物の哀れを知る心
[2026年01月07日(Wed)]
明けまして、おめでとうございます!
今年は、正月気分も味わう余裕もないまま日常生活に戻ろうとしています。
それでも毎年の慣例でもあり、2日には書初めを楽しみ、
2種の作品を仕上げました。
去年を振り返り、今年一年を望むときに、心に浮かぶ想いや言葉やイメージから、その年の文字を決めていきます。
ひとつは、私が活動の中で、自分の想いの芯(真意)なっているものを見詰めて探します。
もう一つは、信仰の中で、自分の心のあり様に感性を合わせ、浮かんでくる想いを言葉にしてみようと試みます。
私が活動や信仰で立ち止まり、感じている、考えていることに焦点を当てて、自分の中に、浮かびくるものを探すのですが、今回はキリスト教の機関紙「風:プネウマ」の文章からヒントをいただきました。
それが「物の哀れを知る心」と、「大自然の生命の海」でした。

「物の哀れを知る心」を一言でいうと、「造化:ぞうか」と、私は理解しています。
その言葉との付き合いは長く、初めて出会ったのはキリスト教に出会った45歳の頃に、良寛の詩に見つけました。
「物の哀れを知る心」を作句(作歌)の世界でいうところの、芭蕉が「造化:ぞうか」と提唱し、広く知られるようになったと聞いております。
「万葉集」では、その心を読み取れるが、「古今集」以降の歌にはその心がないと、良寛は言っていました。
それを体現したのが、観阿弥・世阿弥の「能」や、千利休の「茶道」には、その心が基となり活かされているという。
それこそが日本人の文化:心、そのものだと、本居宣長は言うのです。
若い時から、「日本の心とは、何か?」を考えてきた私は、彼らの意見に耳を傾けつつも、自分の理解や、自分の身になる言葉に出会うように、今も探求を続けているのです。
明治以降の日本の政治は、文化性が失われてきて、いかんともしがたい思いを持ち、今の日本の文化について、今後に辛さを感じていたのは、私だけではなかったと、納得したのでした。
その兆候は江戸末期の本居宣長や、良寛も同じ危惧を抱きながら、未来に託して、書や詩にしたためて来たのかと思うと、心打たれる思いがします。

もう一つの「大自然の命の海」は、私の理解では、一言でいえば、「風:プネウマ」となります。
「造化:ぞうか」という言葉にも、創造主とか、大自然の産物とか、その働きとの意味が含まれています。
「風:プネウマ」は、「魂」という意味もあり、個人の魂でもあり、宇宙に広がる生命の全ての魂とも言えます。
ですから、私の理解では、この二つの言葉は繋がっており、同一視もできるのです。
これらの言葉は、今の私からすると、目の前の些細なことをじっくりと観察し、味わっていると、生きること、生きる意味の真意が伝わってくるのだと受け取れるのです。
活動では、日常の些細な変化を、驚きと感動で受け止め、良いことも悪いことも、全体の視点からバランスをもって見直し、人は、おのが人生をゆるりと楽しみながら生きることとして、「おもしろい」と共感していく私でありたいのです。
今年は、正月気分も味わう余裕もないまま日常生活に戻ろうとしています。
それでも毎年の慣例でもあり、2日には書初めを楽しみ、
2種の作品を仕上げました。
去年を振り返り、今年一年を望むときに、心に浮かぶ想いや言葉やイメージから、その年の文字を決めていきます。
ひとつは、私が活動の中で、自分の想いの芯(真意)なっているものを見詰めて探します。
もう一つは、信仰の中で、自分の心のあり様に感性を合わせ、浮かんでくる想いを言葉にしてみようと試みます。
私が活動や信仰で立ち止まり、感じている、考えていることに焦点を当てて、自分の中に、浮かびくるものを探すのですが、今回はキリスト教の機関紙「風:プネウマ」の文章からヒントをいただきました。
それが「物の哀れを知る心」と、「大自然の生命の海」でした。
「物の哀れを知る心」を一言でいうと、「造化:ぞうか」と、私は理解しています。
その言葉との付き合いは長く、初めて出会ったのはキリスト教に出会った45歳の頃に、良寛の詩に見つけました。
「物の哀れを知る心」を作句(作歌)の世界でいうところの、芭蕉が「造化:ぞうか」と提唱し、広く知られるようになったと聞いております。
「万葉集」では、その心を読み取れるが、「古今集」以降の歌にはその心がないと、良寛は言っていました。
それを体現したのが、観阿弥・世阿弥の「能」や、千利休の「茶道」には、その心が基となり活かされているという。
それこそが日本人の文化:心、そのものだと、本居宣長は言うのです。
若い時から、「日本の心とは、何か?」を考えてきた私は、彼らの意見に耳を傾けつつも、自分の理解や、自分の身になる言葉に出会うように、今も探求を続けているのです。
明治以降の日本の政治は、文化性が失われてきて、いかんともしがたい思いを持ち、今の日本の文化について、今後に辛さを感じていたのは、私だけではなかったと、納得したのでした。
その兆候は江戸末期の本居宣長や、良寛も同じ危惧を抱きながら、未来に託して、書や詩にしたためて来たのかと思うと、心打たれる思いがします。
もう一つの「大自然の命の海」は、私の理解では、一言でいえば、「風:プネウマ」となります。
「造化:ぞうか」という言葉にも、創造主とか、大自然の産物とか、その働きとの意味が含まれています。
「風:プネウマ」は、「魂」という意味もあり、個人の魂でもあり、宇宙に広がる生命の全ての魂とも言えます。
ですから、私の理解では、この二つの言葉は繋がっており、同一視もできるのです。
これらの言葉は、今の私からすると、目の前の些細なことをじっくりと観察し、味わっていると、生きること、生きる意味の真意が伝わってくるのだと受け取れるのです。
活動では、日常の些細な変化を、驚きと感動で受け止め、良いことも悪いことも、全体の視点からバランスをもって見直し、人は、おのが人生をゆるりと楽しみながら生きることとして、「おもしろい」と共感していく私でありたいのです。



