恵楓園入所者の手から型取りした「手の彫刻」の紹介E[2018年02月08日(Thu)]
手の彫刻は現在、恵楓園社会交流会館ロビーに置かれています。
社会交流会館にはこの彫刻を代表として、私達入所者が生きてきた記憶―――、資料が収蔵、整理、あるいはまた展示されています。
資料館は古道具の陳列場などでは決してありません。
珍品を飾りつけて見せびらかす浅はかな場所でもありません。
" よりよい社会を作るために何をするべきなのか。
その上で社会にどのようなメッセージを発信するのか。”
これらのことを考え、実施していくための場所なのです。そしてそのためには資料が必要であり、研究が必要となるのです。
ハンセン病問題研究については相応に蓄積が出てきており、何が差別を誘発したか、どのような事態に追い込まれたときに人は人を貶めるのか、そのようなことも次第に明確になってきています。
そのような思索を経た結果、社会に対して提示されたものの一つ、それが今回の手の彫刻だったわけです。
世界は今、混沌の中にあります。
1950年以降の技術革新によって、少なくともこの国では飢える者は少なくなり、ほとんどの人々が教育を受けることができるようになりました。皆が幸福であることができる社会、誰かが誰かを傷つけることのない社会が実現できるのではないかと思えました。
しかしながら誰もが生きていける、誰もが個人を尊重されるという社会は、逆に個々人の自意識を過剰なまでに肥大化させるという弊害を生み出し、結果として自己の存在意義を確認する為に嘲笑の対象となる他者を必要とする幼い人格を多く生み出してしまいました。
人は人を傷つけねば生きていけないのでしょうか。
目に映る周囲から攻撃しやすい人物を選び出して、自分よりも下位の者として認識する、そのことによって偽りの優越感、安堵に浸る。そのような愚かな生き物なのでしょうか。
思えばハンセン病の患者が最も差別されたのは戦時中、国民意識が昂揚したあの時代でした。強固な仲間意識は、仲間はずれを前提に成立します。
「癩の患者なんて、…」という、そのようなスケープゴートがあったればこそ、愛国を空虚に声高に叫ぶ人々は、そのもろい自意識を保つことが出来たのです。
” 俺はあいつよりましだ
あいつは「俺達」と違うから虐げられて当然だ
これはいじめなどではない。
目障りなあいつが、目障りなことをしているから制裁を下してやるんだ。
いじめではない、正義の執行だ”
ハンセン病の患者であった私達は、その病が故に国民という枠から外され、またその枠の維持のためにより深く傷つけられてきました。
軍国主義が終わった今の時代はどうでしょう。
今でも見せかけの仲間意識のために差別・偏見・いじめは相変わらず続いています。
ヘイトスピーチ、出自による差別、学校でのいじめ、職場での執拗な嫌がらせ、足の引っ張り。
ニュースで報道される度に目にする、加害当時者達。
その顔にあるのは、自らの正当性に対するゆるぎない自信と、それと相反する自分自身の存在意義に対する限りない不信・不安です。
本当に残念なことに、そのような不安を抱えている人々にとって”いじめは楽しい”のです。
仲間と協力して逸脱者に制裁を下し、自らの優越と存在意義を確かめる。
これが楽しくないわけがありません。
そして当然、それが決して許されることのない、忌まわしい快楽であることは言うまでもありません。
私達はどうしたらよいのでしょうか。水は低きに流れるのたとえに身を任せ、行きつく果てのどぶで心を腐らせていくしかないのでしょうか。
そんなことはありません。私達は変われます。
不安や虚無感が人への虐げを生み出すのであれば、私達一人々々が尊重されていることを実感できればよいのです。人が人に大事にされていることを実感するとき、どうして敢えて人を害そうなどという考えが生まれるでしょうか。
大事にされなかった思い出、大事にされたかったのにそれが叶わなかった記憶が不安の悪魔を作りだしているのです。
眼前の人間、社会に、正面から相対して動じない人格を作り出すこと。自身の存在意義に自信を持ち、そうであるが故に踏みしだく他者を必要とない確かな人間性。
遠回りに見えますが、これがいじめ・差別の加害者を生み出さないための、最初の一歩なのです。
では、具体的にはどうすればよいのでしょうか。
私達は、それは”手と手をつなぐことから始まる”と思ったのです。
人に対して手を差し伸ばし、握手を求めるとき、私達はその人だけを見据えています。その瞬間、その人のことを何よりも最優先として捉え、尊重しているのです。そのとき私達は、私達がこの世界に生きていることを、互いに確かに実感しているのです。
そしてそのつながりを携えたままにもう一人と手をつなぐ。どこまでも続いていくことができる、人と人との関係がそこから始まるのです。
手の彫刻にはこのような想いが込められているのです。
色あせた、言い古された言葉、価値観のように思えます。しかしながら、それを心から信じ、私達が未だ叶うことがなかったその理想の実現に足を踏み出す時、人とつながる、尊重しあうというこの価値観は、新しい、真に意味ある価値観として再生するのです。
今回、日本財団のご援助のもとに、この新たな価値観を世界に向けて発信することが可能となりました。
日本財団におかれましては、これからも私達、恵楓園入所者自治会の良きパートナー、相談相手として末永く良い関係を続けさせていただければと思っております。
