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未来が入るためのスペース [2011年04月29日(Fri)]
図書館内を歩く。
昨日午後2時。図書館内のスペースはほぼ満員だ。




写真を撮ろうとしている私に気づくと、顔を上げて笑ってポーズを取ってくれる。勉強の邪魔をしてすまない。

まだスペースが空いているというなかれ。
こういう場所は余裕が大切だ。

全国の大学図書館は年々増える蔵書を収納するスペースが足りなくなっている。建物を拡張しても拡張しても、そこが一杯になる時期が迫る。新施設の計画から実施、完成に至る間に,更にその年限が近づく。国立国会図書館が取り組んでいる蔵書の電子化も、同様の問題に対する方策の一環と理解できる。

どこかでスタイルを変えないといけないこと、その準備作業に着手することについて前館長である高見先生から引き継いでいる。本も資産だがスペースも資産だ。確かに他で入手できる資料も手元であられると便利だ。しかしその便利さと引き替えにスペースを失う。未来が入るスペースだ。

未来が入るスペースには、未来の書籍など情報がはいる。そして未来を作る学生が入る。

図書館は情報を集積する場であるが、情報を利用する場でもある。利用する学生がどのように利用するかが考えられなければいけない。それが悩みどころだ。

情報をコレクションしたい。しかしどのような思想で、どのような分野に注力するか。それを考えないといけない。国際武道大学付属図書館としてどのように社会に貢献するのか、学生教育に貢献するのか。他が担っているところからは断腸の思いで撤退しなければいけないことも覚悟している。

それはスペースという物理的問題だけでなく、情報の存在形態が変化しつつあることを、どのように捉えてワクワクする未来を想像するかという夢のある作業だ。撤退、削減、減少・・・という先にたくさんの新しい知の構築や夢がある。

私がこの世に居ない国際武道大学100周年の時、大学がどのようになっているのか。そんなことを想像しながら、今までとは違う勇気がいる一歩を踏み出さないといけない。

私たちはフューチャリストでなければならない。現在だけでなく未来が私たちに託されている。託された者としての責任からは逃れられない。
カメラマンと運転手は泣いて笑った [2011年04月28日(Thu)]
「車内のカメラマンも運転士さんもポロポロ泣きながら笑いながら走り続けたそうです」

本当かウソか知らない。運転手が運転中に泣いたり笑ったりして良いのか知らない。でもね、見れば納得だ。


見る者もポロポロ泣きながら笑う。最高だ。

「素敵です!私は宮城県民ですが、いつかこんな映像を東北で撮って­いただきたいです。東北、元気です!応援ありがとうございました­!って、そう世界に伝えられるような」

「JAPAN IS AWESOME ! 」 (日本スゲー)

嬉しい未来を想像した。


昨日、私は上越新幹線に乗って越後湯沢まで。そこからほくほく線にのって六日町へ。八海高校に行った。車中、色々なことを考えた。

八海高校で会った高校生は刺激的な生徒だった。大人と話すことに慣れている。専門とする種目の特徴だろう。色々な話をした。こちらが問いかけると様々な条件を設定して「こうもできる、ああもできる」と答えが返ってくる。その答えに刺激されて私も考えが予期せぬ発展をする。

「本当に色々なことを考えられて勉強なりました」
「いやいや、私の方がすごい刺激をうけたよ。ありがとう。楽しかった」
「本当ですか。うれしいです」

嬉しい未来を想像した。


校長先生、教頭先生、そして神田先生(私の授業を生徒と一緒にお聞き下さって、私が関わるオンリワンスクール企画の切っ掛けを作って下さった先生)にお時間を頂いて色々なお話をさせて頂いた。アイデアが具体的に結合して行く。今年度、オンリーワンスクール企画の最後として300人の生徒さんを巻き込んだ企画のカタチが見えてきた。

