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風をあつめて

不登校・ひきこもりの支援活動をしているNPO法人フリースクール阿波風月庵の代表をしているかぜさんです。この活動で色んな若者やその親御さんと会いました。人の心っておもしろいです。僕自身も活動の中で、生き方がどんどん楽になってきました。そんな不思議な心の話をしてみたいなあ!


自己発見のコマーシャル [2021年10月15日(Fri)]

テレビを見ていて、「このコマーシャル、このタレントさんに変わったのか?」と思い、「なるほど!」と来るときと、「そうかな?」と首をかしげるときもある。
奥さんには、それらに何の関心も持たない様である。

最近、車のコマーシャルが各社個性を競っているように見える。
各車種をアピールするものが大半だが、社名のイメージチェンジを図っているのかと思われるのが、日産と豊田だ。

日産は、矢沢永吉から木村拓哉に代わった。豊田は香川照之が、社長を取材する形で、話題性を提供している。
個性派の役者を使うことが多く、其々のタレントが持つイメージがその商品をアピールしている。

ご本人の生き方よりも単純に人気やカッコよさで表現しようとする日産は、世間に迎合してきている様でつまらない。
矢沢永吉がイメージキャラクターとして登場したときは、日産が何を大切にやっていきたいのか共感できたが、キムタクが現れたときは、「そうかな?」と首をかしげることとなった。

スズキ、ホンダ、ダイハツ、三菱も、今迄通りのタレント起用でアピールしているが、スバルとマツダは違っている。
スバルは音楽でメッセージの中心に持ってきて(ミーシャの映像が出るが、あれはいらない)やはり歌だと見える。

特にマツダは、言葉と映像から、さらに映像に磨きがかかってきたと思う。
あの「be a driver 」に執着して、映像に訴えかけてきた流れは注目に値する。

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そして今回の「CX-8」の映像表現にはゾクッとさせられた。
感性の高い写真の様な動画が流れていく。画面が次々と変わり、生活の質の高級感がにじみ出ている。

 以前も、車体のフォルムと色と光沢だけで、車の性能に込めるマツダの意気込みを伝えてきたときも驚いた。
マツダのコマーシャルから、目を離せない。

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もうひとつ、ロングランの何気ないコマーシャルだが、気になっているのがダイハツのキャンパスだ。
これもタレントを起用していないが、藤原さくら歌う大瀧永一の歌詞「思い出はモノクローム、色をつけてくれ」が耳に残ってくる。
最近、街でキャンパスをよく見かけると、あのコマーシャルの影響の大きさと想像してしまうのである。

これらの癖は、私がカメラマンを目指していた頃の後遺症かもしれないが、社会を生きる小さな楽しみ方の一つでもある。

「このコマーシャルの何が自分をひきつけるのか?」
そんなことを、つらつらと思い巡らすのも、楽しいものである。
Posted by 林 at 12:37 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
講演; ピアサポーターの存在感 [2020年10月24日(Sat)]

ピアサポーターとは、ひきこもりや不登校経験があり、ひきこもり気質を持っていることで社会の中で苦労してきた仲間・先輩が支援に携わっていることを言います。

もちろん、私もピアサポーターです。
ピアサポーターは指導者として、牽引していくようなことは避けます。
どちらかというと一緒に失敗経験をして、笑い合える存在と言えます。
同じような経験をしているので、雰囲気で本人の気持ちや考えが伝わってきますし、伝わることもあるのです。
それを言葉にしながら「ご本人の言葉で話せるように」後押しをしていきます。

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      風月庵のマスコット「カッペイ君」

自分がピアサポーターであって、ありがたかったと思うことがあります。

M君宅に初訪問した私は、うつむいたままで反応の少ない彼の表情に、何処まで私の言っていることが届いているのだろうかと、心配になりつつも、自分の出きる実際を伝えるしかないと話し続け、話し終えました。

そして席を立とうとした時に、黙って聞いてくださっていた彼が、口を開いて「かぜさん、僕ももう少しだけ生きてみます。」といってくださったのです。
彼にとってはそこまで深刻な状態だったのかと、私のほうが驚きました。

