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風をあつめて

不登校・ひきこもりの支援活動をしているNPO法人フリースクール阿波風月庵の代表をしているかぜさんです。この活動で色んな若者やその親御さんと会いました。人の心っておもしろいです。僕自身も活動の中で、生き方がどんどん楽になってきました。そんな不思議な心の話をしてみたいなあ!


「誕生日」って、何? [2025年01月08日(Wed)]
私はクリスチャンになって28年、今の教会に転会して、23年になります。
毎日曜10:30〜12:00は、教会礼拝(集会)に出席しています。
牧師や役員のお話を聞きながら、居眠りをしていましたが、最近では眠らずに最後までお話を聞けるようになりました。

この教会では、毎月第1日曜の礼拝では、その月の誕生者を祝い、祈りを捧げます。
さらに、誕生日当日には、教会連絡ラインに、登録者から、「おめでとう」の文面が、次々と届けられるのです。

善き慣わしと、新入会者も、「おめでとう!」のメッセージをこぞって寄せ、参加してくるのです。
それだけを聞けば、微笑ましいコミュニティだと思われるし、そう感じていらっしゃる方も多いとは思います。

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ただ、ひきこもり感性を大切に暮らしている私から言わせてもらうと、誕生日は一人で味わい、じっくりと過去や未来に思いを馳せたい、大切な一日にしたいと願っているのです。

それなのに、送っていただいた「おめでとう」のメールに、「ありがとう」の返事をしないのは、人の道に反し、不義理になるのではと思うと、気になって仕方ないのです。
それを気にしている自分も、うっとうしい気分になり、イライラとしてしまう私なのです。

そこで、「誕生日が、何故めでたいのだ?」「私の誕生日を私がどう感じて、どう過ごそうが、私に決めさせてくれ!」
「他者が、おめでとう等と、勝手に言わないでくれ!」と、胸の中で、噴門とする気持ちが膨らんでいくのです。

なので、そのラインの中で、「おめでとう」のメッセージを送らないのは、私一人なのです。
儀礼的に、「おめでとう」と送り、自分は気持ちを切り替えて、自分の、その年の、その日の誕生日の感覚を味わうことをすればいいのです。
そして、一日の終わりに、「皆様、ありがとうございました」との一文をお礼の気持ちを添えて、送ることでいいのです。

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なぜ、私はすねて、そういった大人の対応を分かっていながらしないのか?
誕生日を、「おめでとう」を言いたくない、言われたくない人間も、今、この地球上で何人もいるということを、常識として、多くの人に認識してもらいたいのです。

私のひきこもっていた時代は、今よりも、鋭く、強く、深く、誕生日を祝うことを忌み嫌っていました。
一人でいても、母親の「誕生日、おめでとう」の言葉が、押しつけがましく響いてきて、耳を覆いたくなります。
闇に向かって、「放っておいてくれ!」「祝おうが、呪おうがわしの勝手じゃ!」と、何度も呟いていました。

毎年、誕生日はやってくるのですが、その毎年やってくることも、私を世界がいじめているようにも感じていました。
勿論、誕生日を家族に祝ってもらった経験もあるのですが、表面的につくろった家族との生活に、冷ややかな感覚を覚えていた私は、「おめでとう」をそのまま受け取ることはできなかったのです。

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それでも、妹や弟がプレゼントをもらって、ケーキを嬉しそうに食べているのを見ていると、私の感覚がひねくれているのだろうとも、どこかでずっと、正直思っていました。
また、自分の子供二人の誕生日には、必ず祝うなにがしらの用意をして、「今日まで生きてきてくれて、ありがとう」の気持ちを伝えることはしていたように思います。

そういう意味では、「誕生日、生まれてきてくれて、ありがとう。今まで生きていてくれて、ありがとう。」というのは、親から子供への、身勝手なメッセージなのかもれません。

しかし、子供に、押し付けるものではないと思います。

その意味や親の気持ちを分かるとしても、私が「誕生日」に対して、アレルギーを感じ続けているのは、育てられた家庭での、親のコンプレックスが、私の中で、今だにブクブクとくすぶり続けていて、ふっとした時に、例えば誕生日とかに、ドロドロと噴き出してくるのでありましょう。

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