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母として。事務局として。 [2009年02月08日(Sun)]

みなさま

ご無沙汰しています。インフルエンザが大流行で、うちのAYAちゃんも今怪しい熱を出しているところです、、、

昨日、手塚建築研究所のみなさんから「建築プランのご相談」として、夢の病院の新しいプランが発表されました。
前回のプランもそうでしたが、やはり、今回のものもとても斬新であり、私たちの要望もしっかりと盛り込まれていました。
もっと、ここはこうして欲しいなどの意見より先に、逆に「そうそう!そんなリクエストもしてたなぁ。。。」とプランを見ながら思い出すような感じでした。
徹夜で準備してくださった手塚事務所のみなさま、遠いところ会場まで足を運んでくださったみなさま本当にありがとうございました!

私は最近、ほとんど「事務局のまさみさま」としてみなさまにお会いさせていただき、メールさせていただき。。。という毎日をおくらせていただいています。「SAYAKAの母」としてチャイケモの活動に参加することが難しくなってきました。数字の計算、書類の作成、助成金の申請、報告などの事務的な仕事に追われている毎日です。

昨日のプランを見ながら「こんな病院でAYAちゃんもSAYAKAも過ごさせてやりたかったなぁ、、こんなところで闘病できる人のことがうらやましい、、、」と少しひねくれた想いを持ちました。
私がこれからも、この活動にどんなに力を入れて頑張っても当時のAYAとSAYAKAを救えるわけではありません。「それやのに、なんでこんなにがんばってんのやろう、、、」と思ってしまいました。
同じようにこどもを小児がんで亡くした友人は「もう関わりたくないし、頑張りたくないわ。そっと私たち家族だけの事にしときたい」という意見を言う人も少なくありません。
私も当初はそうでしたし、その気持ちが良くわかります。
今でも知らない人に娘の闘病中の出来事や想いの多くを語る事は本当は好きではありません。だけど、それじゃあ事務局次長が務まりません、、、(涙)

当事者がつらいつらい体験を乗り越えた後→そっとしておいてほしい。
または闘病まっさい中→闘病に集中させてほしい。

そんなせめてもの願いも叶わず、やっぱり当事者が声をあげ何年も、何年もがんばり続けなければ状況が改善されようともしない仕組みに、ついには腹立たしい思いになります。

昨日も会場ではいつものように事務局のまさみさまとして色々な想いを振り払いながら、今にも吹き出しそうな涙から気持ちを必死に背けながらいました。恐ろしいことにそんなことにも慣れてきました。

後片付け、解散。家に帰って、その間、母に預けていた子どもたちと再会し、あついお茶を飲みながらホッとするとやっぱりSAYAKAたちの母に戻り「正直な想い」がよぎります。

そして色んな意味の涙がちょちょぎれます。


クローバーまさみさまクローバー

※長女=A=AYA
  次女=S=SAYAKA
待ちに待った退院 [2008年10月29日(Wed)]

Sは臍帯血移植をし、無事にそれは成功しました。
そして、待ちに待った桜の咲く季節が来ました。。。

小児病棟へ戻り、Sも私も退院を間近に控え早くその日が来ないかと、これまで以上に病院にいることをストレスに感じる毎日を過ごしました。
そのときの私は「やっと家に帰れる!やっと家族みんなで過ごせる!」という気持ちと「友人たちを置いていかなければならない、、、」という後ろめたさとのジレンマの中にいました。

そんな退院を間近に控えたある晩、Sがなぜか足の甲のあたりが痛いようで、一晩中泣き続けたことがありました。

しびれたのかな、、、何だろう?何だろう?
しばらくたっても治らない、、、何だろう?何だろう?何だろう、、、

当直の先生に看てもらっても原因はわからず、あんまり痛がるので、とにかく痛み止めを投与してもらい、結局その夜はベッドにおろせば泣くような状態の中、部屋にも戻れず(総室だったので、、)、談話コーナーでSを抱いて一晩過ごしました。春目前のまだ寒い、心細い夜でした。

