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先輩研究者のご紹介(久保田 達矢さん) [2020年06月29日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日は、2019年度に「沖合海底圧力計アレイ解析に基づく微小海洋変動シグナルの検出」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、防災科学技術研究所所属の久保田 達矢さんから、助成時の研究についてコメントを頂きました。

<久保田さんより>
 近年、津波の早期検知を目的とした沖合津波観測網が整備されつつあります。これらの観測網は、比較的狭い空間範囲に多くの津波観測点が展開されている点に特徴があります。本研究課題では、このような沖合津波観測網の記録から微小な津波を見つけ、津波とその起源となる地震の性質の理解を試みました。

 本研究では、これまで津波を引き起こしているとはあまり考えられていなかったマグニチュード(M)6程度の規模の地震に着目しました。岩手県三陸沖において発生したM6.0の地震について、東北日本の沖合に展開された「日本海溝海底地震津波観測網(S-net)」の記録を調査しました。震源の周囲の観測点の単一の波形からでは、海洋変動ノイズの影響により津波が記録できているかどうか不明瞭でしたが、複数の観測の波形を並べてみると、各観測点の間を約0.1km/sの速度で伝播する津波 (振幅1cm未満) が確認できました。また、この津波成分を解析してこの地震の性質を詳細に調べたところ、通常の地震とは異なる性質を持つ「スロー地震」と呼ばれる活動とは棲み分けて分布していることがわかりました。この地震の発生様式の空間的な違いは、プレート境界面上での摩擦などの物理的な性質の空間的な違いを反映していると私は考えています。
 本結果は、多数の観測点からなる津波アレイ記録を活用することで、従来の観測網では観測することすら不可能だった小さい津波や、それを引き起こす地震の情報を詳細に得ることが可能になることを示しています。M6程度の地震の発生頻度は巨大災害を引き起こすM9クラスの地震よりもはるかに多いことを考えると、M6クラスの地震による津波を多数精査することで、プレート境界における物理特性や巨大地震発生のメカニズムの解明、沖合での津波の伝播過程の理解につながると期待できます。

Kubota_etal_2020_GeophysResLett.jpg

 助成金への応募、研究計画の作成にあたっては、自分の研究の課題を見直すよい機会になりました。助成期間は1年だけでしたが、この研究は現在の自身の研究において重要な基礎となっています。現在応募を予定している皆さんにおいては、1年間自由に使える研究費が得られるだけでなく、ご自身の研究の現状と今後の方向性を考えるうえで有意義な機会になると思います。ぜひ、応募を検討されてみてはいかがでしょうか。最後に、笹川科学研究助成は様々な分野の幅広い研究を支える素晴らしい助成制度です。そのご支援を頂き感謝しています。ありがとうございました。
<以上>

 日本は海に囲まれた島国であるため、津波に関する研究は重要な課題です。津波が起きた際の対策だけではなく、なぜ津波が発生するのかというメカニズムの研究を行うことで、事前に避難等の対応ができるようになることを期待したいと思います。1年間という短い期間の助成制度ではありますが、研究費の面だけでなく、いろいろと考えるきっかけとなり、有効に活用していただけたとのこと、嬉しく思います。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 11:11 | 笹川科学研究助成 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
〜新型コロナ感染症を考える〜「医術と芸術」外山紀久子先生 [2020年06月17日(Wed)]

 科学隣接領域研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。第3回は外山紀久子先生(所属:埼玉大学大学院人文社会科学研究科 教授 専門:美学、芸術学(舞踊論、現代アート))から「医術と芸術」です。

「医術と芸術:浄めのアート走り書き」
外山紀久子

〇危機の時代の学問
 西洋で「美学」(感性学aesthetica)という学問分野が誕生したのは18世紀半ばですが、ルネッサンスから宗教改革を経てヨーロッパ世界の大きな地殻変動がその前史となる背景にあったと言われます。キリスト教の神様を中心とする旧世界の安定した秩序への信頼が失われ、相対主義のスピリットが深まるとともに、直感、直観、情感、「感ずることの意義」がクローズアップされました。宮廷文化の隆盛、社会規範の世俗化、美的自律性の確立といった関連する徴標に加え、グランドツアーの普及によるアルプス体験のように、人為をはるかに凌駕する「自然」の力の介入が新たな様相で経験されるようになったことも見逃せません。そもそも近世/近代への大転換が14世紀半ばから15世紀の初めにかけてユーラシア大陸全域を襲ったペストの猛威によってもたらされた──としますと、この世界は全て神の配剤によって最善の状態にあるとする「最善説(オプティミズム)」の微睡みを最終的に打ち砕いたのが1755年のリスボン大震災であったようです(吉岡洋)。危機の時代の学問の一つとして出発した美学は、生身の、病む身体、死にゆく身体との否応の無い対面のさなかに淵源があったのだと考えることもできるでしょう。
「芸術」が現在私たちの考えるカテゴリーとして成立したのも同じ頃の西洋であった、というのが西洋美学史や美学概説で語られる定番ですが、と言ってそのような近代的芸術概念、特にその自律性の確立とともに後景に退いた感のある、芸術の様々な機能(前近代的・非西洋的側面)も消えてしまったわけではありません。もともと魔術・呪術、宗教、医術、共同体の結束等と分かち難く結びついて芸術は営まれてきました。現代でも世界中の先住民文化の中で「美による癒し」が存続し、現代アートやダンスの一部にも同様の試みが見られ、「クリエイティヴ・アーツ・セラピー」や「ヒーリング・ミュージック」といった用語が示すように、心身を癒す力、医術との繋がりは実は美学の側からももっと注目されてよい芸術の「機能・功能」の一つなのです。

