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元巨人、別所投手と恩師、成章OB渥美政雄氏つながり・・ [2012年11月29日(Thu)]

政治の方も各党が選挙公約をそろそろ出していますね。
日本維新の会は太陽の党と合流してから、どうも公約が後退ぎみですね。残念です。
政策的にはみんなの党の公約が私の考えと一番、あってるかなという印象です。
渡辺代表のゆるぎない信念はいいですね。維新の会とは政策的に合意に至らず、自我を貫きました。ここに来て滋賀県の嘉田知事が未来の党を立ち上げ、これに生活の第一や減税日本が加わり
卒原発を目指す第3極が誕生しました。こちらも目が離せません。
今日の東愛知新聞には愛知15区に出馬予定の杉田氏が日本未来党から出馬するとの記事。
田原市で成章出身ですから何とか応援したいと思ってます。

ヤクルトに入団した小川投手の関連記事を探していたら別所毅彦監督の名前がありました。
1968年にサンケイアトムズで監督に1970年ヤクルトアトムズに球団名が変更の3年間、ヤクルトで監督をされていたんですね。現役時は巨人で投手として活躍され通算310勝をあげています。

別所毅彦と言えば滝川中時代の渥美政雄氏を思い出します。
渥美政雄氏は成章OBで高校野球界では違う学校で4校の甲子園出場があります。
この4校で甲子園は渥美氏が最初でもう一人他にもいます。
現在の東邦、滝川高、一宮、時習館で戦前から戦後までこの4校での甲子園出場は今も輝かしい経歴として残っています。
渥美政雄氏が滝川中時代に甲子園出場した時に別所毅彦、青田登は当時は1年生、3年生の時の甲子園出場で・・あの有名な「泣くな別所、センバツの花」が誕生するのである。


泣くな別所、センバツの花
「ポキリ、と大きな音が払のところまで聞こえましたよ」と渥美は述懐する。当時、渥美は三年間在職した滝川中学を辞し、愛知県の一宮中学校に転任していた。同校はこのセンバツ大会に出場、準優勝する(後に詳述)が、渥美はかっての教え子たちの戦況をバックネット裏から見守っていた。

そのころのチームに控え投手はいない。別所は続投を願い出た。左腕を布でまきグラブを捨て、捕手からの返球はゴロで受ける。左腕をだらりと下げたため、右腕の反動を失い下手投げに変えた。彼は苦しみながら以後、二回と三分の一を投げ続けた。

”選手である前に生徒であれ”これは渥美政雄が滝川中野球部監督時代、選手たちに教えたことばの一つだった。今、夕闇迫る甲子園のマウンドで、その教えを忠実に守り、苦悶の表情で力投する別所。渥美は教師となったことの意義を再びかみしめていた。

試合は結局、延長十二回の半ば投手経験ない捕手小林章良が救援したが十四回の裏、岐商が貴重な一点を挙げ滝川は涙を存んだ。翌日の新聞はうたった。”泣くな別所、センバツの花”。別所投手を語る場合、必ず引き出される有名なエピソードである。

昭和十六年の同大会は、太平洋戦争に向けてひた走る日本の国内情勢がセンバツ野球にまで影響を及ぼし、戦時色の濃い大会となった。そんな雰囲気の中での別所の力投は見る人に、甲子園に咲いたけなげな一輪の花のように見えたのかもしれない。

後に、別所はこの時のことを「目標を求めて不断の努力を重ねる、その尊さを教えてくれたあの敗戦に、私はいま満足感すら感じている」 と述べている。彼のプロ野球での通算310勝は金田正一投手に次ぐ快挙となっている。

渥美政雄氏は田原市出身で神戸の川岸地区にその生家があります。私の家から歩いても5分ほどのところです。秋の久丸神社大祭の余興で神輿を見ながら渥美氏の生家を訪ねて見ました。現在は家には誰も住んでおられないようですが、呉服屋さんだったようで今も家の所の渥美屋洋品店の看板が見えます。前の牛乳屋さんが親戚とかで、話も聞きました。
この神戸川岸地区からあの偉大な先輩が誕生していることを地域に住み私にとっても誇れる先輩ですね。

DSCF2650.JPG

渥美政雄氏もヤクルトに入団した小川投手も成章OB・・
渥美政雄氏の教え子だった別称毅彦氏。
その別所毅彦氏の投球フォームを見て驚いた!
小川君と投球フォームが良く似てますね!

bessyo02.jpg
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