こちらも嬉しい未来を想像した。


追記:【JR九州ホームページより抜粋】
九州のみんなでその喜びをわかちあえるものにしたい。 主役も新幹線ではなく、 九州のみなさん一人一人のほうがふさわしいのではないか。 (中略) 「ほんとにみんな集まってくれるのだろうか」という一部の冷静な­意見に耳をふさいで、やや興奮状態のなか、準備は進められました­。新幹線のなかからその様子を見ていたスタッフによると、 沿線上に人の姿が途切れることはなかったそうです。みなさん全員が大きな笑顔で、大きく手を振ってくれたそうです。 やさしいと思っていた九州のみなさんは、 思っていた以上にやさしい人たちでした。集まってくれた人数は、15,000人とも20,000人とも言­われていますが、 その正確な数字は分かりません。 分かっているのは、あのとき、ほんとうに、九州はひとつになった­ということです。 あの日、集まってくれて、ほんとうにありがとうございました。 みなさんのおかげで、 日本一幸せな新幹線をおくりだすことができました。 これからも、みなさんといっしょに走ってゆきます。
入部式 [2011年04月27日(Wed)]
練習前に1年生が前に並んで空手道部の入部式が行われた。

今年は9名が入部する。かねてからの怪我でリハビリ中の1名を除いて8名が集まった。

1人1人が決意を述べなければならない。
緊張する。

心配はない。いじめもなければ飲み会も無い(一年生は全員未成年だからね)。

「新歓コンパ」が無いことを寂しいと思われる方も居るかもしれない。しかし、クラブ防衛の観点から無理だ。無しだ。それで学生大会から国際武道大学が消えることになる。

30年前、私の時代にはそれがあった。
自己紹介をして、芸をしなければならない。
できない者は「次!」となる。

毎回イタい芸をする者。毎回パスする者。
思い出して赤面してうなる者も居るだろう。
思い出して悔しさを噛みしめる者も居るだろう。

一発芸は苦しい。できなくても前に出るトレーニングは重要だろう。

私が学生時代に所属したクラブでは下ネタ禁止。急性アルコール中毒の危険がある一気飲みなど今はあり得ないが、当時は一気飲みを披露するバカがいた。そんなことしようものなら「そんなのは芸じゃない!」と怒号の嵐だった。物も飛んできた。酔って吐こうものなら「飢えている人が居るのにあり得ない。喰え!」と迫られた。怖かった。

総会が行われた会場のバルコニーで落語をやらされたことはある。恥ずかしいから苦しかったのではない。他者の時間を頂いて、面白くないことをやるのが苦しかった。そのうちに「勢い」があるとそれでも面白くなってくることを学んだ。
ウソはつかない、でも誇張がないところもない [2011年04月26日(Tue)]
3年生のゼミ(演習)がスタート。
メンバーにOpen Campus スタッフをやってもらおうと登録用紙に記載をしてもらった。彼らが帰ったあとに読んでいると<スタッフとして来場者に伝えたいこと>という欄に以下の記述があった。

「松井先生というすごい先生がいること!」

何を書いているんだか。と思いながらも気分は悪くない。やっぱりなぁ。スウェーデンも一緒に行ったしなぁ・・・などと考えていて気がついた。

違うのだ。

実はゼミを研究室でやるために「少し」掃除された研究室を見て、彼女が「少しきれいになったようですけど、ここら辺の「山」に荷物が移動したような・・・」と正直な感想を言った。

「そこは誉めるだけにしておくところ。『わーきれいになった』とだけ言っておけば、他者はその気になる。やる気がでる」と諭したのだ。

そのことを思い出した。
彼女は学習したのだ。
彼女に伝えたい。

おじさんは自分で諭したことを忘れて気持ちよくなったね。やる気が出たね。ホント。

ウソは言ってはいけない。でも誇張はする。誇張がないところはどこにもないぐらいに褒める。罪悪感がある人に言っておく。

私は学生褒める。上述のような意図がないわけでもない。ところが、あーら不思議。褒めるために自分が言ったことは、上述のようにウソではないので、本当に誇張されたレベルまで学生がすごいような気になってくる。言っている私自身が自分の言葉に支配される。

