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「笹川杯作文コンクール2014」結果発表 [2015年01月06日(Tue)]
中国の若者の“感知日本”


 「笹川杯作文コンクール2014」(日本語版)は、優勝作品2点ほか16点の入賞作品を選定し、入賞作品全18を「人民中国雑誌社」webサイトを通じて公開しました。

 日中関係は、昨年11月、二年半振りに日中首脳会談が実現したとは言え、政治的には依然厳しい状況が続いていますが、当会は“こうした時期こそ民間交流”との姿勢で図書寄贈、「日本知識大会」、「作文コンクール」など様々な形で日中交流を継続し、日中友好の機運を若者の中から盛り上げてきました。

 とは言え、政治情勢には抗し難い影響力があって、当会の対中国プロジェクトにも少なからず影を落としてきましたが、「笹川杯作文コンクール-感知日本」も、そうした事業のひとつです。

 このコンクールは、当協会、中国青年報社、人民中国雑誌社が2008年から共催している日中交流事業で、中国語版と日本語版の2つの「コンクール」を併行して行うことにより、より広範な中国の若者の日本理解を図ってきました。

 しかし、中国青年報社を通じて開催している中国語版「コンクール」については、残念ながら開催見送りとなり、2013年度に続いて2014年度も、人民中国雑誌社を通じて行う日本語版「コンクール」の単独開催となりました。

 今年度のコンクールは、5月に募集を開始し、10月末に締め切りましたが、中国全土から合計1,879点の応募がありました。尖閣問題の影響を色濃く受けた2012年度の応募数は778点でしたが、昨年度は1,727点、そして今年度は約1,900点と順調な回復が見られ、来年度に向けて明るい兆しとなりました。

 本年度の全応募作品を対象に厳正な審査を行い、入賞作品18点を決定し、12月19日、「人民中国」webサイトで公表しました。

 優勝に輝いたのは、南京郵電大学外国語学院の曾スイスイさんと黄岡師範学院の章エンエンさんです。

 この「コンクール」の応募者の多くは、日本語を学び、日本語との関わりの中で将来像を描いている若者たちであって、2011年以降、日中情勢が、彼らに少なからぬ困難をもたらしてきたことは間違いありません。

 こうした状況の中で、この日本語版「コンクール」が、中国の日本語学習者にとって、日本語学習の励み、心の支えになったのなら、この「コンクール」を継続してきた意味は非常に大きいと思います。

 日中関係の膠着状態が続く中、民間交流の意義について、当会と認識を共有し、本年度のコンクールを重視してこられた人民中国雑誌社、そして多くの大学関係者の方々に深い敬意を表したいと思います。

 また、並々ならぬ熱意をもって「コンクール」の開催に尽力し、応募作品の回復に貢献された人民中国雑誌社の孫立成主任には、深く敬意を表したいと思います。

 今回は、優勝作品2点を紹介しますが、他の入賞作品も、「人民中国雑誌社」webサイトからご覧いただけます。

 中国の若者が日本語で綴った“感知日本”を感じ取っていただければと思います。日本語の原文をそのまま掲載しています。
 
★2014年度のテーマ:「日中関係の行方」


南京郵電大学外国語学院 日本語科4年 曾スイスイ

中日関係の行方


1.jpg 「誠に日に新たにせば、日々に新たにして、また日に宇宙万物新たならん」。これは中華民族の重要な思想である。過ぎた日々に向かうのではなく、中日関係も新しい方向へ進んでいくことが大事だと思う。また、日本には「信無くば立たず」という言葉がある。信任を得るには、相手の考え方と心が分からなければならない。「理解」が必要だということである。理解は友好往来の礎石だと言えよう。中日関係が安定した方向へ向かうためには、理解の礎石を固める必要がある。

 この場合の「理解」とは、仲が良くて、何事もなく平穏無事に付き合うということではないと思う。真の「理解」とは、二つのギアが摩擦を利用して噛み合うように、すり合わせるうちに、より遠い未来へ進むということだろう。