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それから時々「かぜさんは、いわなくてもわかってくれているから。」といってくれることが何度かありました。
 
A君は、母に連れてこられて面談に来ておられました。
黙ったままで、ポツリポツリと一言二言話して帰られます。
2ヶ月後面談を打ち切るということになりました。

その時無口だったA君が、必死に、懸命に、多弁に、ここに通いたいと母に抗議していましたが、母の応えは変わるはずもありませんでした。
その時のA君の言葉も「かぜさんはわかってくれるんよ。言葉にしなくても、わかってくれるんよ。」といってくれました。
この「かぜさんはわかってくれる」ということが、いいことに動くことばかりではありません。

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親御さんの面談で良く起こる現象です。

お子さんの気持ちを説明することに一生懸命になりすぎた私は、お母さんやお父さんの気持ちに配慮が届かず、私が親御さんを責めてしまっているようになる時があります。
先程のA君母の様に、叱られることもありました。

「かぜさんは、ひきこもりの子の気持ちは理解できても、ひきこもりの子供を持つ親の気持ちは分からない」と指摘されました。
ピアサポーターとして、最も注意すべきところと、今も気に留めながら、親御さんとの面談に望んでいます。

 私のピアサポーターとしての特性も、いい面に働くこともあれば、悪い面となって現れることもあるのです。

Posted by 林 at 19:06 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
講演;反抗としての家出と自殺願望 [2020年10月09日(Fri)]

私の反抗期は、19歳の大学退学を自分で決めてきて、父親を怒らせたところから始まりました。

20歳代は、このままではいけないという考えから、何かしようとするのですが続かない、次々と仕事を変える、その度に引越しをするといった具合でした。

次々挑戦するのに続かないので、そこで死のうと思うのですが、なかなか死ねない。
もう一度大学に移行と考えるが、親には言えない。
考えに考えた末に家出をする。
記憶に残っているもので4回の家出をしています。

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家出も回避行動ですが、生きることに対しては前向きな行動なのかもしれません。
早く云えば、私は死ねないから、家出をしたのです。

自殺願望は高校時代からあった様に思われます。
登下校に「ふっと、このまま死ねたらいいのに」と思うことや、今現実にしていることなのに、自分がしている実感が持てず、自分が出演しているテレビを自分が見ている感覚になっていました。

そんな私が、東京で必ず聞いていたラジオ番組「自殺体験を語る」という番組があったんです。
今も記憶にあるのが、好き音楽を聴きながら睡眠薬を呑み、死のうとしていたそうです。
記憶が途切れていく中で、遠くからプツン・プツンというレコードの音で目が覚め、現世に呼び戻されたという内容でした。

「自殺」関連の本も次々と興味を持って読んでいました。

20歳代の何度もの家出は、自殺願望の延長からの逃避行だったのでしょうか?
そんな自分の体験から、家出をする若者は「自死を選ばない」ということを、うっすらと信じています。
Posted by 林 at 18:54 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
講演;ひきこもり特性 [2020年10月05日(Mon)]

そもそも風月庵活動を始めた理由は、私自身が大学1年の1年間ひきこもり生活をしていたことにあります。
当時、昼夜逆転で昼間は雨戸を閉めて寝ていました。
なおかつ、わざわざ押入れで生活していました。

「COM」という漫画専門雑誌を読みあさり、手塚治虫の「火の鳥」黎明編は何度も読み返していました。
永島慎二・宮谷一彦・村野守美の作品も好きでした。
何処となく漫画の中に自分の人生の在り方を模索していたのかと今は思います。
当時は、だらだらと時を過ごしていたのです。

同じ学科に徳島の友人が一人いました。
授業が終わると、帰り道に私の下宿に寄ってくれます。
まずは、近くの銭湯に行き、2番風呂に入ります。
銭湯は3時に開くと直ぐ近所のお年寄りが賑やかにザブーンと入り込むのが1番風呂です。
その一団がさっと出ますと、シーンとして誰もいない時間が2番風呂。彼と私の貸しきり状態です。さっと上がります。

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出てきますと、角を曲がった食堂に入ります。
開店直後の食堂、ここでもお客さんは誰一人おりません。
注文は、お勧めの「モミライス」と我々は決まっています。

