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〜新型コロナ感染症を考える〜 ウイズ・コロナのディレンマと「社会的距離」の危うさ 金子務先生 [2020年08月11日(Tue)]
 
 科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。第5回目は金子務先生(所属:大阪府立大学名誉教授 専門:科学技術史、科学哲学)から ウイズ・コロナのディレンマと「社会的距離」の危うさ です。


ウイズ・コロナのディレンマと「社会的距離」の危うさ

金子 務
科学と政治のディレンマ
 いくら強面の新型コロナのパンデミックであろうとも、世界でロックダウンする国が増え、人々の接触が減れば、確実に感染者の数は減る。このことは中世末から近年に至るペスト対策で、都市封鎖が究極の手段であったことを思い出させる。
 ネズミの病原菌であるペスト菌が見つかるのは19世紀末、1894年のことだ。ノミが病原菌のペスト菌を含むネズミの血液を吸って人間に伝染することが確認されたのはその後のことである。微積分法を考案し、計算機の原理を立てた万能の哲学者ライプニッツが、17世紀の1681年にハノーファー公爵に送った「ペスト対策メモ」は、まだ医学的対策の未知であるとき、打てる対策は政治的ロックダウンであり、もう一つは各家で他人との接触を避ける努力、というのだから、いまの新型コロナ世界流行にもそのまま通用する話である。19世紀末のペスト菌発見以降出版されたカミューの『ペスト』でも、まだ有効な対策としてロックダウンされた仮想都市で起こる悲喜劇を描いたものだ。
 今回の新型コロナ汚染問題でも、各国は都市や地域、特定業種などを封鎖し、感染を遮断しようとしたのだが、そのために政府や地方自治体は過大な財政負担によって疲労し、企業や従業員の収入途絶を招いた。いつまでも経済活動の停止を続けるわけにも行かないのである。科学(医学)による悪疫封鎖と政治による経済振興、科学と政治は巨大なディレンマに直面している。当面、科学界はあくまでも社会への忖度なしに客観的な解を求めるべきだし、政治分野ではあくまでも科学的見解を踏まえて、人々の幸福を最大にするよう高次な合理的最適解を求めるべきだろう。ともあれ、このディレンマを解く最終手段は、ワクチンを開発・量産・適正配分して人々に新型コロナへの抵抗力を持たせることにあることは明白であろう。この夏現在で期待が持てる先頭集団にあるのがmRNAワクチンと呼ばれるもので、この開発を進めている米系企業など2社の名が上がっている。両社は、免疫系にコロナに対する抗体の生成を誘発させるのに、これまでのワクチンのように、弱毒化したウイルスやそのウイルスから取り出したタンパク質をワクチンにして人体に注入するのでなく、ウイルスの遺伝子情報から合成しプログラミングされたmRNAワクチンを使って、人体細胞にタンパクを生産させて抗体の産生を促すようにするものである。遺伝子の人工合成によるのだから開発時間が短縮できるメリットはある。ただしこれまで、この技術を使用したワクチンが認可された実績はない。
 コロナ騒ぎの直前、コロンビア大学の先生に会う急用が出来て、アメリカに行った。2月中旬である。中国武漢の感染爆発はまだ対岸の騒ぎであり、横浜外港の大黒埠頭に停泊した巨大クルーズ船のクラスター問題もまだ限定区域の問題とみられていた。それでもアメリカは中国に出入りしたものを入国禁止にしていた。パスポートを更新したての同行の一人は、疑われて入国審査に手間取っていた。羽田集合の時みなマスク姿だったが、シカゴ空港に着いたときにはかえって病人ではないかと怪しまれる始末で、以降、シカゴやニューヨークではマスクをポケットに入れたままだった。
 ニューヨークの夜はブロードウェイでミュージカルを見てきた。「オズの魔法使い」の裏話仕立ての、庶民向け人気出し物「ウイキッド」である。この「ウイキッド」は正面舞台から3階までせり上がる階段状の観客席が、サーカスを観るような普段着の親子連れで満員、まだマスク姿もゼロであった。前から2列目、特上席の切符をやっと入手して見たのだが、当時は舞台からの飛沫感染など、誰も考えもしなかっただろう。劇場ではいまや前2列を空けるのが世界的ルールになったというのに。

「社会的距離」というけれど
 それから半月後には、アメリカはもちろん、世界中の人々がマスク姿で三ミツ(密接・密集・密閉)対策を意図するなど、ものすごい変わりようだ。アインシュタインが日本に来た関東大震災前年1922年(大正11年)の冬、火鉢を囲んで、ア博士が吹かすパイプの紫煙がなぜ渦を巻くのか、石原純と議論していた。紫煙は細かなコロイド状の粒子からなる。熱せられて上昇し、美しい輪を描く。ところで発話と共に吐き出される新型コロナ・ウイルスを含む飛沫は、水滴の重い成分は放物線を描いて落下するが、軽い霧状のコロイド成分は上昇して部屋に漂い続ける。おそらくかなりの人々が、テレビのニュースなどで特殊撮影の噴霧漂うさまを目撃させられただろう。コロナ騒ぎの現在では、物理談義をするより早く、扇風機を回して病原体を空気に乗せて追い払うことである。
 このところわが国でも、聞き慣れない英語の「ソーシャル・ディスタンス」(social distance)やその訳語とおぼしき「社会(的)距離」という妙な学術用語が大流行だ。飛沫感染を防ぐために、対人の物理的距離を1.5メートルとか2メートルとかの間隔を取る、という意味のようだ。しかし英語圏の新聞を見ると、動詞形を使う「ソーシャル・ディスタンシング」(social distancing) が多い。
 「ソーシャル・ディスタンス」という言葉は、アメリカ人が大好きな社会学の用語にもともとあって、コロナ対策の場合、それとは使い方が違うためらしい。各種の社会学用語事典を見ると、「社会的距離」は、個人と個人、個人と集団、あるいは集団と集団の間に見られる寛容性とか理解、親近性あるいは差別性の程度を表す。二者間の親近性・差別性は必ずしも対称的ではない。片思いや格差がしばしばある、とある。つまり従来の社会学では、「社会的距離」とは心理的文化的距離をいうのであって、相手に手は届きづらいが、容易に会話ができるというような空間的物理的距離を指すわけではない。
 たとえば、『方丈記』の鴨長明は京都下鴨神社河合社の禰宜(ねぎ)職を一族と争い、敗れて隠遁生活を送った歌人なのだが、禰宜になれば殿上人(てんじょうびと)だが、昇殿できない地下人(じげにん)のままだった。こうした身分格差もこの「社会的距離」の一例なのだろう。身分格差と物理的距離について、もう一つ思い出した。もう20年ほど前の目撃談である。日本科学協会理事の一員として、私は、中国に古本を送る事業の立ち上げのため、中国各地の大学や図書館を回って学長や館長と面談した時のことである。北京市立図書館長との会見で、豪華な大部屋に通された。その中央には幅5メートル、長さ15メートルもの大テーブルがあって、館長らは正面中央に、われわれはそれに近い側面の席に着いたのだが、身分の低い説明者の司書はなんと15メートル彼方の末席にぽつんと座って、大声で説明するのだった。身分差が物理的距離に比例する一例である。共産党国家にも皇帝時代の風習が遺っているのだろう。
 こんなことを綴っている内に、いわゆるパーソナル・スペースの問題について、昔読んだ本があったことに気づき、書庫から探し出した。『かくれた次元』という文化人類学者エドワード・ホールの本である。社会学者と違って、こちらの記述は明解である。
 鳥類や人間を含む哺乳類には、棲むなわばりがあって、仲間同士が一定の距離を保つ。なわばりは動物の体の延長であり、視覚や音声、嗅覚などの信号によって印づけられている。人間も同じで、さらに有形無形の文化的記号によっても印づけられている。その人間の周りつまりパーソナル・スペースには、四つの見えない距離層、すなわち「密接距離」「個体距離」「社会距離」「公共距離」(訳書では「公衆距離」だが)がある、というのだ。
 欧米人の場合だが、ハグしたり格闘したり手も繋げ、他者の存在がはっきり五感で捉えられる「密接距離」、手を伸ばしても触れないほどの距離から双方が手を伸ばしてやっと触れ、また遠ざけられもする範囲の「個体距離」(ここまでが双方から手足で仕掛けられる身体的支配と防御の限界)、相手の姿全体と目と口がはっきり見て取れ非個人的用件を処理する2―4メートルほど離れた「社会距離」(普通の声は届くが、失礼にならずに会話から逃避して自分の仕事もできる程度の社交的距離、パワハラはこの距離で見下ろすので威圧感が強い)、それからパーティなどの集会で注目人物の周りにできる4―7メートル以上の「公共距離」(多くは公式発言の声音になり、目の色、肌の色艶までは分からない。人気大統領ケネディの周りは半径10メートルの輪ができた)の四つである。
 つまり、文化人類学的には「社会(的)距離」の用法は正しいが、社会学的には誤用になる、という話である。
 まあ、こんなことをつれづれに思うのもコロナの所為でして‥‥。

【参考文献】
ライプニッツ「ペスト対策の提言――エルンスト・アウグスト公爵のための覚書」:「ライプニッツ著作集」第二期3巻『技術・医学・社会システム』(酒井潔・佐々木能章監訳、工作舎、2018年)pp.207−219、所載。末尾に4頁にわたって訳者・長綱啓典氏の解説が含まれる。
エドワード・ホール著『かくれた次元』(日高敏驕E佐藤信行訳、みすず書房、1970年刊)の第10章「人間における距離」を参照。



Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 11:00 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
〜新型コロナ感染症を考える〜 酒井邦嘉先生 [2020年07月28日(Tue)]
 
 科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関するご寄稿をご紹介いたします。
 第4回目は、酒井邦嘉先生(所属:東京大学大学院総合文化研究科 教授 専門:言語脳科学)からのご寄稿です。医学書院が発行している『BRAIN and NERVE』2020年07月号 (増大号)の「あとがき」に掲載されたコラムで、韓流ドラマの話題から韓国でのコロナ禍の教育や倫理について考えるきっかけをいただきました。
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「酒井邦嘉先生からのご寄稿」