 大学三年生の時、日本紫金草合唱団の訪中公演に行ったことがある。合唱団の名前である「紫金草」の花は、中国では二月蘭と呼ばれている。戦争時、日本軍衛生材料工場長であった山口誠太郎さんが、中国の紫金山の麓で花の種を摘み取り、日本に持ち帰って、「紫金草」と名付けた。戦後、山口さん一家及びその子孫たちは、戦争への反省と平和への祈願を籠めて、この花を日本各地にまいた。そして、紫金草は平和を象徴する花として、中日両国の人々に愛されるようになったのである。合唱団は「紫金草」を冠して、「歌がすき 花がすき 平和がすき」という気持ちを携えて、数回中国を訪れ、公演をしている。

 会場に行って驚いたのは、合唱団の方々が皆お年寄りで、しかも重病を患っておられたことだった。身体に支障をきたしていても、平和の大切さを伝えるために、団員のみなさんは千里の道も遠いとは思わず、足を運んで、そして心を込めて歌を歌っているのだった。合唱が流れると、その歌声はもう単なる音ではなく、継続する精神力であり、澄みきった泉の水のように聴衆の心の田を潤わせている気がした。私はその音声から伝わってくる合唱団の人々の思いに強い衝撃を受け、心を奪われて、心臓がドキドキした。

 「南京虐殺事件を通しての議論で、日中関係がぎくしゃくしているこんな時だからこそ、紫金草を通して知った中国南京の人々の悲しさや、日本人として私達が学んだことを伝えるべきです。」と一人の団員は言われた。その言葉には中国人への理解が含まれていると感じた。その誠心誠意の姿に深く感動したと同時に、歴史を直視する態度と平和を求める真心に感銘を受けた。

 プログラムの最後に、私は学生代表の一人としてとして、合唱団と合同で「平和の花 紫金草」を歌った。そのとき見た楽譜集には、中国語のメモがぎっしりと書かれてあった。日本語科の学生である私は、ほかの国の言葉を習うことが簡単なことではないと知っている。まして年をとってからはなおのこと。私は合唱団のみなさんが中国を愛している気持ちをその譜面に感じながら、一緒に歌を歌った。

 歌も言葉も交流の橋だ。その橋を渡り、互いの心が通じ合えば、距離が縮まり、互いの好意が分かる、とその時私はそう思った。お互いを理解することが、強い共鳴を引き起こし、共に感じられる温かさが生まれる。合唱団の方々の真心がこもった活動は、中国人の心の鏡に映って残っていくにちがいない。

 戦争中、二月蘭が中国から日本へ渡り、紫金草として日本に根付き、その名前の合唱団が、中国南京で戦争への反省と世界の平和を願う活動を行ない、南京の学生と合唱している。このような事実がある限り、中日友好の未来は明るいと信じたい。
たとえ現在、中日両国の間に様々な不和や反目があるとしても、この不和や反目はただ中日の政治上の不協和音にすぎず、民間の友好往来という主旋律を乱すことはできない。今、私たちがすべきことは、未来に目を向け、交流を密にして、理解の輪を広げ、全体の和音を作り上げていくことである。

 中日の関係が、「信をもって 誠に日々新たにする」ものとなることを強く願う。そのためには、民間のコミュニケーションの機会がなによりも必要であると考える。文化交流により、心と心とをつなぎ、そこで心と心の距離が縮まれば、中日関係が新しい方向へ進んでいく日は近づいてくるだろう。

 日本紫金草合唱団と南京の大学生の交流活動のように、中日の人々で手を携えて、理解をし合い、新たな未来を切り拓くために、私も平和を伝える活動を広めたい。それを目標に、私は日本語科の学生として、卒業後も、より多くの中日両国の人々がお互いの文化や考え方を伝え合えるよう、ほんの少しでも力を尽くしたい。