○芸術と浄め
 スタニスラフスキーの研究者レオニード・アニシモフは、あらゆる芸術には「人の意識を浄化すること(カタルシス)」、「意識に大きな栄養を[感情というエネルギーによって]与えること」という二つの機能があると述べています。この世で時間を過ごすにつれて意識は栄養不良となって飢えているか、悪い感情を糧としてしまっており、それが病気や死をもたらすことさえある、というのです。アニシモフは鎌田東二主催の国際シンポジウム「世阿弥とスタニスラフスキー」(2016,12/18上智大学)にも登壇しています。「そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感を為さむこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし」という『風姿花伝』の言葉が示唆するように、日本の芸能には古来生命(いのち)を強化する働きが認められてきました。その起源神話と言ってよいアマノウズメの神憑りダンスと八百万の神々による「魂振り」と同じく、個人にとっても共同体にとっても、衰えた生命/太陽を蘇らせ、陰から陽へ、闇から光へと転換する作用が期待されていたのです(生贄の少女を太陽神に捧げ、冬から春への蘇りを祈る《春の祭典》にも通ずると同時に、幼い子どもたちがおゆうぎしているのを見て、「寿命が延びる〜」と思うのもこれかな、と)。個体&共同体の「生命を強化する」──これはそのまま、栄養が不足し偏ってしまっている生命体を浄め、養う、芸術による「浄め」のプロトタイプに通じるものではないでしょうか。

○カタルシスとムーシケー
 「カタルシス」は、アリストテレスが「憐れみや恐れ」といったふだん忌避される感情(「悪い感情」)を惹起しつつ取り除く、同種療法的な悲劇の浄化作用に言及して以来、音楽、ダンス、詩、文芸等々の「ミューズ的芸術」の重要な特性とみなされてきました。(音楽に関しては特に、それが癒しの機能を持つという考えがずっと古くから遍く信奉されていたことは言うまでもありません。ピュタゴラス学派は、肉体は魂の墓場であり、天界への帰還には魂の浄めが必要という立場から「肉体を浄めるための医術、魂を浄めるための音楽」を標榜していました。)古代ギリシャではもともと劇場の文脈の外でも「浄め」の文化が広く浸透しており、単に心理学的な感情の浄化作用というよりは、汚れ、呪い、罪などの観念が融合した「不浄」の感覚、「物理現象的性質」として伝染し、感染し、時に遺伝しさえするものと恐れられていたそれの魔術的な浄化(秘儀・祭儀)が流布していたのでした。ドッズはそのような状況を「不浄(miasma)への普遍的な恐怖と、その相関物である典礼による浄め(catharsis)への普遍的な欲望」と言い表し、アルカイック時代に「最大の宗教的制度であったデルフォイの神託の主要関心事」もこのような浄めだったと述べています。
 カタルシスはしたがっておよそ芸術の専有物ではない(そもそも当時今のような「芸術」概念は成立していない)のですが、ムーサ(ミューズ)たちが司る「ムーシケー」(=musicの語源)もまた「その概念が示す範囲は、音楽、芸術、文学にとどまるものではなく、哲学までをも含む非常に広範なもの」「知的生活の高度な形すべて」に及び、「ギュムナスティケー」(体育)と並んで伝統的なギリシャの教育の二分野をなしていました。「哲学」はここでは問答法、つまり、対話の相手を得てロゴスを尽くして共に知を愛し求めるソクラテス=プラトン的なフィロソフィアの意味で理解する必要があります。哲学としてのムーシケーこそが「最高のムーシケー」であり、自分の魂を気遣うこと、魂が「肉体の本性に染まらず清浄であるように努めること」こそ、知恵によって真の徳に至るための「浄め」の修練(「死の練習」)なのでした。詩と哲学の覇権争い──哲学者と詩人(及びソフィストや弁論家)が、プラトンの中で「言論による魂の誘導」をめぐる積年のライバル関係にあったことが思い出されるかもしれません。ホメロス以来ギリシャで指導的な地位にあった詩人達(悲劇作家も含みます)に対しては、真に「ムーサの徒」の名にふさわしいのは哲学者の方だーと繰り返し主張されます。プラトンはまた、オルフェウス教徒の堕落した形態のことを金目当てで個人や国家を籠絡する「乞食坊主や予言者」と呼び、その浄めの祭儀に対しても極めて批判的でした。真の浄めは魔術的な儀式によってではなく哲学への献身によってのみ可能、哲学こそが「最高のムーシケー」であり真の「カタルシス」をもたらす営みなのです。

