〜新型コロナ感染症を考える〜 ウイズ・コロナのディレンマと「社会的距離」の危うさ 金子務先生
[2020年08月11日(Tue)]
科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。第5回目は金子務先生(所属:大阪府立大学名誉教授 専門:科学技術史、科学哲学)から ウイズ・コロナのディレンマと「社会的距離」の危うさ です。
ウイズ・コロナのディレンマと「社会的距離」の危うさ
金子 務
科学と政治のディレンマいくら強面の新型コロナのパンデミックであろうとも、世界でロックダウンする国が増え、人々の接触が減れば、確実に感染者の数は減る。このことは中世末から近年に至るペスト対策で、都市封鎖が究極の手段であったことを思い出させる。
ネズミの病原菌であるペスト菌が見つかるのは19世紀末、1894年のことだ。ノミが病原菌のペスト菌を含むネズミの血液を吸って人間に伝染することが確認されたのはその後のことである。微積分法を考案し、計算機の原理を立てた万能の哲学者ライプニッツが、17世紀の1681年にハノーファー公爵に送った「ペスト対策メモ」は、まだ医学的対策の未知であるとき、打てる対策は政治的ロックダウンであり、もう一つは各家で他人との接触を避ける努力、というのだから、いまの新型コロナ世界流行にもそのまま通用する話である。19世紀末のペスト菌発見以降出版されたカミューの『ペスト』でも、まだ有効な対策としてロックダウンされた仮想都市で起こる悲喜劇を描いたものだ。
今回の新型コロナ汚染問題でも、各国は都市や地域、特定業種などを封鎖し、感染を遮断しようとしたのだが、そのために政府や地方自治体は過大な財政負担によって疲労し、企業や従業員の収入途絶を招いた。いつまでも経済活動の停止を続けるわけにも行かないのである。科学(医学)による悪疫封鎖と政治による経済振興、科学と政治は巨大なディレンマに直面している。当面、科学界はあくまでも社会への忖度なしに客観的な解を求めるべきだし、政治分野ではあくまでも科学的見解を踏まえて、人々の幸福を最大にするよう高次な合理的最適解を求めるべきだろう。ともあれ、このディレンマを解く最終手段は、ワクチンを開発・量産・適正配分して人々に新型コロナへの抵抗力を持たせることにあることは明白であろう。この夏現在で期待が持てる先頭集団にあるのがmRNAワクチンと呼ばれるもので、この開発を進めている米系企業など2社の名が上がっている。両社は、免疫系にコロナに対する抗体の生成を誘発させるのに、これまでのワクチンのように、弱毒化したウイルスやそのウイルスから取り出したタンパク質をワクチンにして人体に注入するのでなく、ウイルスの遺伝子情報から合成しプログラミングされたmRNAワクチンを使って、人体細胞にタンパクを生産させて抗体の産生を促すようにするものである。遺伝子の人工合成によるのだから開発時間が短縮できるメリットはある。ただしこれまで、この技術を使用したワクチンが認可された実績はない。
コロナ騒ぎの直前、コロンビア大学の先生に会う急用が出来て、アメリカに行った。2月中旬である。中国武漢の感染爆発はまだ対岸の騒ぎであり、横浜外港の大黒埠頭に停泊した巨大クルーズ船のクラスター問題もまだ限定区域の問題とみられていた。それでもアメリカは中国に出入りしたものを入国禁止にしていた。パスポートを更新したての同行の一人は、疑われて入国審査に手間取っていた。羽田集合の時みなマスク姿だったが、シカゴ空港に着いたときにはかえって病人ではないかと怪しまれる始末で、以降、シカゴやニューヨークではマスクをポケットに入れたままだった。
ニューヨークの夜はブロードウェイでミュージカルを見てきた。「オズの魔法使い」の裏話仕立ての、庶民向け人気出し物「ウイキッド」である。この「ウイキッド」は正面舞台から3階までせり上がる階段状の観客席が、サーカスを観るような普段着の親子連れで満員、まだマスク姿もゼロであった。前から2列目、特上席の切符をやっと入手して見たのだが、当時は舞台からの飛沫感染など、誰も考えもしなかっただろう。劇場ではいまや前2列を空けるのが世界的ルールになったというのに。
「社会的距離」というけれど
それから半月後には、アメリカはもちろん、世界中の人々がマスク姿で三ミツ(密接・密集・密閉)対策を意図するなど、ものすごい変わりようだ。アインシュタインが日本に来た関東大震災前年1922年(大正11年)の冬、火鉢を囲んで、ア博士が吹かすパイプの紫煙がなぜ渦を巻くのか、石原純と議論していた。紫煙は細かなコロイド状の粒子からなる。熱せられて上昇し、美しい輪を描く。ところで発話と共に吐き出される新型コロナ・ウイルスを含む飛沫は、水滴の重い成分は放物線を描いて落下するが、軽い霧状のコロイド成分は上昇して部屋に漂い続ける。おそらくかなりの人々が、テレビのニュースなどで特殊撮影の噴霧漂うさまを目撃させられただろう。コロナ騒ぎの現在では、物理談義をするより早く、扇風機を回して病原体を空気に乗せて追い払うことである。
