部屋で亡くなる。というこの事実を受け止めることができなかったのです。「死」を認識しているつもりでも、現実に突きつけられると、やはり心が受け付けませんでした。
体中が震えだし娘を抱きしめつづけました。
今もあの時の衝撃は忘れることができません。

私も挨拶にうかがうと、いつも険しいお顔をされていたのですが、その日のお母さんはとてもリラックスし、きれいな顔色のいいお顔をされていました。たくさんの涙を流しながらでも、何とも言えない笑顔で、私を抱きしめ、背中をたたきながら「がんばるんやで。あんたの子は大丈夫やからな。負けたらあかんねんで」と言葉をくださいました。

やり遂げた。長い間闘ってくれた子どもがやっと楽になった。悲しみより先に病気から、そして闘病生活から解放されたというホッとしたような気持ちがにじみ出ていました。

それから、今日まで何人もの尊い、かわいい命を見送りました。
みんな安らかなお顔で、とても誇らしげなお顔で、立派で、尊敬の念が沸きあがり、今にもスッと起き上がりそうな、でも、もう起きないで!起きないで!もういいよ。。と何がなんだかわからない気持ちが入りみだり、涙がとまらなくて、とまらなくて。

お別れを言うときには「いい顔してくれててよかった。。。ありがとう。ありがとう。本当におつかれさま。」といつも思いました。いつも自然とそのような言葉がでてきました。いつもたくさん教えられた気になるのです。言葉では言い表せないとても貴重で大切な何かです。そして「おばちゃんもがんばるんやで!」といわれているような気になります。

小児科病棟にはとても頑張りやさんで、強くて、優しい子どもがたくさん頑張っています。
その尊い命の火を消してたまるか!!と必死に闘う大人たちもたくさんいます。

「命」の大切さ、尊さ。
恐ろしい殺人事件や自殺のニュースを流すより、こんなに頑張っている子ども達のニュースを流してほしいと思います。
ニュースを見るみんなが、個々に必要としている部分を教えられるのではないでしょうか?

クローバーまさみさまクローバー

チャイルドケモハウスでは現在応援メッセージを募集しております。
http://www.kemohouse.jp/cgi-bin/regist_members/regist.html

詳しくはこちら https://blog.canpan.info/kemohouse/archive/341
泣く場所 [2008年02月19日(Tue)]

母は子どもの前では泣けません。。
どんなに辛いことを告知されても母は子どもが眠るまで、泣けません。
総室では、常に人目を気にしなければなりません。
たったカーテン一枚で仕切られた公共の場と、自分の場所。
突然開くかもしれないカーテン。
音も声も全部聞こえます。
歌も歌えません。
音楽も聴けません。
もちろん泣くこともできません。

お隣はとても楽しそう。経過も良さそう。もうすぐ退院。。。
でもこちらはとても危機迫る状況であるときもあります。

基本的に涙は「泣いてたまるかっ!!」とほとんど飲み込み、グッとこらえました。

でも、人間はどうしても泣かなければならないときがあるのでしょう、、涙をどうしてもこらえきれないときが必ずあります。その「原因」と「孤独」。
どうしても涙が止まらないときには、とにかく「トイレ行ってくるね〜」と言い残し、廊下に出て、母友達を同じく廊下にひっぱり出し、ドクターやナースそのほかの人々が公然と通る廊下の隅で嗚咽をこらえながら恥を忍んで泣きました。
もちろんその横を通り過ぎる医療者の中にはとても気まずそうに通り過ぎられる方もおられました。

お風呂では、シャワーとともにいつも思い切り泣きました。

泣きたいときに思い切り泣くことができれば気持ちが落ち着くときがあります。

泣いた後、子どもの待つところへ帰ります。
何も無かったように帰らなければなりません。
何も知らずにじっと私の帰りを待っていた子どもの顔を見ればまた涙が押し寄せます。
だけど、やっぱり私は涙をこらえ、そのまま闘病をつづけるしかないのです。
「何も気づかないでね。。。心配しないでね。。」と思いながら接しました。
でも娘はやっぱり不思議そうな顔をしていたような気がします。

「思い切り泣いてもいい場所がほしいね、、、どこかいいところないかな?」という話を当時よくしました。


クローバーまさみさまクローバー
移植2 [2008年02月18日(Mon)]

移植中、たったひとつだけ救われたこと。。
小児科病棟で、一番仲良しのお母さんとお子さんがこの病棟で治療中でした。
そのお子さんはとてもしんどい時期でしたし、私も慣れない環境にストレスフルな毎日を送っていたので、よく廊下の隅で色々と思いを吐き出し合いました。その環境がなければ乗り切ることはできなかったと思います。(Fさんありがとう!)