…節制も正義も勇気も[=真の徳である限り]、[快楽、苦痛、恐怖といった]これら
すべての情念からのある種の浄化(カタルシス)なのであり、知恵そのものはこの
浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。そして、われわれに浄めの儀式を定
めてくれたかの人々も、恐らくは、つまらぬ人々ではないようだ。じっさい、かれ
らは大昔からの謎めいた言い方でこう言っているらしい。秘儀も受けず浄められも
せずにハデスの国に到る者は、泥の中に横たわるだろう。これに対して、すっかり
浄められ秘儀を成就してからかの地に到る者は神々と共にすむだろう。     
(中略)僕が正しく努力して何事かを成就したのかどいうかは、かの地に着けば明
らかなことを知るだろう、神がお望みならば、思うに、それはもうすぐのことだ。
(『パイドン』69BD)

○『パイドン』の二つの謎
 ところが、ソクラテスの最後の一日を活写した対話篇『パイドン』では、この通常のムーシケーと哲学としてのムーシケーとの関係に不思議な揺らぎのようなものが窺えます。紀元前399年の春、ソクラテスは「国家公認の神々を拝まず、青年を腐敗させる」という罪状で告発されました。裁判の前日、アポロンの祭のためにデロス島へ派遣する使節を乗せた船の船尾に花飾りがつけられたため、その船が戻るまでの間は「国を清浄にたもち、何びとをも国法の名のもとに処刑してはならない」とう掟に則り、ソクラテスは裁判と死の間長い時間を牢獄で過ごすことになります。その間彼は以前には決して行わなかったこと=詩作を行なったのですが、理由を尋ねられて、生涯で幾度も訪れた同じ夢の意味を確かめようとしたからだと答えます。「ソクラテス、ムーシケーを為し、それを業とせよ」。彼はいつもはこのムーシケーを現に自分がしてきたこと(哲学)の意味と取っていました。

しかし、いまや裁判も終わり、神の祭が僕の死を妨げている間に、僕はこう思った
のだ。もしかしてあの夢は通俗的な意味でのムーシケーをなすようにと僕に命じて
いるのかもしれない。それなら、その夢に逆らうことなく、僕はそれをしなければ
ならない、と。なぜなら、夢に従って詩を作り聖なる義務を果たしてからこの世を
立ち去る方が、より安全である
からだ。                   
(『パイドン』61AB、傍線は筆者)

 肉体の桎梏から解放される死はソクラテスが(哲学という死の練習によって)終生目指してきたゴールという一方、人間は神の所有物なので神によって許されて初めてその日を迎えることができるという信念が続く箇所で語られます。死穢を禁ずるアポロンの祭りによって偶然与えられた刑死までの時間に、夢の勧めに従って詩作(アポロンへの讃歌を作り、アイソポスの物語を詩に直す)を行ない、「より安全に」、より浄められた状態で、死に赴くことを選択したわけですが、なぜカタルシスの完了に「哲学としてのムーシケー」では足りず、「通俗的な意味でのムーシケー」が必要とされたのかは謎のまま残ります。

1.png
ジャック=ルイ・ダヴィッド《ソクラテスの死(La Mort de Socrate)》(1787)、
ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵


 実は『パイドン』にはもう一つ「哲学史上の謎」とされる記述があります。「クリトン、アスピオクレスに雄鶏一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるように」(118A)。毒人参を潰した毒薬を従容と呑み干し、刑吏に言われた通り足が重たくなるまで歩き回り、横たわって下半身から下腹部へと麻痺が広がって、それが心臓まで及ぶ直前に、わざわざ自ら顔の覆いを取ってまで告げた、これが最後の言葉なのでした。アスクレピオスは医療の神なので、この世の生という病からの解放=癒しとしての死を迎えて感謝を表したものというような解釈が概ね優勢ですが、それ以外にも、東方ゾロアスター教で雄鶏に付与されていたシンボリズムに応じて「死後の旅路の導き手」としてその奉献を願った、とか、「光、太陽、神の顕現」それ自体を表している、とか、さらにはクリトンによる脱獄提案が含意する魂の堕落を招く事態を共に克服した証しであるとか、種々の解釈が試みられてきました。それにしてもなぜ、ソクラテスが自らその奴隷と称し、直前に讃歌まで書いた太陽神アポロンではなく(アポロンも職掌の一つに医療を司っています)、あえて(どちらかと言えばマイナーな成り上がりの)アスピオクレスなのでしょうか。

