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風をあつめて

不登校・ひきこもりの支援活動をしているNPO法人フリースクール阿波風月庵の代表をしているかぜさんです。この活動で色んな若者やその親御さんと会いました。人の心っておもしろいです。僕自身も活動の中で、生き方がどんどん楽になってきました。そんな不思議な心の話をしてみたいなあ!


「私」発信メッセージ [2024年12月16日(Mon)]
「私と話をしてもらえないのです。」と、あるお母さんが、
「どうするすべもありません」と、相談に来られました。

同じ家の中でいても、会話ができないのです。
「話ができないのなら、もうどうすることもできません」と、訴えておられるようでした。

必要なことはラインで伝えてきますが、必要なことだけで、「元気なの?」と、一言送っただけでも、返信はありません。
最近では、ラインだけが唯一のコミュニケーションなのに、返事をしてもらえない時が増えてきました。
どうしたらいいのでしょうか?

私がそのラインの内容を受け取ったとしても、同じように、一方的に切ってしまうと思います。

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それ迄に、子どもは、何度も話をしようと努力し挑戦したが、何度も裏切られて、聴いてもらえなくて、親から相手にしてもらえなくて、もう諦めてしまった経験が何度もあります。

返事をしても意味がないし、余計に傷つくだけならしないと、確信を持っていて、これ以上は、傷つかない方法をとっているだけなのです。

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そこで、提案されるのが、傷つかない方法があることに出会ってもらうことです。

それが、「私」メッセージです。

「寒くなりました。ストーブを出してきました。」は、「私」メッセージなのですが、「寒くなりました。風邪をひかないようにね。」は、「あなた」メッセージになります。
その違いを意識してもらいたいのです。

「私」メッセージは、安心できるが、
「あなた」メッセージは、拒否されるということです。

「私」メッセージは、「私」のことを伝えているだけで、「あなた」に、メッセージはないのです。
「あなた」メッセージは、お節介、要望、お願い事、あるいは、要求、追及、命令として受け取られてしまいます。

「あなた」メッセージには、圧を感じるし、自己防衛をするように反射的に心が動いてしまうのです。
それでは、親の気持ちや本音が子供に届くはずもありません。
まず、この鎧(壁)を取り除かなければ、コミュニケーションが始まることはないのです。

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そのためには、「私」メッセージだけを送り、責められることはない、要求されることもないメッセージを送り続けることで、送るメッセージに、安心感を持ってもらうことから始める必要があるのです。

「私」メッセージは、「あなた」を傷つけませんが、「あなた」メッセージは、「あなた」を傷つけているのです。

「あなた」を気遣うことも、「あなた」に、何かを求めていることになると、忘れないでほしいのです。
「あなた」に、何かを求めるのではなく、「私」からのメッセージを伝えたいことだけに注意を払ってください。
「ファシリテーター」の役割を持ちつつ [2024年10月29日(Tue)]

会話に入って行くマナー
お母さんと、子どもが話している場面に、いきなりお父さんが入ってくる場合とか、その逆の場合も含めて、会話に入って行く時のマナー:必要最低限の配慮を求めなければなりません。

「ごめん!今は、〇〇と話しているから、一旦話を終わらせて、一緒に話しましょう」と、「3」の人へのお願いと、相談が必要です。

逆に、3の人は、「1対1」参加者に敬意をはらい、配慮する事で、互いに、安心・安全の「3」の会話を始める事へと、繋がります。

キャッチボールや、「第3の答え」
それでは、「1対1」は、そのような配慮や工夫が必要ないのでしょうか?
一番大切なのは、会話がお互いの一方通行になっていないかということに注意することが必要です。
話がキャッチボールで、そのやり取りに楽しさを感じ合えて
いるのかを意識して見守る視線を忘れてはなりません。

 基本的なファシリテーターとしての役割は、「1対1」では、双方共で、その役割が可能ならよいと思うのですが、そうではないことの方が多いようです。
 その場合は、相手に対して、自分がファシリテーターとしての役割を担う事を決心し、話の進行や、キャッチボールのやり取り、「第3の答え」や話題が出るような展開になっているのか? 等を、自分と相手とに問いかけながら進めることで、話が活発になることに挑戦してみましょう

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「3」以上の人間関係を支える目線
「3」以上の関係や、会話では、ファシリテーターは、なくてはならない存在となるでしょう。

