中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第6回入賞作品他―B
[2009年12月09日(Wed)]
空手サークルと大学時代
甘粛省 陳賀廉
空手道に触れた2年近い時間は、一生忘れることはないだろう。
2年余り前、私は蘭州大学に進学し、内蒙古自治区のフフホト市から甘粛省に来た。地域文化などの違いから大学生活にすぐには馴染めなかった私は、学内でとても寂しく過ごしていた。私は、ずっと「憧れていた大学生活とは、どこに“隠れる”かということだったのか?」と自問してばかりいた。
ひょんなことから、私は学内の空手サークルと出会った。私は小さい頃から痩せていて弱々しく、大学に入ってからもずっと体調は余り芳しくなかった。同じ寮の杜君が、空手サークルに参加するように提案してくれたので、ちょっと試してみるかと思い、私は空手サークルに入った。空手サークルに参加して最初の指導で、空手は元々“唐手”―つまり、“中国に源を発する武術”の意味−と呼ばれていたことを監督から教わった。。500年前、古来の格闘術と中国から日本へ伝わった拳法とが混ざり合って成立したのだという。空手が中華の武術とこれほど深い縁があることを知り、私は空手を学ぶ決意をした。こうして空手とともに過ごす大学時代が始まったのである。空手の初歩的な技術を練習するところから始まり、今では自分が学内空手サークルの会長を務めている。私は多くの空手の技を習得したが、得るところがより大きいと感じるのは、空手の精神をある程度味わえたことである。
思うに、空手は個人の身体や技能の鍛錬ではなく、一種の精神の試練である。空手には真、善、美に関する極めて深い論理が含まれており、実質上、動態の禅なのである。
サークルの皆も、私の空手に対する解説と悟りは、私自身の空手の技巧より遥かに強く表れていると感じている。実際、私が空手を学んだ時間はとても短い。会長選挙には勝ったが、それは、技が他の人より強かったからではない。空手サークルへの興味が強く、空手文化に対する理解が深いというところを先生が見ていたからである。そのため、サークルでは、空手文化に対する理解と伝承に力を入れ、動作の訓練に終始しないように努めてきた。
この過程で私は多くの人と知り合った。私と同じように空手と空手文化に強い情熱を抱いている人たちである。彼らは私から空手文化についての解説を聞くと、進んで私の友達になろうと言ってくれた。その理由を聞くと、答えは大同小異で「空手そのものより空手の文化を好む人は、仁徳のある人だから。そういう人と友達になれば、気持ちが落ち着く。」というものだった。そのため、空手サークルを通じて私には専攻の異なる友人がたくさんできた。彼らは、このサークルの一人一人のメンバーを“空手の人”と呼んで楽しんでいた。毎週、“空手サロン”の時間になると、空手の人としては、どう身を処すべきかについて皆で語り合った。サークル内で、道士の世界よりも静寂な内心の世界を得てしまう者さえいた。前会長である陳先輩は、私に会う度、「廉君、君は実践重視のサークルを頭でっかちにしたうえ、こんなにたくさんの学生を引き付けておくとは理解し難いな!」と声を掛けてきた。私の答えは「先輩、そういう含みのある褒め方こそ、まさにある意味で空手文化の表現ですよ。」である。言い終わるなり、二人で納得して笑ったものでる。
二年が過ぎたが、空手サークルへの愛は全くすり減ってはいない。空手サークルは、サークル史上初めて“蘭州大学サークルベスト10”に入った。優秀サークルコンテストで、私は「陳先輩の言うように、サークルは、実践重視から理論重視に移行する時になって初めて、人の心へ入っていくことができる。一個人が一サークルを文化的に認めたら、その人はそのサークルに対して十二分の情熱を持ち続けることができる。」と発言した。
この頃を振り返ると、空手サークルに関わっていた隙間にこそ、私の最もすばらしい大学時代が潜んでいたことに気付いた。私の大学時代は、空手サークルによって永遠に忘れ去ることができないものになったのだ。
日本の発明工夫コンテストに参加して
北京市 張鳳香
笹沼女史は、今や私のアイドルだ。
洗濯機の使用が終わる度、糸くずを集めるそのポケットを取り出しては掃除している。戻すのを忘れて、洗い上がった衣服が糸くずだらけになったことがある。こうして日本では“横綱級の市民発明”であるポケットとその発明者である笹沼女史を知った。
日本に発明や工夫の土壌があることは知っている。多くの主婦が発明や創造に熱中しており、笹沼女史はそうした中でも優れた人物なのである。私は彼女を尊敬している。彼女のようになりたいと夢見ていた。
