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〜新型コロナ感染症を考える〜「感染症と宗教の長い歴史」正木晃先生 [2020年05月20日(Wed)]
 科学隣接領域研究会では、研究会メンバーの先生方からの「新型コロナウイルス感染症」に関する寄稿をご紹介いたします。最初は正木晃先生(専門:宗教学)から「感染症と宗教の長い歴史」です。

「感染症と宗教の長い歴史」
正木 晃
〜致死率〜

 新型コロナウイルスによる肺炎が世界中をゆるがしています。全地球的な規模で人と物往来が禁じられて世界中が鎖国状態になり、経済にも甚大な影響をあたえています。
 ほんの少し前まで、こんな事態になるとは、誰も予想していませんでした。ネット上には「こうなると思っていた!」とか「だから、言ったじゃない!」的なことも書かれていますが、どれも具体性はなく、所詮は後知恵のたぐいです。少なくとも、政治や経済の専門家が具体的な警告を発していた形跡は見当たりません。
今回の新型コロナウイルスによる肺炎の致死率(死亡症例数/感染症例数)そのものは、地域によって大きく異なりますが、全世界の平均的な致死率が5%を超えることはなさそうですので、感染症としては決して高いとは言えません。過去には致死率がはるかに高い感染症が、いくたびも人類を襲っています。
ほぼ一〇〇年前の一九一八年一月から一九二〇年一二月にかけて、世界中を恐怖におとしいれたスペイン風邪は、当時の全人口の四分の一が罹患し、最少で一七〇〇万人、最大では五〇〇〇万人が生命を奪われています。アメリカでは平均寿命が一二歳くらい低下したそうです。
 日本でも大流行し、最新の研究では四五万人から四八万人もの方が亡くなっています。このころの人口は五六〇〇万人くらいですから、現在に換算すると、一〇〇万人もの死者が出たことになります。
 スペイン風邪の病原体はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)でしたが、それが判明したのは一〇年以上も後の一九三三年で、当時はまだ不明のままでした。ちなみに、このときのインフルエンザウイルスは、それまで人間は罹患しなかった鳥インフルエンザウイルスが突然変異し、人間も罹患するようになったことがわかっています。つまり、当時の人々にとっては未知の感染症(新興感染症)であり、誰も免疫をもっていなかったために、大流行したと考えられています。この点は、今回のコロナウイルスと同じです。
 近年の例をあげれば、二〇〇二年一一月一六日に、今回と同じように、中国南部の広東省で発生したSARS(サーズ)コロナウイルスによる全身性の感染症(重症急性呼吸器症候群)の致死率は一四〜一五%に達していました。
 二〇一四年二月からギニア、シエラレオネ、リベリアなど、西アフリカの諸国で流行したエボラ出血熱は、感染疑い例も含め二八五一二人が感染し、一一三一三人が死亡したといいますから、致死率は四〇%前後もあったのです。原因は野生動物を食べたことにあるようです。
 まだ確定はしていませんが、今回の新型コロナウイルスによる肺炎はコウモリ、SARSはハクビシン、エボラ出血熱はコウモリが疑われています。HIV(エイズ)も、サル→チンパンジー→人間という説があります。すでに述べたとおり、スペイン風邪も鳥インフルエンザに由来していますから、動物たち、とりわけ野生動物たちとのかかわりは、ひとつ間違えると、人類全体に致命的な脅威をもたらす可能性をつねにはらんでいます。