 最近観た『ブラックドッグ』という韓流ドラマ(全16話)が素晴らしかった。教師をめざす主人公が、私立高校で臨時採用となって後、念願の正規採用となるまでの成長を丁寧に描いたものだ。その国語科教師は、志厚いメンターや理解ある同僚に恵まれるも、臨時採用教師への差別、ライバルや派閥との確執、保護者からのクレームに悩み、迷い、そして生徒に寄り添う教師像を見出していく。このドラマのタイトルは,「ブラックドッグ症候群」を踏まえながら、正規採用と同じ仕事をこなす「臨時採用」なのに顕在化してしまう理不尽な偏見や疎外を浮き彫りにする。「生徒を見捨てるような教師は、教師の資格なんてない」、「教師が他人の目を意識するようになったら、終わりよ」といった、ベテラン教師の厳しくも温かな言葉が心に残った。

 このドラマの背景には、ますます過熱する韓国の教育事情がある。決して出題ミスが許されない日本の大学入試の様子が、そのまま韓国の高校3年生の中間試験と重なるのだから驚きだ。生徒たちは成績別にランク付けされ、内申書のいかんによって推薦入試枠を決められ、さらに入試制度の改革に翻弄される。そうした歪んだ教育の構図が、ドラマで克明に描かれつつも風刺され、疑問視されている。中でも学校と学習塾の関係(腐れ縁?)や、受験対策授業の過熱ぶりなどは日本にも共通した問題であり、極端な学歴偏重社会の中で、予備校化する高校の存在意義が問われているのだ。

 新型コロナウイルスの蔓延にともなう休校措置によって、在宅学習が世界的な課題となった。このドラマで描かれるEBC(教育放送局)は、実在するEBS(韓国教育放送公社)を恐らくモデルにしており、テキストや映像教材の充実ぶりがうかがわれる。学年ごとの各教科のカリキュラムに合わせた授業が、人気講師陣によって既に収録されていたため、韓国では在宅学習に大いに役立ったそうだ。日本の大学でも、収録済みのビデオによる講義が導入されている。それでも、教師と学生の双方向のやりとりを重視したオンライン講義は欠かせないのではないか。新たな疑問によって説明を改めるということの積み重ねなしに、学問の進歩はないのだから。

 さて、今月号の特集は「神経倫理ハンドブック」である。先ほどのベテラン教師の言葉で、「教師」を「医師」に、「生徒」を「患者」に置き換えて符合するところに、真の倫理がありそうだ。医療従事者には等しく、「患者を救う」というプロフェッショナルとしての仕事があり、そこに決して差別や偏見があってはならない。COVID-19 を経て、このことがいっそうはっきりしたように思える。

※このコラムは、BRAIN and NERVE, 72巻7号p.828, 2020年
http://www.igaku-shoin.co.jp/journalDetail.do?journal=38967)に掲載されたものです。
※無断転載、複写等はご遠慮ください。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 09:30 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
〜新型コロナ感染症を考える〜「医術と芸術」外山紀久子先生 [2020年06月17日(Wed)]

 科学隣接領域研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。第3回は外山紀久子先生(所属:埼玉大学大学院人文社会科学研究科 教授 専門:美学、芸術学(舞踊論、現代アート))から「医術と芸術」です。

「医術と芸術:浄めのアート走り書き」
外山紀久子

〇危機の時代の学問
 西洋で「美学」(感性学aesthetica)という学問分野が誕生したのは18世紀半ばですが、ルネッサンスから宗教改革を経てヨーロッパ世界の大きな地殻変動がその前史となる背景にあったと言われます。キリスト教の神様を中心とする旧世界の安定した秩序への信頼が失われ、相対主義のスピリットが深まるとともに、直感、直観、情感、「感ずることの意義」がクローズアップされました。宮廷文化の隆盛、社会規範の世俗化、美的自律性の確立といった関連する徴標に加え、グランドツアーの普及によるアルプス体験のように、人為をはるかに凌駕する「自然」の力の介入が新たな様相で経験されるようになったことも見逃せません。そもそも近世/近代への大転換が14世紀半ばから15世紀の初めにかけてユーラシア大陸全域を襲ったペストの猛威によってもたらされた──としますと、この世界は全て神の配剤によって最善の状態にあるとする「最善説(オプティミズム)」の微睡みを最終的に打ち砕いたのが1755年のリスボン大震災であったようです(吉岡洋)。危機の時代の学問の一つとして出発した美学は、生身の、病む身体、死にゆく身体との否応の無い対面のさなかに淵源があったのだと考えることもできるでしょう。
「芸術」が現在私たちの考えるカテゴリーとして成立したのも同じ頃の西洋であった、というのが西洋美学史や美学概説で語られる定番ですが、と言ってそのような近代的芸術概念、特にその自律性の確立とともに後景に退いた感のある、芸術の様々な機能(前近代的・非西洋的側面)も消えてしまったわけではありません。もともと魔術・呪術、宗教、医術、共同体の結束等と分かち難く結びついて芸術は営まれてきました。現代でも世界中の先住民文化の中で「美による癒し」が存続し、現代アートやダンスの一部にも同様の試みが見られ、「クリエイティヴ・アーツ・セラピー」や「ヒーリング・ミュージック」といった用語が示すように、心身を癒す力、医術との繋がりは実は美学の側からももっと注目されてよい芸術の「機能・功能」の一つなのです。

○芸術と浄め
 スタニスラフスキーの研究者レオニード・アニシモフは、あらゆる芸術には「人の意識を浄化すること(カタルシス)」、「意識に大きな栄養を[感情というエネルギーによって]与えること」という二つの機能があると述べています。この世で時間を過ごすにつれて意識は栄養不良となって飢えているか、悪い感情を糧としてしまっており、それが病気や死をもたらすことさえある、というのです。アニシモフは鎌田東二主催の国際シンポジウム「世阿弥とスタニスラフスキー」(2016,12/18上智大学)にも登壇しています。「そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感を為さむこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし」という『風姿花伝』の言葉が示唆するように、日本の芸能には古来生命(いのち)を強化する働きが認められてきました。その起源神話と言ってよいアマノウズメの神憑りダンスと八百万の神々による「魂振り」と同じく、個人にとっても共同体にとっても、衰えた生命/太陽を蘇らせ、陰から陽へ、闇から光へと転換する作用が期待されていたのです(生贄の少女を太陽神に捧げ、冬から春への蘇りを祈る《春の祭典》にも通ずると同時に、幼い子どもたちがおゆうぎしているのを見て、「寿命が延びる〜」と思うのもこれかな、と)。個体&共同体の「生命を強化する」──これはそのまま、栄養が不足し偏ってしまっている生命体を浄め、養う、芸術による「浄め」のプロトタイプに通じるものではないでしょうか。

○カタルシスとムーシケー
 「カタルシス」は、アリストテレスが「憐れみや恐れ」といったふだん忌避される感情(「悪い感情」)を惹起しつつ取り除く、同種療法的な悲劇の浄化作用に言及して以来、音楽、ダンス、詩、文芸等々の「ミューズ的芸術」の重要な特性とみなされてきました。(音楽に関しては特に、それが癒しの機能を持つという考えがずっと古くから遍く信奉されていたことは言うまでもありません。ピュタゴラス学派は、肉体は魂の墓場であり、天界への帰還には魂の浄めが必要という立場から「肉体を浄めるための医術、魂を浄めるための音楽」を標榜していました。)古代ギリシャではもともと劇場の文脈の外でも「浄め」の文化が広く浸透しており、単に心理学的な感情の浄化作用というよりは、汚れ、呪い、罪などの観念が融合した「不浄」の感覚、「物理現象的性質」として伝染し、感染し、時に遺伝しさえするものと恐れられていたそれの魔術的な浄化(秘儀・祭儀)が流布していたのでした。ドッズはそのような状況を「不浄(miasma)への普遍的な恐怖と、その相関物である典礼による浄め(catharsis)への普遍的な欲望」と言い表し、アルカイック時代に「最大の宗教的制度であったデルフォイの神託の主要関心事」もこのような浄めだったと述べています。
 カタルシスはしたがっておよそ芸術の専有物ではない(そもそも当時今のような「芸術」概念は成立していない)のですが、ムーサ(ミューズ)たちが司る「ムーシケー」(=musicの語源)もまた「その概念が示す範囲は、音楽、芸術、文学にとどまるものではなく、哲学までをも含む非常に広範なもの」「知的生活の高度な形すべて」に及び、「ギュムナスティケー」(体育)と並んで伝統的なギリシャの教育の二分野をなしていました。「哲学」はここでは問答法、つまり、対話の相手を得てロゴスを尽くして共に知を愛し求めるソクラテス=プラトン的なフィロソフィアの意味で理解する必要があります。哲学としてのムーシケーこそが「最高のムーシケー」であり、自分の魂を気遣うこと、魂が「肉体の本性に染まらず清浄であるように努めること」こそ、知恵によって真の徳に至るための「浄め」の修練(「死の練習」)なのでした。詩と哲学の覇権争い──哲学者と詩人(及びソフィストや弁論家)が、プラトンの中で「言論による魂の誘導」をめぐる積年のライバル関係にあったことが思い出されるかもしれません。ホメロス以来ギリシャで指導的な地位にあった詩人達(悲劇作家も含みます)に対しては、真に「ムーサの徒」の名にふさわしいのは哲学者の方だーと繰り返し主張されます。プラトンはまた、オルフェウス教徒の堕落した形態のことを金目当てで個人や国家を籠絡する「乞食坊主や予言者」と呼び、その浄めの祭儀に対しても極めて批判的でした。真の浄めは魔術的な儀式によってではなく哲学への献身によってのみ可能、哲学こそが「最高のムーシケー」であり真の「カタルシス」をもたらす営みなのです。