1週間後、ものすごく広い個室にお引越しとなりました。普通の個室が二つくっついたような大きさでした。
まずは、迷惑をかけるかもしれないというストレスからは解放されました。
そして、イヤホンでテレビの音を聞くことができなかった娘は(小児科病棟ではみんなイヤホンなしです)アンパンマンの声をやっと聞くことができて喜んでいました。私も大好きな音楽を聴くことができるようになりました。

主治医の先生と数人のヘルプの小児科医で試行錯誤し、ベッドの向き、場所、などセッティングしてくださいました。「お母さんのベッド、ここでいいですかぁ〜?」「もうどこでもいいわぁ〜」と少し投げやりな気持ちにもなりました。
が、娘のベッドは、ドラマで見るビニールカーテンで覆われはじめました。それを見ると「いよいよだ、、、」と覚悟を決めなければならない気がしました。
入室前に、部屋は徹底した消毒がされました。

向かいの部屋にはFさんが入室していました。ときどきFさんはこちらの部屋まで遊びにきてくれました。ちょっとした憩いのひとときです。
Fさんのお子さんは移植後のGVHDでとても辛い毎日を送っていました。Fさんはいつも泣いていました。「この子には今何も楽しみがない、、毎日毎日しんどいだけで、前は言わなかったおうちにかえりたいばかり言うねん、、そのほかは笑うこともなく、起き上がることもなく、嫌なことばっかりされて、、」と。私は明日は我が身という気持ちで、懸命にFさんの気持ちを受け止めるように努力しました。

s.kusukiは、別病院に行ったにもかかわらず、こちらの病院に用事があり来ることがあったそうで、マメに病室まで来ては、話相手になってくれました。今までの経過を知っていてくれる人の存在はとても大きく、精神的にとても救われました。

Sは造血幹細胞移植をすることになりました。臍帯血移植バンクからの到着を待ちます。
タイミングをぴったり合わせるため、1週間かかる移植前処置がいよいよ始まります。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
移植 [2008年02月15日(Fri)]

年が開け、いよいよ移植の為に移植病棟へお引越しをすることになりました。
いつの間にか、部屋には生活用品や着替え、おもちゃなどものすごい量の荷物がありました。その荷物を何度かにわけ、階が違う移植病棟へのお引越しです。
不安な気持ち、逃げ出したい気持ち、色々な気持ちの悪い思いを押し殺しながら、荷物を運びました。
最後の荷物と、Sを迎えに小児科病棟へ戻りました。「しばらくの間のお別れ」と担当の看護師さんと少し話をしました。「頑張ってきますね!」エレベーターのドアが閉まるまで、その看護師さんは心配そうに手を振っててくれました。

最初の移植病棟の印象はとても物々しい雰囲気だったということです。
セキュリティも万全。病棟へ入るまでにものすごい分厚いドアが嫌な音を立てて自動で開閉しました。小児科と違って大人の方がほとんどで、ものすごく静かでした。
最初は4人部屋へのお引越しとなりました。
周囲のベッドにはわたしと同年代くらいの3人の女性が入院されていました。
その中に急に小さな子どもを連れた親子が入ってくることは、どんなに迷惑だっただろう、、、と今更ながらに思います。
やはり同じような病気をお持ちの方々でしたので、日々元気なようには見えますが、ちょっとしたことで、体調を崩されたり辛い思いをされていました。
中でも、申し訳ない、、、と思ったのは3人中2人の方がお子さんをお持ちの方でしたので、色々な複雑な思いをされるだろう、、、ということでした。
とにかく、個室へ移動するまでの1週間はひたすら、物音立てずにひっそりと過ごすように気を使いました。Sもできるだけ泣かさないよう、大きな声で話さないよう日中は廊下に出たりと神経を使いました。