夜が明けて、何事もなかったようにSは普通にもどりました。
一安心しましたが、「何やったんやろう、、、」という不安は消えません。

その2日後、退院の日を迎えました。
A(お姉ちゃん)が嬉しそうに迎えに来てくれました。「みんなでおうちにかえれるん?やった〜!やった〜!」
お世話になった看護師さんたちと記念撮影をし、私は大切な友達を置いていくことに罪悪感を感じながら、そしてここから離れることになぜか寂しいような気持ちを感じながら、それでも「もう絶対ここにはこないっ!!」と逃げるように家路につきました。

これから、週1回の外来通院が始まります。

桜の木は少しずつ花を咲かせていました。

クローバーまさみさまクローバー
ニューススクランブル〜私たちの願い〜 [2008年09月30日(Tue)]

みなさまおひさしぶりです。すっかり秋になりましたね。笑顔

チャイケモ事務局は嬉しいことに、相変わらずあわただしく動いています。ブログ記事を書くこともままならないのが少し悲しいですが、、、悲しい
まったくのNPO素人の私が事務局のお仕事をしていると、みなさんへおかけする迷惑ごとも多く、初めてのことばかりで毎日毎日勉強の日々です。温かく見守って下さるみなさまに感謝いたします。

チャイケモがはじまってからもう2年を迎えようとしています。私事ですが、あの時お腹の中にいた3番目の娘ももう2歳になり、そういえばチャイケモと同い年だということに気づきました。
私も活動を通して色々な立場の方々とお知り合いになることができたり、学び続ける機会をいただいています。ありがたいことです。

事務局のお仕事はとてもバラエティに富んでいるので、お金の計算や登記申請書を書いているときなどは、闘病したあの時期が遠い遠い昔のことのように思えたり、はたまた研究会やソフト面をつめましょう。ということになれば、一瞬にして当時に戻ってしまったりという感じです。いったりきたり。

そんな様子を見て、もうすっかり大きくなっただろうSもお空から「かあしゃん、もっとがんばりなしゃい!」と応援してくれていることだと思います。

さて、昨日放送になったニューススクランブルでは奈良の樋口先生の現状、そして闘病経験者の話が紹介されました。
みなさんは番組を通して何をご覧になりましたか?

私たちの願いはこのような放送を通じて現状を知っていただき「だからチャイケモが必要なんだ。。。」と理解していただき、支援の輪を広げさせていただく=「夢の病院」を一日でも早く実現させることにつなげるということです。
情報を発信し「そうなんだ。。。そんな人もいるんだ。。。」で終わってはいけないといつも思っています。
闘病中に取材を受けることは並大抵のことではありません。物理的なことも、精神的なことも色々と問題がたくさん出てきます。それでも、出演してくださる方はやはり何かを発信しなければならない、この状況を何とか改善しなければならないとお思いになるからなのだと思います。そんな想いも汲み取っていただければ。。。といつも思いながら、一視聴者になり番組を見ています。

ありがたいことに、チャイケモは小児がんとは何も関係なく暮らしている方からの応援も増えています。
「私の子どもはおかげさまで丈夫に育ち、もう大きく、小児がんにはまったく関係はないのですけど、、私はこんな特技を持っています。特技を活かして何か子ども達のお役に立てることはできないかしら?」
「遠くハワイから応援しています!アメリカのNPOと企業とのつながりにはこんな例がありますよ参考にしてみてくださいね!」
などみなさん、色々な視点から本当にチャイケモと小児がんの子ども達のことを想い、ご支援くださいっています。子を持つ親の思いに国境も年齢もありません。ありがとうございます。

そして何より心強いのが「イベントします〜」「ちょっと助けてください〜」と発信すればすぐに駆けつけてくださる、お会いするだけでなぜかホッとするボランティアのみなさんの存在です。本当にいつもありがとうございます笑い
(またイベント準備が始まります。よろしくお願いしますびっくり

こんな『輪』が「情報発信」を元にもっともっと広がればうれしいなぁ。。。
と私たちは願っています。

クローバーまさみさまクローバー
小児病棟へ。。。 [2008年08月11日(Mon)]

移植が無事に終わり、しっかりと新しい幹細胞も正着しました。Sは移植のために血液型がO型からA型へと替わりました。。
「B型のお父さんと、O型のお母さんからなんでA型の私が生まれるのん?」と聞かれたら、どうやって説明しようかなぁ。。。と今後のことを考えたりしながら明るい未来を想像し、退院までの日々を過ごしていました。