…節制も正義も勇気も[=真の徳である限り]、[快楽、苦痛、恐怖といった]これら
すべての情念からのある種の浄化(カタルシス)なのであり、知恵そのものはこの
浄化を遂行するある種の秘儀ではなかろうか。そして、われわれに浄めの儀式を定
めてくれたかの人々も、恐らくは、つまらぬ人々ではないようだ。じっさい、かれ
らは大昔からの謎めいた言い方でこう言っているらしい。秘儀も受けず浄められも
せずにハデスの国に到る者は、泥の中に横たわるだろう。これに対して、すっかり
浄められ秘儀を成就してからかの地に到る者は神々と共にすむだろう。     
(中略)僕が正しく努力して何事かを成就したのかどいうかは、かの地に着けば明
らかなことを知るだろう、神がお望みならば、思うに、それはもうすぐのことだ。
(『パイドン』69BD)

○『パイドン』の二つの謎
 ところが、ソクラテスの最後の一日を活写した対話篇『パイドン』では、この通常のムーシケーと哲学としてのムーシケーとの関係に不思議な揺らぎのようなものが窺えます。紀元前399年の春、ソクラテスは「国家公認の神々を拝まず、青年を腐敗させる」という罪状で告発されました。裁判の前日、アポロンの祭のためにデロス島へ派遣する使節を乗せた船の船尾に花飾りがつけられたため、その船が戻るまでの間は「国を清浄にたもち、何びとをも国法の名のもとに処刑してはならない」とう掟に則り、ソクラテスは裁判と死の間長い時間を牢獄で過ごすことになります。その間彼は以前には決して行わなかったこと=詩作を行なったのですが、理由を尋ねられて、生涯で幾度も訪れた同じ夢の意味を確かめようとしたからだと答えます。「ソクラテス、ムーシケーを為し、それを業とせよ」。彼はいつもはこのムーシケーを現に自分がしてきたこと(哲学)の意味と取っていました。

しかし、いまや裁判も終わり、神の祭が僕の死を妨げている間に、僕はこう思った
のだ。もしかしてあの夢は通俗的な意味でのムーシケーをなすようにと僕に命じて
いるのかもしれない。それなら、その夢に逆らうことなく、僕はそれをしなければ
ならない、と。なぜなら、夢に従って詩を作り聖なる義務を果たしてからこの世を
立ち去る方が、より安全である
からだ。                   
(『パイドン』61AB、傍線は筆者)

 肉体の桎梏から解放される死はソクラテスが(哲学という死の練習によって)終生目指してきたゴールという一方、人間は神の所有物なので神によって許されて初めてその日を迎えることができるという信念が続く箇所で語られます。死穢を禁ずるアポロンの祭りによって偶然与えられた刑死までの時間に、夢の勧めに従って詩作(アポロンへの讃歌を作り、アイソポスの物語を詩に直す)を行ない、「より安全に」、より浄められた状態で、死に赴くことを選択したわけですが、なぜカタルシスの完了に「哲学としてのムーシケー」では足りず、「通俗的な意味でのムーシケー」が必要とされたのかは謎のまま残ります。

1.png
ジャック=ルイ・ダヴィッド《ソクラテスの死(La Mort de Socrate)》(1787)、
ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵


 実は『パイドン』にはもう一つ「哲学史上の謎」とされる記述があります。「クリトン、アスピオクレスに雄鶏一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるように」(118A)。毒人参を潰した毒薬を従容と呑み干し、刑吏に言われた通り足が重たくなるまで歩き回り、横たわって下半身から下腹部へと麻痺が広がって、それが心臓まで及ぶ直前に、わざわざ自ら顔の覆いを取ってまで告げた、これが最後の言葉なのでした。アスクレピオスは医療の神なので、この世の生という病からの解放=癒しとしての死を迎えて感謝を表したものというような解釈が概ね優勢ですが、それ以外にも、東方ゾロアスター教で雄鶏に付与されていたシンボリズムに応じて「死後の旅路の導き手」としてその奉献を願った、とか、「光、太陽、神の顕現」それ自体を表している、とか、さらにはクリトンによる脱獄提案が含意する魂の堕落を招く事態を共に克服した証しであるとか、種々の解釈が試みられてきました。それにしてもなぜ、ソクラテスが自らその奴隷と称し、直前に讃歌まで書いた太陽神アポロンではなく(アポロンも職掌の一つに医療を司っています)、あえて(どちらかと言えばマイナーな成り上がりの)アスピオクレスなのでしょうか。

○アスピオクレス、非常時の宗教
 アスピオクレス信仰は、前5世紀末以降前4世紀の半ばまでにギリシャ語圏の多くの場所に伝播しました。ホメロス時代には人間の医師にすぎなかったアスピオクレスが比較的短い間に神格化され、主神アポロンの息子として崇敬されるようになった背景には、感染症の蔓延(とそれに伴う「呪術的治療の需要」の増大)が大きく関与していたようです。馬場恵二によれば、アテナイ軍対ペロポンネソス同盟軍による戦い(前431-422)の開戦当初からアテナイはペストとも推定されている悪疫に襲われます。田園住民を都市の城壁内に疎開させる戦術を取ったために人口過密となった中心市の惨状は、民衆の信仰心や法律の拘束力にも大きなダメージを与えました。感染の第二波の最中、前426年には、デルフォイのアポロンの神託によってデロス島の「浄め」が盛大に行われました。島内全域の墓から遺骨が掘り起こされ、「穢れたもの」として近隣の島へ移され、今後は「何ぴともこの島では生まれてもならず、死んでもならない」と定められたのです。ソクラテスも若い頃三度従軍したこのペロポンネソス戦争の中断を待って、前420年頃、同盟軍の領域(当時の適地)に属するエウダウロスの聖地からアテナイ市内にアスピオクレスが勧請され、やがてギリシャ各地にその祭祀が広がります。疫病という不浄に対応する浄めの祭儀の要請が、「アスピオクレスを二流の英雄から主要な神へと一変させ、エピダウロスの神殿を今日のルルドのように有名な巡礼地にした」(ドッズ)と推測されます。ドッズによれば前293年にアスピオクレスがローマに入ったのも同様の事情であったようで、感染症による危機の時代に勃興した「非常時の宗教」という見方が提出されます。
 したがってソクラテスの生涯の後半には、アスピオクレスは確かに病を癒す医神としてアテナイでも盛大に信仰されており、雄鶏の奉納も広く行われていたようです。ここで注意したいのは、そのアスピオクレス信仰の基本形が、「聖なる場所での睡眠(神殿での参籠)によって夢の中で神託を得ること」であったという点です。もちろんソクラテスは聖所で眠ったわけではなく、「[デロス島での]神の祭りが死を妨げている」間牢獄に留め置かれていただけですが、もしこの夢のお告げというポイントを先述したソクラテスの夢(「ムーシケーをなせ」)と関連させて考えることが許されるとすれば、夢による託宣の実行によって死出の準備が完了し、解放が許されたことを、今際の際に告げた、とする解釈も全く見当外れではない???かもしれません。少なくとも、「魂の不死について」という副題を持つこの対話篇の最初と最後に登場するエピソード(夢と試作、アスクレピオスへの奉献)を書き留めるべきこととプラトンは考えた、ということだけは言えるでしょう。

○芸術と医療:魂の浄め、肉体の浄め
 稲葉俊郎は古代の医療の一端を紹介する記述の中で、アスクレピオス信仰にも触れ、その統合医療的性格に注意を促しています。

アスクレピオス神殿でのインキュベーションは、「聖所」での眠りそのものだった。
そこには治療者はおらず、神殿で夢見ること自体が癒しとなった。        
アスクレピオス信仰の場であったエピダウロスには古代円形劇場が今でも残っており
(世界遺産に指定されている)、当時は演劇を体験することも医療行為の一部だった。
そこには劇場や眠りの聖所だけではなく、温泉場もあり、古代ギリシアでは自然、温
泉、スポーツ、演劇、音楽、芸術、夢(催眠)、神(アスクレピオス)など、あらゆ
る要素が身心の癒しにつながる医療的な行為として、一つの場で統合されていた。

 エピダウロスが観客1万数千人を収容できる巨大な古代劇場で知られているのは確かですが、劇場や競技場といったこれら「娯楽施設」は、平癒祈願者たちの日常的な使用のためというより、祭祀の普及のためにギリシャ全土から巡礼者たちを動員するのに貢献した「大祭」の際にだけ用いられたという説もあります。そこで開催された競技や上演がこの神に奉納されたものかどうかについても異論が提出されていますので、アスピオクレスと演劇等との関連を現段階で明言することはできません。それでも各地の聖所にはしばしば劇場施設が付随していること、アテナイ市内のアスピオクレス聖所はディオニュソス劇場に隣接していたということは考古学上の事実のようです。

2.png
エピダウロスの考古遺跡:野外円形劇場(Wikimedia Commonsから)

 さらに、アテナイでの聖所落成に先立ってギリシャ三大悲劇詩人の一人に数えられるソフォクレスがこの神を自宅に招き入れ、賛歌を書き、祭壇まで築いたとも伝えられています。ソフォクレスの《オイディプス王》ではまさしく不浄(穢れ)とその浄めの物語が語られます。先王であり実の父であるライオスを殺害し、実の母イオカステと交わった──オイディプスがそれと知らずに被った穢れによって、テーバイ全土が(疫病が蔓延し、作物は育たない、子供が生まれないという)強い穢れの状態に陥ったとき、その原因と浄めの方法を教えたのもアポロンの神託でした。イオカステは自害し、オイディプスは自ら両眼を潰してテーバイを去っていきます。まさしく最高度の「憐れみや恐れ」を喚起する悲劇作品の代表です。

3.png
オイディプス(右)、スフィンクス(中央)、ヘルメス(左):アッティカ出土赤絵式壺絵(ca.440 BC)、
パリ、ルーブル美術館蔵(@Marie-Lan Nguyen/Wikimedia Commons)

