「出来ない」だから、しない!
[2022年07月09日(Sat)]
ひきこもり系の私達は、はっきり「出来る」と自分が思えない内は、「しない!」と決めている。
他人が「出来るよ!」という判断には全く感心がなく、「僕のことを知らないくせに、簡単にいうな!」と思っているが、その言葉は出てこない。
「出来る」「出来ない」は、やってみないとわからないという発想は、私達にはない。
やってみなくても、「出来ない」に決まっている。だから、したくないのに決まっているだろうと、自分を説得している。
「出来ない」と言い聞かせることで、失敗しても大丈夫だと、失敗するのが当たり前じゃないかと、自分の気持ちに保険をかけている。失敗の為の準備万端を施す。
僕は「出来ない」と言ったからね。それでもやれというからやるのであって、決して「出来る!」と思わないでねと、相手に、周りに、誰よりも自分に、念押しをする。
なんだかんだいっても、「出来ない」自分を認められない。認めたくないのだ。これ以上「出来ない」思いを増やしたくないのだ。
他の人が「出来る」「出来ない」は、信用していない。
自分だけが「出来ない」、他のみんなは明らかに「出来る」。
自分よりはるかに出来ると確信している。
ゲームにしても、スポーツにしても、表現や、交流や、発表も、「僕は、出来ない!」と断言していた若者が、やれば出来るし、引けをとらず、味のある結果や、自分に心地よい緊張感を残す体験となる。
だが、そうは絶対にならないと確信している。
「あ〜、こんなことでよかったかの」と。
「出来る」「出来ない」は、これだけの違いなのかと実感出きる経験がいくつも待っている。
自分だけでして来たことが、一人でして来たことが、風月庵でしてみると、誰かと一緒にやっていく内に、何とかなるものだと思えるようになってくるのである。
これを「自己効力感」というが、その感覚の獲得経験が乏しいだけなのである。
それは、一人でやっているが、今までと違って一人じゃないし、他者の「出来る」「出来ない」も見えるようになっている。
皆も出来ていないじゃないのかと思う気持ちが、自分だけが出来ないのではなかったことをも自覚出来るようになる。
「出来ない」自分が、「出来る」自分にならなくてはならないという幻想は、自分が勝手に自分に課せてきていた。
そんな思い込みは、捨ててしまおう。
自分も「出来る」時も「出来ない」時もあり、「出来る」「出来ない」こともある。
相手も、○○君も「出来る」「出来ない」時があり、「出来る」「出来ない」こともある。
皆も、「出来る」時も「出来ない」ことも、あるのだ。
そう実感出きるようになると、「出来る」時もあれば、「出来ない」こともあるから、やってみないとわからないからと思えると、少しずつ「やってみようかな!」の気持ちを持ち続けられるようになってくる。
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