いよいよ小児科病棟へ戻る日が来ました。
入院されている方のほとんどが大人の移植病棟と、小児科病棟とのわかりやすい違いは「にぎやかさ」です。小児科病棟では、テレビの音もそれぞれ。隣で仮面ライダーがやっていると思えば、こちらではあんぱんまん。いつも子どもの泣き声や笑い声、ついでにお母さんや先生たちの話す声や笑い声も入ります。
「おかえり〜」「移植成功おめでとう!」「よかったなぁ!おつかれ〜」とみんなが出迎えてくれました。久しぶりの環境にSも嬉しそうでした。
「移植どうやった?どんなんやった?どんなところやった?」という質問攻めにも合い、移植病棟で同室でしばらく暮らした男の子のお母さんの表情を思いだし「みんないい人やったわ〜」とだけ答えました。

Sは久々に面会に来るAとも会うことができ、移植を乗り越えたご褒美にアンパンマンのパソコンを買ってもらいました。
Aとデイルームのいすにすわり、久しぶりに並んであそびました。二人ともとても照れくさそうに再会しました。

「もうすぐ退院できるで〜!おうちに帰れるで〜!」
と先生から「おめでとうございます!」とお許しが出ることを心待ちに過ごしました。。。


クローバーまさみさまクローバー
白血球の立ち上がり [2008年06月02日(Mon)]

移植後2週間と少しでようやく白血球が立ち上がり始めました。
白血球は立ち上がりだせば、そこからは結構なスピードで増えてくれました。
免疫抑制剤の量もピークからすこしずづ調整され始めました。毎日量が適正かどうか採血検査で血中濃度を測定しながら主治医が微調整をしてくれます。

待ちに待ったビニールカーテンがはずされるとき。Sはもうゆがんだアンパンマンを見なくても済むようになりました。カーテンがはずされた時は目の前がパッと開かれた、何とも言えない爽快感を感じました。Sも邪魔なものがなくなりニコニコと、とても嬉しそうでした。

普通の生活から考えると、何重もの苦痛や不便さを感じる日々が続いていました。ひとつ、ひとつもとの生活に戻っていく「ありがたさ」は今まで自分の人生の中で感じたことも見たこともないことでした。普通であることの幸せ。健康であることのありがたさ。命の大切さ、重さ。どれをとっても普通に日常生活を過ごしている上ではなかなか気づかないことなのだということもわかりました。
また、移植を通して、人体の不思議についても驚かされました。人間はとてつもない絶妙なバランスによって命や健康が保たれているのだということ。ひとつバランスを崩すと、それと人工的に、科学的に調整することの大変さ。この大変さはSの点滴ルートにつながれている薬の数と比例し、一時は点滴の支柱が2本になったこともありました。ひとつ改善されると、たくさんのお薬がはずされます。これには驚くばかりでした。「普通に元気に生きていることって奇跡やんか。。」と思いました。

白血球がほぼ正常範囲まで増えてくれた頃、同じ部屋に小児科から次に移植を控えている
男の子が来ました。
小児科で面識のあったその男の子のお母さんと、移植について話をすることがありました。
その子のお母さんは元看護師でしたが、自分の子の移植に対して相当の不安と恐怖を感じている様子でした。看護師の経験があるからこそ、覚える恐怖や不安もあるのだろうと思います。「思ったよりスムーズに、あっという間に今日がきたよ!あんまり思いつめんときよ。。。」という私の言葉に、「早くそう言える日を迎えたい、、、」といっていました。話せば話すほど男の子のお母さんが思いつめていくような気がして、できるだけ違う話をして数日間一緒に過ごしました。

数日後、私たちは無事に小児科病棟へ戻る日が来ました。
いよいよ退院が目の前に見えてきた喜びでいっぱいでした。
「もうすぐお花(桜)がいっぱい咲くねんで〜」とSと話をして過ごしました。


クローバーまさみさまクローバー
おねえちゃんと、おじいちゃんおばあちゃん [2008年05月27日(Tue)]