先ず、大切にしなければならないことは、参加者は、誰もが、「対等」であり、「敬意」を持って扱ってもらえる事が、保証されている必要があります。

その点をお互いに認め合い、それにそぐわない態度や言葉掛け、言葉使いには、真摯に受け入れて、お互いを大切に扱う努力を重ねる事で、その「場」が温められるのです。

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「場」は、誰かが努力や工夫をして生まれ、作られたりするものではありません。

その場に参加している全員で作られると考えるべきです。
その仕掛けをしたり、見守りをしたり、時には修正をして、「場」が動く様に勤めるのは、ファシリテーターとしての役割:仕事といわなければなりません。

ファシリテーターの仕事は、植物を育てる時の土の管理をして、植物がすくすく育つ様に手をかけることですが、手はかけすぎると自分が育つ力を奪ってしまう事にもなりかねません。

そこは、なかなかに難しいのです。

安全・安心・信頼のある「場」を温める為に、私は、活動の場で、支援の場で、家庭の場で、親子の場で、「場」を温めて、育てる役割を、どう進めることが、皆を、各自を大切にする関わり方になるのだろうかと、そういう目線で観るように努めています。
努めると、出来ているとは違いますが、務めています。。

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ファシリテーター学習として
風月庵活動の中で、「こころの会」というグループ・カウンセリングの試みを、長年積み重ねてきました。
 5〜10人程の参加で、4つの守って欲しい(気にかけてくだされば、OK!)ルールをお願いして、基本は、各自のニックネームで会話を進めます。

・会での話は、個人情報を尊守し
他所では口外しない

・話す人以外の全ての人は、そのまま聴く
 終わるまで聴く(常に話している人は一人)

・質問に対する応答はせず、自分の経験や
気持ちを大切にしたことのみを話す

・司会・議長はおかず、ファシリテーターが
「場」の調整を行う

私は、「こころの会」で、ファシリテーターの役割を担当させてもらい、多くのことを学ばせてもらいました。

また、教会での話し合いの雰囲気が、以前に比べて、随分と話しやすくなりました。
毎週日曜日に、礼拝という集会があるのですが、ここでの「分かち合い」という話し合いの時間があります。
その内容が豊かに広がっているのも、教会員として賜物です。

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家族や親子でも、話すことに不安や苛立ちを持たずに、話を進めることができるようになっています。

家族や、職場や、何かの集まりで、自分がファシリテーターとしての役割が、少しずつ担えるようになっていけば、もっと話し合うことが、豊かに広がり、自分も楽になっていけるのではないでしょうか。
「1対1」から「3の場」に [2024年10月12日(Sat)]
「1対1」から始まる
1対1の関係作りも「場」を作ることを意識するところから始めます。
この「場」は、両者間に漂う空気感や、気持ちでの安心感、関係性の信頼感等と同じ意味を持つと考えています。

日常の会話や、やり取りの中で、「安全」と「安心」と「信頼」が、そこはかとなく空気に漂い、心の奥でジンワリと響きあっているようなエネルギー(動き)を感じあえている状態だともいえます。

「場」作りは、そんな「1対1」の関係作りから始まります。

それは、支援者と父、支援者と母、支援者と当事者、支援者Aと支援者B、父と母、親と子と、それぞれの関係において、「場」を作り、豊かなものに育てていき、互いが刺激し、支えあえる関係へと成長させていきます。

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「1対1」から「3の場」へ
「1対1」で生まれた「場」を実感しつつ、成長させていくのですが、そこに広がりを持たせることが「3の関係」への発展です。

皆さん、家族、仕事場の同僚、趣味の仲間、諸々のコミュニティでの集団の関係性の中で、安心でいて、安全に関わりを進展させる事は、誰でも容易ではありません。

特に、私たちタイプの人間は、その技術や感覚が分からないから、コミュニケーションで悩み、戸惑い、苦しんできたのですから。

「第3の人」の表現・理解能力を計る
集団の多くは、「3」以上の関係と言ってよいでしょう。

いよいよ、3の関係作りが始まります。
自分と相手との「1対1」の関係を意識しながら、同時に、もう独りの「第3の人」の存在や、話題の情報共有が出来ているのか?
2人の会話に入ってこられているのか? 
時々は「第3の人」に話題を振り、問いかけたりしながら、「3」の会話が、「場」として温まっているのか? 
共有できているかを確かめ、サポートしながら話を進めます。

「第1の人」は、「第2の人」との会話を進めながら、同時に「第3の人」の表現や理解能力を計り、スムーズに会話に入ってこられる手助けやチャンスを作り、話を進めます。
これは、見えにくい、難しい役割なのです。

