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ビンラディンとNPOマネジメント [2011年05月03日(Tue)]



ビンラディン容疑者が、
米軍の秘密軍事作戦によって殺害されたというニュースが世界を飛び交って
いますね。
今日の新聞もトップ記事でした。
テレビでは、ホワイトハウス前でお祭り騒ぎをするアメリカ人の映像が流れてい
ます。

私は、彼が犯人というか首謀者だとして、支持も同情もしませんが、しかし、ホ
ワイトハウス前の人々の画像には、割り切れなさを感じます。

ビンラディンを逮捕するという名目で、テロとの戦争という名目で、この10年間
に、どれほど多くの無辜なる人々の命が、アメリカ軍や諜報機関の手によって
奪われたでしょうか。アフガニスタンでは? イラクでは? そのことに思いをは
せることができないからこそ、アメリカはますます病んでいくのだろうと思いま
す。

アフガニスタンのタリバン政権も、ソ連によるアフガニスタン支配を崩すため、
パキスタンの諜報機関に多額の資金をCIAが提供し、自由の戦士という名の原理
主義者たちを養成した結果であり、その政権がビンラディンの引渡しに応じない
からという理由で、アメリカは、空爆から政権を打倒しました。

タリバン政権は、女性に対する抑圧的な政策の強制で非難されましたが、それは
なぜか?考えたことがありますか? イスラム原理主義だから? 違います。イ
スラム原理主義は、彼らに口実(大義)を与えただけで、彼らの中に育ったものが
なければ(あるいは失ったものがなければ)、ああいうことはできません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

タリバンとは、冷戦の反動のなかで、廃墟とヘロインと地雷のるつぼから産まれ
てきた鬼子だ。その最年長の指導者だって、四十代の前半。彼らの多くが、目や
腕や足を失った身障者。彼らは、戦争が傷を負わせた共同体、戦いが破壊した社
会のなかで育ってきた。ソ連とアメリカが寄ってたかって、二〇年以上にわたり、
四五〇億ドルに相当する兵器や弾薬をアフガニスタンに注ぎこんできた結果がこ
れ。

最新兵器だけが、この中世そのままの世界に侵入してきた近代の断片である、と
言っていい。こうした時代に育った少年たちは――――その多くが孤児です――
――おもちゃとして銃をもて遊び(弄び)、家庭生活に守られた安らぎも知らず、
女性とともに過ごした経験さえない。そんな彼らが大人になって、支配者タリバ
ンとして、女性を殴打し、石打ちにし、レイプし、残酷に迫害する。彼らはそう
するほかに、どうやって女性と付き合ったらいいか分からないのだ。戦争に明け
暮れた年月が、彼らから優しさを奪い、人間的同情や親切心とは無縁の存在にし
てしまった。周囲にふりそそぐ爆弾の雨という打楽器の音に合わせて踊ることし
か知らない若者たち。彼らは自らの奇怪さに対す復讐を、自分の身の回りの者た
ちに向けて果たしているのではないだろうか。

        アルンダティ・ロイ著『帝国を壊すために』(岩波新書)より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イラクでも、イランとの対抗上支援してきたサダム・フセインが勝手にクエート
に進駐したことでイラク制裁が始まり、その延長上に、サダム経験打倒が、あり
もしない大量破壊兵器の存在の示唆によって進められました。


考え方によっては、タリバンも、ビンラディンも、サダム・フセインも、みんな
みんなアメリカの手先だった人たちです。暴力と金と陰謀と権力にまみれた人た
ちです。だから、実は、アメリカこそが、世界最大のテロ国家なのだということ
は、世界中の人々が知っており、なぜかアメリカ国民の多くが知りません。
不思議な国です。

アメリカを含むこれらの人々は、それぞれに、声高に「正義」を叫びます。
しかし、誰一人、「倫理」を語りません。

そのことをもっとも嘆かれているのは、彼らが信仰しているはずの、世界の創造
主であられるお方ではないでしょうか。



NPOのマネジメント専門誌『NPOマネジメント』(隔月刊、発行:人と組織
と地球のための国際研究所/IIHOE)が、この72号で、終刊となりました。創刊
号より、連載コラム「蝸牛点晴」を書かせてもらっていましたが、連載も、これで終
わりになります。難しいとか活字が多いとかいろいろと言われていましたが(私
も言いましたが)、しかし、日本の市民社会の構築のための理論的、実践的な指
針を提示することにおいて、代替の存在はなく、心から、その終刊を惜しむものです。

その終刊号の私の最終コラムのタイトルは、「この世界に倫理をもたらすために」
です。そして、主筆の川北秀人氏との対談「NPOは人と組織を育てられたか」
も、同時掲載していただいています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「「私が先んじて罪を負う」という「私」の名乗りだけが、世界を人間の住むこ
とのできる場所に造り上げることができる。そして、世界を人間の住むことので
きる場所に造り上げるのは、神の仕事ではなくて、人間の仕事なのである。」と
レヴィナスは言う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

他にも、有益な記事が満載です。
ぜひバックナンバーも含めて、一度、購入を検討されることをオススメいたしま
す。  ↓

「NPOマネジメント」IIHOE書籍案内
https://blog.canpan.info/npomanagement/
漆の実のみのる国と原発事故 [2011年04月04日(Mon)]



蝸牛随想
「漆の実のみのる国」を読みながら、政府の原発事故対応の初動を読む


病院では、毎日、新聞を買いに2階の売店まで行き、帰りは、2階から8階まで
階段をあがる。階段をあがるのは、脚の筋肉を衰えさせないためだが、さすがに
7階くらいで膝が笑う。


売店では、たいして買うものはないが、ついつい本の感触が懐かしく、藤沢周平
の『漆の実のみのる国』上下巻(文春文庫)を買ってしまい、たちまち読みきっ
てしまった。藤沢周平の絶筆長編小説である。



貧窮のどん底にあえぐ米沢藩を、謡曲乱舞にのめり込み愚者と評される主君から、
養子治憲(後に引退して鷹山)が引き継ぎ、執政ともども藩政たてなおしに心血
をそそぐが、なかなか成果はあがらない。多様な人材は、必ずしも完璧ではなく、
主君自らもまた限界を痛感する。米沢藩3代に渡る世代交代と、困難に立ち向かっ
てなお時代の暴風に押し流されていく人々。組織と人の生き方を考えるのに、な
かなか示唆に富む小説である。


余談だが、コミュニティビジネスの起業講座を開いたとき、山形県から参加され
た男性がいた。勤め人の時代から山形の山々に漆の木を植え続け、退職した今、
国産漆の再興に力をそそぎたいという夢を持っておられた。単に、退職したので
何か思いついたというのではない。長年にわたって漆を植え続けてきたという。
その壮大な夢には、何か人の心を揺さぶるものがある。



「漆の実のみのる国」は、治憲の下、執政を務めた竹俣美作当綱が換金作物とし
て漆木、桑木、楮(こうぞ)をそれぞれ百万本植えるという三本植立て計画の夢
見た国である。治憲もまた当綱の夢に賭ける。