 当時の演劇の上演が単なる「娯楽」や宗教施設の客寄せを超えて、あるいはせいぜい過剰な感情的負荷の軽減といった心理学的効果以上に、医療としての心身の癒しの一翼を担うものであったのかどうか──ここでも、覚束無い問いを放り出すことしかできないのですが、ソクラテスが(そして彼を師と仰いだプラトンが)ロゴスによる徹底した対話、問答法を極め、それを本然の「浄めの術」としながら、デルフォイの神託はもとより、ダイモニオンや夢のお告げを終生真剣に受け止めていたことはやはり忘れてはならないでしょう。それは理性主義からの一時的な逸脱/退歩、解釈の混乱を引き起こすノイズに過ぎないのでしょうか。プラトンその人も目の覚めるようなミュートス(物語)を細心の注意を払って対話篇の随所に織り込んでいなかったでしょうか。
 マレー半島の熱帯雨林に住む先住民の間では、夢の中で守護霊から授かるうたによって病を癒すと信じられています。詩や音楽、芸術の営みは、表層意識の及ばない領域から命を活性化するエネルギーを汲み上げる、そのための通路を持っています。稲葉が述べるように、生命システムにとっては「起きている時間(表層意識)と寝ている時間(深層意識)」の全体的なバランスの維持・更新が必須なのであり、「芸術も医療もともに人間の全体性を取り戻す営み」とすると、芸術と医療、「魂の浄め」と「肉体の浄め」は密接に関係し合っているのでしょう。眠りや夢、無意識の働き、深みからの働きかけを受けとめる芸術が生の全体性にとってどれだけ大事なものかを、この地球全体がミアスマに覆われているかのような人類史的「非常時」に、今一度思い出したいと考えています。

【参照文献】
佐々木健一『美学辞典』(東京大学出版会)、1995
テリー・イーグルトン『美のイデオロギー』(紀伊國屋書店)、1990
桑島秀樹『崇高の美学』(講談社メチエ)、2000
シンポジウム「美学vs.現代アート」(ヨコハマ創造都市センター)2011/4/23
アンドレ・ブルトン『魔術的芸術』(河出書房新社)、2002
伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』(講談社学術文庫)、2012
河合隼雄『ナバホへの旅 たましいの風景』(朝日文庫)、2005
レオニード・アニシモフ「演劇における身心変容技法」科学研究年報誌『身心変容技法研究』第8号(上智大学グリーフケア研究所 身心変容技法研究会)、2019
『世阿弥能楽論集』(小西甚一編訳、たちばな出版)、2004
小穴晶子『なぜ人は美を求めるのか:生き方としての美学入門』(ナカニシヤ出版)、2008
『アリストテレース:詩学 ホラーティウス:詩論』(松本仁助・岡道男訳/岩波文庫)、1997
渡邊二郎『芸術の哲学』(ちくま学芸文庫)、1998
キティ・ファーガソン『ピュタゴラスの音楽』(柴田裕之訳/白水社)、2011
ドッズ『ギリシァ人と非理性』(岩田靖夫・水野一訳/みすず書房)、1972
工藤千晶「プラトンの教育課程論における「音楽」の位置に関する研究:3つの音楽概念を中心として」『音楽文化教育学研究紀要 XXVIII』、2016.3.22
『パイドン:魂の不死について』(岩田靖夫訳)、岩波文庫
馬場恵二『癒しの民間信仰:ギリシアの古代と現代』(東洋書林)、2006
カール・ケレーニイ『医神アスクレピオス:生と死をめぐる神話の旅』(岡田素之訳、白水社)、2012
土屋睦廣「ガレノスとアスピオクレス」『早稲田大学地中海研究所紀要 6巻』2008
稲葉俊郎「医学と催眠の歴史から見る心身変容」科学研究年報誌『身心変容技法研究』第8号(上智大学グリーフケア研究所 身心変容技法研究会)、2019
マリナ・ローズマン『癒しのうた:マレーシア熱帯雨林にひびく音と身体』(山田陽一・井本美穂共訳/昭和堂)、2000

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〜新型コロナ感染症を考える〜「戦前期日本の苛烈さ」岡本拓司先生 [2020年06月08日(Mon)]
 
 科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。第2回は岡本拓司先生(所属:東京大学大学院総合文化研究科 教授 専門:科学史)からのご寄稿で「戦前期日本の苛烈さ」です。


「戦前期日本の苛烈さ」
岡本 拓司
〜東日本大震災と関東大震災〜
 
 2011年の東日本大地震と福島の原子力発電所の事故のあと、戦前期の日本がこれらに匹敵するような大きな危機によりどのような変化を遂げたのかを考えてみたことがある。地震であるからまず関東大震災のことを考えてみたが、死者数のみを見ても10万5千人であり、関連の死者数を加えても2万人ほどの東日本大震災の5倍以上である。東日本大震災による損害はGDPを0.2〜0.5%押し下げたといわれるが、関東大震災では首都である東京市の約43%が焼失し、そのほかの損害もあわせると当時のGDPの約4割が失われている。東日本大震災を経験した者の実感からいえば、これをはるかに超える被害を与えた関東大震災は、世の中の動向によほど大きな影響を与えたのではないかとも想像される。
 実際には、しかし、関東大震災は、日本の歴史に大転換をもたらしたというほどの影響力はもたなかった。個別には悲惨な虐殺事件があり、人口の移動も生じ、また今も残る復興建築が各所に現れるといったことはあったが、歴史上の特筆される動き、たとえば満洲事変が起こるのは1931年であって8年先であり、関東大震災に次いで緊急勅令による戒厳が実施された1936年の二・二六事件に関東大震災の影響を見るのも難しい。このように書いてみると分かるが、関東大震災の起こった時期は、天災である地震よりも、人間の起こした事件のほうが歴史の動向に及ぼした直接的な影響は大きく、またこの種の大事件が、戦前期には極めて短い間隔で生じていたのである。
 現代の社会で二・二六事件のようなものが起これば大混乱が生ずるであろうが、その四年前には五・一五事件があり、さらにさかのぼると関東大震災のわずか5年前までは第一次世界大戦が続いていた。第一次世界大戦に対する日本の関与は大きくないが、終結後の1918年から7年間にわたってシベリア出兵があり、尼港事件の犠牲者を別にして3千人以上の戦死者・戦病死者を出している。関東大震災が起こったときにはソ連との交渉は継続中であった。震災のあとは、1931年の満州事変、1937年からの日中戦争、1941年からの太平洋戦争が起こっており、並べてみれば明瞭であるが、地震の影響を霞ませてしまう事件が頻発している。さらに前にさかのぼってみると、1904年から翌年にかけての日露戦争、その十年前の日清戦争があり、やや時期は離れるが、1877年の西南戦争までは、明治維新後の混乱に伴う内戦が続いていた。

〜戦争と伝染病〜

 東日本大震災から9年たった2020年には、新型コロナウイルス感染症が新たな危機を日本のみならず世界にもたらしているように見える。大規模な伝染病の流行が、では戦前の日本にどのような影響を与えたかをみようとすると、ここにもまた困難が生ずる。新型コロナウイルス感染症と比べられることの多いいわゆるスペイン風邪の流行期には、日本は既述のシベリア出兵を行っており、軍は1万2千人以上の感染者を出したが、つまりは伝染病の流行などあまり問題にはせず、戦闘を繰り広げていたのである。というよりもむしろ、戦争を行って大兵力を動員すれば、そこには伝染病を主とする疾病による被害が必ず生ずるというのが、この時代の常識であった。
 公式記録で見ると、日清戦争の陸軍の戦死者・戦傷死者は合計1300人ほどであるが、コレラによる死者が約5700人、当時の陸軍が伝染病とみなした脚気による死者が約4000人など、何らかの病気の患者となって死亡した人の数は2万人を超える。日露戦争の場合も、戦闘による死者は約4万7千人であり、戦病死者は3万7千人、うち脚気による死者は2万8千人ほどであった。脚気は実際にはビタミンB1不足で発生し、これを含む兵食を支給して日本海軍は発生を防ぐのに成功したが、陸軍はそれを無視して戦時下の軍隊で大発生を来している。旅順要塞の攻撃では、ロシア側から日本軍を見ると、突進してくる兵士の足ががくがくして覚束ない様子がわかり、十字砲火の前に身をさらす絶望的な突撃であったから酒を飲んでやってくるのであろうとうわさされたというが、実際には脚気の症状が現れていたのであった。とはいえそううわさするロシア兵のうちには歯ぐきから血を流している者も少なくなかったことであろう。こちらは包囲されたことによる生鮮食料品の不足が起こすビタミンC欠乏症の壊血病である。ビタミン学説が一般的になる以前のことであり、この種の疾病による被害も含めて、日本のみならず、世界のどこであっても、一定規模の戦争では戦病死者数が戦死者数を上回るのが通常であった。その比率が初めて逆転したのは、ほかでもない日露戦争の日本軍においてである。比率の逆転には兵器の発達により戦闘が過酷なものになったことも影響しているが、脚気の暴発を許したとはいえ、軍医の活動にも見るべきものがあったといえる。