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「場」に、ファシリテーターの役割
話を進める時に、そういう話の進行と動きを手助けし、話しやすくなるように調整する役割が必要です。
その役割を担う人を、「ファシリテーター」と言っています。

ファシリテーターの役割が十分に反映されていると、話しやすいばかりでなく、言葉遣いや、発想も緩やかになり、信頼を持って、その話の「場」に居られて、安心して積極的な参加へと促されていくことに成ります。

「3」の場に入る時の配慮
「3」の場では、特に「1対1」の話の中に第3の人が入ってきた場合は、第3の人への配慮や、気遣いが必要となります。

同時に、「1対1」から「3」の場へと、雰囲気や会話の流れを説明し、「場」を作り直すことを始めます。

第3の人が参加することを認められるのか?どうか等、暗黙の中でことを進め、其々が了解できるところから、「3」の場を整え、温め、会話を始めなければなりません。

そういう意味では、「1対1」の会話の場に、第3の人として入っていく場合は、周りから様子を伺い、「1対1」の2人に了解を得る手順を経る等の、会話に入る許可を貰う必要があるでしょう。                  →つづく
「ひきこもり」は、動かないのがいい! [2023年05月30日(Tue)]

「もう、自分は、どうなってもいい。」「どうかなる筈もなく、存在さえなくなればいいのに」「どう考えても、失敗するしか頭に浮かばないから」「とりあえず、死ねないから、生きているだけだから」等と真剣に思いつつ、全てのことに諦めている人の心を動かすのは至難の技であろう。

「動きたくない時は、動かないのが妙案である」
 良寛禅師のコトバに似たようなものがあった。

はてさて、そんな思い、気持ちに時間をかけて、てこをねじ曲げ、動かしてきた自分(私自身)は、一体どうしてここまで来たものかと振り返ると、頭を抱えてしまうのです。

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 動きたくない人間を無理に動かそうとすると、お互いにストレスになるのは当たり前ですね。
 ぶつかり、お互いの感情もすり減らすことになりますね。
 そんなことが続くと、憎しみも生まれたりしませんか?

 正直、ふっと、動きたくない気持ちも分からぬでもないのなら、いっそ、認めて、「お互いに、動きたくない気持ちは分かるよ」までで止めておきませんか。

 そこを、自分だって動きたくないところを、これではいけないと、自分に言い聞かせて頑張っているんだから、あなたも頑張って生きろ! 等と、自分の考えを押し付け始めるところから、関係が、気持ちが、ややこしくなってくる。

 人は動きたい時に動き、動きたくない時には動かぬ方がよいと、そのままに読み込めれば、それでいいのだ。
と、バカボンのパパの言葉が、天から降りてくる。

 しかし、凡人の我々は、それでは人に迷惑が掛かる。
自分の食いぶちくらいは自分で稼ぎ、自分の身の回りのことぐらいは他人様の世話にならず、自分の及ぶところで満足できてこそ、一人前に生きているといえるらしい。

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 誰がそんなことを言い、現実離れの教訓がまかり通るのだ?
 しかし、しかしだ、今の世の中で、他人様に迷惑をかけずに生きていられる人は誰もいない。

それならば、50歩100歩の違いであり、それ程の違いはなく、皆、全ての人間は他人様に迷惑を駆け回って、何となく、其々に、命をつないで生きていると、神の目からは見えるのでありましょう。

私は、何を言っているのでしょうか?
ただ、真剣に、
「動きたくない時は動かないのが妙案である」と、
1週間だけ自分に言い聞かせてみませんか?
その結果、どんな風に自分が変わっていけるのか、冒険するのは恐いですか?

でも、ひきこもっている若者に、冒険をしろ・挑戦しろといい続けているのは、「動きたくない時は動かないのが妙案である」と、言い聞かせる冒険(挑戦)をしていないあなたと、同じようにも見えるのですが・・・。

今回は、すごく投げやりな内容になってしまいましたね。
すみません。
そんな時もありますよねと、許していただけると助かります。
育て方が悪いと信じ込ませる学校神話? [2022年12月13日(Tue)]

不登校・ひきこもりの支援活動を進めてきて、よく聴く話しのひとつに、「原因探しはやめましょう」といわれますが、多くのお母さんは、「私の子育てが悪かった、間違っていたのでしょうか?」と自分を責められる場面によく出会います。

正直、ご本人(子ども)が今求めている関わり方に、親が応えられていないという事実はあるでしょうが、だからといって、今までの子育てが悪いとか、間違っているとはいえません。