本書は、単に上杉鷹山を賛美する書ではない。大倹約に倹約を重ねて、さらには
新しい産業を興そうとして、ひたすら藩財政の好転を策すも、決して成功したと
は言いがたい鷹山やその執政たちの徒労にも似た努力と、そのような私心を捨て
た努力に対してなお、人々は讒訴し、非難し、不平不満を言うものであるという、
いささか寂しい世界を描いているようにも見える。

どんな名君の下でも、人心は一つにならず、格式や名分に右往左往し、改革はい
つしか出口のない暗闇に似てくる。愚者と評された主君の意外な一面、改革派執
政の驕りといつしか倦む心。それは名君治憲をもひしひしと襲う寂寥感である。

まさに藤沢周平の世界である。
そして、私は、こういう世界が好きである。

出口はない。人も組織も完全ではない。そんな中で、人は何に拠って人として生
きるのであろうか。そういう問いかけが、藤沢周平から私に投げかけられている。



福島第一原発事故について、4/4の毎日新聞が、特集を組んでいる。「検証大震
災」と題して、見開き2ページ全部を使って、発生直後から二日間の官邸、東電、
防衛省・自衛隊の動きを時系列にドキュメントしている。

こういう特集は、その時々の報道ではわからなかった全体像が見えることも多い
ので、良い企画だと素直に思う。時間順のクロニクルもついている。

この企画を読んで、私の頭の中には、読み終えたばかりの『漆の実のみのる国』
がよみがえった。2ページ丸々、最下段まで使った力作の結語は、こうである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東電は、原発の「安全神話」が崩れていく現実を直視できず、初動の対応を誤っ
た。官邸は政治主導にこだわりながら東電や保安院との緊密な連携を図れず、結
束して危機に立ち向かえなかった。それは「想定外」などという言葉ではけっし
て片付けられるものではない。
                        毎日新聞4/4 p11
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

冒頭の「東電は、原発の「安全神話」が崩れていく現実を直視できず、初動の対
応を誤った。」は、その通りだろう。緊急圧力逃し弁(ベント)の開放に手間取っ
た対応他、もともと予想していないのだから、次々と起きる事象に翻弄されたと
言っていい。

しかし、「官邸は政治主導にこだわりながら東電や保安院との緊密な連携を図れ
ず、結束して危機に立ち向かえなかった。」という結語は、私のこの記事の読後
感とまったく相反するものだ。


この政治主導にこだわり云々は、「ある政府高官「首相は海江田さんや東電幹部
を質問攻めにする一方、実務にたけている官僚とは話すらしなかった。『政治主
導』にとらわれ過ぎているのではないか」と危惧した。」というコメントからの
常套句だろう。この誰とも明かせぬような政府高官のボヤキが唯一の根拠という
のもどうかと思うし、もし「実務にたけた官僚」が何らかの解決策を持っていた
のなら、聞かれずとも上申しなければ、それは国民の命を危機にさらす意図的な
サボタージュであろう。

というのも、「原発事故を巡る行政機構の情報伝達ルートは「東電→経産省原子
力安全・保安院→首相官邸」という流れで、通常は官邸が直接、民間企業の東電
に指示・命令することはない。「原発有事」に発展するまで首相はもったぱら保
安院から「原発は大丈夫です」との報告を受けていた。」とあるから、当然、当
初は通常のルートで報告と対応がなされていたことがわかる。これが「実務にた
けた官僚」に任せていた局面である。

さらに言えば、「実務にたけている官僚」は、首相周辺が「東電も保安院も原子力
安全委も(深刻な事態から目を背けようと)ぐるになっていたとしか思えない」と批判
していることに対して、「一方、保安院を傘下に持つ経産省幹部は「事態が最悪の
方向に動いたため、官邸は東電や保安院をスケープゴートに仕立てようとしている」
と漏らした。」と語る。「実務にたけている官僚」というものは、いかようにしても自身の
責任を逃れようとする、ということがよくわかる。こんな人たちと「緊密な連携を図れず、
結束して危機に立ち向かえなかった。」として、何が悪いのだろうか。


しかし、11日の午後4時36分、「冷却機能不全」という事態急変を知った首相は、
官邸対策室を設置、「首相はこのころから原発事故対応へとのめりこんでいく。」
という。この「のめりこんでいく」という表現には、「ほんとうならもっとやる
べきことが別にあるのに・・・」という揶揄の意図が見え隠れしている。しかし、
そうだろうか。

伸子夫人に東工大の名簿を求めたこと、後に「私は原子力に詳しい」との自負を
漏らす首相について、毎日新聞は、「そこからは「原子力村」と呼ばれる電力業
界、経産省、東大研究者が原子力政策を支配するシステムへの対抗意識がうかが
える。」と、これまた冷ややかな書きぶりである。しかし、「原子力村」の住人
たちに首根っこを押えられていない首相だったからこそ、その後の行動が取れた
のではないか、という視点が毎日新聞にはない。

また、そのような「原子力村」の存在を知っていながら、今までの原子力政策に
きちんとした批判をしてきたとは言いがたい日本のマスコミの自省のなさも気に
かかるところだ。

原災法15条通報が11日午後4時45分、同7時3分には原子力緊急事態宣言発令、原
子力災害対策本部を設置。同9時23分には、半径3キロ圏内の住民に避難指示、翌
12日午前5時44分には半径10キロ圏内避難指示、午後5時39分には、第二原発の半
径10キロ圏内避難指示、午後6時25分には、第一原発半径20キロ圏内に避難指示
と矢継ぎ早に指示をだした。しかし、それも待てぬと福島県の佐藤知事は、国の
指示の前の11日午後8時50分には、半径2キロ圏内の住民に「権限も前例もない避
難要請」を出している。

少なくともこの時点では、福島県の佐藤知事の判断のように、炉心溶融の可能性
だけでも、住民を避難させるには充分の危機状況があったと言うべきである。官
邸もすぐにそう判断し、翌日までには20キロ圏内の避難指示を出したことは、理
にかなっている。(後に、ある程度状況が落ち着いた段階で、排出降下した放射
能の値の濃淡によって、避難区域を細かく分けるべきだという声があるが、それ
は後の判断であり、この時点では官邸は、そのような状況判断できる情報を得て
いないし、起きる可能性のある事象の規模はまだまったく不明であったのだから、
半径20キロ圏内避難は、かなりギリギリの選択だったのである。)

11日午後11時過ぎには官邸は、原子炉格納容器の圧力の高まりを受けて、ベント
作業が必要と判断、東電側にも連絡を取るが、できるかどうかの返答もなく、い
らだったやりとりが続いた。いろいろあるが、東電は自身の決断で放射能を含ん
だガスを大量放出することを躊躇し、政府の決定に従った体裁を整えたかったの
ではないか、と疑われる対応に終始した。午前6時50分に政府はベントをするよ
うに命令した。実際に1号機でベントが行われたのは、12日の午前10時17分であ
る。