〜伝染病と生きた日常〜

 感染症蔓延のさなかに軍旅を催すのが不自然ではないという時代であれば、病気の流行が社会をどう変えたかを見るのは難しい。これは、先述の地震の場合のように、その影響をかき消すような出来事が頻発していたという事情にもよるが、地震とは違って、病気、あるいは感染症による被害が、ごくありふれたものであったという状況にもよる。小栗忠順(1827-1868)や川路聖謨(1801-1868)など、幕末の著名人には顔に痘痕のあった人々がいるが、これは痘瘡(天然痘)に罹ったあとであり、天然痘といえばその致死率は新型コロナウイルス感染症の比ではないが、我々の知る歴史上の人物は、こうした伝染病を生き延びてきた人々であった。天然痘はむしろ軽い病気であり、「痘瘡は器量定め、麻疹は命定め」といわれたように、子供のころに麻疹などの伝染病に罹って命を奪われることは珍しくなく、命を失わずに痘痕が残る程度で済むのは幸運であった。天然痘、麻疹ばかりではなく、たとえば物理学者の長岡半太郎(1865-1950)の祖父は、水で冷やした素麺を食べ、コレラに罹って死んでいる。このほか、結核もあれば赤痢もあり、マラリアもチフスもある時代であった。これに対して、たとえば細菌に有効な抗生物質はまだ存在しない。下水道の整備や、公衆衛生政策の実施によって被害の縮小していったものも多いが、それでも少なくとも戦前期いっぱいは、感染症は人々が日常経験するものであり続けた。
 天然痘の場合には、すでに江戸時代から種痘が行われており、子供のころに罹って免疫を持つ人々もいたであろう。それもあってか、これはむしろ身近な病気であり、満洲で流行を見た際に、そこで亡くなった人の荷物が日本に送られてきたのを親戚が開け、服を触ったことから感染が広がったという例もあり、また心不全で死亡したと診断された人を、やはり親戚が集まって湯灌したところ、実際の死因は天然痘であったがたまたま発疹のない人であったためそれが分からず、瞬く間に天然痘が広がったという例もあった。こうした人々のうち誰かが病院に行けば、そこからまた感染が広がることになる。

〜病気より恐ろしいもの〜

 各種の伝染病があり、それによる死亡者も一定数が常にあり、それを防ぐ手段は限られているという状況であれば、個々の流行にそれほど大きな反応を見せるということにはならない。被害を防ぐ手段として知られているものを実施しながら、ある程度の被害については起こりうるものとして受け入れざるを得ない。そして、帝政ロシアの挑発や、中国での権益の喪失など、病気よりも恐ろしいものがあれば、感染症が蔓延していようが戦いを避けるわけにはいかない。個々の、たとえば男性の人生で見れば、時期によって多少の違いはあるが、幼いころには、天然痘で見栄えが、麻疹で寿命が決まり、長じては結核の恐怖にさらされ、軍隊に入れば脚気の心配があり、運よく病気にならなくとも、十年に一度程度起こった大きな戦争に出くわせば駆り出された可能性があり、合間で濃尾地震や関東大震災、或いはその他の大規模な自然災害に出会う危険もあるということになる。これらをうまく生き延びられたというのみでもめでたい人生であったといえるかもしれない。
 現在の新型コロナウイルス感染症も、普段から結核・マラリア・HIVなどが蔓延している地域ではそれらを超える対処を行うことは難しく、また、感染症よりも優先すべき課題がある国や集団は、以前と変わらずミサイルや核兵器の開発を行い、テロや抗議活動や戦争を継続することになる。新型コロナウイルス感染症への対応を最優先できる社会は、これを超える問題が直近には見当たらないということであろう。それは幸せなことなのかもしれないが、人間や社会の振舞いの本性を見たいと思うものにとってはそこはむしろどうでもよく、戦前の日本とそこに生きる人々が生きた苛烈な日々のほうがより魅力的な課題を提示しているように思われるであろう。その場合、新型コロナウイルス感染症がもたらした状況は、東日本大震災後の状況とともに、戦前期の日本を考えるうえでの貴重な材料となるであろう。


参考文献
麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』、中公新書、2016年。
山下政三『明治期における脚気の歴史』、東京大学出版会、1988年。
J.R. マクニール著、海津正倫・溝口常俊監訳、『20世紀環境史』、名古屋大学出版会、2011年。
内田正夫「日清・日露戦争と脚気」、和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007、144-156頁。
岡本拓司『科学と社会:戦前期日本における国家・学問・戦争の諸相』、サイエンス社、2014年。

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〜新型コロナ感染症を考える〜「感染症と宗教の長い歴史」正木晃先生 [2020年05月20日(Wed)]
 科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。最初は正木晃先生(専門:宗教学)から「感染症と宗教の長い歴史」です。

「感染症と宗教の長い歴史」
正木 晃
〜致死率〜

 新型コロナウイルスによる肺炎が世界中をゆるがしています。全地球的な規模で人と物往来が禁じられて世界中が鎖国状態になり、経済にも甚大な影響をあたえています。
 ほんの少し前まで、こんな事態になるとは、誰も予想していませんでした。ネット上には「こうなると思っていた!」とか「だから、言ったじゃない!」的なことも書かれていますが、どれも具体性はなく、所詮は後知恵のたぐいです。少なくとも、政治や経済の専門家が具体的な警告を発していた形跡は見当たりません。
今回の新型コロナウイルスによる肺炎の致死率(死亡症例数/感染症例数)そのものは、地域によって大きく異なりますが、全世界の平均的な致死率が5%を超えることはなさそうですので、感染症としては決して高いとは言えません。過去には致死率がはるかに高い感染症が、いくたびも人類を襲っています。
ほぼ一〇〇年前の一九一八年一月から一九二〇年一二月にかけて、世界中を恐怖におとしいれたスペイン風邪は、当時の全人口の四分の一が罹患し、最少で一七〇〇万人、最大では五〇〇〇万人が生命を奪われています。アメリカでは平均寿命が一二歳くらい低下したそうです。
 日本でも大流行し、最新の研究では四五万人から四八万人もの方が亡くなっています。このころの人口は五六〇〇万人くらいですから、現在に換算すると、一〇〇万人もの死者が出たことになります。
 スペイン風邪の病原体はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)でしたが、それが判明したのは一〇年以上も後の一九三三年で、当時はまだ不明のままでした。ちなみに、このときのインフルエンザウイルスは、それまで人間は罹患しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、人間も罹患するようになったことがわかっています。つまり、当時の人々にとっては未知の感染症(新興感染症)であり、誰も免疫をもっていなかったために、大流行したと考えられています。この点は、今回のコロナウイルスと同じです。
 近年の例をあげれば、二〇〇二年一一月一六日に、今回と同じように、中国南部の広東省で発生したSARS(サーズ)コロナウイルスによる全身性の感染症(重症急性呼吸器症候群)の致死率は一四〜一五%に達していました。
 二〇一四年二月からギニア、シエラレオネ、リベリアなど、西アフリカの諸国で流行したエボラ出血熱は、感染疑い例も含め二八五一二人が感染し、一一三一三人が死亡したといいますから、致死率は四〇%前後もあったのです。原因は野生動物を食べたことにあるようです。
 まだ確定はしていませんが、今回の新型コロナウイルスによる肺炎はコウモリ、SARSはハクビシン、エボラ出血熱はコウモリが疑われています。HIV(エイズ)も、サル→チンパンジー→人間という説があります。すでに述べたとおり、スペイン風邪も鳥インフルエンザに由来していますから、動物たち、とりわけ野生動物たちとのかかわりは、ひとつ間違えると、人類全体に致命的な脅威をもたらす可能性をつねにはらんでいます。

〜天然痘の猛威〜

 歴史をさかのぼると、凄まじい事例がいくつも見出せます。天然痘(疱瘡)の致死率は、平均で二〇〜五〇%ときわめて高かったようです。「高かった」と過去形で書けるとおり、幸いなことに、天然痘は人類史上初めて撲滅に成功した感染症ですが、治癒しても醜い瘢痕(あばた)が残ってしまうこともあって、かつてはひじょうに恐れられていました。 
 たとえば、明治時代を代表する大作家の夏目漱石も罹患者の一人でした。正確を期すと、漱石の場合は、三歳のころに、受けた種痘(天然痘の予防接種)がうまくいかなかったようです。可哀想に天然痘に罹患してしまい、かゆみに耐えかねてかきむしったせいで、鼻の頭に痘痕が残ってしまっていたのです。周囲から「一つ夏目の鬼瓦」と嘲笑されたこともあって、終生のコンプレックスになるほど気にしていたらしく、顔写真を撮らせたときは、必ず修正させていたといいます。
 一六世紀の前半期に、南米のインカ帝国が滅亡した原因も、じつはスペインの軍事力ではなく、天然痘だったと推測されています。わずか一六八名の兵士と大砲一門に馬二七頭というスペイン軍の力では、いくらなんでも無理です。ところが、スペイン人によって持ち込まれた天然痘は、免疫をもっていなかった人々に襲いかかり、わずか数年間でインカ帝国人口の六〇〜九〇%を死に追いやってしまったのです。
 一八世紀の中頃のアジアでも似たことが起こっています。清にとって最大の抵抗勢力だったオイラト(モンゴル西部の遊牧民集団)が、清の軍隊による制圧にくわえ、かれらによって持ち込まれた天然痘の蔓延によって、ほぼ絶滅してしまいました。