黄岡師範学院外国語学院日本語科4年 章エンエン

公共マナーと中国人


2.jpg 近年、中国人は海外へ旅する時、様々な無作法な振舞いが度々国内外の各新聞紙に報道され、時にはトップ記事にさえなることがある。「お静かに」「芝生に入るべからず」など中国語だけで示されている警告表記は、中国人の海外旅行の主な目的地であるフランス、ドイツ、日本、タイやシンガポールなどの国でよく見かける。そして、近年急増している大量の観光客は中国の新たな輸出品だと言われるようになった。と同時に、ポイ捨て、割り込み、汚い言葉遣い等々ネットで募集される「海外旅行によく見かける行為」の中で、中国人の一部の観光客の行いはほぼ全リストを占めている。いつの間にか、そのマナーの悪さで「中国人」は「礼儀知らず」「行儀悪い」の代名詞となった。中国人は皆育ちが悪いとは言い難いが、お行儀が悪いというラベルを張り付ける人は他人ではなく、ご本人だということも争いのない事実だ。

 なんと悲しい事実だろう。中国は古くから「礼儀の邦」と称される世界の四大古代文明国の一つである。いったいいつからこの四文字はマスコミが皮肉に用いる専門用語になったのだろう。
人間は怠けものだ。社会性を獲得する前には、生きるための本能というものがある。私から見れば、公共マナーというのは、生き物がその本能を抑圧し、理性に基づいて物事を判断する行為の塊である。トイレで小便を済ませてから水を流しないこと、食事前に手を洗わないこと、列に並んだことに耐えないことなど、これは殆ど人間が生き物としての本能によって発する行為だと考えられる。面倒だからやりたくない。そして自分を守るために楽な立場に逃げるという自己防衛本能でもある。周囲の人間と違うと不安を感じ、他人との矛盾を免れるためにむりやりに自分を周囲に同調させ、漸次自分も環境に適していき、或いは環境に同化される。

 公共意識の欠如、その原因は赤ん坊に対して排泄習慣の訓練不足にあると主張する学者がいる。中国には、幼児に股が割れているズボンを履かせるという伝統的な習慣がある。それで子供が心に深く自分を放任する根を下ろし、その後礼儀を守らない理由の一つになるそうだ。その話に遡ると、今日の中国では、一人っ子政策の実施で出生率が低下しているに関わらず、人口の過剰は依然として深刻な社会問題になっていることが分かる。人口過剰と共に、国民教育不足の問題も生じる。公共意識に関する教育の欠如は、一部の国民の無作法行為を招くと言っても過言ではないだろう。これは今流行っている少人数クラスでの授業と同じである。人数が減ったから、管理に都合が良い。対応策をもっと簡単に、確実に実行に移せると思われる。

 今や中国の民衆はすでに、中国が背負っている「世界大国」の責任を自覚し、国民の素質を向上させるのを不可欠の一環とするにほかならないことに多少気づいているだろう。中国の政府側も民衆の国際認知度を上げることに力を注いでいる。二十一世紀に入ってから、数え切れない公益広告が現れ、様々な教育方案が次から次へと発表される。ところが、周囲の環境を変えるだけで、本当に現状は変えられるのだろうかと、私はずっと疑問に思っている。為せば成る。人は結局社会的な生き物だ。理性で自分をコントロールできる生き物だ。小事は大事。普段から細かいところに執着をみせ、少しずつ積み重ねて自分の物事への取り扱い方を変える。そして、堆積は習慣となる。人は羽化し、生き返る。

 ナポレオンが曰く、「中国は眠れる獅子だ」ということ。一度目覚めたら世界を揺り動かす。私たち新しい世代はまさにその覚醒の鍵を持っている。夜空をもっと輝く美しく見えるには、後ろに飾っている星一つ一つの努力が欠かせない。自分と仲間を照らす星にでもなれ。中国の未来はそこにある。

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