先輩研究者のご紹介(横山 エミさん)
[2020年07月27日(Mon)]
こんにちは。科学振興チームの豊田です。
本日は、2019年度に「特別支援学校における理療教育の史的分析 明治期からの点字図書を対象とした文献調査から」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、筑波大学附属視覚特別支援学校(以下、附属盲)所属の横山 エミさんから、助成時の研究について、コメントを頂きました。附属盲資料室の所蔵資料についての研究は、2018年度に共同研究者の飯塚 希世さんが、「明治〜戦前期の点字図書の調査及び書誌的分析」という課題で、助成を受けられております。
<横山さんより>
今回、笹川科学研究助成を受けて、附属盲資料室に所蔵されている点字図書の内、特に理療(按摩、鍼、灸)に関するものについて調査しました。
ところで、このブログを読んでくださっている皆さま、マッサージや鍼灸治療を受けたことはありますか?マッサージ師や鍼灸師の資格は、国家試験に合格して取得します。多くの視覚特別支援学校(以下、盲学校)には、職業教育課程として理療科が設けられ、国家資格取得を目指しています。そして多くの卒業生が、自分で鍼灸院を開業したり、病院や企業などに勤めています。国際的には視覚障害者が特定の専門的な技術を持って働くことは珍しく、現在、特にアジア諸国へ日本の盲学校教員が支援に訪れています。私もベトナムとインドの盲学校に、あん摩の指導をするために数度行った経験があります。
視覚障害者への理療教育の歴史は古く、1600年代までさかのぼります。盲人の鍼按家であった杉山和一(1610-1694)が、江戸に開設した杉山流鍼治導引稽古所に始まるといわれています。明治時代に入って、1880(明治13)年に開校した楽善会訓盲院(現 附属盲)では、翌1881(明治14)年11月には、按摩、鍼治の教育を始めています。
鍼灸は医療の近代化に反するという理由で1874(明治7)年の医制によって廃止になり、盲学校でも鍼治の教育を見合わせ按摩術のみになりました。しかし、西洋医学に基づいた鍼治も行うという方針で、1887(明治20)年に再び鍼治の教育が始まりました。そして、現在まで続いています。
このように長い歴史を持つ理療教育ですが、盲学校が始まった明治時代には、どのような教育がなされたのだろうか、生徒たちはどのような本を読んでいたのだろうか、などが私の関心事でした。そこで、現在附属盲の資料室に保管されている明治時代からの理療教育に関する点字図書を対象にして、点字図書が墨字(目で見て読むいわゆる活字)の図書をもとにしている場合その原本は何か、あるいは点字オリジナルで刊行されたものかを調査し、何を重視し、何を教育に取り入れようとしたか、何を文字で残そうとしたのか、当時の理療教育の内容を探ろうと考えました。
日本の点字は1890(明治23)年におおよその形ができましたが、1890年代前半からさっそく点訳が始まっています。その時代の理療関係の点字図書には、西洋医学の先端を行く解剖書や西洋から導入されて間もないマッサージの書、西洋医学に学んだ鍼治術の図書が多くありました。解剖学では、例えば今田束(つかぬ)(1850−1889)による『実用解剖学』、墨字原本は、戦前には医学生に最も多く使用され、初版1887(明治20)年以降何度も増刷、改版されている図書ですが、1894(明治27)年に点訳しています。また、日本にマッサージが導入されるきっかけとなったA. Reibmayr(1848-1918)の『按摩新論』(原題 Die Massage und ihre Verwerthung in den verschiedenen Disciplinen der praktischen Medicin)を1897(明治30)年に点訳しています(日本語訳墨字刊行は1895(明治28))。同時に、鍼治の古典である杉山三部書(杉山和一の三著作『療治之大概集』 『撰鍼三要集』『医学節用集』)なども点訳されていました。
これらの点字図書は、それぞれのページの上部に紙押さえの穴があることから、点字盤を用いて一枚一枚、一字一字、手で点字を打って書かれたと推察されます。各書に記録された製作年から、いずれの図書もかなりの短期間で点訳されたようです。あわせて、それぞれに製作者の名前が書かれていますが、その多くに卒業生の佐藤國蔵(1892(明治25)年3月按摩、1893(明治26)年3月鍼 卒)、田中生三(しょうぞう)(1897(明治30)年3月尋常科・鍼 卒)の名前がありました。佐藤國蔵(1867-1909)は山形の医師の家に生まれ、失明する前は医学を学んでいました。点字楽譜の表記法確立に尽力した人物として知られています。
また、点訳書の他にも、東京盲唖学校の奥村三策(1864-1912)、京都盲唖院の谷口富次郎(1867-1955)といった視覚に障害を持つ鍼治教育の担当教員が、西洋医学に裏付けられた鍼灸・按摩術の研究を行い、点字で刊行した図書もありました。これらの図書には、後に墨字に訳されて刊行されたものもあります。
調査を通じて、当時の先端の医学を取り入れながら、同時に鍼灸の古典も学んでいたこと、点字制定から日を置かず積極的に点訳を行っていたことがわかり、視覚障害当事者をはじめとする先人たちの視覚障害職業教育に対する篤い思いを感じました。また理療に関する歴史的な認識を深め広めることができました。
最後になりますが、ご協力下さいました皆さま、そして研究の機会を与えて下さいました笹川科学研究助成に感謝申し上げます。
*写真はいずれも筑波大学附属視覚特別支援学校資料室蔵
視覚障害者がマッサージや鍼灸治療の技術を学び、伝え、発展させるためには、点字が重要な役割を果たしていたのだと感じました。江戸時代から始まった理療教育が、更に発展するよう、今後も研究を続け頑張っていただきたいと思います。