今説明しましたように、選んで人のいない時間帯を狙って、二人で外出し、外出時の予定は外出前からほぼ決めてあった通りに進めます。
そうでないと気持ちが悪いのです。
このように、私達ひきこもりの共通する症状や考え方・感じ方を「ひきこもり特性」と呼び、当時の私もその特性を立派に身に備えていたのです。

その後話し込み、最終電車で彼は帰ります。

当時はその状態が「ひきこもり」だとも、自分の生き方や考え方に、どんな問題:課題があるのかもわからず、その日暮しをしていました。

Posted by 林 at 16:31 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
講演;「かざさん」というニックネーム [2020年10月05日(Mon)]

私は33の時離婚しまして、「我が子を自分のような大人にしてはいけない」という強い決心から、徳島の両親の元を離れ、大阪北部の池田市に暮らし始めました。

5歳の女の子と3歳の男の子の3人暮らしで、1tトラック1台が家財道具一式でした。
始めに市役所の福祉課に行き、保育所の手続きをお願いしましたら、「お父さん、先ず住むところを決めてから手続きに来てください」といわれました。

そんなドタバタ生活は、あっという間に1年が過ぎ、上の娘が小学校に上がったのをきっかけに、「子ども文庫」活動を始めました。

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「子ども文庫活動」とは、池田市立図書館から書籍(主に絵本)をお借りして、自宅を開放し、近所の子どもたちに貸し出しをしたり、その子ども達と一緒に遊んだり、交流するボランティア活動です。

「絵本の読み聞かせ」や「子ども文庫」活動では、男性はほとんど居ませんので、隣町の箕面市や川西市へも呼ばれて、読み聞かせに出かけていました。

当時、その子ども文庫の名が「五月山のかぜ文庫」と命名していまして、始めは「五月山のかぜ文庫」さんと呼ばれていましたが、伺うにつれ、略して「かぜさん」と呼ばれるようになっていました。

今も地元の徳島市立川内北小学校で、「かぜさん」のニックネームで、読み聞かせ活動に参加させてもらっています。
Posted by 林 at 16:24 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
ロックだぜ! [2020年04月07日(Tue)]

僕のひきこもり人生を、支援学習会の事例のひとつとしてお話しました。その時にふっと思ったのでした。

幼児期の断片的な記憶から、今だと解る
ひきこもり気質につながる小学時代の嫌な思い出、
中学・高校時代で発達しょうがい的な発想や言動が目立ち、
そして大学での不登校・ひきこもり時代。
社会に挑戦し続けては挫折し、家出を繰り返した20歳代、
子育てに挑戦した30歳代のこだわりのある生活。

40歳代で自分の生き方を変えようとして「風月庵」活動に行き着き、やっと生き方が楽になったことを自覚している今。

色々あって、ここまで来て、気づけば69歳になっていましたという、おもしろくもない話です。

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既成に縛られず、自分を大事に、自分らしく生きてきた人を見て、「ロックな生き方って凄い!」と、云うのだろう。
そんなことを言ってみたかったが、わたしの場合はそんなものではない。

世間から、社会から、逃げて、ごまかし、何とかしがみつきながら、貧しくも、自分を大切に出きる自分の生き方を、やっとこさ見つけたというくらいのものさ。

そんな生き方を目指せる様になったのは40歳代半ばから、始まりは、30歳代の子育て(自分が決めた、自分のやりたかったこと)をすることで原家族の縛りから開放されていった。
しかし、自分を心から解放するには、まだ時間がかかり、自分の中で親との和解が出来たのは50歳代半ばだろう。

死期を真剣に考える70歳を前にして、自分の生き方を振り返りつつも、「やっぱりこの生き方しかないな」と、ボンヤリと心の中でつぶやく自分がいる。

「そんなダラダラと命の尽きるまで、このまま行くか。」

今なら、私が自分を「ロックな生き方!」と云ってやれる。
Posted by 林 at 09:45 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
 19年目の記念日に(死なないでくれ!) [2020年03月04日(Wed)]