○アスピオクレス、非常時の宗教
 アスピオクレス信仰は、前5世紀末以降前4世紀の半ばまでにギリシャ語圏の多くの場所に伝播しました。ホメロス時代には人間の医師にすぎなかったアスピオクレスが比較的短い間に神格化され、主神アポロンの息子として崇敬されるようになった背景には、感染症の蔓延(とそれに伴う「呪術的治療の需要」の増大)が大きく関与していたようです。馬場恵二によれば、アテナイ軍対ペロポンネソス同盟軍による戦い(前431-422)の開戦当初からアテナイはペストとも推定されている悪疫に襲われます。田園住民を都市の城壁内に疎開させる戦術を取ったために人口過密となった中心市の惨状は、民衆の信仰心や法律の拘束力にも大きなダメージを与えました。感染の第二波の最中、前426年には、デルフォイのアポロンの神託によってデロス島の「浄め」が盛大に行われました。島内全域の墓から遺骨が掘り起こされ、「穢れたもの」として近隣の島へ移され、今後は「何ぴともこの島では生まれてもならず、死んでもならない」と定められたのです。ソクラテスも若い頃三度従軍したこのペロポンネソス戦争の中断を待って、前420年頃、同盟軍の領域(当時の適地)に属するエウダウロスの聖地からアテナイ市内にアスピオクレスが勧請され、やがてギリシャ各地にその祭祀が広がります。疫病という不浄に対応する浄めの祭儀の要請が、「アスピオクレスを二流の英雄から主要な神へと一変させ、エピダウロスの神殿を今日のルルドのように有名な巡礼地にした」(ドッズ)と推測されます。ドッズによれば前293年にアスピオクレスがローマに入ったのも同様の事情であったようで、感染症による危機の時代に勃興した「非常時の宗教」という見方が提出されます。
 したがってソクラテスの生涯の後半には、アスピオクレスは確かに病を癒す医神としてアテナイでも盛大に信仰されており、雄鶏の奉納も広く行われていたようです。ここで注意したいのは、そのアスピオクレス信仰の基本形が、「聖なる場所での睡眠(神殿での参籠)によって夢の中で神託を得ること」であったという点です。もちろんソクラテスは聖所で眠ったわけではなく、「[デロス島での]神の祭りが死を妨げている」間牢獄に留め置かれていただけですが、もしこの夢のお告げというポイントを先述したソクラテスの夢(「ムーシケーをなせ」)と関連させて考えることが許されるとすれば、夢による託宣の実行によって死出の準備が完了し、解放が許されたことを、今際の際に告げた、とする解釈も全く見当外れではない???かもしれません。少なくとも、「魂の不死について」という副題を持つこの対話篇の最初と最後に登場するエピソード(夢と試作、アスクレピオスへの奉献)を書き留めるべきこととプラトンは考えた、ということだけは言えるでしょう。

○芸術と医療:魂の浄め、肉体の浄め
 稲葉俊郎は古代の医療の一端を紹介する記述の中で、アスクレピオス信仰にも触れ、その統合医療的性格に注意を促しています。

アスクレピオス神殿でのインキュベーションは、「聖所」での眠りそのものだった。
そこには治療者はおらず、神殿で夢見ること自体が癒しとなった。        
アスクレピオス信仰の場であったエピダウロスには古代円形劇場が今でも残っており
(世界遺産に指定されている)、当時は演劇を体験することも医療行為の一部だった。
そこには劇場や眠りの聖所だけではなく、温泉場もあり、古代ギリシアでは自然、温
泉、スポーツ、演劇、音楽、芸術、夢(催眠)、神(アスクレピオス)など、あらゆ
る要素が身心の癒しにつながる医療的な行為として、一つの場で統合されていた。

 エピダウロスが観客1万数千人を収容できる巨大な古代劇場で知られているのは確かですが、劇場や競技場といったこれら「娯楽施設」は、平癒祈願者たちの日常的な使用のためというより、祭祀の普及のためにギリシャ全土から巡礼者たちを動員するのに貢献した「大祭」の際にだけ用いられたという説もあります。そこで開催された競技や上演がこの神に奉納されたものかどうかについても異論が提出されていますので、アスピオクレスと演劇等との関連を現段階で明言することはできません。それでも各地の聖所にはしばしば劇場施設が付随していること、アテナイ市内のアスピオクレス聖所はディオニュソス劇場に隣接していたということは考古学上の事実のようです。

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エピダウロスの考古遺跡:野外円形劇場(Wikimedia Commonsから)

 さらに、アテナイでの聖所落成に先立ってギリシャ三大悲劇詩人の一人に数えられるソフォクレスがこの神を自宅に招き入れ、賛歌を書き、祭壇まで築いたとも伝えられています。ソフォクレスの《オイディプス王》ではまさしく不浄(穢れ)とその浄めの物語が語られます。先王であり実の父であるライオスを殺害し、実の母イオカステと交わった──オイディプスがそれと知らずに被った穢れによって、テーバイ全土が(疫病が蔓延し、作物は育たない、子供が生まれないという)強い穢れの状態に陥ったとき、その原因と浄めの方法を教えたのもアポロンの神託でした。イオカステは自害し、オイディプスは自ら両眼を潰してテーバイを去っていきます。まさしく最高度の「憐れみや恐れ」を喚起する悲劇作品の代表です。

3.png
オイディプス(右)、スフィンクス(中央)、ヘルメス(左):アッティカ出土赤絵式壺絵(ca.440 BC)、
パリ、ルーブル美術館蔵(@Marie-Lan Nguyen/Wikimedia Commons)