移植の間、姉妹は長い間いつもよりさらに引き離されました。
父と母に連れられて面会にくるA(長女)は相変わらず妹には会えず、私から状況を聞くくらいしかできませんでした。「Sは?どこにおるん?なにしてんの?」移植病棟には談話室のようなオープンなスペースもありませんでしたので、私はAが来ると父の車を借りていつも車で15分くらいのショッピングモールまで遊びに連れて行きました。
Sはその間、父と母に看てもらいながらお土産を楽しみに待ちました。
せっかく面会に来ても一緒に遊ぶスペースもないことはとても不便なことでした。

お買い物に行く元気のないときにはホスピタルパークをぶらぶらとお散歩しました。クローバーがたくさんある公園で、いつも四葉のクローバーを探しながら歩きました。もっともっと私の体力がないときにはエレベータホールにある公衆電話用のパイプイスに腰掛け、お話をしました。
長女とは週に一回2時間程度の時間しか一緒にいることはできませんでした。「じゃぁね。また来るからね。げんきでおってね。Aちゃんもがんばるからね。。」とお決まりのセリフを残し、複雑な表情で小さな手を振りながら私が病棟へ戻る背中を見送りました。

私は父と母にどれほど救われた闘病生活であっただろう。。。と思います。Aを安心して預けることのできる環境がなければ、私たちの闘病生活は闘病というところ以外での不安やストレスでいっぱいになっていたと思います。
父と母がAをしっかりと受け止め、私たち親の替わりに愛情をたくさん注いで育ててくれたこと、Aの安全基地になってくれたこと。私たちの闘病生活を理解し、サポートし、気持ちを共有することを途切れることなくずっと続けてくれたことに心から感謝しています。。。父と母がいなければ成り立たない闘病生活でした。

Aと「また来てね。ばいばい。。。」と別れて、スリッパを履き替え、移植病棟の重苦しい自動ドアを開け、手を消毒します。できることならば開けたくないそのドア。できることならば行きたくないドアの中。でも中には私を待っているSがいます。
自動ドアから病室のドアまでの間の廊下で気持ちを切り替えました。「さぁ!嫌でも、何でもがんばらなあかんねんっ!!」

クローバーまさみさまクローバー
海苔の佃煮? [2008年04月21日(Mon)]

「しばらくは海苔の佃煮のようなにおいがするんですよ。。。」
移植直後主治医の先生が言いました。「臍帯血を保存するためのお薬のせいです」
「ほんまに〜?何で海苔なん???」と半信半疑で話を聞いた数十分後、Sの全身から本当に海苔の佃煮のにおいがしだしました。しばらくすると部屋中にそのにおいがひろがりました。においの原因についてはいい気はしませんでしたが、子どもの頃からよく食べている海苔の佃煮のにおいはなぜか移植の緊張から私を救ってくれました。いまでも海苔の佃煮を見るとこの頃の想いがリアルによみがえります。

においは数日で消えます。

S(次女)は普段とあまり変わりなく過ごしていました。予想していたよりずっとスムーズに一日一日が過ぎました。ビニールカーテン越しのため、少しゆがんで見える大好きなアンパンマンのビデオをくり返し見ました。ベッドの手すりを小さい手でしっかり持って、柵から足を出しぶらぶらさせながら座っていたかわいらしい姿が目に焼きついています。。。

私はこの頃から小学生のころぶりに、編み物をはじめました。毛糸の帽子から始め、ベスト、セーター、コートと本当に色々と編みました。SもA(長女)も作品が出来上がるととても喜んでくれて、調子に乗った私はたくさんの毛糸を買い込んで、いつも二人おそろいに編みました。その頃からの作品のコレクションは今もしっかりと残ります。

「移植って思ったほど大変じゃないんや。。。」と思いかけたある日、Sが急に悲鳴を上げてあばれました。
びっくりして、ナースコールを押し、看護師さんや先生に診てもらいましたが、原因がわかりません。叫んで、暴れたかと思うと、何もなかったように機嫌が戻ります。
でも明らかに痛すぎる悲鳴です。夜中も突然叫び、暴れます。
擦るくらいしかできないまま、しばらく観察を続けると、おしっこの出が悪いことに気づきました。さらに、痛がるときはどうもおしっこの出るタイミングだということもわかってきました。そのことについて先生に相談すると「今投与中のお薬は排尿痛を起こすことがあるんです、、、」との説明がありました。
対処法を考えてもらいましたが、痛み止めを使用しようとしても、いつ起こるかわからないピンポイントの痛みに対しての対処は難しい、、、との事でした。それでも、ほんの少しでも痛みが和らぐかもしれない、、、と持続的に痛み止めのお薬を入れてもらうことにしました。