2001年3月1日が、風月庵の誕生日だ。 19年になる。

何事も続けることが出来ない私が、20年近く活動を続けてきたのは奇跡に近い。
父は天国で笑っているだろう。

仕事が嫌で職業を転々としていた20代、家出を繰り返していた私を、両親はどんな思いで見ていたのだろう。
将来を期待し、家業や家計を継ぐ長男として、生きることが決まっていた。それが苦痛だったとは、当時の自分も解ってはいなかった。
覚悟していた筈が、かなりの重荷に耐えかねて家出を繰り返していたと思う。

仕事をしながら、ボランティア活動をして、結婚もして、子育てもして、保育士になる夢もあった。
したいことはいっぱいあったし、次々と挑戦しているかに周りにも見えて、自分はそれ以上に情熱的に生きていたつもりだった。

ボランティア活動も私的生活も、金銭的にも行き詰った。

徳島で死ねなかったな私は、子ども二人を連れて大阪生活を始める。一生懸命生活を続けたがやはり続かなかった。

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徳島に帰り、1年後再び大阪へ。

この時は二度と徳島の地で生活することはないと誓った。
ところが、子育てが終わると、1年間日本一周をして、徳島にて風月庵を始めた。

10年でやめるつもりが、もう少しで20年になる。
俗に言えば、我ながら情けない人生だったと思う。
自画自賛とは決していえない筈だが、近頃、そう60歳を過ぎる頃から・・・、
まんざら悪くない。46歳からは自分のままで生き様としてきた。風月庵をやってきて皆に出会って、今は、そこそこ幸せだと感じている。

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どうしてか、みんなバカで、みんな苦しんでいる奴ばかりだと実感できたからだ。
自分だけが辛いわけじゃなかった。と、実感できたからだ。

みんな、死なないでくれ。自分を苦しめ続けないでくれ!
甘やかしてもいいんだ。
60歳まで生きることは耐えがたいかもしれん。
それでも、人生の後半には幸せになろう。
若いときは死にたくなるくらいバカをして、後悔をしよう。

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その分、辛い思いを重ねてきた分、幸せを感じ始めると、じっくりと味わい深くなってくる。
ダラダラでいい、グズグズでいい、だらしなく生きよう。
そして、老いて、親が死んでしまった後こそ、幸せをゆったりと味わおう! かぜ
Posted by 林 at 11:51 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
かぜさん の由来 [2019年10月06日(Sun)]
フリースクールでは、メンバーもスタッフも、ニッムネームで呼び合うのが、世界共通の決まりごとになっている。

そんな私は昔から、「かぜさん」で、通っている。
本名で呼ばれることは、先ずない。いつの間にか、「かぜさん」と、呼ばれてきたのである。

 ところが、このニックネームは、風月庵活動以前から使っていましたし、キリスト教教会での活動でも「かぜさん」なのでした。

34歳(34年前)に、私は徳島を逃れ、大阪府池田市に住んでおり、娘と息子との3人暮らしでした。
住んで間がない私達は、友達を増やそうと「子ども文庫」活動を始めたのです。

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図書館からお借りした絵本の貸し出し、読み聞かせが中心ですが、色んな遊びをして一緒に楽しんでいました。

10メートルの鯉(布製)を作り、その中に入って公園を走り回る。
屋上でびしょぬれになっての水鉄砲合戦。トトロのいそうな山に入って、トトロを探す探検。牛乳パックで、大きな家を作る等々。

 子ども達と一緒になり、私も力いっぱい遊んでいました。
関西では文庫活動は盛んな割に男性の読み手がいないので、読み聞かせに、箕面市や川西市から声がかかりました。
 
その時の文庫が「五月山のかぜ文庫」と名乗っていました。
五月山は池田市の桜が有名な山で、その山麓にありました。何度か遊びにうかがっている内に、略して「かぜさん」と、
呼ばれるようになったのでした。

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「かぜさん」は、自分が生まれ変わるために必要な名前になっていったのでしょう。
本来の自分探しには、そんなトリックが必要です。
 
「かぜさん」が先で「風月庵」の名前が生まれました。
Posted by 林 at 09:50 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
気持ちよく、切り替えを! [2019年08月13日(Tue)]

