「対話」という泉
[2023年05月30日(Tue)]
私の通うキリスト教会では、毎週の日曜日礼拝の内、牧師が来られない日の礼拝は、信徒役員が「説き明かし」を用意して話し、参加者がその内容を分かち合い、自分達の学び(信仰)を深めることにしています。
今回は私の担当であり、いつも風月庵活動の中から、自分なりにつながって理解している心理的な成長を、ピックアップして紹介しています。
今年の風月庵は、「対話」を取り上げています。
「対話」とは、対等な関係で、互いを尊重し、相手の理解の質に配慮しながら、誠意を持って関わるところから、信頼関係が育ち、お互いの意見や気持ちを大切にして受け入れることが出来る話し方や関係性を表していると説明しました。
その結果、お互いの受け取った「対話」の刺激が心の湖に深く沈んでいき、次に似たような経験や新たな人との出会いで、さらに腑に落ちる気づきとなり、時間と共に身についてくるのでありましょう。
そういう関わり方の総称として、「対話」と表現しています。
「対話」のない関わりでは、若者と一緒に体験し、励まし、誉めて、自信を持たせ、その積み上げがあったにせよ、社会への信頼や、自分への安心を実感出きる生き方が、備わって来るとは決して思えないのです。
「対話」を温めながら、仲間と一緒に体験し、適正に評価を受け入れて、自分の内側から、自身や信頼が、ゆっくりと泉の様に湧いて出てくるところを想像してみてください。
これらの作業や活動の中には「対話」が存在しているから、自らの心の泉が湧き出ることになるのです。
逆に言えば、ある時、沈んで見えていなかったものが、ゆっくりと表面に現れて、泉の様に「生きる力」が湧き出てくるようになった時、その関係性や、会話の質をもって「対話」といえるものではないでしょうか。
お互いの心に、湧き出る泉として、刺激を与える「生きる力」の種が「対話」であり、その種が、時という太陽と、愛という水によって、環境という大地の中から命として育ってくるものとなるのでしょう。
抽象的で分かりにくい説明になったと思いますが、次のような状況下では、人の気持ちを動かせる泉にはならない様に思えるのです。
気持ちのこもらない声掛け、話すだけ・聞くだけの一方通行の会話、配慮や思いやりの欠けたお喋り、存在を無視した関わり、単なる情報提供のテレビニュース、時の流れを伴わない判断、経験や想いを無視した評価、血の通わない言葉の審判等々には、「対話」という温もりが伝わってこないと思いますから。
メンバー(利用者)も、家族(親)も、スタッフ(支援者)も、お互いに泉の湧く関係であることを守り、「対話」を温め、育てていく活動として、根付いてくれることを祈っています。