この間、首相はヘリで第一原発へ飛び立った。現場では、「そんな悠長な話か。
早くベントをやれ」という首相の怒号が響いたと記事にある。


どうだろうか。少なくとも、「原子力村」の傀儡でない首相が、「実務にたけて
いる官僚」の言うことを聞かず、東電や保安院との馴れ合いを拒否して怒鳴りま
くり、「のめりこんだ」からこそ、小さな一つの山(=ベント作業)を乗り越えた
のではないか。もし、ベント作業が遅れると、格納容器そのものが爆発する可能
性だってあったのである。残念ながら1号機は、12日の午後3時36分、水素爆発が
起きて建屋が吹っ飛ぶという事態になるが、そもそも「原子力村」の立案する対
策では、水素爆発も防ぎえたかどうか、わからない。


私はここで別に首相を弁護しているのではない。そうではなく、虚心坦懐に読め
ば、首相は実によく頑張ったのではないかと読める記事を書いておきながら、ど
うして見出しや結語の文章は、ステレオタイプな政府批判の論調になってしまう
のだろうか、ということである。

『漆の実のみのる国』を読みながら、私が考えていたのは、リーダーや幹部の孤
独、寂寥というものである。適切な対応を心血をそそいで実行したとしても、な
お人々は責め、非難するものなのである。

藤沢周平は、そんな中でなお、至誠とは何か、愚昧に貫くものとは何か、ひたすらに
問い続けてくる。

以上


れんげ畑に [2011年03月20日(Sun)]

(1) れんげ畑に

怒涛の一週間でした。
未曾有の大震災、すべてのものが根底から崩れたような一週間でした。

しかし、どんな悲惨な事態になっても、どんなに傷ついても、
人は立ち上がり、暮らしを再建し、愛し合い、生き続けていくものと思います。

私は、そのことをまだ信じています。


   一月四日

 れんげ畑に
 小さな女の子達が集まって
 花遊びをしていた
 そこからは 海が見え
 風はなかった
 出会った親達は ひたすら生業を語っていたが
 それは あるべきこの世の苦しみを 交わしていることにすぎなかった
 れんげ畑に
 小さな女の子達が集まって
 ひたすらに花遊びをしていた
                     山尾三省

                 (『自己への旅』山尾三省著 聖文社より)

山尾三省さんの遺言を友人が報せてくれました。
ーーー
 僕もこの1週間、三省さんの遺言の願いを何度も思い返してます。
 神田川の水が飲めるようになること
 原子力発電が地上から無くなること
 そして、世界平和へ追求への祈り。
 http://bit.ly/ihEEud


(2) せんだい・みやぎNPOセンターの動き

センターは、紅邑事務局長を先頭に、スタッフ一丸となって、
緊急時に即応した態勢を構築、求められる役割を自覚し、
しっかりと動いています。
ありがたいことだと思っています。
機会がありましたら、励ましをお寄せ下さい。

■東日本大震災 仙台・宮城における災害救援活動情報
 「みやぎ連携復興センター準備室」始動!!
  http://fuda.jp/saigai/

■みやぎのNPOの活動情報がリアルタイムでわかる「みんみんポータル」
  http://minmin.canpan.info/


(3) 私の治療

私自身は、ちょうど転移が見つかり、再発の告知を受けて、
抗がん剤治療のため病院を転院するところで被災しました。

現在、仙台市内の大きな病院は、被災地からの緊急の患者の受け入れなどもあり、
転院先も、新患の受付がししばらくはできないとのことでした。

もとの病院の主治医と交渉し、病院を戻って、
抗がん剤の標準的な治療を始めることができるようになりました。

代替治療も模索していますが、まだ物流が回復せず、抗がん剤補助や免疫向上の
漢方薬などを取り寄せるのは、もう少し時間がかかりそうです。

このような大災害の最中でもあり、今後、小生の病気の話は、
当分遠慮させていただきますが、治療の方針も定まったことであり、
ご心配をいただいておりましたが、体調もよく、
しっかり治療に取り組みたいと思います。
ご安心下さい。


(4) 長い旅の途上で

さて、久しぶりに書庫に入り、崩れた本の山を見ながら、
ふと手に取った本が数冊あります。病院で読もうかというつもりでした。

その中の一冊が、山尾三省さんの『自己への旅』(1988.8.1)です。
ずっと忘れていたのですが、
この本には、三省さんが仙台を訪ねたことが書いてあります。

その記述を読みながら、私も長い旅をしてきたのだと感慨深いものがありました。

冒頭、亡くなられた奥様の順子さんのふるさとの山である安達太良山が、
順子さんの「わたしの山」であり、それが三省さんの「僕の山」になり、
「人は山によって人となり、山は人によって山となるのである」と続きます。

その後の記述には、三省さんの深い理解と思いが込められており、
私には過分に過ぎるものですが、末尾に添付して、皆さんにご覧に入れます。

 (読むときは[表示]→[表示を回転]→[右90度回転]を選んでください。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

加藤さん達は、核兵器を憎むのでも原子力発電所を憎むのでもなく、また国家権
力を憎むのでもなく、そういうものの存在しない世界を、百番目のサルの神話の
ようにささやかに、しかしながら確実に創り出して行こうと悲願しているのだっ
た。憎しみでなければ何をバネとするのかといえば、愛をというのが普通である。
それはむろんそうなのであるが、加藤さんにあっては「涙」をもって、と答える
のが正当であるような、モーツァルトの短調の旋律のようにほとばしり悲しむも
のがあった。
                             (同書144pより)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

改めて、原子力発電所の大きなリスクを突きつけられたこのときに、三省さんの
ことばをかみ締めています。


   水が流れている

 山が在って
 その山の 底を
 水が 流れている
 その水は わたくしである
 水が 流れている
 水が 真実に 流れている

                  山尾三省

                 (『自己への旅』山尾三省著 聖文社より)



「街場のメディア論」を読みながら・・・(4) [2010年12月03日(Fri)]



蝸牛随想(5)

「街場のメディア論」を読みながら・・・(4)

 いつまで経っても先の見えない連載になってしまいました。もともと計画的に
目次を作って考えるのではなく、走りながら考える作法が身についてしまったも
のですから、この連載もそういうノリで行きますね。ご容赦下さい。

 昨日の12/2で退院1ヶ月になりました。退院直後は、二階に階段を昇るのも一
苦労、外出してもショッピングセンターの買い物カートにつかまり立ちして歩く
のがやっとという状態でしたが、1ヶ月が経つといつの間にか筋肉がつき、階段
は苦もなく昇れるようになり、本屋で立ち読みをしていても苦しくないところま
で回復してきました。命の働きってすごいですね。


 さて、「そろそろ第二歩目の時期がやってきているというのが、久米さんの講
演を聴いた感想です。」の続きです。

 久米さんからは、ソーシャルメディアとNPOの活動について幅広い視点から
たくさんの示唆に富むお話をいただきましたが、大きくは2つのポイントがあり
ました。ひとつは、簡単な動画の活用によって、もっと気軽にかつ効果的な情報
発信ができるということ。もうひとつは、ツイッターとブログの活用がカギにな
るということです。