まず、最初に担当の看護師さんから移植へ向けての注意や覚えのお話がありました。
何もかも滅菌処理をしたものを使い捨てるということでした。ティッシュペーパーもストローもスプーンもコップも滅菌処理をするためにたくさん買い、処理をお願いするために提出することになりました。

次にベッド柵に頭をぶつけるだけでも血が止まらないようになるかもしれないとのことで、ぶつけても大丈夫なように何か対策を。。。とのことでした。お風呂の下に敷くウレタンマットを柵にくくり付けました。
使うものの何から何まで滅菌もしくは消毒をしました。おもちゃも毎日消毒しなければなりませんでした。おもちゃは毎晩消毒液につけました。なので、おもちゃの種類は消毒液に漬けることができるもの、清潔を保てるものに限られました。

アルコールの入ったスプレーボトルを常備することになりました。
常に神経を尖らせておかなければ失敗してしまう、、、しかもその失敗は娘の命へと直結する。というものすごいプレッシャーを感じました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
初めての外泊 [2008年02月14日(Thu)]

初めてSが外泊したのは移植前の年末でした。
それまで、外泊は私が拒みました。
まだ、本人達には理解しにくいことが多く、外泊してしまうことで「すべて元通り」と娘達に期待を持たせたくなかったからでした。

外泊を決行したのにはわけがあります。
移植はとても辛く、危険な治療だということ。「もしも」とされることが医師の口からたくさん言い並べられました。たとえば、腎不全、心不全、命に関わる感染、、、などです。まだまだたくさんありました。だからです。

初めての外泊に二人とも大喜びでした。Sは約4ヶ月ぶりに外に出ました。
おうちのソファーに二人仲良くすわりずっとくっついていました。
小さな二人に、外泊の意味を告げることは酷だとは思いましたが「またすぐに病院にもどらなあかんねん、、、ちょっとだけおやすみもらってん、、、」と説明をしました。Aの「ふーん、、、」ととても複雑な表情をみれば、胸がいたくなりました。でも「期待させてはいけない!」と私の頭の中にはそれしかありませんでした。

11月生まれのSの1歳の誕生日とクリスマスとでケーキを焼きました。値段も何も見ず、急いで材料を買い込み、ケーキを焼きました。
このときで闘病が始まってから約4ヶ月半。私の家事の要領はとても悪く、料理の手順もめちゃくちゃでとても疲れたのを覚えています。
それでも、何とかケーキは仕上がり、みんなで楽しくたべました。

AはSの胸からぶら下がっているIVHカテーテルをみて「それなぁに?」とびっくりしていました。Aと一緒にお風呂に入っていた頃にはそんなものはSの胸についていませんでした。
Sがたくさんのお薬を飲むたびにAは「が〜んばれ!が〜んばれ!」と応援しました。Sもニコニコしながら頑張って飲みました。

突然小児がんになり、突然家族バラバラに過ごすことを余儀なくされました。
小児がんになったことはしょうがないことなのかもしれない。だけど、家族一緒に過ごしたい。
同じ場所で一緒に力をあわせて闘いたい。。みんなで分かち合いながら過ごしたいと思いました。

病院に戻るときの私たちの気持ちはみなさんのご想像にお任せします。思い出し、ここに綴るのも辛いほどの気持ちだったとだけお伝えさせてください。

初めての外泊はとても切なく、でも楽しいひとときを過ごすことができました。

このときからAの口癖は「みんなでくらしたい」になりました。


クローバーまさみさまクローバー
担当医交代 [2008年02月08日(Fri)]

移植の少し前、s.kusuki が別の病院に行くことになり、担当医ではなくなってしまいました。その頃の研修医の先生とは上手くコミュニケーションが取れなかったのもあり、s.kusukiの存在は救いでした。
信頼している医師が突然いなくなると告げられることはとても大きな不安につながりました。
ほとんど同時期に、実働部隊の研修医の先生も変わることになりました。
さらに移植へ向け、小児病棟から移植病棟へとお引越しになることになり、担当の看護師さんともしばらくの間お別れになることを告げられました。
臍帯血移植という一大イベントを前にSの病状や性格を細かくわかってくれている医師や看護師が立て続けに側からいなくなってしまうことにとても不安な気持ちになりました、、、