 当時の演劇の上演が単なる「娯楽」や宗教施設の客寄せを超えて、あるいはせいぜい過剰な感情的負荷の軽減といった心理学的効果以上に、医療としての心身の癒しの一翼を担うものであったのかどうか──ここでも、覚束無い問いを放り出すことしかできないのですが、ソクラテスが(そして彼を師と仰いだプラトンが)ロゴスによる徹底した対話、問答法を極め、それを本然の「浄めの術」としながら、デルフォイの神託はもとより、ダイモニオンや夢のお告げを終生真剣に受け止めていたことはやはり忘れてはならないでしょう。それは理性主義からの一時的な逸脱/退歩、解釈の混乱を引き起こすノイズに過ぎないのでしょうか。プラトンその人も目の覚めるようなミュートス(物語)を細心の注意を払って対話篇の随所に織り込んでいなかったでしょうか。
 マレー半島の熱帯雨林に住む先住民の間では、夢の中で守護霊から授かるうたによって病を癒すと信じられています。詩や音楽、芸術の営みは、表層意識の及ばない領域から命を活性化するエネルギーを汲み上げる、そのための通路を持っています。稲葉が述べるように、生命システムにとっては「起きている時間(表層意識)と寝ている時間(深層意識)」の全体的なバランスの維持・更新が必須なのであり、「芸術も医療もともに人間の全体性を取り戻す営み」とすると、芸術と医療、「魂の浄め」と「肉体の浄め」は密接に関係し合っているのでしょう。眠りや夢、無意識の働き、深みからの働きかけを受けとめる芸術が生の全体性にとってどれだけ大事なものかを、この地球全体がミアスマに覆われているかのような人類史的「非常時」に、今一度思い出したいと考えています。

【参照文献】
佐々木健一『美学辞典』(東京大学出版会)、1995
テリー・イーグルトン『美のイデオロギー』(紀伊國屋書店)、1990
桑島秀樹『崇高の美学』(講談社メチエ)、2000
シンポジウム「美学vs.現代アート」(ヨコハマ創造都市センター)2011/4/23
アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』(河出書房新社)、2002
伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』(講談社学術文庫)、2012
河合隼雄『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日文庫)、2005
レオニード・アニシモフ「演劇における身心変容技法」科学研究年報誌『身心変容技法研究』第8号(上智大学グリーフケア研究所 身心変容技法研究会)、2019
『世阿弥能楽論集』(小西甚一編訳、たちばな出版)、2004
小穴晶子『なぜ人は美を求めるのか:生き方としての美学入門』(ナカニシヤ出版)、2008
『アリストテレース:詩学 ホラーティウス:詩論』(松本仁助・岡道男訳/岩波文庫)、1997
渡邊二郎『芸術の哲学』(ちくま学芸文庫)、1998
キティ・ファーガソン『ピュタゴラスの音楽』(柴田裕之訳/白水社)、2011
ドッズ『ギリシァ人と非理性』(岩田靖夫・水野一訳/みすず書房)、1972
工藤千晶「プラトンの教育課程論における「音楽」の位置に関する研究:3つの音楽概念を中心として」『音楽文化教育学研究紀要 XXVIII』、2016.3.22
『パイドン:魂の不死について』(岩田靖夫訳)、岩波文庫
馬場恵二『癒しの民間信仰:ギリシアの古代と現代』(東洋書林)、2006
カール・ケレーニイ『医神アスクレピオス:生と死をめぐる神話の旅』(岡田素之訳、白水社)、2012
土屋睦廣「ガレノスとアスピオクレス」『早稲田大学地中海研究所紀要 6巻』2008
稲葉俊郎「医学と催眠の歴史から見る心身変容」科学研究年報誌『身心変容技法研究』第8号(上智大学グリーフケア研究所 身心変容技法研究会)、2019
マリナ・ローズマン『癒しのうた:マレーシア熱帯雨林にひびく音と身体』(山田陽一・井本美穂共訳/昭和堂)、2000

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先輩研究者のご紹介(六車 宜央さん) [2020年06月15日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日は、2019年度に「アルツハイマー型認知症の早期判別を目的とする新たな簡易的層別化検査法の開発と一滴の血液への応用」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、立命館大学大学院薬学研究科所属の、六車 宜央さんから助成時から最近までの研究について、コメントを頂きました。

<六車さんより>
 近年の高齢化社会において認知症は大きな社会問題となっています。現在の医療では、重度の認知症を完全に治すことは困難であるため、早期の段階から進行状況を把握し、いち早く適切な治療や予防を行うことが重要となります。

 認知症の診断には、認知機能検査や画像診断などが主流ですが、これらの診断法は個人差や労力、費用などの観点から、早期の患者候補に対する選別検査(スクリーニング検査)にはハードルが高くなっています。そのため、認知症の進行に伴い、変動する体内の生化学的指標(バイオマーカー)による客観的評価法が求められています。

 2007年に米国ワシントン大学から始まったDIAN研究により、認知症が発症する数十年前から脳内のグルコース代謝が有意に変動していることが報告されました。グルコース代謝から生成する代謝産物は、身体の健康状態に密接に関わっており、その代謝物を標的としたメタボロミクス研究により、癌やメタボリック症候群など既に多くの疾病に対して有効なバイオマーカー候補化合物が特定されています。