 動画とその活用メディアであるYouTubeやUSTOREAMは、NPOの情報発信にとっ
ても大きな可能性を持っています。今年の4月に会津柳津町の花ホテルさんにお
邪魔して講演をさせていただいたとき、USTOREAMによる実況中継をしていただき
ました。同時にツイッターによる質問を受け付け、講演の後半では、その質問に
答えました。その録画されたものは、今でも、丸ごと見ることができます。
 http://www.ustream.tv/recorded/6218521

 すごいことが簡単にできてしまうんですね。一言で言うと、個人やNPOがテ
レビ局になってしまうんです。NHKにも民放にもなれます。昔、ミニFMラジオ
による放送局をつくろうという動きに胸を高鳴らせた記憶がありますが、これは
テレビ局です。しかもたいした機材がいるわけではない。もちろん久米さんはもっ
と簡単な動画というかスライドショーの活用の仕方を教えてくれました。それで
数分間のプロモーションビデオをつくることができます。


 私が感心したのは、もともとそういう技術については知っていたけれど、この
ブログのように長い文章を書いてアップすることに価値を置いていた自分に気が
ついたということです。「加藤さんのブログは読むのが大変だよ〜」という声は
ときどきいただくんですが、それでもなお活字文化優位の人だったのですね。ちゃ
んと読めよ、というのが私のスタンスでした。でも、多くの人たちは忙しくで長
い文章が読めない。スタッフもそうかも知れません。そして、考えたら、あまり
苦もなく自分の考えや組織の方針を文章化できる人ってそういませんよね。たい
ていの人は、文章を書くというと、あの小学校時代の作文の授業を思い出しカラ
ダが硬くなるのではないでしょうか。私も、学校教育での作文と図画と音楽が大
嫌いでした。

 ずっと情報発信が大事、そのためには文章を書くことの抵抗感を無くさないと
ならないと考えて、たくさんニュースレターを発行し、インタビューワークや編
集講座などをやってきたのですが、なかなかうまく行きません。文章を書くとい
う行為は、まだまだ一部の人のものなのですね。携帯やメール、ブログの普及で、
以前より文章を書く機会が格段に増えるから、いよいよ書き言葉の新しい展開の
時代になるのではないかという予測を、平井雷太氏の考案した日刊考現学という
手法に寄せて書いたのが1995年頃のことです。私の予測は一部があたり(携帯作
家などというものを生み出しました)、大部分は外れました。大容量ブロードバ
ンドの普及で、画像や動画をインターネット経由でやりとりすることが苦もなく
できるようになったため、ますます文章を書くという行為は、主役の座から降ろ
されつつあるのでしょう。

 従って、ごく一部の人を相手にした活動なら別ですが、多くの人々に伝えたい
メッセージを持っているなら、動画の活用はより大きな可能性を拓くということ
を久米さんの話は教えてくれたのです。しかも技術的に簡単、無料に近い形でい
つでも誰でもできてしまう。ここが大事ですね。手間要らず。だから使わないと
損だよねえ、ということです。
 

 もうひとつのポイントがTwitter(ツイッター)の活用です。久米さんは、「こ
れまで試したネットツールの中で、最も気軽で簡便で使い手を選ばない、しかし
縁を広げ深める効果は絶大」だと言っています。

 これはどういうことか。久米さんは、仕事や活動の分野で必要な役に立つ情報
と役に立たない情報、そして個人の趣味などその人の属性や生活に関連する情報
で役に立つ情報と役に立たない情報という4つの象限に発信情報を分けます。そ
うすると、HPは、基本的に団体の公式情報の掲載の場所ですね。メルマガやブ
ログは、少しHPより柔らかい情報を掲載することができます。一方に公式情報
がちゃんとあるから、逆に柔らかい情報を発信しやすいと言ってもいいですね。
技術的にもブログやメルマガは簡単ですからね。
 それらに対してツイッターは、個人の趣味や生活の断片など役に立たないこと
でも発信することで、仲良くなったり、その人の新しい側面を発見して親しみを
覚えたりすることが起きやすいメディアです。

 このあたり久米さんの図解を加藤が手描きした写真をご覧下さい。わかりやす
くなると思います。

 また、鉄道模型の写真もご覧下さい。加藤はいわゆる「鉄ちゃん」です。生後
1年くらいのときから、新橋駅を出発する陸蒸気の浮世絵を見せられるとニコニ
コしていたという伝説があるほどの鉄道マニアです。(鉄ちゃんという言葉は昔
は使っていなかったので違和感があるのですがね。)さらに鉄道マニアの中でも
希少種の鉄道模型マニアで、さらにさらにその中でも少数派のナローゲージ=
軽便鉄道(模型)マニアです。知らない人は、なんだかわからないでしょう?
でも知っている人なら、写真を見ただけで、今までの加藤を見る目が変わるわけで
す。鉄道の話題で盛り上がれるわけですね。そういう人間関係が、活動や仕事を
支えるのです。そういう効果がツイッターにはあるのでしょうね。





 さてさて、そんな風に、動画を駆使し、ツイッターを活用するのには、ブログ
をスクラップブックのように使え、というのが久米さんの提案です。私のように
使うのではなく、です。ブログは電車の中吊り広告だというのです。動画を貼り
付け、リンクを張り、ツイッターからのリンク先にも最適、検索に強い。スクラッ
プブックという発想でブログを使うと、気楽に使えますね。イベントがあったら、
報告を書かなければならないが、なかなか時間が取れない。そうしているうちに
参加者のブログを見たら、とても詳しい報告が載っていた・・・などということ
がしばしば起きているのが実際です。だったら、USTOREAMで中継してしまい、
録画されたURLを簡単な解説をつけてアップしてしまう。整理をしたり、意味づけ
したりすることを独占せず、参加者や視聴者に開放してしまう。そういう軽やか
さがありますね。

 もちろん、時間をかけた論考が大事ということもわすれてはなりません。しか
し、一方で多くの人々に活動とその存在を知らせるための、ゆるやかなつながり
をつくること(ドラッカーなら顧客の創造こそがビジネスの本質だと言っていま
すね)が大事という話です。「街場の・・・」でも、新しいメディアの登場で、
逆にブログは、論壇ブログになっていくのではないか、と論じられています。こ
のブログはそれを目指していますが、すべてのNPOのブログが論壇ブログを目
指しても仕方がないでしょうし、もっとスクラップブックブログがあってもいい
ということです。

 最後に、支援センターの仕事の中で、新しいメディアの活用を考えると、もっ
と可能性が広がると思います。公式発表のメディアだけではなく、多様な人々と
ゆるくつながるメディアの活用を、スタッフのひとりひとりが自覚的に図り、組織の
事業として予算が取れたことをするだけではなく、個人として相談者や団体の
活動に興味と関心を持ち、発信していくことで、支援の仕事の実感と高い効果
を得られると思うのです。これが第二歩目の意味です。