〜天然痘の猛威〜

 歴史をさかのぼると、凄まじい事例がいくつも見出せます。天然痘(疱瘡)の致死率は、平均で二〇〜五〇%ときわめて高かったようです。「高かった」と過去形で書けるとおり、幸いなことに、天然痘は人類史上初めて撲滅に成功した感染症ですが、治癒しても醜い瘢痕(あばた)が残ってしまうこともあって、かつてはひじょうに恐れられていました。 
 たとえば、明治時代を代表する大作家の夏目漱石も罹患者の一人でした。正確を期すと、漱石の場合は、三歳のころに、受けた種痘(天然痘の予防接種)がうまくいかなかったようです。可哀想に天然痘に罹患してしまい、かゆみに耐えかねてかきむしったせいで、鼻の頭に痘痕が残ってしまっていたのです。周囲から「一つ夏目の鬼瓦」と嘲笑されたこともあって、終生のコンプレックスになるほど気にしていたらしく、顔写真を撮らせたときは、必ず修正させていたといいます。
 一六世紀の前半期に、南米のインカ帝国が滅亡した原因も、じつはスペインの軍事力ではなく、天然痘だったと推測されています。わずか一六八名の兵士と大砲一門に馬二七頭というスペイン軍の力では、いくらなんでも無理です。ところが、スペイン人によって持ち込まれた天然痘は、免疫をもっていなかった人々に襲いかかり、わずか数年間でインカ帝国人口の六〇〜九〇%を死に追いやってしまったのです。
 一八世紀の中頃のアジアでも似たことが起こっています。清にとって最大の抵抗勢力だったオイラト(モンゴル西部の遊牧民集団)が、清の軍隊による制圧にくわえ、かれらによって持ち込まれた天然痘の蔓延によって、ほぼ絶滅してしまいました。

〜仏教と天然痘はいっしょに伝来〜

 日本でも何回も大流行して、歴史を大きく変える原因になったことすらあります。天然痘は典型的な外来の感染症で、朝鮮半島を経由して大陸との交流が盛んになった六世紀の中頃に、最初の大流行がありました。
 六世紀の中頃といえば、欽明天皇の時代に、日本に朝鮮半島の百済から仏教が伝えられた時期と重なります。不幸なことに、その直後に得体の知れぬ感染症(疫病)がひろがり、多くの人々が死にました。このときの感染症の正体は、『日本書紀』の「瘡(かさ)が出て死ぬ者があとを絶たない。その死にざまは生きながら焼かれるようであり、その痛苦は打たれて粉々にされるようである」という記述から、天然痘の可能性が指摘されています。
 つまり、仏教は天然痘といっしょに、日本に伝来したらしいのです。この未曾有の事態に、物部氏を中心とする勢力は、外来の仏教を受容し古来の神々をないがしろにした神罰だと強硬に主張し、廃仏派に立場から、蘇我氏を中心とする仏教の受容に熱心な勢力を崇仏派とみなし、激しく対立したというのが通説です。
 ただし、近年の研究では、物部氏を中心とする勢力も仏教そのものを否定していたわけではなく、私的に崇拝することは認めていた証拠が出ています。かれらは、蘇我氏を中心とする勢力が、仏教を国家祭祀の対象とすることに反対していたのにすぎないから、廃仏派という表現はあたらないとみなす研究者もいます。また、蘇我氏も神事を軽視していたわけではないことも明らかになっています。要するに、単純な廃仏・崇仏という問題ではなく、その裏に政治的な権力闘争がかかわっていたので、騒動が拡大したというのが実情のようです。
 さらに重要な事実は、このころの支配階層の人々は、仏教を外来の霊験あらたかな神々を祀る宗教と理解していた点です。当時の用語でいえば、「蕃神(あだしくにのかみ)」あるいは「今来神(いまきのかみ)」です。つまり、仏教の理念や思想はほとんど理解できず、もっぱらご利益を期待できる神々の宗教として受けいれようとしていたのです。もっとわかりやすくいえば、古神道vs.仏教という対立ではなく、日本在来の神々崇拝vs.新来の異国の神々崇拝をめぐる対立だったのです。
 ともあれ、欽明天皇も最有力の軍事氏族だった物部氏の主張は無視できず、やむなく仏像を破壊し、寺院を焼却することを黙認しました。ところが、今度は欽明天皇の皇居が、青天で雷も鳴らなかったのに、突如として火災を生じてしまいました。この事態に欽明天皇はかなりうろたえたようで、今の大阪湾に流れ着いた霊木から仏像を彫らせ、吉野の寺に祀らせたりしています。このとおり、態度がふらふらしていて、どうやら定見はなかった様子です。