 私たちは、液体クロマトグラフィー質量分析計(LC-MS/MS)を用いて(図1)、体内に存在する100種類以上のアミン代謝物質を測定し、認知症・老年期の神経疾患の進行状況を把握できる“健常者”のための診断技術の開発を目指しています(図2)。

図1.jpg
図1 本研究に用いた液体クロマトグラフィータンデム質量分析法

図2.jpg
図2 測定対象化合物のアミン代謝経路

 今回の研究助成では、病理診断に基づいた脳脊髄液(CSF)を分析し、得られたデータに対して様々な解析を行いました。これにより、CSF診断に利用可能なバイオマーカー候補を複数、特定することに成功しました。今回の研究成果を生かし、これからは臨床現場での実用化を目指し、血液を用いた簡便な検査法の開発に挑戦しています。
 認知症発症と有意な代謝経路全体を代謝系として評価する方法は、疾患特有のマーカーを見つける上で有用な方法であり、認知症の早期治療介入や予防・発症遅延をはじめとした認知症研究の新たな扉を開く可能性を秘めていると考えています。

 笹川科学研究助成は、私たち学生自らが研究費の申請書を作成し、研究計画や目標、それに係る費用など、すべてを考えながら申請する難しさがあります。その一方で、非常に貴重なチャンスです。改めて、自分の研究の独創性や萌芽性など、考える機会にもなりました。そのうえで、申請が受理された時の喜びは代えがたく、研究遂行の責任感も芽生えました。そのおかげもあって、日本学術振興会の特別研究員(DC1)にもなることができました。
 最後になりますが、研究を進めることは一人ではできません、研究室の仲間たちや立命館大学の先生方に感謝したいと思います。また、日本科学協会の関係者皆様に改めてお礼申し上げます。これからも創薬研究の発展に寄与できるよう、精進していきたいと思いますので、今後も見守って頂ければ、幸いです。

<以上>

 日本は、高齢化社会となっているため、非常に重要な研究ではないかと思います。いずれは健康診断のように、誰もが簡単に検査できるような技術とできるよう、陰ながら応援させていただきたいと思います。また、本助成制度を第一歩として、日本学術振興会の特別研究員に採択されたとのこと、嬉しく思います。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 10:58 | 笹川科学研究助成 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
〜新型コロナ感染症を考える〜「戦前期日本の苛烈さ」岡本拓司先生 [2020年06月08日(Mon)]
 
 科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。第2回は岡本拓司先生(所属:東京大学大学院総合文化研究科 教授 専門:科学史)からのご寄稿で「戦前期日本の苛烈さ」です。


「戦前期日本の苛烈さ」
岡本 拓司
〜東日本大震災と関東大震災〜
 
 2011年の東日本大地震と福島の原子力発電所の事故のあと、戦前期の日本がこれらに匹敵するような大きな危機によりどのような変化を遂げたのかを考えてみたことがある。地震であるからまず関東大震災のことを考えてみたが、死者数のみを見ても10万5千人であり、関連の死者数を加えても2万人ほどの東日本大震災の5倍以上である。東日本大震災による損害はGDPを0.2〜0.5%押し下げたといわれるが、関東大震災では首都である東京市の約43%が焼失し、そのほかの損害もあわせると当時のGDPの約4割が失われている。東日本大震災を経験した者の実感からいえば、これをはるかに超える被害を与えた関東大震災は、世の中の動向によほど大きな影響を与えたのではないかとも想像される。
 実際には、しかし、関東大震災は、日本の歴史に大転換をもたらしたというほどの影響力はもたなかった。個別には悲惨な虐殺事件があり、人口の移動も生じ、また今も残る復興建築が各所に現れるといったことはあったが、歴史上の特筆される動き、たとえば満洲事変が起こるのは1931年であって8年先であり、関東大震災に次いで緊急勅令による戒厳が実施された1936年の二・二六事件に関東大震災の影響を見るのも難しい。このように書いてみると分かるが、関東大震災の起こった時期は、天災である地震よりも、人間の起こした事件のほうが歴史の動向に及ぼした直接的な影響は大きく、またこの種の大事件が、戦前期には極めて短い間隔で生じていたのである。
 現代の社会で二・二六事件のようなものが起これば大混乱が生ずるであろうが、その四年前には五・一五事件があり、さらにさかのぼると関東大震災のわずか5年前までは第一次世界大戦が続いていた。第一次世界大戦に対する日本の関与は大きくないが、終結後の1918年から7年間にわたってシベリア出兵があり、尼港事件の犠牲者を別にして3千人以上の戦死者・戦病死者を出している。関東大震災が起こったときにはソ連との交渉は継続中であった。震災のあとは、1931年の満州事変、1937年からの日中戦争、1941年からの太平洋戦争が起こっており、並べてみれば明瞭であるが、地震の影響を霞ませてしまう事件が頻発している。さらに前にさかのぼってみると、1904年から翌年にかけての日露戦争、その十年前の日清戦争があり、やや時期は離れるが、1877年の西南戦争までは、明治維新後の混乱に伴う内戦が続いていた。