                              続く


「街場のメディア論」を読みながら・・・(3) [2010年12月02日(Thu)]
蝸牛随想(4)

「街場のメディア論」を読みながら・・・(3)

 さて、内田樹は、「街場のメディア論」第二講で、情報を評価するときの最優
先の基準を、「その情報を得ることによって、世界の成り立ちについての理解が
深まるかどうか」だと繰り返し書いています。そういう基準から言うと、メディ
アの価値が、もっぱらビジネス価値や利便性ベースで語られていることに危機感
を持っていると。一般的には「情報とは、その人や社会にとって有用な報せ」の
ことです。ただ、この有用性が単なる利便性やビジネス価値だけでは、根本的な
ことが欠落している言うのです。

 従って市民活動が扱う情報は、危機耐性のことも含めて、自前のメディアを必
要としてきました。マスメディアによる報道だけに頼るのでは、「場合によって
は、人の命や共同体の運命にかかわること」を伝えることはできません。だから
自分たちの手で管理できるメディアをつくることが重要でした。どんな運動体も
どんな市民の活動も、その視点から新しい世界の成り立ちを垣間見させ、人の命
や共同体の運命にかかわる情報を、自らの手でメディアをつくり、読者を創造し、
届けてきたのです。

 だから、フィリピンのミンダナオ島における戒厳令下でも、1976年、人々はマ
イクロメディア運動を起こし、「小さなメディアのあたらしいつかいかたをさぐ
り、だれもがそれをつかいこなせるような訓練のしくみをつくる」努力をしたの
です。

・黒板新聞
・ガリ版によるニュースレター
・調査と記録
・スライド
・自分たちでつくる演劇
・写真
・マンガ
・ポスター
・詩とソング
                    (「小さなメディアの必要」p74)

 このようなものがマイクロメディアとして例示されています。ひょっとすると
インターネットも印刷機もないような時代と地域の人々の想像力の方が、私たち
の想像力より豊かだったりします。メディアがインターネットへ収斂していくと
平行して、上記のような多様なメディア観は次第に薄れ、その潮流は枝分かれし
てワークショップ運動とでも呼べるような別の流れを形作ってきたのが、わが国
の現在ではないでしょうか。


 「街場のメディア論」第八講に、「拡がる「中規模」メディア」という節があ
ります。パーソナルメディアとマスメディアの間に広がる「特定の企業や業界、
特定の分野、特定の趣味の人たちなど、数千人から数十万人規模の特定層へ向け
て発信される情報」(佐々木俊尚著「2011年 新聞・テレビ消滅」文春新書)の
ことです。そのような規模のミドルメディアが拡がっているといいます。意見も
感覚も違う不特定多数の人々を対象とするマスメディアはどうしても「当たり障
りのないこと」を伝えることになってしまうわけです。その点、特定層へ向けた
発信が可能なミドルメディアは性質が違い、別の可能性があるという視点から、
内田のマスメディアに対する厳しい批判が展開されています。

 もともとNPOは、大きな社会と孤立した個人の間の中間集団です。問題解決
のための機能型組織であると同時に、ある属性やある困難を抱えた当事者を中心
としたコミュニティでもあります。存在自体がミドルメディアというの機能を持っ
ています。もうひとつ大事なことは、佐々木俊尚氏や内田樹氏の論では、読者数
がマスかミドルかの基準ですが、NPOの場合、読者ではなく、そのコミュニティ
の中に多様な当事者を含んでいることが特性として挙げられます。つまり情報を
制作し発信していく側の性質をどう活かすかということが重要ということです。

 そんなことを考え考え「街場のメディア論」を読んでいるところに、久米信
行さんがやってきました。11月28日に仙台市市民活動サポートセンターで開催し
た「市民活動カラフルフェスタ」のゲストトークのお客様として来仙していただ
きました。講演タイトルは、「そのつぶやきが社会を変えるチカラになる−国産
Tシャツメーカー社長に学ぶ情報発信術−」というものです。
 久米さんとは、日本財団CANPANの仕事をしていて紹介されましたが、まさにネッ
トワーカーという言葉にふさわしい活躍をされている方です。
http://kume.keikai.topblog.jp/index.html 
http://www.keikai.topblog.jp/indv/kume/sub_03.html

 その久米さんはソーシャルメディアの活用をお話されました。ソーシャルメディ
アとは、インターネット上のほぼ無償で提供されている種々のメディアで、
YouTube(ユーチューブ)、USTOREAM(ユーストリーム)、Blog(ブログ)、
Twitter(ツイッター)、Mail magazine(メルマガ)などを指しています。もちろ
んこれら以外にも、SNSや売買サイト、検索サイト、ファイル管理など、最近
のクラウドとスマートフォンブームを見ていると、メチャメチャ多様なサービス
が開発され提供されています。
 久米さんは、このようなサービスを大いに活用して、NPOの情報発信や地域
活性化に役立てようという主張と実践をされています。

 小生はソーシャルメディアについても、ある程度の知識がある方ですが、実践
は保守的です。しかし、久米さんが言うように、これからのNPOはもっとソー
シャルメディアを使いこなしていくべきだと考えています。日本財団の公益コミュ
ニティサイトCANPANの運営について協力してきたり、NPO情報ライブラリーを
CANPANのデータベースに乗り入れ情報開示の全国的な機運を作り出したり、地域
公益ポータルサイトみんみんを開発して、CANPANによる無料のブログサービスの
活用を強く推進したりしたのは、どれも、ソーシャルメディア時代にNPOが対
応していくための第一歩だからでした。

 そろそろセンターとしても、地域としても、第二歩目の時期がやってきている
というのが、久米さんの講演を聴いた感想です。

                                     続く                            
「街場のメディア論」を読みながら・・・(2) [2010年11月24日(Wed)]

                    写真は私の執筆風景。手前に本、向こうにPCという配置。

蝸牛随想(3)

「街場のメディア論」を読みながら・・・(2)

 ガリ版印刷の話を書きましたが、鉄筆とヤスリ板により、蝋びきの原紙をカリ
カリと「切る」(文字を書く)作業によって、孔版印刷という仕組みが成り立っ
ていたことなど、今の若い人たちはもう理解できないでしょうね。1861年にエジ
ソンが電気で振動するペンによってロウ原紙に穴を開ける製版技術を発明、後に、
プリントごっこやリソグラフのような孔版印刷につながっていくのですが、ガリ
版印刷つまり謄写版は、1894年に堀井新次郎が鉄筆とヤスリ板の組み合わせによ
る手書き製版とシルクスクリーン印刷のようなロウ原紙とローラーの組み合わせ
による印刷という手法をつくりだしたのです。その新しいメディア技術は瞬く間
に広がり、教育の世界では生活つづりかた運動の土台となります。また、世界の
各地に広がり、タイやフィリピンなどの民主化運動の支えにもなっていきます。