このところわが国でも、聞き慣れない英語の「ソーシャル・ディスタンス」(social distance)やその訳語とおぼしき「社会(的)距離」という妙な学術用語が大流行だ。飛沫感染を防ぐために、対人の物理的距離を1.5メートルとか2メートルとかの間隔を取る、という意味のようだ。しかし英語圏の新聞を見ると、動詞形を使う「ソーシャル・ディスタンシング」(social distancing) が多い。
「ソーシャル・ディスタンス」という言葉は、アメリカ人が大好きな社会学の用語にもともとあって、コロナ対策の場合、それとは使い方が違うためらしい。各種の社会学用語事典を見ると、「社会的距離」は、個人と個人、個人と集団、あるいは集団と集団の間に見られる寛容性とか理解、親近性あるいは差別性の程度を表す。二者間の親近性・差別性は必ずしも対称的ではない。片思いや格差がしばしばある、とある。つまり従来の社会学では、「社会的距離」とは心理的文化的距離をいうのであって、相手に手は届きづらいが、容易に会話ができるというような空間的物理的距離を指すわけではない。
たとえば、『方丈記』の鴨長明は京都下鴨神社河合社の禰宜(ねぎ)職を一族と争い、敗れて隠遁生活を送った歌人なのだが、禰宜になれば殿上人(てんじょうびと)だが、昇殿できない地下人(じげにん)のままだった。こうした身分格差もこの「社会的距離」の一例なのだろう。身分格差と物理的距離について、もう一つ思い出した。もう20年ほど前の目撃談である。日本科学協会理事の一員として、私は、中国に古本を送る事業の立ち上げのため、中国各地の大学や図書館を回って学長や館長と面談した時のことである。北京市立図書館長との会見で、豪華な大部屋に通された。その中央には幅5メートル、長さ15メートルもの大テーブルがあって、館長らは正面中央に、われわれはそれに近い側面の席に着いたのだが、身分の低い説明者の司書はなんと15メートル彼方の末席にぽつんと座って、大声で説明するのだった。身分差が物理的距離に比例する一例である。共産党国家にも皇帝時代の風習が遺っているのだろう。
こんなことを綴っている内に、いわゆるパーソナル・スペースの問題について、昔読んだ本があったことに気づき、書庫から探し出した。『かくれた次元』という文化人類学者エドワード・ホールの本である。社会学者と違って、こちらの記述は明解である。
鳥類や人間を含む哺乳類には、棲むなわばりがあって、仲間同士が一定の距離を保つ。なわばりは動物の体の延長であり、視覚や音声、嗅覚などの信号によって印づけられている。人間も同じで、さらに有形無形の文化的記号によっても印づけられている。その人間の周りつまりパーソナル・スペースには、四つの見えない距離層、すなわち「密接距離」「個体距離」「社会距離」「公共距離」(訳書では「公衆距離」だが)がある、というのだ。
欧米人の場合だが、ハグしたり格闘したり手も繋げ、他者の存在がはっきり五感で捉えられる「密接距離」、手を伸ばしても触れないほどの距離から双方が手を伸ばしてやっと触れ、また遠ざけられもする範囲の「個体距離」(ここまでが双方から手足で仕掛けられる身体的支配と防御の限界)、相手の姿全体と目と口がはっきり見て取れ非個人的用件を処理する2―4メートルほど離れた「社会距離」(普通の声は届くが、失礼にならずに会話から逃避して自分の仕事もできる程度の社交的距離、パワハラはこの距離で見下ろすので威圧感が強い)、それからパーティなどの集会で注目人物の周りにできる4―7メートル以上の「公共距離」(多くは公式発言の声音になり、目の色、肌の色艶までは分からない。人気大統領ケネディの周りは半径10メートルの輪ができた)の四つである。
つまり、文化人類学的には「社会(的)距離」の用法は正しいが、社会学的には誤用になる、という話である。
まあ、こんなことをつれづれに思うのもコロナの所為でして‥‥。
【参考文献】
ライプニッツ「ペスト対策の提言――エルンスト・アウグスト公爵のための覚書」:「ライプニッツ著作集」第二期3巻『技術・医学・社会システム』(酒井潔・佐々木能章監訳、工作舎、2018年)pp.207−219、所載。末尾に4頁にわたって訳者・長綱啓典氏の解説が含まれる。
エドワード・ホール著『かくれた次元』(日高敏驕E佐藤信行訳、みすず書房、1970年刊)の第10章「人間における距離」を参照。