こうなると褒めた方も褒められた方もハッピーだ。
ワシは最高の学生達に囲まれる。
双方ともやる気はでるし、行動する。

わはは、だ。

もう一度、今度は口に出して言ってみよう。
「松井先生というすごい先生がいる」

わはは。


追記:褒めると「褒めても何も出ませんよ」と言う人がいる。照れ隠しだろう。奥ゆかしさを感ずる。が、私は言わない。言わないようにしている。「ありがとう」と笑うのがいい。本日の記事を書いていて私が使わないようにしている理由を発見した。言ったことに支配されるのだ。「何も出ませんよ」と言うと、「何もでませんよ」、なのだと思う。
災害ボランティアに行くにあたって [2011年04月25日(Mon)]
前回、災害ボランティアに行きたいと相談に来た学生達にOGの活動を紹介してしまった。出発前に学生達の保護者に連絡し承諾を得て、学生本人にサインしてもらった文書を公開しておきたい。

責任逃れだろうか?
私はそう思わない。

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災害ボランティアに行くにあたって

 災害ボランティアに行くのに、既に現地で活動して信頼関係や活動機会を確保していると方と一緒に行くと、より多くの支援ができます。自動車で行く人に同乗させてもらえば楽に移動もできます。ものを出す人や金銭面の支援をしてくれる人もいるでしょう。

 ところが、ひとたび事故が起こると事情が変わります。例えば好意で同乗させ運転していた方も、法律上事故で死傷した同乗者に対して責任を負うことになります。

 ですから、実力有る人は1人で行った方が安全です。貢献したい気持ちがあっても何も関わらない方が安心、ということになります。

 しかし、それでは社会全体がお互いに支え合ったり、助け合ったりする関係が無くなってしまいます。「ボランティア」は、度胸があって馬鹿な奴の別名になるでしょう。そして、あらゆる組織は構成員の活動を禁止することで安心する道を選ぶようになりかねません。

 それは私が理想とする社会ではありません。

 先ほどの事例。運転ミスをしているのですから責任を負うのは当たり前かもしれません。しかし、「責任とれないから乗せられない」という態度を取らなかった人に賠償請求するのは信義に反すると私は思います。

 ですからこういう事例では、責任追求は保険でカバーする限度にする合意を持ちたいと思います。そういう信頼関係を持つ仲間で行動し,社会全体にその和を広げるべきです。

 そうすれば、広く「がんばろう日本、支え合おう日本」の活動が、スローガンにとどまらず、現実のものになるはずです。総ての結果を他人のせいにするのではなく、すべての原因を自分の中に探す日本独特の文化を維持したいのです。この趣旨を理解し、総てにおいて自己責任で行動することを再度確認した場合のみサインして下さい。


2011年4月 日 

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つなげよう、日本。 [2011年04月24日(Sun)]


やっぱりね、インターネットではだめなんだなぁ。
人が直接ね。動かないと。行かないと。

これまで涙が出ることはたくさんあった。このCFも見ていて目頭が熱くなる。でもこの目頭の熱さは少し違う。まだ開通もしていないのに、うれしいのだ。久しぶりにうれしくて目頭が熱くなった。4月29日には東北新幹線全線開通予定。
プロジェクターを使わないプレゼンテーション [2011年04月22日(Fri)]
都立文京高校でお話。プロジェクターをお願いしておいたつもりだったが無かった。黒板に板書しながらお話した。

しかし、それがよかった。
プレゼンテーションは書くスピードで行われるのが一番いいということを再確認した。

「もう、二度と国際武道大学は呼ばれなくなるかもしれないが、今日は君たちに伝えたいことを話す。期待に反するかもしれないが、損はさせない。体育大学で学ぶために高校時代に力を入れるべきことは全部だ。体育学は総合学問だからだ」

文部科学省が高校生が国際武道大学に入学するためには高校時代に何を勉強すれば明示せよと言っている。しかし体育大に行くのに保健体育だけやればいいわけでも、できれば英検準2級を取得しておくことが望ましいワケでもない。国際武道大学は募集要項に「全部」と書いてやった。わはは。成績を良くしろと言っているのではない。

カンボジアの高校生への応援指導と、リズムと、ヒットラーの集会と、運動会で最後に盛り上がるリレーと、運動エネルギーの話が一つにつながることをお話しした。音楽,歴史、物理などバラバラな科目、バラバラな話がスポーツ・体育・武道という軸でつながる。