 私の20代前半までが謄写版の最後の時代であり、その後は、新しい製版技術と
輪転機の時代に入る、ちょうど両方の技術を体験していることになります。1981
年に「小さなメディアの必要」を読んでいた頃は、ちょうど自作の謄写版手刷り
印刷から、ローラーに巻きつけた原稿を回転させて、その信号を電気的に拾い、
振動に変えて原紙を製版する機械の中古品を購入し、手廻しの輪転機を使って印
刷するようになっていました。当時、私が発行していたマイクロメディア(ミニ
コミという言葉が一般的でした)は、ガリ版印刷した本体に白黒コピー(1枚40
円!)の表紙という教育関係ミニコミの「北斗」から、新しい中古製版機と手廻
し輪転機による個人誌「オーダハローヴォ・フリープレス」、自然と食と農を考
える研究会の会報「玄米家族」、本の紹介を勝手にしてしまう「ブックニュース」
(これだけは手書き版下、軽オフセット印刷でした)などでした。

 既にずいぶんたくさんのメディアをつくっていたことがわかると思います。当
時私は、一ヶ月に約3週間は東北各地を出張する仕事をしていましたから、その
合間に、このようなことをしていたのですね。「ブックニース」などは、大阪の
食堂や名古屋のアングラ劇場、東京の青林堂書店などにも読者の伝手で置いても
らいました。仙台の今はない八重洲書房という書店の一階から二階にあがる階段
の手すりにはたくさんのミニコミが吊り下げられていましたが、「ブックニース」
はそこで人気のミニコミでした。後に一緒に「センダードマップ」という情報本
をつくることになるライターの大泉浩一さんは、その吊り下げられた「ブックニー
ス」の愛読者だったといいます。

 当時は、市民活動サポートセンターのような公共施設などありません。市民が
情報発信しようとすれば、組合や学校など印刷機のある職場に勤めている人に依
頼するか、公民館などのサークルとして認められる必要がありました。さもなけ
れば自分たちで謄写版の鉄筆とヤスリ板、それに印刷機一式を購入するか、タイ
プ印刷など専門の印刷業者に発注するしか方法はなかったのです。メディアを手
にすること自体が難しい時代だったのです。印刷のためには、活動している人た
ちの中に必ず組合などに伝手のある人がいたのです。サポートセンターなどで、
無料や非常な低価格で製版印刷機が利用できるようになったのはごく最近のこと
ですから、今は夢のような時代です。

 私は市井の一市民として市民活動を始めたものですから、そのようなメディア
の手立てがありませんでした。そのため自身で自作または購入して製版機や印刷
機、それにコピー機などを所有するしか、自前のメディアを持つこと、すなわち
情報発信をしていくことができなかったわけです。まだ赤ん坊を抱えて暮らして
いた六畳と四畳半の小さな部屋の中に、大きな印刷機や製版機、コピー機などを
購入したときは、搬入に来た文具屋さんがびっくりし、気の毒がっていたことを
思い出します。

 なぜこんな思い出話を書いているかというと、メディアをつくり、情報発信を
していくことは、今も昔も変わりない市民活動の大事な仕事だと思うからです。
ところが、印刷機はほぼ無料で借りられる。インターネットもただ同然で各種の
サービスが利用できる。コンピュータを使えば、プロのデザイナーと見紛うばか
りの高品質なデザインのカラーチラシがきわめて低価格でできる。そういう時代
になっているにもかかわらず、市民活動団体の情報発信はまだまだ貧しいと思う
からです。どんなに素晴らしい活動をしていても、それを誰かに伝えたいという
思いを持ち、メディアをつくり、何らかの方法で手渡していかなければ、その活
動は存在していないのと同じです。もっと発信しよう!と思うことが多々あるも
のですから、敢えて昔の話を書いています。

 さて、こんな風に書いていくと、いかにも特殊に本が好きな人の随想という受
け取られ方になっていないか、ちょっと危惧しています。「小さなメディアの必
要」の冒頭の一章「森の印刷所」は、渡部昇一の「ウィリアム・モリスは金儲け
の天才だった」という奇説に対する反論から始まっており、「行動中心の読書」
を提唱した梅棹忠夫「知的生産の方法」(岩波新書)の反動として、「所有中心
の読書」を謳った「知的生活の方法」(講談社現代新書)を渡部昇一は書いたと
津野は指摘しています。渡部昇一には私もいろいろと因縁があり、また脱線したい
誘惑にかわれるのですが、それは別の機会に譲ることとして、私がこの随想でし
ていることは、私の「行動中心の読書」の実践と報告だということです。そのた
めに、2010年に出版された「街場のメディア論」を読み進みながら、1981年に出
版された「小さなメディアの必要」に言及し、自身のメディア環境について語っ
てきました。
 まだまだ続きます。

                                         続く
「街場のメディア論」を読みながら・・・ [2010年11月23日(Tue)]



蝸牛随想(2)

「街場のメディア論」を読みながら・・・

 内田樹の「街場のメディア論」(光文社新書)は、最近のおススメ本のひとつで
す。私の読書は、何冊も同時に走り読みをすることが多いのですが、その中にこ
れはという本が見つかると、今度は何度も読み返し、ページの上や下の角を三角
に折り返し、やがてそれでも足りなくなって、傍線をたくさん引き出します。
「街場のメディア論」は、この傍線多数本のひとつになりました。

 この本は彼の他の「街場の・・」本と同様、大学の講義を元に再構成、加筆し
た本です。もともと著者の本は読みやすいのですが、この本もとても読みやすく
できています。第一講では、この授業が「キャリア教育」の一環であることが明
かされ、それに対して、現在の行政主導で行われているキャリア教育が根本的に
間違っていると指摘されます。現在行われているキャリア教育は、基本的に「自
己決定・自己責任」論と「自分探し」論だからです。それに対して著者は、こう
言います。

 繰り返し言うように人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」
に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸び
る。それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うかどう
か、そんなことはどうだっていいんです。とにかく「これ、やってください」と
懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、
私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力は向上する。
ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以って代え難いものとして、召喚された
という事実が人間を覚醒に導くのです。
 宗教の用語ではこれを「召命」(vocation)と言います。神に呼ばれて、ある責
務を与えられることです。でも、英語のvocationにはもう一つ世俗的な意味もあ
ります。それは「天職」です。callingという言葉もあります。これも原義は
「神に呼ばれること」です。英和辞典を引いてください。これにも「天職」とい
う訳語が与えられています。(同書p30)

 私自身は、ずっと、たくさんの「仕事」をしてきたと思いますが、その大半は、
自分がしたいことや向いていることを選択したのではなくて、内田氏が言うとこ
ろの、他者からの召喚によるものです。それ以外の稼ぎについても、偶然と成り
行きによるところが多いですね。ですから「自分に向いた好きな仕事がないんで
すう」などといい年をして無職でいる人に質問されたりすると、「あんたの好き
なことにお金を払ってくれる奇特な人なんかいないよ。それよりあんたは何か世
の中の役に立つってことがあるのかい。何らかの役に立つから、世の中はあんた
にお金を払うんだよ。まずは何でもいいから役に立って見せな」などと意地悪な
言い方をしてしまうのでした。仕事の大部分は、やっている中で能力が開発され、
役に立ち感謝され、その結果好きになるという順番なのです。私もまた結果とし
て、自分がしてきた仕事が好きです。だから内田氏の言いたいことが痛いほどよ
くわかります。