〜戦争と伝染病〜

 東日本大震災から9年たった2020年には、新型コロナウイルス感染症が新たな危機を日本のみならず世界にもたらしているように見える。大規模な伝染病の流行が、では戦前の日本にどのような影響を与えたかをみようとすると、ここにもまた困難が生ずる。新型コロナウイルス感染症と比べられることの多いいわゆるスペイン風邪の流行期には、日本は既述のシベリア出兵を行っており、軍は1万2千人以上の感染者を出したが、つまりは伝染病の流行などあまり問題にはせず、戦闘を繰り広げていたのである。というよりもむしろ、戦争を行って大兵力を動員すれば、そこには伝染病を主とする疾病による被害が必ず生ずるというのが、この時代の常識であった。
 公式記録で見ると、日清戦争の陸軍の戦死者・戦傷死者は合計1300人ほどであるが、コレラによる死者が約5700人、当時の陸軍が伝染病とみなした脚気による死者が約4000人など、何らかの病気の患者となって死亡した人の数は2万人を超える。日露戦争の場合も、戦闘による死者は約4万7千人であり、戦病死者は3万7千人、うち脚気による死者は2万8千人ほどであった。脚気は実際にはビタミンB1不足で発生し、これを含む兵食を支給して日本海軍は発生を防ぐのに成功したが、陸軍はそれを無視して戦時下の軍隊で大発生を来している。旅順要塞の攻撃では、ロシア側から日本軍を見ると、突進してくる兵士の足ががくがくして覚束ない様子がわかり、十字砲火の前に身をさらす絶望的な突撃であったから酒を飲んでやってくるのであろうとうわさされたというが、実際には脚気の症状が現れていたのであった。とはいえそううわさするロシア兵のうちには歯ぐきから血を流している者も少なくなかったことであろう。こちらは包囲されたことによる生鮮食料品の不足が起こすビタミンC欠乏症の壊血病である。ビタミン学説が一般的になる以前のことであり、この種の疾病による被害も含めて、日本のみならず、世界のどこであっても、一定規模の戦争では戦病死者数が戦死者数を上回るのが通常であった。その比率が初めて逆転したのは、ほかでもない日露戦争の日本軍においてである。比率の逆転には兵器の発達により戦闘が過酷なものになったことも影響しているが、脚気の暴発を許したとはいえ、軍医の活動にも見るべきものがあったといえる。

〜伝染病と生きた日常〜

 感染症蔓延のさなかに軍旅を催すのが不自然ではないという時代であれば、病気の流行が社会をどう変えたかを見るのは難しい。これは、先述の地震の場合のように、その影響をかき消すような出来事が頻発していたという事情にもよるが、地震とは違って、病気、あるいは感染症による被害が、ごくありふれたものであったという状況にもよる。小栗忠順(1827-1868)や川路聖謨(1801-1868)など、幕末の著名人には顔に痘痕のあった人々がいるが、これは痘瘡(天然痘)に罹ったあとであり、天然痘といえばその致死率は新型コロナウイルス感染症の比ではないが、我々の知る歴史上の人物は、こうした伝染病を生き延びてきた人々であった。天然痘はむしろ軽い病気であり、「痘瘡は器量定め、麻疹は命定め」といわれたように、子供のころに麻疹などの伝染病に罹って命を奪われることは珍しくなく、命を失わずに痘痕が残る程度で済むのは幸運であった。天然痘、麻疹ばかりではなく、たとえば物理学者の長岡半太郎(1865-1950)の祖父は、水で冷やした素麺を食べ、コレラに罹って死んでいる。このほか、結核もあれば赤痢もあり、マラリアもチフスもある時代であった。これに対して、たとえば細菌に有効な抗生物質はまだ存在しない。下水道の整備や、公衆衛生政策の実施によって被害の縮小していったものも多いが、それでも少なくとも戦前期いっぱいは、感染症は人々が日常経験するものであり続けた。
 天然痘の場合には、すでに江戸時代から種痘が行われており、子供のころに罹って免疫を持つ人々もいたであろう。それもあってか、これはむしろ身近な病気であり、満洲で流行を見た際に、そこで亡くなった人の荷物が日本に送られてきたのを親戚が開け、服を触ったことから感染が広がったという例もあり、また心不全で死亡したと診断された人を、やはり親戚が集まって湯灌したところ、実際の死因は天然痘であったがたまたま発疹のない人であったためそれが分からず、瞬く間に天然痘が広がったという例もあった。こうした人々のうち誰かが病院に行けば、そこからまた感染が広がることになる。