〜仏教と天然痘はいっしょに伝来〜

 日本でも何回も大流行して、歴史を大きく変える原因になったことすらあります。天然痘は典型的な外来の感染症で、朝鮮半島を経由して大陸との交流が盛んになった六世紀の中頃に、最初の大流行がありました。
 六世紀の中頃といえば、欽明天皇の時代に、日本に朝鮮半島の百済から仏教が伝えられた時期と重なります。不幸なことに、その直後に得体の知れぬ感染症(疫病)がひろがり、多くの人々が死にました。このときの感染症の正体は、『日本書紀』の「瘡(かさ)が出て死ぬ者があとを絶たない。その死にざまは生きながら焼かれるようであり、その痛苦は打たれて粉々にされるようである」という記述から、天然痘の可能性が指摘されています。
 つまり、仏教は天然痘といっしょに、日本に伝来したらしいのです。この未曾有の事態に、物部氏を中心とする勢力は、外来の仏教を受容し古来の神々をないがしろにした神罰だと強硬に主張し、廃仏派に立場から、蘇我氏を中心とする仏教の受容に熱心な勢力を崇仏派とみなし、激しく対立したというのが通説です。
 ただし、近年の研究では、物部氏を中心とする勢力も仏教そのものを否定していたわけではなく、私的に崇拝することは認めていた証拠が出ています。かれらは、蘇我氏を中心とする勢力が、仏教を国家祭祀の対象とすることに反対していたのにすぎないから、廃仏派という表現はあたらないとみなす研究者もいます。また、蘇我氏も神事を軽視していたわけではないことも明らかになっています。要するに、単純な廃仏・崇仏という問題ではなく、その裏に政治的な権力闘争がかかわっていたので、騒動が拡大したというのが実情のようです。
 さらに重要な事実は、このころの支配階層の人々は、仏教を外来の霊験あらたかな神々を祀る宗教と理解していた点です。当時の用語でいえば、「蕃神(あだしくにのかみ)」あるいは「今来神(いまきのかみ)」です。つまり、仏教の理念や思想はほとんど理解できず、もっぱらご利益を期待できる神々の宗教として受けいれようとしていたのです。もっとわかりやすくいえば、古神道vs.仏教という対立ではなく、日本在来の神々崇拝vs.新来の異国の神々崇拝をめぐる対立だったのです。
 ともあれ、欽明天皇も最有力の軍事氏族だった物部氏の主張は無視できず、やむなく仏像を破壊し、寺院を焼却することを黙認しました。ところが、今度は欽明天皇の皇居が、青天で雷も鳴らなかったのに、突如として火災を生じてしまいました。この事態に欽明天皇はかなりうろたえたようで、今の大阪湾に流れ着いた霊木から仏像を彫らせ、吉野の寺に祀らせたりしています。このとおり、態度がふらふらしていて、どうやら定見はなかった様子です。

〜天然痘が東大寺の大仏をつくらせた?〜

 そうこうするうちに欽明天皇は崩御し、敏達天皇が即位しました。敏達天皇はどちらかというと、仏教に否定的だったようです。敏達天皇一四年(五八五)に、蘇我馬子が寺を建て仏を祀ると、時を置かず、疫病が発生したため、物部守屋の献言を採用して、仏教禁止令を出し、仏像と仏殿を焼却させています。
 すると、天皇自身が感染症に罹患し、薬石効なく、まもなく崩御してしまい、実子がいなかったので、異母兄弟の用明天皇があとを継ぎました。このとき敏達天皇を死に至らしめた感染症も、天然痘だった可能性があります。
 用明天皇は、先代の敏達天皇とちがって、仏教に好意的な政策を展開しました。ところが、用明天皇もまた、在位わずか二年足らずで天然痘に罹患し、あっけなく崩御してしまったのです。これは、仏教に対して好意的であろうが否定的であろうが、まったくおかまいなく、天然痘が人々を苦しめつづけていた証拠です。
 用明天皇のあとを継いだのが、妹の推古天皇、その推古天皇の摂政として活躍したのが聖徳太子です。蘇我氏と聖徳太子が、敵対していた物部氏を滅亡させ、日本に真の意味で仏教を定着させたことは、ご存じのとおりです。
 しかし、天然痘の脅威は、まだまだ続きました。奈良時代中期の天平年間(七三五〜七三七)に大流行したときには、総人口の二五〜三五%に相当する一〇〇〜一五〇万人が死亡したと推定されています。さらに政権中枢にいた藤原氏の四兄弟が相次いで死去し、その間隙を縫うように、政敵だった橘諸兄が政権を握ったのでした。当時の常識では、こういう惨事が起こる原因は、為政者に徳がないからとみなされていました。責任を感じた聖武天皇は仏教にあつく帰依し、仏教による救済を願って、東大寺の大仏建立を思いたったのです。ですから、天然痘の大流行がなければ、東大寺の大仏は造立されなかったかもしれません。
 もっとも天平年間の大流行は、日本人のかなりの部分に天然痘の免疫を獲得させた形跡があり、以後は、天平年間ほどの大流行は起こりませんでした。文字どおり、「禍福はあざなえる縄のごとし」です。新型コロナウイルスについても、人口の大半が罹患して、免疫を獲得できれば、普通のインフルエンザ程度の感染症に落ち着くといわれていますが、いったいいつになるのか、それが大問題です。
 
〜ペストが宗教改革をもたらした?〜

 感染症が宗教にあたえた影響という点で、最も有名な事例の一つは、一四世紀の中頃から一五世紀の初め頃に、ヨーロッパをゆるがせたペストの大流行です。ペストには何種類かあるが、中でもリンパ節が冒される腺ペストは、致死率が六〇〜九〇%に達します。主にペストに罹患した人間あるいはクマネズミについたノミによって媒介され、全身の皮膚が内出血によって紫黒色になるので、「黒死病」とも呼ばれ、非常に恐れられました。
ヨーロッパでは一三四八年〜一四二〇年にかけて大流行し、域内全人口の三〇〜六〇%が死亡したと推定されています。このときの大流行は、いわゆるグローバリゼーションがもたらしたのではないか、という説も提示されています。
 このときのグローバリゼーションは、「モンゴルによる平和(パックス・モンゴリカ)」よって実現しました。北アジアの片隅から勃興した騎馬民族のモンゴル族が、チンギス・カンをはじめとする優れた指導者にひきいられた強大な軍事力を背景に、すこぶる短期間に、東は中国から西はヨーロッパまでを支配下に置いた結果、ユーラシア大陸をかつてなかったくらい自由に行き来できる情勢が生まれたのです。
 ただし、その展開は良いことばかりではありませんでした。ペストに罹患した人間やクマネズミについたノミまでが、東西を自由に行き来できるようになり、もともとは中央アジアで発生したペストがユーラシア大陸の全域に広がってしまったらしいのです。
このときは、世界の総人口四億五〇〇〇万人のうち、約一億人が死んだと推計されています。その衝撃は甚大で、社会構造を激変させたほどでした。東アジアでは、モンゴルが建国した元の人口が三分の一にまで減少してしまい、滅亡の一因になったという研究があります。
 ヨーロッパが受けた衝撃はもっと激烈でした。なにしろ三〇〜六〇%が死亡したというのだから、当然です。人口の減少は労働人口の減少を招き、農奴に頼っていた荘園制が成り立たなくなりました。地域によっては、農業の中心が人手のかかる穀物生産から、人手のあまりかからない羊の放牧に移行しました。ユダヤ人のせいでペストが流行したというデマが各地で広まり、ユダヤ人に対する迫害が横行しました。魔女狩りも始まりました。
 しかし最大の影響を受けたのは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会だったのです。これほどの悲劇を前に、何もできなかったという人々の声が、カトリック教会の権威を根底からゆるがしたからです。ペストの大流行から一〇〇年を待たず、カトリック教会に叛旗をひるがえす宗教改革運動が勃発し、プロテスタントが誕生したのは、決して偶然ではありません。

〜ハンセン病も梅毒もグローバリゼーションの副産物〜

 ペストが大流行する前はハンセン病が、大流行していました。ハンセン病はもともとは熱帯地方の病気だったようですが、聖地エルサレム奪回に出掛けた十字軍がエジプトあたりから持ち帰ってしまったらしいのです。
日本でもハンセン病は、現代までつづいた難病でした。『日本書紀』巻廿二を読むと、早くも飛鳥時代に、ハンセン病と思われる記述が見出せます。推古天皇元年(593)に、聖徳太子が飛鳥に『四天王寺四箇院』を建立しているのです。
 以来、奈良時代から鎌倉時代まで、ハンセン病の援助はもっぱら仏教によってになわれていました。大阪の四天王寺は、中世以降、ハンセン病に罹患した人々があまた暮らしていました。中世を代表する物語の『小栗判官』は、そのころ「業病」とみなされていたハンセン病に罹患した主人公が、熊野権現と熊野の温泉のおかげで病を癒したという内容であり、一遍を祖とする時宗の僧侶たちによって創作され、語り伝えられてきた歴史があります。
 ペストの次に大流行したのは梅毒でした。この病気は、アメリカ大陸の先住民のあいだに存在していた感染症と推測されています。欧米人で初めてアメリカ大陸を発見したとされるクリストファー・コロンブスの率いた探検隊員が、アメリカ大陸に上陸した際、原住民の女性と交わって感染し、スペインに持ち帰ってしまったようです。
 その後、イタリア征服に出掛けたフランス軍の傭兵としてイタリアに駐留したスペイン兵が、フランス兵に感染させ、そのフランス兵がアルプスの北方に持ち帰り、さらに大航海時代の波に乗って、またたくまに全世界に広まってしまったのでした。ということは、これもグローバリゼーションの副産物にちがいありません。
 日本には戦国時代の後期に、いわゆる南蛮貿易の担い手として渡来したポルトガル人やスペイン人によって持ち込まれ、またたくまに広がりました。黒田孝高(官兵衛)をはじめ、加藤清正、前田利長、浅野幸長など、戦国時代を代表する武将たち梅毒で死んでいます。
 江戸時代から明治前半期まで、日本人の死亡原因の第一位は梅毒だったという説があります。「お医者様でも、草津の湯でも、惚れた病は治りゃせぬ」とうたわれた群馬の草津温泉が大いに繁盛した理由は、ほんとうはハンセン病と梅毒に効くとされたからでした。江戸は男女比が五:三と、男性が圧倒的に多かったこともあって、遊郭や色街、あるいは岡場所と呼ばれる性愛中心の娯楽の場が発達し、梅毒の感染源になっていました。そのため、町民の大半が罹患していたという説すらあります。
 かつて「国民病」とか「亡国病」と呼ばれて恐れられた肺結核の蔓延は、むしろ明治維新以降の近代化の過程で生じています。劣悪な環境下における人口の密集化、工場や軍隊への大規模な動員などが、蔓延の原因でした。この点では、今回の新型コロナウイルスによる肺炎と共通する要素があります。