人の温かさ、冷たさ、その人が持ち合わせる大きな力、自分の無力さ、相手の言葉の裏の裏まで見えてしまいそうな、、、そんな神経をビリビリと尖らせてしまう闘病生活。十分に満足できる生活環境を持てない分、自分の内に居場所を探し、見つけ、とどまるようになってしまうような気がします。
その中での信頼できる人とのつながりは、難しい分、とても貴重なもので、目に見える力へと変わることもあります。一方でそのつながりが途切れたとき、感じる不安は普通に生活を送っているときに味わうものとは少し違うものになるような気がします。本当にびくびくする位の不安でした。

さて、新しい研修医の主治医は、ある日の晩に部屋へこられました。少し緊張気味にでもとても丁寧に自己紹介をしていただき、移植へ向けてのそのコメントからとても熱血感あふれる先生だなぁ。。。というのが第一印象でした。
このO先生には、色々と話相手になってもらいました。(O先生ありがとう!!)そして、医療者とのコミュニケーションを持つことへの勇気をもらうきっかけになったような気がします。
今まで聞きたかったこと、訴えたかったこと、移植への不安、疑問など色々と聞いていただきました。
安心して初めての移植まで、気持ちまで持っていくことができました。

その後、s.kusukiと交代の先生もご挨拶に来てくださいました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
良いことと悪いこと [2008年02月06日(Wed)]

Sは病気の性質から、個室で過ごすことがほとんどでしたが、移植を控えた年末に総室で過ごすように言われたときがありました。
私個人としては断然個室の方が楽でよかったのですが、Sはたくさん人がいる総室を気に入っていました。人が自分のベッドの近くを通る度に、意味不明のS語で話しかけたりニヤニヤ笑いかけたりしていました。

私も、日中はとても救われました。お風呂や売店へ行く時間に子どもを見ていてもらえたり、何より話し相手になってくれる人がいることは大切なことでした。総室へ移りびっくりしたことは、ずっと笑っていなかったからか、人と話すチャンスがあまりにも少なかったからか、部屋の人たちと話をし、笑う自分の顔がひきつり、筋肉が上手く動かず、痛くなったことがありました。部屋でじっと付き添っているだけの日々を過ごしていましたので体の筋肉も、さらに顔の筋肉まですっかり弱っていることに気が付きました。上手く笑顔になれない自分がとても悲しかったです。

総室で個々に与えられたスペースは約2m四方でした。
そこに子どもの医療用ベッド。テレビ台。クローゼット。母と子どもの着替えを入れるクリアケース。付き添いベッド、点滴台などを全部押しこまなければなりません。
チャイケモのパンフレットでもおなじみの、あの空間です。
まるでパズルのように物を動かさなければなりません。
慢性寝不足の母たちですが、子どもがお昼ねをしている時にも隣にパイプイスをひろげ、そこで頭だけ子どものベッドに伏せてうたたねするしかありませんでした。

総室では良かったこともありますが、困ったこともたくさんあります。
昼間は良かったことがたくさんありますが、夜になると困ったことがたくさん出てきます。
点滴のポンプのアラームが何かの度に「ピュルリ ピュルリ」と大きく無神経な音を鳴らします。
夜中にもかかわらず母達は、これに起こされ、瞬時に自分の子どものアラームかどうかを確かめ、もしそうならすぐにストップボタンを押し、ナースコールを押します。アラームは、子どもが寝返りをうち、ルートが折れ曲がっただけで鳴りますので、その部屋の誰のアラームも鳴らずに朝を迎えることは、まずありませんでした。
毎晩恐怖の「ピュルリ ピュルリ」に母たちはため息をつきながら眠りにつくのです。

それから子どもは朝も夜も関係なく、泣きたいときに大きな声で泣きます。
泣き止まそうとすると、もっと一生懸命に泣いたりします。
どうしても泣き止まないときには母は真っ暗なデイルームにまで点滴台を押しながら子どもを抱いて連れて行きます。どうしても泣き止まないSを連れ、デイルームで一晩過ごしたことがありました。

夜はとても神経を使い熟睡できる日は数えるほどしかありませんでした。

こどもの病状によっては総室はストレスフルな環境になります。

つづく

クローバーまさみさまクローバー

痛くて怖い検査 A [2008年02月01日(Fri)]