 第二講「マスメディアの嘘と演技」では、最初にこの本で扱う主要な論点を5
つ示し、まず「マスコミの凋落」について論じています。マスメディアの凋落は、
単にインターネットが普及したからではない。端的に言えばジャーナリストの知
的な劣化が原因だと。メディアのクオリティを評価するいろいろな基準が考えら
れるが、最終的には発信された情報の「知的な価値」、つまり「その情報にアク
セスすることによって、世界の成り立ちについての理解が深まるかどうか」だと
著者は言います。「命がけの知を発信するのがメディア」だと。そして、メディ
アの「危機耐性」と「手作り可能性」がメディアの有用性を考量する場合の重要
な指標と触れられています。危機耐性とは聞き慣れない言葉ですが、権力的
干渉(当然、政治もスポンサーも含まれる)に対して強いかどうかということです。

 この章を読んで私は、津野海太郎著「小さなメディアの必要」(晶文社)という
本を思い出していました。幸い、退院後の居場所づくりで書斎の大掃除をしてい
た中に、この本を見つけたばかりだったので、たちまち読み直しました。紹介す
るにあたって、この本は1981年に出版された本なので、今では手に入るのだろう
かと思い、ネットで調べて見ました。

 『小さなメディアの必要』は、紙版が絶版となり、電子で復刻された本は理想
書店で販売され、青空文庫にも収録されている(入力したのはなんと、萩野正昭
さんと八巻美恵さん!)。理想書店のサイトには「フィリピン、タイ、メキシコ、
イタリア、沖縄。各地の文化運動の実際にまなびながら、『流言飛語』生産のた
めの小さな技術の可能性をきりひらく」と、やや挑発的な言葉で紹介されている。
お手軽なハウツーではけっしてない。津野さん自身の体験や見聞にもとづいた記
述がぎっしり詰まっている。なかでもわたしが興味をそそられたのは、T章に収
められている「ガリ版の話」だ。詳しく書いているときりがないが、ガリ版とと
もにはじまった北方つづりかた運動と共同体運動と結びついたフィリピン・ミン
ダナオのマイクロ・メディア運動の取り組みは、考えさせられることが多い。
 (「論駄な日々 働きながら学ぶ社会人院生・畑中哲雄の日常風景」
  http://hatanaka.txt-nifty.com/ronda/2005/06/post_647f.html から)

 「論駄な日々」というブログに、上記のような紹介がありました。青空文庫と
は、著作権フリーになった書籍と「自由に読んでもらってかまわない」とされた
書籍をWeb公開することを目的としたインターネット電子図書館で、多くのボラ
ンティア市民による入力が支えです。http://www.aozora.gr.jp/ 理想書店は電
子書籍ショップのことです。「小さなメディアの必要」は、どちらでも無料で入
手できます。津野氏は、ずっと「本とコンピュータ」という季刊雑誌の編集長で
もあり、電子書籍の到来を見越して、本の未来を考え続けてきた人で、その人の
本が絶版でも、青空文庫で読めるというのは、さすがインターネットの功績です
ね。

 「小さなメディアの必要」は、私にとって非常に重要な本のひとつです。1981
年、私が小さな出版社カタツムリ社を興し、仙台の市民活動の世界に足を踏み入
れた年に出版されています。内容の紹介は理想書店に譲りますが、ウィリアム・
モリス、小野二郎、「全地球カタログ」、森の印刷所、ガリ版の話、生活つづり
かた運動などなど、私のその後の活動の基盤となった考え方やアイディアの源流
がいっぱいに詰まっている本なのです。

 ガリ版印刷というのは、まさに危機耐性の強いメディアです。戦前の共産党な
どの地下活動の情報は、ガリ版印刷によって支えられていました。あのソ連が崩
壊するまで、ソ連では、印刷所で何を印刷するかは国家管理であり、コピー機は
一台一台KGBの支配下にあったのです。それにもかかわらず反体制の新聞や冊
子が次々と制作され、人々に配布されていました。旧ソ連の崩壊は、1986年4月
に起きたチェルノブィリ原子力発電所の事故の被害とアフガン出兵の痛手と新し
いメディアの発達の3つだと私は思っています。

 もうひとつ、この本には面白い紹介がありました。フィリピンのミンダナオ島
におけるマイクロメディア運動についての記述に、「フォトランゲージ・フィリ
ピネス」という写真集のことがあります。−−−写真集といっても芸術的・報道
的なものではなく、「自分」「関係」「生をたたえる」という三部に分類された
数百枚の写真が、バラバラにホルダーにおさめられている。九人から十二人の人
びとが集まって、これらの写真を床にばらまく。そしてそれぞれが自分の気持ち
にひっかかった写真をえらびだし、なぜそれをえらんだのかを話しあいながら、
たがいの「沈黙の言語」を意識化していく。そのための道具がこの写真集なので
ある。−−−今なら、こいうことは国際理解教育などの世界で教材として取り入
れられ、ワークショップなどという呼び名をつけられているわけですが、当時は、
第三世界の最深部での闘いの営みとして、紹介されていたのですね。私自身が
ワークショップという手法に興味を持ちだしたのは、このあたりがひとつのルーツ
なのです。

                                           続く

二人の老い [2010年11月20日(Sat)]




蝸牛随想 「二人の老い」

 ちょっとふたつの文章をご覧下さい。どちらも私がいま読んでいた文庫本から
の引用です。


A: 切通しに向いた細い庭には、小さな蝋梅があります。正月の七草のころ、
ひと雨降った夕方でした。もう咲いたかな、と思いつつ庭に出て、蝋梅に近寄っ
てみると、微妙な薄黄に透きとおる花びらが開いていた。
 花びらの先端には水滴があって、花よりさらに透きとおった水玉を光らせてい
ます。花を眺め、漂ってくる香りをかぎながら、今年もまたこの花に会えたこと
に、不思議な喜びを覚えたのでした。
 桜を見て、「命なりけり」と言った人がありますが、いまの私は蝋梅から同じ
感情を呼びおこされるのです。その一枝を切りとって、小壺に挿して机上に置き、
それを前にしてこれを書いています。
 あなたも、出逢うごとに自分の「命のありよう」を思い出すような、そういう
花をお持ちでしょうか。
 私は少年期から壮年期にわたって、ずっとそんな花を持ちませんでした。なに
しろ大都会の下町で生まれ育ったばかりか、青年期も自分の知的、肉体的欲望の
ままに過ごした者です。壮年期には少し信州の自然に接したのですが、その時は
まだ、花は私に心を浸みこまないまま、いつしか還暦に達したのでした。
 (中略)
 雪の中に立つ蝋梅の姿と香りは、生きていくものの凛々しさを伝えたのです。
誰の目を求めるのでもなく、誰の期待に応えるのでもなく、ただそこに、粛然と
咲いている花---それは泥だらけの私の中に、「ただ在るもの」への信頼をよみ
がえらせたのでした。
 こう書いてから思い出したのですが、私にはもうひとつの花があります。夏に
咲く夕菅の草です。この十年ほど、伊那谷にゆくごとに気づくようになって、い
までは私の夏と深く結びついた花になっています。その出会いからの関係につい
ては「いくたびかの夏がすぎて」という小文を書いています。
 とにかく冬の蝋梅、夏の夕菅の花はいまの私にとって、「命なりけり」の花な
のです。出逢うごとに、自分の命の喜びを自覚する花となっているのです。