悪いとか間違いというなら、本人も、親も、学校も、社会も悪いし、間違っているのであって、お母さんだけが悪いと思ってしまうところに、今の子育ての落とし穴があると考えます。

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以前私は、娘と息子の二人の子どもを育てていて、片親であることに恥じない、人並みとは一味違う子育てを貫くことで、離婚して母親がいない子育てにおけるハンディを、ごまかそうとしていました。

そんな後ろめたさから、回りからどう思われているのだろうかと、とても気にしながら、自分の子育てを点検していた様に思われます。その片親というところを気にしていますから、何か子育てで困ったことが起きると、【やはり片親だからそうなったのか?】と自分を責めることを始めてしまいます。

そんな考えは、学校が教育の全てを担っていると思いこんでいる神話だと私は思うのです。子育てをしているのは親です。学校はその一部を担っているに過ぎません。そこを忘れていては、子育てに迷いが生じるのも無理はありません。

逆に、今の時代は、子どもに、回りの社会が、大人が、学校が、マスコミが影響を与え、育てているのであって、親はその役割の一部しか担えさせて貰ってないとさえ見えるのです。

子育ては母親の責任としてしまう社会(教育)の考え方はいつから始まったのでしょうか?

江戸時代の子育て書には、衣食住の世話をするのは母親の役目であり、子どもが社会で生きていけるように一人前に育てるのは父親や在所(社会)の役目だという記事を思い出します。

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今は、子育てしている学校と、生活している家庭と、親が働いている職場とが別々で、親の働く姿、生きている姿を自分の子に、生活の中で味わうことが出来にくい社会です。どちらかというと、子育て、家庭生活、仕事(社会生活)の場面は、違っていて当然(健全)だと思っておられる方が、ほとんどなのではないでしょうか。

江戸時代での子育ては、子育て、家庭生活、仕事(社会生活)の場面は同じであり、近くで想像出きるエリア (範囲)で、黙っていても伝わり、分かることが多かったのです。

今の時代は言葉にしなければ伝わらず、言葉にしただけでは誤解を生むような、其々が別の世界(世界観)で生活しています。
共有体験が乏しく、想像してお互いに理解できるような関係を作ることが、難しくなっているのです。

時代の流れのままでは、親の価値観が子どもに伝わらない時代といえます。親の価値観の違いを伝える最適な方法として、「絵本の読み聞かせ」があります。父親、母親、祖父母と、其々違った雰囲気で絵本を読んであげることは、大人の価値観を子どもに伝えている作業だと私は考えているのです。

絵本でなくても構いませんが、ゲームでも、遊びでも、親子で一緒に行動する、工夫する、楽しむこと、その時間が親から子どもへの価値観を伝授している時間となり、言葉でのしつけなどは必要が無くなると、私は考えるのです。

「子どもとの遊びの時間を大切に育て直しましょう」
というのが「不登校・ひきこもり支援」の真骨頂との提案です。
成長を補い合う関係 [2022年10月14日(Fri)]

活動を進めていて、時折立ち止まったように、疑問に気付き考え込んでしまうときがある。

不登校(不出勤)ひきこもりの状態が何故動かないのだろうか?という疑問である。

思うに、動かない努力に努力を重ねて、今の状態を動かさないことに力を惜しみなく注いでいるのではないか?
親はそれを本人の責任といい、本人は親の責任だと信じて疑わない。お互いにそこをぶつけて論じることはない。
何故なら、答えはわかっているから!変わるはずもないから!

まさしく、動かない努力を惜しみなく注いでいることに見えてくるのである。実際に、今の状態を動かさない努力とはどんなものだろうか?

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当たり障りのない、トラブルの起きない、強い口調で言い争わなくていい関係を維持したいのでしょう。
そんな風に言うと、喧嘩をしろ! トラブルを起こせ!と、云っているようであるが、それは違う。

喧嘩をして、仲直りをして、お互いの言い分を知る。
トラブルを起こして、今まで云っていなかった問題を、気分のウサを晴らそうではないか? 本当のところはどうなのかはぶつかってみないと伝えることにはならない。

その、喧嘩、トラブル、ぶつかる、暴れるが怖いから、そこを避けるために努力していると思い込んでいると見える。

本当にそうだろうか?