ルンバールという検査もあります。
こちらも腰椎に針を刺し、脳脊髄液を採取し、頭の中に悪い細胞がいないかという検査をします。という考えただけで痛い検査です。

ルンバールは針を刺すついでにそこにお薬を注入する検査プラス治療です。

ルンバールやマルクの時には、必ず検査のお知らせが届いた前日からドキドキ緊張し、いつもその時間までのプランを立てました。検査時間がお昼以降ならお昼寝をさせない。
午前中なら早朝に起こしました。鎮静剤のより良い効果を望むには本人の自然な眠気が必要だからです。鎮静剤の量も少なくて済みます。

このプランは個室の時には母が眠気をこらえればよいだけでしたが、総室の時にはとても苦労しました。早朝に目覚ましをかけるわけにも行かず、またおきても子どもが静かにしているわけも無く、みんなが起きる時間までデイルームで数時間親子ともパジャマのまま過ごしました。

そして頑張って、頑張ってあわせた検査時間。それでも1時間遅れることはざらにありました。
親子ともなんとか踏ん張り、やっと処置台で寝てくれてホッとしたとき、カチャカチャと器具を準備する無神経な音。医療スタッフの遠慮ない会話のボリューム、ドア開閉のどたんばたんという音、、いつもハラハラしながら処置室をあとにしました。
そして検査が済むまでの約30分間は処置室のまん前の廊下で「痛がらないか?泣かないか?検査が無事に終わりますように!!」といつもドキドキし、祈りながら待機しました。

処置室から出てきたときにはホッとします。が、こちらも同様、結果が出るまでは、ストレスフルな時間を過ごします。

ルンバールの時には、検査後1時間、お薬が頭までしっかりと行き届くように子どもを寝かせた状態でいなければまりません。鎮静剤が効いているうちは良いのですが、目を覚ました子どもを1時間横になった状態でいさせるのにはとても苦労しました。
鎮静剤がすっかり抜けるまで、子どもも酔っ払ったような状態になり、機嫌が普通ではないのでとても大変です。この間、私はトイレにたつこともできませんでした。
ちょっとしたときに、子どもを見ていてくれる人材が一人としていなかったのが実情です。
看護師さんにお願いするにも、ただでさえ忙しそうに走り回っている看護師さんをトイレの為に捕まえるのは気がひけることです、、、

医療者は私たち患者側から見ても、いつも気の毒なくらい余裕のない生活を送っていました。
「先生、今日はご飯食べた?」「先生昨日は寝れた?」という問いかけにいつも恐ろしい返事が返ってきました。「昨日から何も食べてないんです、、、」「昨日は徹夜で発表用のスライドを作っていたんです、、、」
そんな明らかに万全の体調でない医療者に我が子の命を預けることはとても不安なことです。

当時のSのクール間でのマルク、ルンバールなどの検査結果は良好で、ホッと胸をなでおろし、さぁ次も頑張ろう!と次のクールに向いました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
痛くて怖い検査 @ [2008年01月30日(Wed)]

入院中は色々な検査があります。
子どもにとってはほとんどが痛みや恐怖を伴います。
同時に私にも検査の日には恐怖や緊張が襲いました。
ほとんどの子どもが検査時には鎮静剤を使い無理やり寝かせます。
痛みと恐怖の緩和のため。また、ほとんどがしばらくの間、じっとしていなければならないからです

鎮静剤を注射器でIVHにつながったルートから注入します。
もしものときの呼吸補助器を用意し、足の指には酸素飽和度を測定するための機械をつけます。
恐ろしいくらいの威力です。Sは最初使ったときには目の前で一瞬にして寝てしまいました。
今までニコニコ笑ってお話していたのに、瞬時に寝てしまいました。とても怖くなったのを覚えています。そのまま画像検査に入りました。