Sの排尿痛は約1週間続きました。
痛みもなくおしっこができるようになったときには、親子とも全身の力が抜けるほどホッとし、何の痛みもなく生活できることがどれだけ満たされているということなのかをしみじみと思ったのでした。

「油断できない、、、」と改めて気持ちを引き締め、白血球の立ち上がりを首を長くして待ちました。

クローバーまさみさまクローバー

夜中の発熱 [2008年03月27日(Thu)]

話が少し戻ってしまいます。
前処置中の夜中にSが突然吐き、高熱を出しました。急にとても辛そうになってしまい、一瞬「いよいよ来たか、、、」と移植について覚悟していたことのひとつが起こったかもしれないと思いました。

小児がんの子どもたちの治療に、感染はつきものですが、移植の時期にはそれに輪がかかります。感染に対する対策は付き添いにはとても負担なものです。
Sに近寄るたびに、Sが使うものを触るたびに、私は手洗いと、アルコール消毒をしなければなりません。そのため、私の手はいくらハンドクリームをぬっても追いつかないほどに荒れました。荒れた手が裂けても、切れてもアルコールの消毒は欠かせません。傷口にアルコールを吹きかけ、刷り込むと飛び上がりそうに痛かったのを思い出します。Sの使うものはすべて消毒、もしくは滅菌をしなければならず、いつもアルコールにまみれていたような気がします。

Sを感染させてしまったとしたら、それは私の責任だ。といつもどこかにいる「菌」と闘いながら過ごしていました。
先生からは「もともと体の中に持っている菌のせいで感染が起こることが多いんですよ」と説明を受けたこともあり、目に見えず、そして防ぎようのない「菌」との接触にいつもハラハラしながら過ごしました。

夜中に主治医の先生が、文字通り息を切らせながら駆けつけてくださいました。確か12時は過ぎていました。
とにかく採血。その次に吐き気をとめてあげたいと、いつも入れている吐き気止めと違うものを入れていただき、吐き気の症状はなんとか落ち着きました。
採血では感染かどうかなどを調べていただきます。結果が出るまでの間、その主治医の先生がSのカルテを調べて「お母さん。Sちゃん、まえもラステッド(抗がん剤の名前)を入れた時に急に同じくらいの熱が出てるみたいですね。。記憶にないですか?」といわれました。「まったく記憶にないけど、カルテって大事やなぁ。。。」と思っている間に検査結果がでました。感染の兆候はないとのことでホッと胸をなでおろし、先生も「では、また明日。というか数時間後、、」といって退室され、私も少し側についてSを看た後「先生は、本まに大変やなぁ。。。看ているのがSだけではないんやからなぁ、、、ほっとできる時間なんてないやろうなぁ、、、」と思いながら付き添いベッドに横になり数時間寝ました。

夜が明け、私も何とかベッドから這い出し朝を迎えました。先生もいつもどおりに。
どんなに寝れていない状況の中でも、先生も、付き添いも翌日の任務を果たすために普通に一日を過ごさなければなりません。

クローバーまさみさまクローバー
移植4 [2008年03月22日(Sat)]

今回の移植では放射線照射はプランにはいっていませんでした。娘の年齢的なことが一番の理由でした。
移植前処置は問題なく進み、いよいよ移植当日になりました。
この日がDAY0(ゼロ)となります。骨髄移植は骨髄移植手術と表現されることもあり、私は手術室に入り、麻酔をかけ何か手術するものだと最初は思っていましたが、そうではありませんでした。
IVHカテーテルから注射器で見た限りではただの血液らしいものを注入するだけという作業自体はとても簡単なもので、少し安心しました。
当日、とても緊張しながらその時間を迎えました。
とても簡単な作業と言うわりに、先生方の表情から慎重に慎重を重ねなければならない作業なのだと思いました。
「Sちゃん行くで!頑張ってや!」と先生が声をかけました。「では、お母さん行きます!」という先生の声に、私は心の中で手を併せ「上手くいきますように!元気になりますように!!」と何回も祈りました。
先生はとてもゆっくりと骨髄液を注入しました。