些細なトラブルでも変化(成長)は家族其々に生まれるのです。そのトラブルが、さしたるトラブルであるのかないのか、その境目を探ることが家族の動きを作る上で大きな発見となる。

些細なトラブルの積み重ねや、変化球の工夫や、その変化を楽しめるようになると、生活が、家族の関係が楽しくなってきて、お互いの成長を支え合っていることも発見することになるでしょう。

あなたは、あなたの家族は、動かない努力を惜しみなく注いでいるのではありませんか?
言葉に気持ちを練り込む [2022年07月21日(Thu)]

先日の支援学習会で、2家族のコミュニケーションの違いについて話し合いました。

Aさん宅は、長年関わり方に工夫され、実践を積み上げて、結果も出されているご家族です。
勿論、まだ、課題はありますが。

B父さんは、沢山の本を読まれ、どう関わりを作るかは知っておられます。それを実践されているのに、変化がなく、同じことの繰り返しの様に思われ、結果も出ているとは思えないということでした。

B父さんは、朝「おはよう」、帰宅すると「ただいま」、の言葉を、ドア越しにするようになって数ヶ月が経つというのです。
「返事がなくても、やり続けることですね。気負わずに出来るようになると、何か変わってきますから。」と、Aさんから続けることへの励ましの言葉がありました。

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反応がずっとなければ、期待している親は寂しいし、意味がないのではと考えるようになってしまいます。
確かに意味がないように思えますが、少なくとも父親が自分に気遣ってくれていることは伝わっているでしょう。
しかし、判を押した様に、聞き取りにくい声で、「おはよう」「ただいま」では、安心できる感覚を、ご本人に届けられてはいないようです。

「挨拶」は、まずは「私はあなたの味方になりたい(でいたい)。攻撃する意図はない(仲良くしたい)。」を相手に伝え、理解を求め、安心出きる関係の基礎を築くという役割があります。

握手は、銃を持っていないという証明だし、頭を下げるのは小さな降伏表現であるといわれます。

「挨拶」をする時、その言葉にそれらの気持ちを練りこんでいることが肝心です。それらの想いをこめて、願いをこめて、言葉をかけておられますか?

「おはよう」「ただいま」の一言に、自分のことを伝え、相手のことを気遣い、お互いの健康状態や気分の有り様を伝え合い、お互いのそれらの情報交換を共有して居ることを確認できると、安心感が腹に納まってくるようです。

安心出来る会話は、その関係が育ってきて初めて、歩み始めることが出来るのでしょう。

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具体的な言葉は「おはよう」「ただいま」だけですが、その言葉に「元気か? 父さんは少し元気がないよ!」「たまには声が聞きたいな」「安心して毎日が過ごせているならいいのだが」「父さんは、今日は少し疲れているよ」「よく眠れなかったけど、元気をだして行って来るわ」等々、今の正直な気持ちを、ひとつ選び、想いを練りこんで、気持ちをこめて一言「おはよう」「ただいま」と言葉にしてみましょう。

その練りこんだ思いは、新たな「安心感」という雰囲気となって、お子さんから、きっと返ってくる筈なのです。

B父さんは、気持ちを込めることを明日からやってみますとおっしゃって、帰られました。
傾聴からの親子関係作り [2022年06月27日(Mon)]

さる6月12日(日) 13:30〜、NPO法人フリースクール阿波風月庵の第17回定例総会を開催しました。

恒例の後半開催では、林 由美さんに、「見えない気持ちをそのままに聴く」(不安に巻き込まれない親でいるために)と題して、傾聴を主軸とした自己肯定(受容)と家族関係回復への提案をお話しいただきました。

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その後交流会を持ち、このお話に関する色んな見解について、皆さんと意見交換がされました。

林 由美さんは、ご自分の不安症経験から心理学を学び実践されることで、生活スタイルを成長させてきました。

現在、不安症の方へのカウンセリング活動を、お仕事として進める傍ら、自助グループ「不安なハリネズミたち」では、ボランティア団体の代表としても活躍されています。
そして、風月庵のボランティアスタッフとして、一緒に活動してくださる、理解ある私の奥さんでもあります。

子どもとの関係に戸惑っていらっしゃるあなたへ、まず、自分との関係を見直すところから始めませんか? と、問いかけてきます。
「傾聴」を見直してみると、意外なことが見つかりました。

私(由美さん)は、子供時代から家族仲の良好を願い、心がけ
て家族の話を「傾聴」の様に聞いてきたそうです。
なのに、兄からは非難され、母親からは同じ愚痴が返ってくるばかりで、情けなくなっていたのです。
その原因を「傾聴」という切り口で、説明してくれました。