程なく、期せずして私の発明の夢が実現した。先日、姪の面倒を見ることになり、こうしたことは経験したことがなかったのだが、子供はすぐ布団を蹴り出してしまうので、私は、一晩中布団をかけなおしてやらなければならなかった。そうして何日か過ごすうち疲れてしまった私は、何人かの身内に聞いてみた。すると、「子供が布団を蹴り出したら、かけてやればいい」と皆が言うのだ。参ってしまった。将来、子供ができたら、またこういうことになるのか。どうすればいいのか、方法を考えないと。ある日、夫とその話をしていた時にふとインスピレーションが湧いた。その時の思いつきが結果的に初めてのミニ発明、子供の布団蹴り出し防止装置となったのだ。
笹沼女史が自分のミニ発明に興味を示した人に譲渡し、実現化を任せていたことに倣おうかと思っていたが、実際こんな簡単な工夫は譲渡などし難いし、今のところミニ発明の商品化に適したルートもない、と夫に言われてしまった。
私の失望した様子を見て、日本語のできる夫が機転を利かせてくれた。日本の発明工夫コンテストに参加したくないかと聞いてくれたのだ。夫によると、日本では政府から民間までがミニ発明を支持しており、毎年「くらしの発明展」などの発明工夫コンテストが定期的に開催されている。多くの女性が自分のミニ発明を商品化して社会に貢献するということを奨励しているのだそうである。夫は、日本発明学会(笹沼女史が発明の譲渡に成功した機関)主催の「身近なヒント発明展」を勧めてくれた。
実際、コンテストに参加するということは、案外大胆な発想であると私達も思っていた。事前に検索して調べてみたところ、幼児が布団を蹴り出し防止に関する特許は、中国と台湾を合わせて100件以上もあるが、日本などの国のデータベース上には見つからなかった。このため、幼児が布団を蹴り出すのを防ぐというのは中国人特有の育児文化と関連しているのではないかと思ったのだ。こうしたテーマで日本のコンテストに参加するのは恐れ知らずという感じがする。だが、私達は参加してみることに決めた。
「身近なヒント発明展」は、本来、日本人しか対象にしておらず、外国人である私達が参加するのは多少困難なところがあった。何度も努力してみたものの無駄に終わるかと思っていたころ、思いがけず学会から参加資料が届いた。しかも、資料費用500円が免除されていた。
私は要項に従い、参加締め切りの2009年7月31日までに参加書類を送付した。コンテストの結果は期限どおり9月初めに公表され、私にも9月11日に選外通知が届いた。その通知から、参加書類の受理日が平成21年8月4日で、受理番号が6−145であったことが分かった。
その間、大いに考えさせられる出来事があった。8月のある日、またしても思いがけず発明学会からの手紙を受け取った。そこには50円切手が2枚入っていた。実は日本にいる友人に頼んで3,000円余りの参加費を払ってもらっていたのだが、コミュニケーションの問題から返信用切手代を100円分多く払っていたのだ。発明学会のまじめな事務局員が、余分な返信用切手代を返してよこしたのだった。私はその手紙の送料が100円を超えていることに気づいた。私達は、学会事務局の全く抜かりのない仕事ぶりに深く感動し、強い信頼を覚えた。私達の発明がもっと“ミニ”であっても、きっと彼らは真摯に向かい合ってくれるだろう。
私も夫も日本へは行ったことがない。コンテストに参加するという“近距離”の接触により、私達の日本に対する理解が深まった。日本人のまじめさ、熱心さ、研究心、規範意識が、深く印象に残った。より感心したのは、主婦がミニ発明に参加することを積極的に促進すれば、本人達の聡明な知恵を発掘できるばかりか、子女の教育にも計り知れないプラスの影響を与えることができるということである。考えてみよう、“発明家”の母を持つ子供がスタートラインでどれだけリードできているかということを。
夫は、今後も機会があれば日本の“発明コンテスト”を中国の発明家に紹介したいと望んでいる。私はと言えば、またミニ発明を考え出し、もう一度日本のコンテストに参加したいと思っている。
教育・研究図書有効活用プロジェクト室
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ブロックを拝見させていただきました。
訪日の八日間、大変楽しく過ごしてきました。
日本科学協会の皆様、ありがとうございました!
美しく珍しい思い出になれたばかりじゃなく、
これからの仕事か勉強に励んだパワーも激増!
中日友好のために、精一杯頑張る!