検査が終わるとホッとしますが、その後、結果を聞くまでに要する数日は気になって気になって、ストレスフルな状態がつづきます。

マルクという検査があります。
骨髄にものすごく太い針を刺し、骨髄液を採取する検査です。
大人にとってもとても痛くて恐ろしい検査だと言うことです。使用する器具はまるでコルク抜きのようでした。
数人の医療者がSを取り囲みます。
実際に作業をするスタッフとその周りで見学をするスタッフでしょうか。
一度処置の最中に覗いたとき、一人のドクターが娘に馬乗りになり、採取をしていました。
裸になり、うつ伏せに寝かされたSの小さなお尻。小さな背中。。。針を刺す作業をしているドクターの力で背中が「ぎゅっぎゅっ」と押されて、反るのが見えました。
とても力のいる検査のようです。
検査後はたくさんの消毒液がついたガーゼがものすごい粘着力のテープでとめられて帰ってきます。オムツにも消毒液がたくさん付いています。
そのテープをはがすのも親子とも大変苦労します。下手すると皮膚が一緒に剥がれてしまいそうな粘着力のテープです。
それをはがすときは、針を刺すときと同じくらいの悲鳴をあげます。とても痛そうでした。
「ごめんな、ごめんな、、、がんばれ、がんばれ」と水でぬらしたり、引っ張る方向を変えて見たり、、、と色々試しながら私がはがします。
看護師さんに相談したら一度「こんな良いものがあるんですけどね、、、」とテープの上から綿花にしみこんだ液体をテープにしみこませると嘘みたいにスッと剥がれるものを戴いたことがあります。「今度も、これちょうだいっ!!」とお願いすると、ダメだということでした。高価なものなので、もう病棟で買うのをやめることになってしまったということでした。

「子どもが痛いとき」というのは大人の常識の範囲の中で想像することだけではありません。
針を刺すことも、テープをはがすときも、血圧を測るときも、同じくらい痛かったり、嫌だったり、怖かったり、辛いことなのだと思います。

私自身、年に2、3回くらいのことならなら「我慢しなさい」と言うと思います。
でも、この子達はほぼ毎日、痛くて、怖くて、しんどい日々を余儀なくされているのです。
「したいっ!」と思うことはほとんどできない、我慢ばかりの生活を送っています。
とても頑張りやの子どもたちに、私はできるだけ頑張らせたくなかったです。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
お引越し [2008年01月28日(Mon)]

翌日になり、お部屋のお引越しの日です。
向いの部屋は外の景色が見えるらしい。。。
ととても楽しみでした。
少ししかなかったはずの荷物がいつの間にかものすごい量になり、運びだしに苦労しました。いつも家でも模様替えが大好きな私には、ちょっとした楽しみになりました。

とても明るく、外にモノレールが走るのが見えます。下にバス停もあります。
車が走るもの見えます。木や空も見えました。お天気は晴れでした。いつの間にかセミが無く時期はとっくに過ぎていました。

Aは会いにきては、泣いてもわめいても私と無理やり引き離されるということを繰り返していました。そして慣れない環境でひとり頑張ってくれていました。そのAの「いちにち」を想像するだけで私の胃は痛み、涙をこらえる日々でした。たったの2歳でした。

いつもそんな状況だということを私は母へ相談していたので、母は当時勤めていた職場をやめ、Aの心と環境を守るため、私の変わりに育児に専念してくれることになりました。
おかげで、Aも大好きな「おばあちゃんとおじいちゃん」がずっと側にいてくれるだけで気持ちが落ち着いたのだと思います。「かあしゃん。またくるからね。げんきでいてね。Aちゃんもがんばるからね。」と寂しそうだけど、手を振り家へ帰るようになりました。

少しずつ心配だった要素が解決し、気持ちが落ち着いてきました。

私もSがお昼ねの時などは積極的に動くようになりました。
少しずつお友達もできました。
お話の中から「みんな同じように頑張っている」ということや病気について、闘病に付随するさまざまな問題について相談相手ができた。ということがわかると、とても勇気をもらえ、頑張る力につながりました。

今までのお友達には病気のことを話す気になれませんでした。
はなしてもわかってもらえないだろう、、、ということ。
またあの頃の恐ろしい出来事を説明するために記憶をたどりたくないこと。
そんな気持ちと、1才の子どもを置いて電話をかけに行くには電話があまりにも遠かった
こと。などが原因です。
病棟内の母友達には本当に救われ、毎日を過ごしました。

お部屋の環境も明るく気持ちよくなり、少しずつ不安も取り除かれ「こんな感じで半年、なんとか乗り切れるな!がんばろう!」とペースをつかみだしました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー