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〜新型コロナ感染症を考える〜「戦前期日本の苛烈さ」岡本拓司先生 [2020年06月08日(Mon)]
 
 科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。第2回は岡本拓司先生(所属:東京大学大学院総合文化研究科 教授 専門:科学史)からのご寄稿で「戦前期日本の苛烈さ」です。


「戦前期日本の苛烈さ」
岡本 拓司
〜東日本大震災と関東大震災〜
 
 2011年の東日本大地震と福島の原子力発電所の事故のあと、戦前期の日本がこれらに匹敵するような大きな危機によりどのような変化を遂げたのかを考えてみたことがある。地震であるからまず関東大震災のことを考えてみたが、死者数のみを見ても10万5千人であり、関連の死者数を加えても2万人ほどの東日本大震災の5倍以上である。東日本大震災による損害はGDPを0.2〜0.5%押し下げたといわれるが、関東大震災では首都である東京市の約43%が焼失し、そのほかの損害もあわせると当時のGDPの約4割が失われている。東日本大震災を経験した者の実感からいえば、これをはるかに超える被害を与えた関東大震災は、世の中の動向によほど大きな影響を与えたのではないかとも想像される。
 実際には、しかし、関東大震災は、日本の歴史に大転換をもたらしたというほどの影響力はもたなかった。個別には悲惨な虐殺事件があり、人口の移動も生じ、また今も残る復興建築が各所に現れるといったことはあったが、歴史上の特筆される動き、たとえば満洲事変が起こるのは1931年であって8年先であり、関東大震災に次いで緊急勅令による戒厳が実施された1936年の二・二六事件に関東大震災の影響を見るのも難しい。このように書いてみると分かるが、関東大震災の起こった時期は、天災である地震よりも、人間の起こした事件のほうが歴史の動向に及ぼした直接的な影響は大きく、またこの種の大事件が、戦前期には極めて短い間隔で生じていたのである。
 現代の社会で二・二六事件のようなものが起これば大混乱が生ずるであろうが、その四年前には五・一五事件があり、さらにさかのぼると関東大震災のわずか5年前までは第一次世界大戦が続いていた。第一次世界大戦に対する日本の関与は大きくないが、終結後の1918年から7年間にわたってシベリア出兵があり、尼港事件の犠牲者を別にして3千人以上の戦死者・戦病死者を出している。関東大震災が起こったときにはソ連との交渉は継続中であった。震災のあとは、1931年の満州事変、1937年からの日中戦争、1941年からの太平洋戦争が起こっており、並べてみれば明瞭であるが、地震の影響を霞ませてしまう事件が頻発している。さらに前にさかのぼってみると、1904年から翌年にかけての日露戦争、その十年前の日清戦争があり、やや時期は離れるが、1877年の西南戦争までは、明治維新後の混乱に伴う内戦が続いていた。

〜戦争と伝染病〜

 東日本大震災から9年たった2020年には、新型コロナウイルス感染症が新たな危機を日本のみならず世界にもたらしているように見える。大規模な伝染病の流行が、では戦前の日本にどのような影響を与えたかをみようとすると、ここにもまた困難が生ずる。新型コロナウイルス感染症と比べられることの多いいわゆるスペイン風邪の流行期には、日本は既述のシベリア出兵を行っており、軍は1万2千人以上の感染者を出したが、つまりは伝染病の流行などあまり問題にはせず、戦闘を繰り広げていたのである。というよりもむしろ、戦争を行って大兵力を動員すれば、そこには伝染病を主とする疾病による被害が必ず生ずるというのが、この時代の常識であった。
 公式記録で見ると、日清戦争の陸軍の戦死者・戦傷死者は合計1300人ほどであるが、コレラによる死者が約5700人、当時の陸軍が伝染病とみなした脚気による死者が約4000人など、何らかの病気の患者となって死亡した人の数は2万人を超える。日露戦争の場合も、戦闘による死者は約4万7千人であり、戦病死者は3万7千人、うち脚気による死者は2万8千人ほどであった。脚気は実際にはビタミンB1不足で発生し、これを含む兵食を支給して日本海軍は発生を防ぐのに成功したが、陸軍はそれを無視して戦時下の軍隊で大発生を来している。旅順要塞の攻撃では、ロシア側から日本軍を見ると、突進してくる兵士の足ががくがくして覚束ない様子がわかり、十字砲火の前に身をさらす絶望的な突撃であったから酒を飲んでやってくるのであろうとうわさされたというが、実際には脚気の症状が現れていたのであった。とはいえそううわさするロシア兵のうちには歯ぐきから血を流している者も少なくなかったことであろう。こちらは包囲されたことによる生鮮食料品の不足が起こすビタミンC欠乏症の壊血病である。ビタミン学説が一般的になる以前のことであり、この種の疾病による被害も含めて、日本のみならず、世界のどこであっても、一定規模の戦争では戦病死者数が戦死者数を上回るのが通常であった。その比率が初めて逆転したのは、ほかでもない日露戦争の日本軍においてである。比率の逆転には兵器の発達により戦闘が過酷なものになったことも影響しているが、脚気の暴発を許したとはいえ、軍医の活動にも見るべきものがあったといえる。