〜病気治療と宗教の栄枯盛衰〜

 以上にあげた実例のとおり、宗教の栄枯盛衰と病気、とりわけ感染症の大流行と、切っても切れない関係にあったことは、歴史が証明しています。結論から先に言ってしまえば、宗教は病気を癒すことによって繁栄し、逆に病気を癒やせないことによって衰退してきたのです。
宗教が病気を癒すことによって勢力を拡大した実例は、開祖や聖人と呼ばれた人物の多くが、病気治療によって有名になった事実から証明できます。たとえばイエス・キリストの言行録ともいえる『新約聖書』を読むと、イエスは多くの人々を病気から救っています。病気の種類はさまざまで、悪霊退治のような精神的な領域もあれば、婦人病のような生理にまつわる領域もあります。中には『ルカによる福音書』や『ヨハネによる福音書』に記される「ラザロの復活」のように、死人を蘇生させたという伝承まで書かれています。
イスラム教徒でありながら、イスラム世界のみならず、ヨーロッパのキリスト教世界からも、イスラム教が生み出した最高の知識人、「第二のアリストテレス」と讃美されるイブン・スィーナー(九八〇〜一〇三七)は、イスラム教神秘主義の大哲学者であるともに、当時としては世界最高峰の医学者でもありました。かれがヨーロッパの医学におよぼした影響は絶大です。著作の『医学典範』はヨーロッパ中世はもとより、地域によっては一七世紀まで、医学の教科書として使われた事実が、なによりの証拠です。
 仏教の場合も同じです。ブッダが直接、病人を治療したという話はないものの、ブッダの説法がインド医学の病因論・治療論にもとづいているという指摘があるのです。典型例は「十二因縁」です。人が迷いに惑わされたまま死ななければならない原因を、「無明」から「老死」に至る十二の過程として提示し、根本原因が「無明(根源的な無知)」にあることをあきらかにして、「無明」の克服こそ悟りへの道と説いています。また初期仏典には、薬剤の製法はもとより、脳外科手術と思われる記述すら見出せます。

〜日本仏教と医学〜

 日本に伝えられた仏典、たとえば奈良時代によく使われていた『陀羅尼集経』などの中にも、インドのアーユルヴェーダ医学や中国の漢方にもとづく薬剤の製法や具体的な治療法が、思いのほか詳しく書かれています。興味深いことに、伝統医学の研究者から、これらの処方の中には、実際に効き目のある例も少なからずあると報告されています。
 今なお使われているアーユルヴェーダ医学や中国の漢方の成立が古代にまでさかのぼり、しかも古代や中世では仏教僧こそ先端的な知識のほとんど唯一の持ち主だったことを考えれば、なんら不思議ではありません。江戸時代になっても、杉田玄白や高野長英といった医学者が法体といって、頭を僧侶のように剃りあげていたのは、その名残といいます。
 日本に初めて正式な戒律を伝えた鑑真(六八八〜七三三)は、『鑑真秘方』という医方の著作があるくらい、薬学に通じていました。
 真言密教の祖、空海(七七四〜八三五)も薬学に通じていて、著書に『本草』や『太素』など、中国の医学書をよく引用しています。ちなみに、空海は唐に留学するにあたり、当初は「薬生」、すなわち薬学研究者として登録していたという記述が、平安時代前期の文献に残されています。
 このように医学を重視する姿勢が、空海の衣鉢を継ぐ真言密教系の僧侶に顕著なことは疑いようのない事実です。その証拠に、古代から中世の日本で医学に通じた僧侶、すなわち「僧医」のほとんどが真言密教系なのです。
 たとえば、平安末期から鎌倉初期に京都の政界を代表する人物だった九条兼実は、仏厳という高野山系の真言密教僧からたびたび療治を受けています。鎌倉後期に奈良の西大寺を拠点に、戒律の復興を実践した真言律宗の叡尊(一二〇一〜一二九〇)と忍性(一二一七〜一三〇三)は全力をあげて病人の救済につとめ、欧米の医学史研究者からも高い評価を受けています。
 とりわけ忍性は弘安十年(一二八七)に、鎌倉近辺で疫痢が大流行したとき、拠点としていた極楽寺の境内に恒常的な病屋として鎌倉桑谷療養所を開設しています。以来二〇年間に四万六千八百人を治療し、そのうちの五分の四にあたる人々の生命を救ったことが、『元亭釈書』という書物に記されています。この割合はそのころの医療水準を考えるなら、驚異的ですらあります。
 叡尊を師として出家した梶原性全(浄観房 一二六六〜一三三七)は、極楽寺において医療活動を行うとともに、中世としては最高次元の医学書を二冊も書きあげ、この時代における最高の「僧医」という評価を得ています。
 山野を修行の場としてきた修験者(山伏)たちが、山野草に関する豊富な知識をもち、生薬を中心に薬学に通じていたことはよく知られています。現に、金峯山寺の門前にある店などで売られている「陀羅尼助」は、修験道がいかに深くこの領域にかかわっていたか、を教えてくれます。
ところが、室町時代後期以降になると、「僧医」を輩出する主な宗派が、密教系から禅宗系へと変わっていきます。日本医学中興の祖として「医聖」とたたえられる三人のうち、田代三喜(一四六五〜一五四四)と曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)は臨済宗の出身。永田徳本(一五一三〜一六三〇)は修験道の出身ですが、田代三喜に師事して学んでいます。
 その背景には、古代以来の貴族に代わって支配階層となった上級武士層の多くが、「有事に際してうろたえないように、心身を鍛錬できる」禅宗に帰依したことがあったようです。また、禅宗は中国生まれの宗派で、中国文化の伝達者でもあったので、中国医学すなわち漢方を学ぶには、つごうが良かったことも関係していそうです。

〜「祈り」は有効か?〜

 ただし、致死率が圧倒的に高い大規模な感染症の発生に、宗教がなかなか対処できなかったこともすでに指摘したとおりです。その結果、宗教が衰退する原因になったことも疑いようがありません。
 それでも科学、特に医学が未発達な段階では、宗教以外にすがるすべがなかったから、宗教の地位はまだ安泰でした。しかし、近代的な医学が発達してくると、そうはいかなくなります。一般の人々にとって、同じ科学でも、物理学や化学などは縁遠いでしょうが、生死にじかに関わる医学に限ってはとても身近だからです。
 わけてもペニシリンを筆頭に、抗生物質が使われるようになり、それまで不治とされたペストやハンセン病や肺結核から生還する人々がつぎつぎに現れると、状況は一変しました。こうして、人の肉体を病気から救うのは、宗教ではなく、医学の役割になったのです。
 というわけで、いまさら人命を救う役割を科学と争ったところで、意味はないと思います。むしろ宗教の原点に帰るべきではないでしょうか。
 では、宗教の原点とは何か。見解はいろいろあるでしょうが、「祈り」が有力な候補であることに疑いの余地はありません。「祈り」のない宗教はありえないからです。
 では、「祈り」とは何か。これまた見解はいろいろあるでしょう。そもそも、キリスト教やイスラム教のような一神教の「祈り」と仏教の「祈り」が同じとは思えません。
 一神教の場合、「祈り」は全知全能の超越者に対する「請願」というかたちをとります。わかりやすくいえば、徹底的に神にすがり、自己の運命を含むすべてを神にゆだねるのです。
 しかし、原則として全知全能の超越者を認めず、因果応報を説く、いいかえれば徹底的な自己責任論を説く仏教の場合、「祈り」はおのずから自発的な行動への誓い、すなわち「誓願」というかたちをとります。「請願」と「誓願」では、「せいがん」という発音は同じでも、意味は一八〇度ちがうのです。
特に大乗仏教の場合は「利他行」、すなわち他者救済こそ自己救済の唯一のすべにほかなりません。したがって、「祈り=誓願」は他者のためになされることになります。
 ここで、「祈り」が有効か否かを問う必要はないのです。「祈り」は宗教の専権事項であって、他の領域からあれこれ言われる筋合いはないからです。
 もちろん、科学的な実験によって、「祈り」をはじめ、もろもろの宗教的行為の効用を検証することを全面的に否定するつもりはありません。時と場合しだいで、試みても良いでしょう。
 しかし、この方向にこだわりすぎると、問題が生じます。科学によって宗教の効用を証明してもらうという事態におちいり、ついには宗教が科学に屈服することにつながりかねないからです。これは宗教の自己破産にほかならないから、よくよく考えておく必要があります。

〜「死は平等」は嘘である〜

 人はよく「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と言います。特に宗教にかかわる者は、永遠の真理でもあるかのように、言いたがります。
 しかし、「死は平等である」は嘘です。「死の前には金持ちも貧乏人もない」も真っ赤な嘘です。現実には、死は不平等であり、死は権力や経済力によって大きく左右されています。
「生命の値段」という表現は不遜もいいところで、私は大嫌いですが、話をわかりやすくするために、あえて使います。
 死が平等でないということは、「生命の値段」が異なるということです。
 実例をあげます。日本などの先進国では、数千万円から億単位のお金がかかる治療が認可され、現に実行されています。その一方で、開発途上国では一つが一〇〇円のアンプルが買えないために助かるはずの生命が、毎日のように、たくさん失われています。
 早い話が、先進国と発展途上国とでは、「生命の値段」がいちじるしく異なっているのです。これは歴然たる事実です。
 アメリカのような先進国でも、人種や職業によって、富裕層と貧困層によって、新型コロナウイルスによる肺炎のもたらす致死率に、いちじるしい差が生じているとたびたび報道されているではありませんか。
こんな状況で、「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と言えますか。そして、こんな状況がつづくかぎり、死は不平等でありつづけます。誰が考えても、すぐわかることです。
では、どうするか。申しわけありませんが、私にも、いますぐ実践できる具体的な解決策はありません。
 ただ、最低限できることはあると思います。少なくとも、宗教にかかわる者は、安易に「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と口にしないことです。次に、まことに残念ながら「生命の値段」にいちじるしい差がある事実を、多くの方々に知っていただくことです。一般的な通念とはまったく逆で、耳障りの極みですが、それが、真の意味で、死を平等にするために、絶対に必要な最初の一歩だからです。