〜病気より恐ろしいもの〜

 各種の伝染病があり、それによる死亡者も一定数が常にあり、それを防ぐ手段は限られているという状況であれば、個々の流行にそれほど大きな反応を見せるということにはならない。被害を防ぐ手段として知られているものを実施しながら、ある程度の被害については起こりうるものとして受け入れざるを得ない。そして、帝政ロシアの挑発や、中国での権益の喪失など、病気よりも恐ろしいものがあれば、感染症が蔓延していようが戦いを避けるわけにはいかない。個々の、たとえば男性の人生で見れば、時期によって多少の違いはあるが、幼いころには、天然痘で見栄えが、麻疹で寿命が決まり、長じては結核の恐怖にさらされ、軍隊に入れば脚気の心配があり、運よく病気にならなくとも、十年に一度程度起こった大きな戦争に出くわせば駆り出された可能性があり、合間で濃尾地震や関東大震災、或いはその他の大規模な自然災害に出会う危険もあるということになる。これらをうまく生き延びられたというのみでもめでたい人生であったといえるかもしれない。
 現在の新型コロナウイルス感染症も、普段から結核・マラリア・HIVなどが蔓延している地域ではそれらを超える対処を行うことは難しく、また、感染症よりも優先すべき課題がある国や集団は、以前と変わらずミサイルや核兵器の開発を行い、テロや抗議活動や戦争を継続することになる。新型コロナウイルス感染症への対応を最優先できる社会は、これを超える問題が直近には見当たらないということであろう。それは幸せなことなのかもしれないが、人間や社会の振舞いの本性を見たいと思うものにとってはそこはむしろどうでもよく、戦前の日本とそこに生きる人々が生きた苛烈な日々のほうがより魅力的な課題を提示しているように思われるであろう。その場合、新型コロナウイルス感染症がもたらした状況は、東日本大震災後の状況とともに、戦前期の日本を考えるうえでの貴重な材料となるであろう。


参考文献
麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』、中公新書、2016年。
山下政三『明治期における脚気の歴史』、東京大学出版会、1988年。
J.R. マクニール著、海津正倫・溝口常俊監訳、『20世紀環境史』、名古屋大学出版会、2011年。
内田正夫「日清・日露戦争と脚気」、和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007、144-156頁。
岡本拓司『科学と社会:戦前期日本における国家・学問・戦争の諸相』、サイエンス社、2014年。

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先輩研究者のご紹介(佐藤 靖徳さん) [2020年06月01日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日より、2019年度に笹川科学研究助成を受けられた方に、ブログのご執筆をお願いしております。
 「コロイド溶液の降伏挙動を含む流動特性の解明」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、長岡技術科学大学所属の佐藤 靖徳さんから、ご専門の研究についてコメントを頂きました。

<佐藤さんより>
<研究について>
 私が専攻しているレオロジーとは「物質の流動と変形」を取り扱う比較的新しい学問分野です。つまり、現代の工業製品の研究・開発にはレオロジー的な考え方が少なからず必要となります。

 そのような背景もあり、私はこれまで複数の企業や大学との共同研究に携わる機会がありました。取り扱うサンプルは共同研究先で異なりますが、ある一つの共通した力学的な特徴がありました。それが研究テーマにある「降伏応力」です。

 降伏応力とは機械工学を専攻している方であれば耳馴染みがあるかと思います。金属材料において弾性変形から塑性変形に変化する臨界の応力を降伏応力と言いますが、ソフトマターでも降伏応力を持つケースがあります。例えば、化粧品のクリームをイメージしてみてください。重力のような低荷重に対して、クリームは流れることはなく、クリームの形状は保持され固体的です。しかし、肌に塗り広げるような高荷重に対してクリームは流れ、液体的に振る舞います。この時、クリームは降伏応力を持っていると言えます。近年では、材料の組成が複雑化され、粒子間の結合力や高分子の絡み合いなどによって構造化され、降伏応力を持つ製品が増えております。

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図1 ソフトマターにおける降伏応力の説明

 本研究では、コロイド溶液の降伏メカニズムの解明を目的とし、ひずみ挙動を微小区間ごとに分割し粘弾性モデル近似する新規近似手法を用いて、表面粗さが異なる壁面での粘弾性挙動を定量的に評価しました。また、分散粒子を用いることで壁面の流れを乱すことで、表面が平滑な場合に発生する滑り挙動を抑制できることが分かりました。さらに偶然にも、医療分野や生物工学分野で応用される現象のマイグレーション(粒子の配列)が発生することもわかっており、今後の研究の裾野が広がっていることを感じています

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図2 降伏点以下の流れにおける滑りとその抑制手法について

<助成について>
 私が研究留学から帰国してすぐに本助成が採択されたことを知り、本当に喜んだことを覚えています。本助成を通して、研究の立案・申請書作成・実験・論文執筆・予算の管理など、これから自立した研究者として社会に出ていく上で必要なアクティビティを一通り経験できました。また、限られた予算の中で、最大限の成果を上げるためにはどうしたら良いか、これまでの研究生活とは違った視点で大変充実した1年間を過ごしました。
 これから本助成に申請を考えている方がおられましたら、ぜひ自分の力を伸ばすためにもチャレンジしてみることを強くお勧めします。

 最後に、本助成を受けた者として今後も自分の専門性を通して社会に貢献できるように努めたいと思います。1年間助成していただきありがとうございました。

<以上>

 笹川科学研究助成は、研究の遂行だけではなく予算の管理等もご自身で行うこととなります。若手研究者が社会に出る第一歩を支援したいと考えているため、このようにご活用していただけたことを嬉しく思います。今後も、陰ながら応援させていただきます。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 09:27 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)