親を責めるという成長
[2025年06月13日(Fri)]
活動の中で、子どもが親を責め、追及するような攻撃的行動・態度は、よく見かけることです。
そんな時期を一緒に乗り越えることが、父・母・子どもがそれぞれに心の成長を進めていくことだし、何より、家族としての成長を歩んでいる証しでもあります。
何故、ひきこもりという世界に居るのかといえば、今の目の前の問題ではない、家族の問題に向き合い受容する為なのです。
多くの場合、原因を追究しない、誰か一人の責任にしないことを受け入れてから、親も子も、其々が少しずつ穏やかになり、新しい発想で、受容の方向に進んでいきます。

原因追及は、問題解決に近づいている様でいて、心の成長を見つめる問題解決からは責任回避しているといえます。
どこかで、自分には責任がない、「親より子供に原因:責任がある」「子どもより親に原因:責任がある」と、どこかからそんな言い訳を探し出して、逃げているだけなのです。
原因追及を諦め合い、今の自分を、今のお互いの状況や気持ちを少しでも好くする関係を創ろうとすることが必要です。
「原因は私にあるかもしれない」と気付き、「でも、私一人の努力では、方法では、進め方では、未来がハッキリしない。」
そんな今後の限界を実感した時に、動きは始まります。
なのに、子どもが、母が、父が、自分以外の誰か一人に原因を押し付けている内は、誰の心も、動いて行かないのです。
泥沼化して、長期化することになっていくのです。
原因よりも、今の子どもの気持ちを、混沌とした心の世界を、穏やかにして、親子関係をゆったりとしたものへと変え:成長させるには、自分は何が出来るのかと考え行動するようになると、しかも、家族各々全員が、そんな気持ちになった時点で、心の解決への道のりを歩み始めます。

子どもにすれば、既に長い時間、24時間365日、親から責められ、学校や社会から責められ、自分を守り、維持することだけを懸命に続けながら生きながらえてきたのです。
ある若者の叫びです。
母親から、謝りの言葉を貰って、すっきりしたいが、謝ってくれても、スッキリには至らない;限界で、腹立つ、母にぶつけても、何も返ってこない→6年前から何も変わっていない→この6年間を返せといいたい。
親や、他の家族からは、そうは見えないと思います。
しかし、ひきこもった人間からは、自分の苦しみを分かろうともせず、言いたいことを言って、責めてきているという風にしか思えないのです。
だからこそ、自分の今までの苦しみや、辛さや、戸惑いや、やるせなさや、絶望感を、少なくとも親には知らしめたい。
その実感を、その時間を、背負い、味わい苦しむ義務があると思い始めるのです。

ところが、心のおくには、親を責めたいのではなく、自分の苦しんでいた心のやるせなさを知ってもらい、自分の味方になってほしいと、望んでいるのです。
これは社会に向かっての提案であり、抗議であり、繋がりを求めている叫びでもあります。
「親を責める」という行為は、直接社会に向かって叫べない子どもが、親を練習台にして、叫び、要求し、わがままを言い、社会での受け入れを、求める提案を始めた証明なのです。
ですから、親は子供から責任追及を、今さらされているのではなく、これから動き始め、社会に出ていくための、第一歩の訓練を:社会参加のリハビリを始めたばかりなのですから、根気良く付き合ってあげてほしいのです。
言葉は、親を責め、改善を迫るところから始まります。
しかしそれはいつしか、社会への要望であり、生き方の指針となり、今までの「自分を許す勇気」へと成長していくことで、
安心した生き方を身につけていかれると思います。
そんな時期を一緒に乗り越えることが、父・母・子どもがそれぞれに心の成長を進めていくことだし、何より、家族としての成長を歩んでいる証しでもあります。
何故、ひきこもりという世界に居るのかといえば、今の目の前の問題ではない、家族の問題に向き合い受容する為なのです。
多くの場合、原因を追究しない、誰か一人の責任にしないことを受け入れてから、親も子も、其々が少しずつ穏やかになり、新しい発想で、受容の方向に進んでいきます。
原因追及は、問題解決に近づいている様でいて、心の成長を見つめる問題解決からは責任回避しているといえます。
どこかで、自分には責任がない、「親より子供に原因:責任がある」「子どもより親に原因:責任がある」と、どこかからそんな言い訳を探し出して、逃げているだけなのです。
原因追及を諦め合い、今の自分を、今のお互いの状況や気持ちを少しでも好くする関係を創ろうとすることが必要です。
「原因は私にあるかもしれない」と気付き、「でも、私一人の努力では、方法では、進め方では、未来がハッキリしない。」
そんな今後の限界を実感した時に、動きは始まります。
なのに、子どもが、母が、父が、自分以外の誰か一人に原因を押し付けている内は、誰の心も、動いて行かないのです。
泥沼化して、長期化することになっていくのです。
原因よりも、今の子どもの気持ちを、混沌とした心の世界を、穏やかにして、親子関係をゆったりとしたものへと変え:成長させるには、自分は何が出来るのかと考え行動するようになると、しかも、家族各々全員が、そんな気持ちになった時点で、心の解決への道のりを歩み始めます。
子どもにすれば、既に長い時間、24時間365日、親から責められ、学校や社会から責められ、自分を守り、維持することだけを懸命に続けながら生きながらえてきたのです。
ある若者の叫びです。
母親から、謝りの言葉を貰って、すっきりしたいが、謝ってくれても、スッキリには至らない;限界で、腹立つ、母にぶつけても、何も返ってこない→6年前から何も変わっていない→この6年間を返せといいたい。
親や、他の家族からは、そうは見えないと思います。
しかし、ひきこもった人間からは、自分の苦しみを分かろうともせず、言いたいことを言って、責めてきているという風にしか思えないのです。
だからこそ、自分の今までの苦しみや、辛さや、戸惑いや、やるせなさや、絶望感を、少なくとも親には知らしめたい。
その実感を、その時間を、背負い、味わい苦しむ義務があると思い始めるのです。
ところが、心のおくには、親を責めたいのではなく、自分の苦しんでいた心のやるせなさを知ってもらい、自分の味方になってほしいと、望んでいるのです。
これは社会に向かっての提案であり、抗議であり、繋がりを求めている叫びでもあります。
「親を責める」という行為は、直接社会に向かって叫べない子どもが、親を練習台にして、叫び、要求し、わがままを言い、社会での受け入れを、求める提案を始めた証明なのです。
ですから、親は子供から責任追及を、今さらされているのではなく、これから動き始め、社会に出ていくための、第一歩の訓練を:社会参加のリハビリを始めたばかりなのですから、根気良く付き合ってあげてほしいのです。
言葉は、親を責め、改善を迫るところから始まります。
しかしそれはいつしか、社会への要望であり、生き方の指針となり、今までの「自分を許す勇気」へと成長していくことで、
安心した生き方を身につけていかれると思います。