〜電話による「声かけ」のすすめ〜

 ここからは、お医者さんや教育関係者、あるいはお坊さんというような、いわゆる指導的な立場にある方が対象になります。
 融通念仏宗の宗祖、良忍上人(一〇七二〜一一三二)は「念仏を唱えることで、私も仏も他人も皆一体となり、その結果として私の積んだ功徳が皆の功徳となり、皆の積んだ功徳が私の功徳となる」と説きました。「祈り」も同じです。「祈ることで、私も仏も他人も皆一体となり、その結果として私の積んだ功徳が皆の功徳となり、皆の積んだ功徳が私の功徳となる」はずです。
だから、一箇所に集まって、皆で祈れば良いのですが、今回は、残念ながら、それができません。たびたび報道されていますとおり、韓国のキリスト教会やイランのモスクに大勢の人が集まって礼拝したことで、爆発的な感染が生じてしまっています。
 そこで、提案したいことがあります。それは「声かけ」です。指導的な立場にある方から、多くの方々に、ぜひ「声かけ」をしていただきたいのです。
 この発想の原点は、以前、チベット旅行にご一緒したお医者さん(甲状腺癌治療の世界的な権威)から、退院された患者さんたちとのコミュニケーションを、どうとったら良いか?と尋ねられたことにあります。癌治療は予後がとても大切なのに、退院すると、それっきりになってしまうケースがあり、悩みの種だとおっしゃったのです。
 そのとき私が提案したのは、病院に勤務しています看護師さんたちに、退院された患者さんたちに、手紙を定期的に書いてもらうという方法でした。この方法は実践してみると、けっこううまくいったようです。とりわけ、一人暮らしの方には大好評だったと聞きました。
 今回の場合、濃厚接触は厳禁なので、直接「声かけ」はできません。しかし、文明の利器を使えば、なんとかなります。具体的にいえば、電話による「声かけ」です。
 常日頃、尊敬しています方から直接、電話をいただけば、いただいた方々は、驚くとともに、必ず喜ぶと思います。
 その際、ぜひ、「あなたのことを案じています」とか「あなたのために祈っています」とおっしゃっていただきたいのです。できれば、いっしょに「祈る」ように、すすめていただきたいのです。じつは私に知人に、自坊であろうと、出張先であろうと、どこにいても、似たことをすでに実践していますお坊さんがいて、信者さんたちから絶大な信頼を得ています。
 生の声は文字よりも、はるかに大きな力を秘めています。文字では伝わらない切実な思いも、生の声なら伝えられます。最近のスマートフォンや携帯電話は音質が飛躍的に向上していますから、なおさらです。
 一人ひとりに電話するのは、手間暇かかります。面倒でもあります。しかし、その効用は私たちが想像していますよりも、ずっと大きいはずです。

Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 15:10 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
報告「未来をひらく 科学と倫理」セミナー(質疑応答) [2019年11月21日(Thu)]

 こんにちは。科学隣接領域研究会事務局です。
 11/12、11/13に引き続きセミナーの報告をいたします。

 質疑応答は、セミナー1部2部終了後に会場から質問票を回収し、それに回答する形で行いました。たくさんの質問をいただきましたので、時間の関係でモデレータの安藤先生に取りまとめていただき、講演された先生方にお答えいただきました。時間の関係で取りあげられなかった方々は申し訳ございません。

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質疑応答の様子

 次のような質問にまとめてお答えいただきました。
 ・「科学」と「技術」は別なのか
 ・人間が人間を作っていいのか
 ・ゲノム改変した人が元に戻りたいと言ったらどうするのか
 ・災害をおこす危険性を含んだまま変えてもいいのか
 ・科学を利用する側の原則も必要なのではないか
 ・科学とジャーナリズムのあるべき姿について
 ・「科学者三原則」の公共善をどう考えるか
 ・「科学とアート」の取り組みについて
※AIについてご講義いただいた講師の先生が登壇できなかったため、AIに関する質問は省いております。

 セミナーは、短い時間の講演の後、対談で議論を深めるという形式であり、限られた時間で、幅広い「科学と倫理」の問題を提起することができました。アンケートの回答でも、短時間で色々な分野の領域の倫理を聞くことが出来たというご意見を多くいただいております。
 また、研究者や日頃研究者と接点がある方が多数出席され、「科学と倫理」について、科学者だけではなく幅広い立場の方に、これからの科学と社会の問題を考えていくきっかけ作りとなりました。
 ご出席いただいた方、ご講演いただいた先生方、当日ご協力いただいた方、ありがとうございました。

 科学隣接領域研究会では、次に「科学とアート」をテーマに研究会を開催していきます。
ご興味のある方は、Webサイト等ご覧ください。(https://www.jss.or.jp/ikusei/rinsetsu/arts/) 
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 18:00 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
報告「未来をひらく 科学と倫理」セミナー(第2部 未来の科学倫理) [2019年11月13日(Wed)]
 こんにちは。科学隣接領域研究会事務局です。
 10/26に開催した「未来をひらく 科学と倫理」セミナー第2部のご報告をします。
 今研究者の方に考えていただきたい「生命・AI・宇宙の倫理」をテーマに講演していただきました。講演の後、科学隣接領域研究会のメンバーと対談をしてそれぞれの倫理問題について考えてゆきました。

 「合成生物学の衝撃」
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須田桃子さん(毎日新聞科学環境部記者)

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廣野喜幸先生との対談

「AI時代の科学技術倫理」
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前野隆司先生(慶應義塾大学大学院SDM研究科教授)

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酒井邦嘉先生との対談

「人類の生存と宇宙進出の問題点」
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神崎宣次先生(南山大学国際教養学部教授)

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金子務先生との対談

 
 アンケートでのセミナーの内容についての評価は、「とてもよかった」46%、「よい」45%でした。
 特に研究者の方の満足度が高く、ご感想をいくつかご紹介いたします。
 ・再び今ここにいることの意味を考えさせられた。
 ・科学の研究に携わる人として活かしていきたい。
 ・これだけの情報を一度に聞く機会はなかなかない。(その反面、1つ1つをもっとじっくり聞きたかったというご意見もありました)

 次回は、質疑応答の様子をお知らせいたします。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 11:37 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
報告「未来をひらく 科学と倫理」セミナー(第一部 研究者の科学倫理) [2019年11月12日(Tue)]

 こんにちは。科学隣接領域研究会事務局です。
 10/26に開催した「未来をひらく 科学と倫理」セミナーのご報告をします。

 台風一過の良いお天気に恵まれ、研究者、研究者を取巻く方々、本テーマにご興味のある方など88名ご出席いただきました。ご来場ありがとうございました。
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会場の様子

 第1部は「研究者の科学倫理」です。
 基調講演は「3.11以後の科学技術と社会倫理」
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野家啓一先生(東北大学名誉教授)

 ディスカッサントの廣野先生が加わり、議論を深めるお話をいたしました。廣野先生の手にある本は、野家先生の著書「科学哲学への招待」です。講演でお話された内容が書かれているそうです。
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廣野喜幸先生(東京大学大学院総合文化研究科教授)

 研究者だけでなく、自然科学・人文社会の専門家、ジャーナリストなど様々な立場の人達の意見を取り入れて、研究者にとって重要で普遍的な「科学者三原則」(Webにて公開中)というメッセージを発表しました。
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酒井邦嘉先生(東京大学大学院総合文化研究科教授)

鼎談では、野家先生、酒井先生、廣野先生にご登壇いただきました。
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第一部は白熱した議論で終了となりました。次回は「第二部 未来の科学倫理」の様子をご報告いたします。詳細をお知りになりたい方はWebサイトをご覧ください。













Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 15:15 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
10/26「未来をひらく 科学と倫理」セミナーのご紹介C [2019年10月23日(Wed)]
おはようございます。
 10/26「未来をひらく 科学と倫理」のセミナー開催を直前に控え、講演内容の概要を皆様にお伝えしています。本ブログで初公開です。
 4日目は、「人類の生存と宇宙進出の問題」をご紹介いたします。


◆◆◆「人類の生存と宇宙進出の問題」◆◆◆

 人工衛星などの宇宙技術は農業などへの貢献を通じて地球上での持続可能性に役立っています。また二十世紀に達成された宇宙開発は、地球の持続可能性に対する人類の意識を喚起したと言われています。こうしたことを踏まえた上で、これからの、より遠くの天体や宇宙空間での活動の可能性を前にして、われわれが検討しておくべきことがらにはどのようなものがあるのか。今回は持続可能性と倫理という観点から検討したいと思います。

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神崎 宣次 先生

南山大学国際教養学部教授。
倫理学専門。著書に『ロボットからの倫理学入門』(2017年、名古屋大学出版会、共著)『宇宙倫理学』(2018年、昭和堂、共著)他

Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 11:00 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
10/26「未来をひらく 科学と倫理」セミナーのご紹介B [2019年10月21日(Mon)]
おはようございます。
10/26「未来をひらく 科学と倫理」のセミナー開催を直前に控え、講演内容の概要を皆様にお伝えしています。本ブログで初公開です。
 3日目は、「AI時代の科学技術倫理」をご紹介いたします。


◆◆◆「AI時代の科学技術倫理」◆◆◆


 ロボットと幸福学の研究者として、「シンギュラリティー後の世界では人類はAIに次ぐナンバー2になるべきか」「未来のコストフリー社会を格差社会にしないために我々は何をなすべきか」「未来社会において人類は単純労働をロボット・AIに任せて哲学・アート・スポーツに勤しむべきか」「ロボット・AIの進歩に対して人間はどこまでどのように介入すべきか」といった論点について問題提起する。

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前野 隆司 先生

慶應義塾大学大学院SDM研究科教授。システムデザイン・マネジメント、ロボティクス、幸福学、感動学、協創学専門。著書に『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』(2004年、筑摩書房)『AIが人類を支配する日』(2018年、マキノ出版)他。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 09:00 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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