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風をあつめて

不登校・ひきこもりの支援活動をしているNPO法人フリースクール阿波風月庵の代表をしているかぜさんです。この活動で色んな若者やその親御さんと会いました。人の心っておもしろいです。僕自身も活動の中で、生き方がどんどん楽になってきました。そんな不思議な心の話をしてみたいなあ!


人生に意味はない [2025年01月29日(Wed)]
人生に意味はあるのか? ないのか?
いきなりそう問われたら、
「あると思うが、実際はないのだろう」と答えるのが、
私にとっては無理のない、正直なところだ。

「人生に意味はない!」と、諦めている人は、すごい!

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私は、それを、スッキリと、答えとしては言えない。
それはあまりにも寂しすぎるし、正直いって、気持ちがそうなのかと、感情の表面が、ブチブチと波打ってしまう。

「何か、違う!違うよ!」と、プチャプチャと、呟き続けてしまうのだ。

何故なら、私は生まれてきて、ここまで生きてきて、今も生きている。
それに、意味があるのか、ないのか等ということは、何度も、自分の壁にぶち当たる度に、問いかけ、考えてきた。
そんな私は、「考えることにこそ、意味がない。」と答えるだろうが、その問いかけを止める気もないだろう。

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この問いは、人生を共に歩む金言のような存在かもしれない。

だって、今、働いていようが、ひきこもっていようが、病床にあり、闘病中であろうが、それが、今のその人の人生を生きていて、=「生きている」ということに違いないから。

今の自分を、今の生き方を、好きなのかどうか?好きでいられるかどうか?正直、愛おしいと思えるかどうか?
そこを、繰り返し、問い続けることなのか?

意味がないから、何もしなくてもいい。
意味が分からないから、動きようがない。
意味がないから、動いても、意味が見つかるはずがない。
意味がないことだからと、何もしないことの理由として、
自分を納得させる言葉として使うのは卑怯だ。

何か、勘違いしているのではと、思ってしまう。
何か、勘違いしていると、感じる自分がいる。

しかし、意味があるから、何かをするわけでもない。

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生まれてきて、今生きていて、楽しく、したいことをやってみる。やってみてから考えよう。
やりながら考えるでも、いいじゃないか。

だって、今は、生きているのだから!
問い、悩み、仕方なく動くことも、生きているからできる。
どうせ、死ぬのが未来なら、私はやるしかないと思うけど、何もしなくて死ぬ人がいても、それに、私は拍手を贈る。

だって、今をどう生きるかなんて、何をするのかなんて、
それは、他人が決めるのではなく、自分が決めることでしか、自分が死ぬ時に、人生への諦めがつかないでしょ。
「誕生日」って、何? [2025年01月08日(Wed)]
私はクリスチャンになって28年、今の教会に転会して、23年になります。
毎日曜10:30〜12:00は、教会礼拝(集会)に出席しています。
牧師や役員のお話を聞きながら、居眠りをしていましたが、最近では眠らずに最後までお話を聞けるようになりました。

この教会では、毎月第1日曜の礼拝では、その月の誕生者を祝い、祈りを捧げます。
さらに、誕生日当日には、教会連絡ラインに、登録者から、「おめでとう」の文面が、次々と届けられるのです。

善き慣わしと、新入会者も、「おめでとう!」のメッセージをこぞって寄せ、参加してくるのです。
それだけを聞けば、微笑ましいコミュニティだと思われるし、そう感じていらっしゃる方も多いとは思います。

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ただ、ひきこもり感性を大切に暮らしている私から言わせてもらうと、誕生日は一人で味わい、じっくりと過去や未来に思いを馳せたい、大切な一日にしたいと願っているのです。

それなのに、送っていただいた「おめでとう」のメールに、「ありがとう」の返事をしないのは、人の道に反し、不義理になるのではと思うと、気になって仕方ないのです。
それを気にしている自分も、うっとうしい気分になり、イライラとしてしまう私なのです。

そこで、「誕生日が、何故めでたいのだ?」「私の誕生日を私がどう感じて、どう過ごそうが、私に決めさせてくれ!」
「他者が、おめでとう等と、勝手に言わないでくれ!」と、胸の中で、噴門とする気持ちが膨らんでいくのです。