B: 深大寺のそばに住んでいたとき、近くの民家に巨大なこぶしの樹がある家
があった。早い春になると、ぼんやりとした空に真っ白な気球の様なこぶしの花
が浮いていた。どんなに金が無くても、どんなに我が身がままならなくてもその
巨大な真っ白な花の固まりを見ると、ア、ア、ア、とか、ウーとか感動せずにい
られなかった。腹の底から喜びが湧き上がって来て、喜ぶ自分が、嬉しいような、
いまいましい様な気がした。
 花が散り始めると、私はもう来年のこぶしの花を待っているのだった。ある年、
どうしてもそのこぶしの花がみつからなかった。切り倒されてしまったのだ。何
故何故? 私の目は空しくぼんやりとした春の空をうろついている。何年も、そ
こを通ると私の目はうろうろして、大きな喜びが切り倒された事を確認して腹が
空いている様な気がした。
 ここらの春はいっぺんにやって来る。山が笑いをこらえている様に少しずつふ
くらんで来て、茶色かった山が、うす紅がかった灰色になり、真っ白な部分と、
ピンクのところとが、山一面にばらまいた様に現れる。こぶしと桜がいっぺんに
咲くのだ。くそ面白くもない毎日をすごしている私は、いとも軽薄に、腹の底か
ら踊り狂うように嬉しくなる。やがて山がサラダ菜の様な若葉になると、私はま
た来年のこぶしの咲く山を待っている。
 私が死んでも、もやっている様な春の山はそのままむくむくと笑い続け、こぶ
しも桜も咲き続けると思うと無念である。


 タネを明かせば、Aの文章は、大失恋の後、60歳を過ぎて老子に目覚め、信州
伊那谷に独居しながら、タオ(道)を歩む、加島祥造さんの六十代に書かれた文
章を集めた『老子までの道』(加島祥造著 朝日文庫)の中の「蝋梅記」より引
用したものです。
 一方Bの文章は、『100万回生きたねこ』の作者で先日亡くなった佐野洋子さ
んのこれまた六十代の前半に書かれたエッセイ集『神も仏もありませぬ』(佐野
洋子著 筑摩文庫)に収録されている「納屋、納屋」というエッセイからの引用
でした。

 私はいま61歳と3カ月ほど馬齢を重ねていますが、ちょうどお二人がこれらの
エッセイを書かれた年齢であり、そのどちらにも惹かれるものがあるので、手元
には二冊の文庫本があるというわけです。
 そして、上記AとBのように、根本的には同じことを感じているのだと思うのです
が、その反応の極端な違いがなんとも言えない味わいを醸し出していて、同時に
二冊の本を読む醍醐味というものを味わわせてくれるのでした。

 このふたつの文章は、自然の中のエネルギーの受け取り方が描かれていますが、
同じように自身の「老い」の受け止め方にも二人の特徴が良く出ています。

 (大学での講義「ユーモア論」の最中に入れ歯を吐きとばした話を十年後に書
いている文章です。加藤註)
 思い返すと、その当時の私の容姿も、さらに滑稽さを増すものです。今のよう
にムサい姿の自分ではなく、髪はあのころの流行語の「ロマンス・グレイ」であ
り、口髭と顎鬚も短く刈り込んであって、服は丸善の海島綿の白の上下を着こん
で、なかなかの洒落者でした。健康は前に言ったようにまだ衰えずにいたし、講
義するユーモア論も得意の題目でした。
 こんな洒落男の大学教授が、笑いのついての講義の最中に、入れ歯を飛ばせて
ユーモアを自ら実演してみせたのでした。
 アラン・ワッツは(1973年亡)は今世紀では最も柔軟な知性の人と思います。
彼の『ザ・ブック』に一章”It”(それ)のはじめにこんな言葉があります----

「本当のユーモアとは、自分自身に向けた笑いであるのと同様、本当の人間性と
は、自分自身を知ることにある。」

 ワッツの言うとおりだと思います。たしかに本当のユーモアとは自分自身を笑
うことですが、それはなかなか実行しがたいことです。自分をあざけり笑うこと
はできますが、温かなユーモアで自分を省みることは、壮年期まで、まるででき
なかった。そんなことは一度もしたことがなかったと思います。
 晩年になって、はじめて、自分自身をそういうユーモラスな眼で見るようになっ
たのです。
         (加島祥造:「滑稽さについて−麻の白服と入れ歯」より)


 私は年老いることをずっと確認しながら生きて来た。姿形だけでなく、中身も
年月と共にズダ袋にゴミを入れたようにふくらんで来ていた。生物の宿命は自然
のいとなみであり、その様に宇宙は成り立っている。人が年を取るのは何の不思
議もないの。あの人も年よねェ、私も年よねェ、わかっているの。でも鏡を見る
と「ウッソー、こ、これ私、ウッソー」と思ってしまうの。ペテンにかかったん
じゃないか。(中略)
 鏡を見て、「ウソ、これ私?」とギョッとする瞬間以外、一人でいる時、私は
いったいいくつのつもりでいるのだろう。青い空に白い雲が流れて行くのを見る
と、子供の時と同じに世界は私と共にある。六十であろうと四歳であろうと「私」
が空を見ているだけである。突然くもの巣が顔にはりついたりする時の驚きは、
七歳も四十歳も今も同じでただ私が驚いている。
                    (佐野洋子:「これはペテンか?」より)


 いやはや、いかがですか? 単純にこれを男女の感性の違いとひとまとめにし
たいとは思いません。しかし、私の感性は、この二人の感性の間を揺れ続けるの
ですね。少しエエカッコシイで、すぐに体験したことを大きな世界観の中に位置
づけたり、理屈をつけたりしたがる私がいて、一方で、自分も含めた全体を丸ご
と味わい、むさぼり、嘆き、体感する、そういう感性に永遠の憧れを持っている
自分にも気がつくのです。

 私も還暦を過ぎて、執行猶予5年を言い渡され、自身の老いと行く末について
思い巡らす時期になりました。蝸牛随想は、そういう私の軌跡を書きとめていこ
うと思っています。