日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本日は、2019年度に「特別支援学校における理療教育の史的分析 明治期からの点字図書を対象とした文献調査から」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、筑波大学附属視覚特別支援学校(以下、附属盲)所属の横山 エミさんから、助成時の研究について、コメントを頂きました。附属盲資料室の所蔵資料についての研究は、2018年度に共同研究者の飯塚 希世さんが、「明治〜戦前期の点字図書の調査及び書誌的分析」という課題で、助成を受けられております。
<横山さんより>
今回、笹川科学研究助成を受けて、附属盲資料室に所蔵されている点字図書の内、特に理療(按摩、鍼、灸)に関するものについて調査しました。
ところで、このブログを読んでくださっている皆さま、マッサージや鍼灸治療を受けたことはありますか?マッサージ師や鍼灸師の資格は、国家試験に合格して取得します。多くの視覚特別支援学校(以下、盲学校)には、職業教育課程として理療科が設けられ、国家資格取得を目指しています。そして多くの卒業生が、自分で鍼灸院を開業したり、病院や企業などに勤めています。国際的には視覚障害者が特定の専門的な技術を持って働くことは珍しく、現在、特にアジア諸国へ日本の盲学校教員が支援に訪れています。私もベトナムとインドの盲学校に、あん摩の指導をするために数度行った経験があります。
視覚障害者への理療教育の歴史は古く、1600年代までさかのぼります。盲人の鍼按家であった杉山和一(1610-1694)が、江戸に開設した杉山流鍼治導引稽古所に始まるといわれています。明治時代に入って、1880(明治13)年に開校した楽善会訓盲院(現 附属盲)では、翌1881(明治14)年11月には、按摩、鍼治の教育を始めています。
鍼灸は医療の近代化に反するという理由で1874(明治7)年の医制によって廃止になり、盲学校でも鍼治の教育を見合わせ按摩術のみになりました。しかし、西洋医学に基づいた鍼治も行うという方針で、1887(明治20)年に再び鍼治の教育が始まりました。そして、現在まで続いています。
このように長い歴史を持つ理療教育ですが、盲学校が始まった明治時代には、どのような教育がなされたのだろうか、生徒たちはどのような本を読んでいたのだろうか、などが私の関心事でした。そこで、現在附属盲の資料室に保管されている明治時代からの理療教育に関する点字図書を対象にして、点字図書が墨字(目で見て読むいわゆる活字)の図書をもとにしている場合その原本は何か、あるいは点字オリジナルで刊行されたものかを調査し、何を重視し、何を教育に取り入れようとしたか、何を文字で残そうとしたのか、当時の理療教育の内容を探ろうと考えました。
日本の点字は1890(明治23)年におおよその形ができましたが、1890年代前半からさっそく点訳が始まっています。その時代の理療関係の点字図書には、西洋医学の先端を行く解剖書や西洋から導入されて間もないマッサージの書、西洋医学に学んだ鍼治術の図書が多くありました。解剖学では、例えば今田束(つかぬ)(1850−1889)による『実用解剖学』、墨字原本は、戦前には医学生に最も多く使用され、初版1887(明治20)年以降何度も増刷、改版されている図書ですが、1894(明治27)年に点訳しています。また、日本にマッサージが導入されるきっかけとなったA. Reibmayr(1848-1918)の『按摩新論』(原題 Die Massage und ihre Verwerthung in den verschiedenen Disciplinen der praktischen Medicin)を1897(明治30)年に点訳しています(日本語訳墨字刊行は1895(明治28))。同時に、鍼治の古典である杉山三部書(杉山和一の三著作『療治之大概集』 『撰鍼三要集』『医学節用集』)なども点訳されていました。
これらの点字図書は、それぞれのページの上部に紙押さえの穴があることから、点字盤を用いて一枚一枚、一字一字、手で点字を打って書かれたと推察されます。各書に記録された製作年から、いずれの図書もかなりの短期間で点訳されたようです。あわせて、それぞれに製作者の名前が書かれていますが、その多くに卒業生の佐藤國蔵(1892(明治25)年3月按摩、1893(明治26)年3月鍼 卒)、田中生三(しょうぞう)(1897(明治30)年3月尋常科・鍼 卒)の名前がありました。佐藤國蔵(1867-1909)は山形の医師の家に生まれ、失明する前は医学を学んでいました。点字楽譜の表記法確立に尽力した人物として知られています。
また、点訳書の他にも、東京盲唖学校の奥村三策(1864-1912)、京都盲唖院の谷口富次郎(1867-1955)といった視覚に障害を持つ鍼治教育の担当教員が、西洋医学に裏付けられた鍼灸・按摩術の研究を行い、点字で刊行した図書もありました。これらの図書には、後に墨字に訳されて刊行されたものもあります。
調査を通じて、当時の先端の医学を取り入れながら、同時に鍼灸の古典も学んでいたこと、点字制定から日を置かず積極的に点訳を行っていたことがわかり、視覚障害当事者をはじめとする先人たちの視覚障害職業教育に対する篤い思いを感じました。また理療に関する歴史的な認識を深め広めることができました。
最後になりますが、ご協力下さいました皆さま、そして研究の機会を与えて下さいました笹川科学研究助成に感謝申し上げます。
*写真はいずれも筑波大学附属視覚特別支援学校資料室蔵
<以上>
視覚障害者がマッサージや鍼灸治療の技術を学び、伝え、発展させるためには、点字が重要な役割を果たしていたのだと感じました。江戸時代から始まった理療教育が、更に発展するよう、今後も研究を続け頑張っていただきたいと思います。
日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。