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「私が私を傾聴することに挑戦し、私が私を許すことが、緩めることが、解放することが進んでくると、いろんな場面で楽に生きている自分に出会うようになったそうです。

「傾聴」を進めていくと、相手(子ども)を楽にするばかりではなく、自分(親)も楽になってくることに気づかれるでしょう。
「傾聴」とは、ジャッジをせず、そのままに聴くこと。

私の文章ではなかなか伝えることが難しいのです。
「不安なハリネズミたち」で検索してみてください。かぜ
気にならなくなった雰囲気 [2022年02月23日(Wed)]

家族会に参加されても、初めて参加の親御さんは勿論のこと、長年参加の親御さんも、「なるほど!」と心に染み入り、納得するヒントを持ち帰ることは稀なのです。

でも、気付かれた、心がける一つを持ち帰り、次の家族会まで生活に活かそうとして下さることで、家族内に、その雰囲気が染み込み、雰囲気が変わっていかれることがあります。
それが家族会での学びと思います。

「安心・安全が感じられる雰囲気」「安全基地としての家庭」「いつも味方でいてくれる確信」「言いたいことが安心していえる関係」「気持ちを聴き合える話し方」「傾聴の実践」「I(アイ)メッセージでの伝え方」等、様々に言われますが、コミュニケーションを変えることから始まります。

家族間のコミュニケーションを変えることで、家族が共有している価値観を変える(広げ・深める)ことが出来ます。
この様に価値観が広がると、本人の価値観が緩み、気持ちを大事にし、動くことに気持ちを向け、結果よりも動く楽しみを実感し、持続出きる力を養ってくれることになります。

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その気持ちや動くことを家族が評価してくれたら(今までは認めてくれなかったから、やる気が起きなかったものの)、本人も、結果よりも、実践よりも、先ず気持ちや考えが動くことに価値を持っていきます。

そこを見守り、応援し、評価することは、家族が出きる大きな協力であり、ご本人を支える作業です。
その支えてもらっているという実感が持続力にも繋がっていくと考えられます。

ご家族には、親御さんには、その気持ちで見守ってきたと思われる方も多いと思います。
でも、伝わっていない、少なくともご本人はそう感じてはいないので、自信の持てない今があるのかもしれません。

その伝え方をどういう風に変えることで、ご本人に伝わり、実感してもらえるようになるのかが、家族会から学ぶポイントとなります。

先日の家族会で、あるお母さんが「最近、やっと家族内では何を言ってもいいんだと思えるようになりました。父親の顔を気にしながら話さなくてよくなったんです。言いたいことを結構言えている自分に気付きました。」
構えずに、気持ちをぶつけても、安心して居られる家族の雰囲気が、そこにあった様です。

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普通という壁 [2022年02月10日(Thu)]

長年外出することもままならなかった青年が、この2〜3年で、自分の好きなゲーム屋や、映画館、コンビニ、飲食店に出入りし、店員とのやり取りも出きるようになりました。

親御さんは、次のステップとして、通信制高校への通学を勧めています。

去年も勧めて断られましたが、今年は、一歩先に進もうと、高校の見学会に一緒に参加しました。

いよいよ受験の締め切りが近づいています。
痺れを切らした親御さんが、答えを求めても、「僕は最初から行かないといってるよ」と、きっぱり言われたのです。

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親御さんにしたら、お店に行って買い物が出きるようになったことと同じで、少しずつ体験していけば、出来るようになると期待して説得するのですが、「店に行けるのは、普通でぇ!」と返ってきた言葉の意味が解りません。
と、A父さんから困り果てた投げかけでした。

家族会に参加されている他のご家族とも意見を聞きながら話していましたら、「嫌を認めてあげたら」「普通でぇが、実は精一杯なのでは?」「店に行くことは普通だが、学校に通うことは普通じゃ出来ない」という意見が出てきました。

あるお父さんが自分の体験から、「思い切って、嫌な理由を正直に言ったら、親が認めてくれて、事態は変わらないのに、乗り越えられました。」との話しが聞けました。

本心・本音にたどり着いたら、正直な自分の気持ちに出会えたら、自分で決めることが出きるというのです。

親御さんの「高校に進学して欲しい」の気持ちを押し付けずに、お子さんの「高校は嫌!行きたくない」の気持ちを認めてあげることが先決なのかもしれません。

何よりも、自分の気持ちに正直に、流れの中ですっきりと、ご本人が決心出きることから、確かな一歩が始まる様です。

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