プレゼンテーション用のスライドを使いながら話すより、流れが良かったような気がする。ビデオなどでイメージを具体的に提示する手法を失った代わりに、人が思考するスピードに近くなったのだと思う。

スライドの作成手法を再度検証しなければならない。
日本の味方の見方 [2011年04月21日(Thu)]
「たけしのニッポンのミカタ」
 ビートたけし・国分太一

2011年4月22日(金)テレビ東京
夜10時00分〜10時54分は
『正しい休日のススメ!?』
【ゲスト】土田晃之 ほか
【ミカタリスト】山本利春(国際武道大学教授)

乞うご期待。
ガンジーの言葉 [2011年04月20日(Wed)]
図書館長になって、「学年オリエンテーション」という各学年が全員1114教室に集合するガイダンスに出席することが許された。

階段教室のステージ脇に座って学生達を見上げる。
さすが体育大生だ。姿勢、視線というか眼力が違う。
疑う学生は、席を探す振りをしてステージ前から見上げてみるといい。

「ホラーっ、そこっ」
1年生の回に他の教職員から注意される者がいた。
回りの学生から送られる視線と違うので目立つのだ。

授業が始まると、私も1114教室で行われる授業を担当するが、授業時よりも断然いい。

サンデル教授を気取って「君、名前は」なんて指名したりするからだろうか。一生懸命面白い授業をやろうとしているが、その力のなさを反省した。ガイダンス「ぐらい」で気合いを入れやがる。嬉しいような不愉快なようなであった。

Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever.

明日、死ぬかのように生きなさい。
永遠に生きるかのように学びなさい。

1年生だけには、このガンジーの言葉を紹介し、解説した。

「明日、死ぬかのよう生きる」にとはどのように生きることだろうか。私も「明日死ぬ」と告知されたら自暴自棄になるかもしれない。

しかしひとたび落ち着いたら、これまで支え、機会を下さった方々に感謝の気持ちを伝えたいと思うだろうと想像する。妻に子供に家族に同僚に。そして君たち学生にも「私の話を聞いてくれてありがとう」と感謝するだろう。

そして、果たしていない約束を果たそうと必死になると思う。
「明日、死ぬかのよう生きる」とは、感謝し、約束を果たす誠実な行動をすることだと思う。

私も日常の中で、本当は来るかどうかわからない明日明後日に引き延ばすことでごまかしてしまう。反省だ。

「永遠に生きるかのように学ぶ」とはどういうことだろうか。
学ぶと、それまで、全く別で関係ないと思っていた事柄が結びついて理解できる瞬間がある。世界が違って見える。

例えば、私は「キュレーションの時代」という本を買った。薄い本だ。数年後には読む人が居なくなるかもしれない、ここ数年の変化を記述した新書だ。

しかし私はこの本に期待している。著者の佐々木俊尚さんの本は毎回タイトルがイケてない(今回はいいかな)。しかし、いつも私の世界観に刺激を与えてくれるのだ。

限られた人生だが、「あーそうか」と世界の見え方を変化させ、希望を見いだしたい。少しでも大きな視点を持つ人になりたい。

どうしても、読んでおきたい。

「永遠に生きるかのように学ぶ」とは、常に世界観を進歩させ、希望を見つける姿勢だと思う。

色々な不安があるだろう。事件もあるだろう。
でも坦々と学ぶのだ。そして行動する。
それが大学だ。大学生だ。

諸君に期待している。
集合写真 [2011年04月19日(Tue)]
国際スポーツ文化学科の新入生。松井組の集会。
このチームはお互いの名前が覚えやすい。一定の法則を発見したのだ。直ぐに覚えられたので、その方法を彼らにも公開した。ミーティングが終わり解散した後も、お互いにメールアドレスを交換したりしている。そこで記念撮影をすることになった。
笑顔で集合写真。
「希望に満ち過ぎているなぁ。もっと失敗したぁって感じの顔で撮っておこうか」
という私のリクエストで撮り直し。
どう繕ってもやる気の無い顔にならない。

このワクワクと高揚する感じを忘れないで欲しい。

こういう時にあって、こういう若者を「不謹慎」と言うのではなく、「希望」というのだと思う。そういう雰囲気だった。
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