突然Sが暴れだしました。私はあわてて目をあけ、様子を見るととても苦しそうにSが暴れていました。何回もえづいて、吐きそうになったり、唇の色は青く上手く息もできていないようでした。「先生!先生!!なんで?!」と私はとにかくあわてましたが、先生方は冷静に「大丈夫、大丈夫です」と言われました「でも、すごい苦しそう!!」そのときは自分の息も満足にできませんでした。
呼吸困難の原因は冷凍されて運ばれてくる骨髄液を溶かすときに使うお薬へのアレルギー反応だと言うことでした。
何とか無事に注入し終わりました。
苦しい時間は数秒でしたが、注入後には足も震えていました。

なんと恐ろしいことの多い日常だろうか、、、と思いました。

Sはそのあとぐっすりと眠りました。

これから、新しい骨髄の立ち上がりと生着を待つ日々が始まります。
Sの血液型は私と同じO型でしたが、この移植を期に、A型となることになりました。ですので、輸血の血液もAと表示されたものが運ばれてくるようになります。

O型の私とB型の主人にA型の娘か。。。大きくなったらややこしいことになりそうやなぁ。。。とそんなことを考えたことを思い出します。

「桜の咲く頃には家に帰れそうですね。。。」とある先生がおっしゃいました。

クローバーまさみさまクローバー

移植3 [2008年03月15日(Sat)]

いよいよ移植に向けての前処置が始まりました。
色々と前処置に関する説明を受けましたが、一番上手くできるかどうか不安だったのが定時に飲まなければならないお薬があると言うことでした。
6時間おきだったと思います。一日に3回必ず時間通りに飲まなければならないお薬があると説明を受けました。
めったにお薬を嫌がることはなかったのですが、初めてのお薬であること。量も処方された分きっちりと飲み干さなければならないこと。など、とてもプレッシャーを感じました。失敗をすると、期間をあけて飲みなおしのため、前処置のスケジュールが崩れ、今回プランした移植まで上手くたどり着けないと言うことでした。そんなことから鼻からチューブを入れ注射器で流し込み必ず飲み込めるようにしようという提案がありましたが、そのチューブを入れるときはやはり、子どもには苦しい作業になります。それに、決して気持ちの良いものではないので何回も入れては自分ではずしてしまうということを繰り返すだろう、、、と私も気がすすまず、お薬をいつも頑張って飲んでくれている我が子を信じ「いちかばちか、頑張ってみます!」と朝と昼と夜中の3回私が何とか飲ませると言うことで先生に了解を頂きました。
とても少量のお薬でしたが、プレッシャーは尋常なものではありませんでした。
朝と昼は何とか無事に一滴残さず飲ませることに成功しましたが、難しいのは夜中でした。
深夜娘もすっかり眠っている時間に飲まる時間が設定されています。
もちろん私も普段は眠っている時間です。看護師さんに「起こしてください。。」とお願いをし、
私も眠りにつきました。
深夜に看護師さんがお薬を持って来られたときには、なかなか眠りにつけなかったので気配で起き上がりお薬を受け取りました。
そして寝ている娘を起こし、お薬を飲ませました。最初は少しぐずりましたが、何とか無事に寝ぼけながらも飲んでくれました。
看護師さんと、成功を静かに喜びながらホッと胸をなでおろし、眠りにつきました。

こういったプレッシャーを感じる機会はこの限りではなく、幾度となくありました。
小児がんの治療には緊張やプレッシャーはつき物です。

点滴からも色々なお薬が入りました。
量もいつもよりずっと多いのできつい治療となることの説明を受けていました。娘の細胞をたたきにたたいて新しく入れる細胞が住みやすい環境をつくるためです。

前処置中、娘は、普段とかわらずアンパンマンのビデオをくり返し見たり、とても元気に過ごしていました。


クローバーまさみさまクローバー
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