なので、そのラインの中で、「おめでとう」のメッセージを送らないのは、私一人なのです。
儀礼的に、「おめでとう」と送り、自分は気持ちを切り替えて、自分の、その年の、その日の誕生日の感覚を味わうことをすればいいのです。
そして、一日の終わりに、「皆様、ありがとうございました」との一文をお礼の気持ちを添えて、送ることでいいのです。

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なぜ、私はすねて、そういった大人の対応を分かっていながらしないのか?
誕生日を、「おめでとう」を言いたくない、言われたくない人間も、今、この地球上で何人もいるということを、常識として、多くの人に認識してもらいたいのです。

私のひきこもっていた時代は、今よりも、鋭く、強く、深く、誕生日を祝うことを忌み嫌っていました。
一人でいても、母親の「誕生日、おめでとう」の言葉が、押しつけがましく響いてきて、耳を覆いたくなります。
闇に向かって、「放っておいてくれ!」「祝おうが、呪おうがわしの勝手じゃ!」と、何度も呟いていました。

毎年、誕生日はやってくるのですが、その毎年やってくることも、私を世界がいじめているようにも感じていました。
勿論、誕生日を家族に祝ってもらった経験もあるのですが、表面的につくろった家族との生活に、冷ややかな感覚を覚えていた私は、「おめでとう」をそのまま受け取ることはできなかったのです。

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それでも、妹や弟がプレゼントをもらって、ケーキを嬉しそうに食べているのを見ていると、私の感覚がひねくれているのだろうとも、どこかでずっと、正直思っていました。
また、自分の子供二人の誕生日には、必ず祝うなにがしらの用意をして、「今日まで生きてきてくれて、ありがとう」の気持ちを伝えることはしていたように思います。

そういう意味では、「誕生日、生まれてきてくれて、ありがとう。今まで生きていてくれて、ありがとう。」というのは、親から子供への、身勝手なメッセージなのかもれません。

しかし、子供に、押し付けるものではないと思います。

その意味や親の気持ちを分かるとしても、私が「誕生日」に対して、アレルギーを感じ続けているのは、育てられた家庭での、親のコンプレックスが、私の中で、今だにブクブクとくすぶり続けていて、ふっとした時に、例えば誕生日とかに、ドロドロと噴き出してくるのでありましょう。

書初め2025 「思風透明」 [2025年01月02日(Thu)]

今年も、2025年の書初めを夫婦でしました。
1月2日の恒例行事となっています。

私たちそれぞれのやり方で、自分たちの支援活動をしていますが、今年の所信表明と、昨年一年の心情に思いを巡らして、言葉を拾い集めて、書初めを楽しんでいます。

年末に入り、自分の一年間を振り返り、来年に思いを馳せる時、「初心に帰ろう」と、ふと思ったのです。
今回、私は、私たち夫婦がともに親愛する佐藤初女さんが思い浮かび、年末から初女さんの本を読んでいました。

大晦日から元旦にかけて、心に留まった言葉が「透明」というものでした。
その「透明」という言葉から、吉村思風さんとの対談の場面へと移っていきました。

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無色透明、一点の曇りなし、その人のありのままを「透明」の気持ちで聴くことが、その人と向かい合う時に、あれこれと迷い、詮索することなく、求められている本音だけをそのままに「はい!」と言って、関わってみる。

人の話を聴くときに、人と関わるときに、まず自分の心が、「透明」であることが求められるというのです。

そうしていると、機が熟し、何かと何かが繋がった瞬間に、陶芸でいう1300度に達した時に、命が吹き込まれて、器は「透明」になり、心の情熱が、人の心を「透明」にまでするという内容でした。

昨年の後半から、やるせない気持ちで、風に身を任せた風船のような私には、暮らしの中で気持ちは彷徨っていました。
「透明」の言葉に、その運んでくれている風の思いを感じ取り、そこに身を任せる。
気持ちを「透明」にしようと、心に響いたのでした。

そこで、書として「思風透明」を描こうとなったのでした。

妻も、同じように、生活の指針であり、活動の支えとなる言葉を探していたようです。

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妻は、「ゆるゆると、コツコツと、粛々と、淡々と」という言葉を描いていました。

何事も、テキパキと、私の何倍も要領よくことを進める妻が、絞り出した言葉に、温かさを感じていました。

「待つ」という時の流れが育ててくれる、心の成長を信じてやまない私たちの祈りが,感じられたからです。

自分が紡ぎだした言葉を温めつつ、時間をおたためる活動と、透明な暮らしを大切に、精進したいと願っています。
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