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風をあつめて

不登校・ひきこもりの支援活動をしているNPO法人フリースクール阿波風月庵の代表をしているかぜさんです。この活動で色んな若者やその親御さんと会いました。人の心っておもしろいです。僕自身も活動の中で、生き方がどんどん楽になってきました。そんな不思議な心の話をしてみたいなあ!


「父子」の壁が崩壊する時 [2025年03月31日(Mon)]
「風月庵のジンクス」とは、この24年間で、活動の中から見つけてしまった「風月庵独自の法則」といえるものです。
その内容は、ひきこもり支援の錬金術と言い替えられると,
思います。

私が、全国のフリースクールを巡る旅で、まず訪れた大阪でのフリースペースでのことがきっかけです。
当時でもう10年以上ひきこもり支援を実践してきた所です。
その家族会の代表から、これから「ひきこもり支援」を始めるなら、まず「父親の会」を定期開催し、父親が家族や本人と社会への道筋を共に歩むことが肝心だと、初対面の私に、2時間熱く、説教されてしまいました。

おかげで、その重要性だけは心の奥にまで伝わり、風月庵が
スタートした年の12月には、「父親の会」を開催しています。

その「父親の会」で話し合われてきた内容には、ひきこもりの家族が社会へ参加していく道標が作られ、練られて来た様に思います。
現行の「夜の家族会」では、その雰囲気を今もとどめていると感じています。

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さて、その「父親の会」でも、何度も取り上げて、毎年のようにお伝えしていることは、父親と子どもの関係が柔らかく、自然なものにならなければ、社会に出た後の、若者の精神的な苦労は、以前と殆ど変わらないのです。

逆に言えば、父親と気さくに相談し、冗談も言えるようになってきたら、自分から社会に歩き始めるものだともいえます。

「なぜ、そうなのですか」と、良く問われますが、はっきりした説明はできないのです。
ただ、あえて理論的に説明をするならば、男性思考や男性のコミュニケーションが社会規範(社会を支配していて)となっており、男性的思考や、男性的コミュニケーションに馴染めずに、ストレスを抱えてしまう感覚に苦しんでいると判断できると、前回のブログでもお伝えしてきました。

目に見える状態で仕事をしていたとしても、精神的苦労(ストレス)は軽減されておらず、自分らしい・無理のない生き方が身についている状態迄は、育っていないからです。

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仕事も家庭生活も完璧にこなすお父さんと同じようにできない自分では、社会に出ていける筈がないと、A君は、子どもの時から思い込んでいました。
しかし、風月庵での体験や、皆と意見を交わすところから、どうも父親も苦手なことはあるが、うまくごまかしてやり切っているようだということを実感したみたいです。
もしかすると、自分も、父とは違うごまかし方(処世術というものか?)が出来る様に思い始めていました。

今まで母親と二人で行動していた息子に頼みこみ、庭仕事を男二人で毎週すると決めたのでした。
庭仕事が2か月、4か月と続いていく内に、父と息子の仕事の段取りや、進め方、次の打ち合わせや、作業に対する相談が、自然の内に交わされるようになりました。

何気ない会話が、自然にできるようになった頃、本人から「バイトの面接に行こうかな」との言葉が出て、実際に就労に向けての動きが進んでいき、1年という時間はかかりましたが、就職することができました。

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これは、ほんの一例に過ぎません。
「父親の会」で、話し合われ、もしかすると、こういうことなのか!と、議論を重ねていくと、どうも、やはり、「父親と子どものコミュニケーション」を開発し、家族内で馴染ませていく事から、家族が社会に開放されていくことに繋がると思えるようになったのです。

実際のどんな事に心を砕いて、どんな風に会話を進めていくのかは、各個人、各家庭で違っていて当然です。
そこは、家族会や学習会で深めていきたいと思います。

ただ、ひきこもっている状態に何もしてやれてこなかったことを、親が深く反省し、子どもに「何もしてやれなかった親で、すまなかった。」と、謝るところから始まることは、どの家庭でも、同じではないでしょうか。 /かぜ
「相談」という和平交渉 [2025年03月03日(Mon)]
ひきこもっている若者が外の世界(社会)に出ていくためには、
父親との和やかな関係が不可欠だと、家族会でよく訴えている。

若者は子どもの時から父親(両親かも)に支配されてきているので、それに加担してきた母親の優柔不断な態度も、同じく自分の敵だと思ってしまうのが通常だ。

その支配的空気感(雰囲気)に、訳もわからずに縛られてきていたのだが、自我の目覚めとともに、「なんだ、この支配的圧力は?」と感じ始め、だが、それに抵抗する術をあれこれやってみるのだが、全て失った時にひきこもりが始まるのだろう。

そういう意味では「ひきこもり」とは、精神的圧力に対する自己防衛する自死できない者の最終手段である訳だ。

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それは、「ひきこもり」そのものが何とかしてほしいという子どもから親へのメッセージなのだが、親も当事者の本人も、「もう自分だけではどうにもできないよ!一緒に、何とかする方法を考えてよ」という心の叫びであることを知らない。

親にしたら、懸命に親をやっている者への反発・反抗・攻撃・挑戦・責任回避・逃避と見えてしまう様だ。
「親だって、どうすればいいかわからない。だから、どうしたらよいか教えてくれ!出来る限りはしてあげたい。」と言いたくなる。
が、もし言ったら言ったで、「そんなことは、親の方で考えるべきだろう」と返されたら二言もないと考えてしまい、足止めとなる。

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親ができること、子どもが今自分で出来ることを相談できたら、道は開かれると思うのだが、そこまで行けない。
そんなこと出来るはずもないと、進もうとはしない。

親も、子どもも、「出来ることは何でもするよ。」の気持ちは持っているが、それが相手側には伝えられないし、お互いに伝わらないと決めつけているから、「ひきこもり」という状態が、ジリジリと現状維持でどこまでも続くようだ。

「できれば、投げ出したい!」と、時に家族会で、親の口から出てくるが、「きっと本人も同じような気持ちでいるのだろうから」との言葉も出てくる。
じゃあ、どうすればいい?

親子の冷戦がいつまで続くのかと思うと、暗い気持ちがより重く感じられてしまう

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さて、喧嘩にどちらがどれだけ悪いのか?の論議は、最も意味を持たないことである。
「喧嘩は両成敗」という言葉を私流に解釈すると、「双方が至らないところがあり喧嘩となったのだから、双方の至らなさを認め、仲直りする工夫と努力を双方でしてみる方法しかないよ」と、捉え直している。

その双方、お互いに至らぬところがあったと認め合えるのか? お互いに認め合い・仲直りする為の努力をする気持ちがあるのかを、問われていると考えるのです。

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何年間、10年・20年間と、この関係維持の冷戦状態を、和平へとつなげる交渉は、お互いの決心と、素直な心からの一言に、「相談」への第一歩の歩みが掛かっている。

自分の至らなさを認め、「ごめんよ」と親が謝り、「こちらも至らないところはある」と、子どもが謝り返す場面から、「相談」という対話の一歩が始まるのでしょうか。/かぜ
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