〜伝染病と生きた日常〜

 感染症蔓延のさなかに軍旅を催すのが不自然ではないという時代であれば、病気の流行が社会をどう変えたかを見るのは難しい。これは、先述の地震の場合のように、その影響をかき消すような出来事が頻発していたという事情にもよるが、地震とは違って、病気、あるいは感染症による被害が、ごくありふれたものであったという状況にもよる。小栗忠順(1827-1868)や川路聖謨(1801-1868)など、幕末の著名人には顔に痘痕のあった人々がいるが、これは痘瘡(天然痘)に罹ったあとであり、天然痘といえばその致死率は新型コロナウイルス感染症の比ではないが、我々の知る歴史上の人物は、こうした伝染病を生き延びてきた人々であった。天然痘はむしろ軽い病気であり、「痘瘡は器量定め、麻疹は命定め」といわれたように、子供のころに麻疹などの伝染病に罹って命を奪われることは珍しくなく、命を失わずに痘痕が残る程度で済むのは幸運であった。天然痘、麻疹ばかりではなく、たとえば物理学者の長岡半太郎(1865-1950)の祖父は、水で冷やした素麺を食べ、コレラに罹って死んでいる。このほか、結核もあれば赤痢もあり、マラリアもチフスもある時代であった。これに対して、たとえば細菌に有効な抗生物質はまだ存在しない。下水道の整備や、公衆衛生政策の実施によって被害の縮小していったものも多いが、それでも少なくとも戦前期いっぱいは、感染症は人々が日常経験するものであり続けた。
 天然痘の場合には、すでに江戸時代から種痘が行われており、子供のころに罹って免疫を持つ人々もいたであろう。それもあってか、これはむしろ身近な病気であり、満洲で流行を見た際に、そこで亡くなった人の荷物が日本に送られてきたのを親戚が開け、服を触ったことから感染が広がったという例もあり、また心不全で死亡したと診断された人を、やはり親戚が集まって湯灌したところ、実際の死因は天然痘であったがたまたま発疹のない人であったためそれが分からず、瞬く間に天然痘が広がったという例もあった。こうした人々のうち誰かが病院に行けば、そこからまた感染が広がることになる。

〜病気より恐ろしいもの〜

 各種の伝染病があり、それによる死亡者も一定数が常にあり、それを防ぐ手段は限られているという状況であれば、個々の流行にそれほど大きな反応を見せるということにはならない。被害を防ぐ手段として知られているものを実施しながら、ある程度の被害については起こりうるものとして受け入れざるを得ない。そして、帝政ロシアの挑発や、中国での権益の喪失など、病気よりも恐ろしいものがあれば、感染症が蔓延していようが戦いを避けるわけにはいかない。個々の、たとえば男性の人生で見れば、時期によって多少の違いはあるが、幼いころには、天然痘で見栄えが、麻疹で寿命が決まり、長じては結核の恐怖にさらされ、軍隊に入れば脚気の心配があり、運よく病気にならなくとも、十年に一度程度起こった大きな戦争に出くわせば駆り出された可能性があり、合間で濃尾地震や関東大震災、或いはその他の大規模な自然災害に出会う危険もあるということになる。これらをうまく生き延びられたというのみでもめでたい人生であったといえるかもしれない。
 現在の新型コロナウイルス感染症も、普段から結核・マラリア・HIVなどが蔓延している地域ではそれらを超える対処を行うことは難しく、また、感染症よりも優先すべき課題がある国や集団は、以前と変わらずミサイルや核兵器の開発を行い、テロや抗議活動や戦争を継続することになる。新型コロナウイルス感染症への対応を最優先できる社会は、これを超える問題が直近には見当たらないということであろう。それは幸せなことなのかもしれないが、人間や社会の振舞いの本性を見たいと思うものにとってはそこはむしろどうでもよく、戦前の日本とそこに生きる人々が生きた苛烈な日々のほうがより魅力的な課題を提示しているように思われるであろう。その場合、新型コロナウイルス感染症がもたらした状況は、東日本大震災後の状況とともに、戦前期の日本を考えるうえでの貴重な材料となるであろう。


参考文献
麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』、中公新書、2016年。
山下政三『明治期における脚気の歴史』、東京大学出版会、1988年。
J.R. マクニール著、海津正倫・溝口常俊監訳、『20世紀環境史』、名古屋大学出版会、2011年。
内田正夫「日清・日露戦争と脚気」、和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007、144-156頁。
岡本拓司『科学と社会:戦前期日本における国家・学問・戦争の諸相』、サイエンス社、2014年。

Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 10:00 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0)