盆前の休日、寝苦しい暑い夏を乗り切るには海水浴だ!
と、毎年出かける[月見が丘海浜公園]横の海水浴場に出かけた。

どこまでも青空は広がり、その中に白い雲がうっすらと線を引き、遠く裾野に入道雲が小さくも、しっかと立っていた。

我々は、厳しい日照りの下、海水着にパーカーを羽織り、
ヘルメットをかぶり、スクーターで走った。
その道は海風が吹き、空に飛び立とうという勢いであった。

駐輪場から海の方を見ると、3軒の[海の家]の内2軒が閉まり、浮き輪の貸し出しもされていない?様子だった。

いざ海水浴場へと、砂浜に立ち海を眺め、まばらな人の様子に、「今日来てよかった!海水浴場が広〜い。」と喜び、正に砂浜に足を踏み入れようとした。

その時「遊泳禁止」と書かれた大きな看板が目に入った。

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それでも何組かは波打ち際で遊んでいたので、(せっかく来たのだから)と水着が濡れない程度に、波と遊んでいました。
その内、親子連れが、カップルが、波にもぐってははしゃぎ、浮き輪にしがみつき波と格闘し、楽しそうだった。
その程度ならいいのかなと、水着を濡らす決心をしたその時。

監視員のお兄さんが、拡声器を家族に、カップルに向けて、「泳がないでください!直ぐ、あがってください!遊泳禁止です!」デモ隊に呼びかける様に、海岸の端から端へと順に叫んだ。

波打ち際で騒ぐ中学生を尻目に、我々は海水浴を切り上げ、海浜公園事務所の屋上で、日焼けをすることにした。
嫌な気持ちで海岸に居るより、日陰に入り、昼寝をしながら、夏の日差しに身を焼く方が気持ちよかったからだ。

昔なら、(役目は分かるけど、あんな言い方はないよ!?)と、お兄さんを遠くから睨み、小言を言い続けていたことだろう。

今回、流れよく切り替えが出来た我々は、気持ちよく休日を過ごし、夜は久しぶりに熟睡できたのでした。

Posted by 林 at 17:21 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
変な子といい続けた、変な母親 [2019年07月20日(Sat)]

私は子どものときから、母親に「あんたは変な子じゃ!」といわれ続けてきた。母は子育てに苦心していたのだろう。
「普通に怒るところでは一切怒らないのに、何故そんなところでと思うところで怒る?あんたはほんまに変な子じゃ!」

小学期、まず怒ることのない私が、怒る時は感情むき出しで怒っていた。そして、その後はいつも黙り込んだ。
その沈黙は苦労している母への思いやりでもあった。

夜母親と言い争いになり、結論の出ないまま話が収まらない。母は根が尽きてしまい、自分が説明しきれなくなると黙り込み、ことをうやむやに寝ることとなる。
そこが、子供心に無責任で、許せないと、根に持っていた。

そんな夜は寝付かれず、母の顔も見たくない気分である。
次の朝も、わたしはその気分を持ち越している。
しかし、母は普段通りに朝食を用意し、機嫌よく送り出す。

私はそんな母の態度が解せなかった。許せなかった。
「昨日の答えはまだ出ていない。このままごまかす気か?」と、私は母を許せない。
その気持ちを言葉には出せないまま、その内に何事もなかったかの様になることも、自他共に許せない。

うやむやになるこの我が家ルールも私は許せなかった。
しかし、その気持ちも言葉に出したことはなかった。

母の辛い顔を見たくなかったから・・・。

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風月庵の活動を始めて何年かして、自分のこだわりの強さ、気持ちを言葉にするのが苦手、という心の癖があることに、50歳を過ぎてから気づくことになった。
俗に言う[白黒はっきりさせたい] [どちらが正しいのか?間違っているのか?] 今、答えを出さないと落ち着かない。
とことんはっきりさせようとするこだわりなのだった。
なのに、気持ちを言葉に出せないという深い矛盾も抱えていた。

その気持ちの行き違いや、言葉に出来ない、もって行き所のない戸惑いが、母と私の溝を深くしていったのだろう。
Posted by 林 at 08:12 | かぜ | この記事のURL | コメント(0)
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