皆様、本当にありがとうございました。
社会交流会館にはこの彫刻を代表として、私達入所者が生きてきた記憶―――、資料が収蔵、整理、あるいはまた展示されています。
資料館は古道具の陳列場などでは決してありません。
珍品を飾りつけて見せびらかす浅はかな場所でもありません。
" よりよい社会を作るために何をするべきなのか。
その上で社会にどのようなメッセージを発信するのか。”
これらのことを考え、実施していくための場所なのです。そしてそのためには資料が必要であり、研究が必要となるのです。
ハンセン病問題研究については相応に蓄積が出てきており、何が差別を誘発したか、どのような事態に追い込まれたときに人は人を貶めるのか、そのようなことも次第に明確になってきています。
そのような思索を経た結果、社会に対して提示されたものの一つ、それが今回の手の彫刻だったわけです。
世界は今、混沌の中にあります。
1950年以降の技術革新によって、少なくともこの国では飢える者は少なくなり、ほとんどの人々が教育を受けることができるようになりました。皆が幸福であることができる社会、誰かが誰かを傷つけることのない社会が実現できるのではないかと思えました。
しかしながら誰もが生きていける、誰もが個人を尊重されるという社会は、逆に個々人の自意識を過剰なまでに肥大化させるという弊害を生み出し、結果として自己の存在意義を確認する為に嘲笑の対象となる他者を必要とする幼い人格を多く生み出してしまいました。
人は人を傷つけねば生きていけないのでしょうか。
目に映る周囲から攻撃しやすい人物を選び出して、自分よりも下位の者として認識する、そのことによって偽りの優越感、安堵に浸る。そのような愚かな生き物なのでしょうか。
思えばハンセン病の患者が最も差別されたのは戦時中、国民意識が昂揚したあの時代でした。強固な仲間意識は、仲間はずれを前提に成立します。
「癩の患者なんて、…」という、そのようなスケープゴートがあったればこそ、愛国を空虚に声高に叫ぶ人々は、そのもろい自意識を保つことが出来たのです。
” 俺はあいつよりましだ
あいつは「俺達」と違うから虐げられて当然だ
これはいじめなどではない。
目障りなあいつが、目障りなことをしているから制裁を下してやるんだ。
いじめではない、正義の執行だ”
ハンセン病の患者であった私達は、その病が故に国民という枠から外され、またその枠の維持のためにより深く傷つけられてきました。
軍国主義が終わった今の時代はどうでしょう。
今でも見せかけの仲間意識のために差別・偏見・いじめは相変わらず続いています。
ヘイトスピーチ、出自による差別、学校でのいじめ、職場での執拗な嫌がらせ、足の引っ張り。
ニュースで報道される度に目にする、加害当時者達。
その顔にあるのは、自らの正当性に対するゆるぎない自信と、それと相反する自分自身の存在意義に対する限りない不信・不安です。
本当に残念なことに、そのような不安を抱えている人々にとって”いじめは楽しい”のです。
仲間と協力して逸脱者に制裁を下し、自らの優越と存在意義を確かめる。
これが楽しくないわけがありません。
そして当然、それが決して許されることのない、忌まわしい快楽であることは言うまでもありません。
私達はどうしたらよいのでしょうか。水は低きに流れるのたとえに身を任せ、行きつく果てのどぶで心を腐らせていくしかないのでしょうか。
そんなことはありません。私達は変われます。
不安や虚無感が人への虐げを生み出すのであれば、私達一人々々が尊重されていることを実感できればよいのです。人が人に大事にされていることを実感するとき、どうして敢えて人を害そうなどという考えが生まれるでしょうか。
大事にされなかった思い出、大事にされたかったのにそれが叶わなかった記憶が不安の悪魔を作りだしているのです。
眼前の人間、社会に、正面から相対して動じない人格を作り出すこと。自身の存在意義に自信を持ち、そうであるが故に踏みしだく他者を必要とない確かな人間性。
遠回りに見えますが、これがいじめ・差別の加害者を生み出さないための、最初の一歩なのです。
では、具体的にはどうすればよいのでしょうか。
私達は、それは”手と手をつなぐことから始まる”と思ったのです。
人に対して手を差し伸ばし、握手を求めるとき、私達はその人だけを見据えています。その瞬間、その人のことを何よりも最優先として捉え、尊重しているのです。そのとき私達は、私達がこの世界に生きていることを、互いに確かに実感しているのです。
そしてそのつながりを携えたままにもう一人と手をつなぐ。どこまでも続いていくことができる、人と人との関係がそこから始まるのです。
手の彫刻にはこのような想いが込められているのです。
色あせた、言い古された言葉、価値観のように思えます。しかしながら、それを心から信じ、私達が未だ叶うことがなかったその理想の実現に足を踏み出す時、人とつながる、尊重しあうというこの価値観は、新しい、真に意味ある価値観として再生するのです。
今回、日本財団のご援助のもとに、この新たな価値観を世界に向けて発信することが可能となりました。
日本財団におかれましては、これからも私達、恵楓園入所者自治会の良きパートナー、相談相手として末永く良い関係を続けさせていただければと思っております。
皆様、本当にありがとうございました。