〜天然痘が東大寺の大仏をつくらせた?〜

 そうこうするうちに欽明天皇は崩御し、敏達天皇が即位しました。敏達天皇はどちらかというと、仏教に否定的だったようです。敏達天皇一四年(五八五)に、蘇我馬子が寺を建て仏を祀ると、時を置かず、疫病が発生したため、物部守屋の献言を採用して、仏教禁止令を出し、仏像と仏殿を焼却させています。
 すると、天皇自身が感染症に罹患し、薬石効なく、まもなく崩御してしまい、実子がいなかったので、異母兄弟の用明天皇があとを継ぎました。このとき敏達天皇を死に至らしめた感染症も、天然痘だった可能性があります。
 用明天皇は、先代の敏達天皇とちがって、仏教に好意的な政策を展開しました。ところが、用明天皇もまた、在位わずか二年足らずで天然痘に罹患し、あっけなく崩御してしまったのです。これは、仏教に対して好意的であろうが否定的であろうが、まったくおかまいなく、天然痘が人々を苦しめつづけていた証拠です。
 用明天皇のあとを継いだのが、妹の推古天皇、その推古天皇の摂政として活躍したのが聖徳太子です。蘇我氏と聖徳太子が、敵対していた物部氏を滅亡させ、日本に真の意味で仏教を定着させたことは、ご存じのとおりです。
 しかし、天然痘の脅威は、まだまだ続きました。奈良時代中期の天平年間(七三五〜七三七)に大流行したときには、総人口の二五〜三五%に相当する一〇〇〜一五〇万人が死亡したと推定されています。さらに政権中枢にいた藤原氏の四兄弟が相次いで死去し、その間隙を縫うように、政敵だった橘諸兄が政権を握ったのでした。当時の常識では、こういう惨事が起こる原因は、為政者に徳がないからとみなされていました。責任を感じた聖武天皇は仏教にあつく帰依し、仏教による救済を願って、東大寺の大仏建立を思いたったのです。ですから、天然痘の大流行がなければ、東大寺の大仏は造立されなかったかもしれません。
 もっとも天平年間の大流行は、日本人のかなりの部分に天然痘の免疫を獲得させた形跡があり、以後は、天平年間ほどの大流行は起こりませんでした。文字どおり、「禍福はあざなえる縄のごとし」です。新型コロナウイルスについても、人口の大半が罹患して、免疫を獲得できれば、普通のインフルエンザ程度の感染症に落ち着くといわれていますが、いったいいつになるのか、それが大問題です。
 
〜ペストが宗教改革をもたらした?〜

 感染症が宗教にあたえた影響という点で、最も有名な事例の一つは、一四世紀の中頃から一五世紀の初め頃に、ヨーロッパをゆるがせたペストの大流行です。ペストには何種類かあるが、中でもリンパ節が冒される腺ペストは、致死率が六〇〜九〇%に達します。主にペストに罹患した人間あるいはクマネズミについたノミによって媒介され、全身の皮膚が内出血によって紫黒色になるので、「黒死病」とも呼ばれ、非常に恐れられました。
ヨーロッパでは一三四八年〜一四二〇年にかけて大流行し、域内全人口の三〇〜六〇%が死亡したと推定されています。このときの大流行は、いわゆるグローバリゼーションがもたらしたのではないか、という説も提示されています。
 このときのグローバリゼーションは、「モンゴルによる平和(パックス・モンゴリカ)」よって実現しました。北アジアの片隅から勃興した騎馬民族のモンゴル族が、チンギス・カンをはじめとする優れた指導者にひきいられた強大な軍事力を背景に、すこぶる短期間に、東は中国から西はヨーロッパまでを支配下に置いた結果、ユーラシア大陸をかつてなかったくらい自由に行き来できる情勢が生まれたのです。
 ただし、その展開は良いことばかりではありませんでした。ペストに罹患した人間やクマネズミについたノミまでが、東西を自由に行き来できるようになり、もともとは中央アジアで発生したペストがユーラシア大陸の全域に広がってしまったらしいのです。
このときは、世界の総人口四億五〇〇〇万人のうち、約一億人が死んだと推計されています。その衝撃は甚大で、社会構造を激変させたほどでした。東アジアでは、モンゴルが建国した元の人口が三分の一にまで減少してしまい、滅亡の一因になったという研究があります。
 ヨーロッパが受けた衝撃はもっと激烈でした。なにしろ三〇〜六〇%が死亡したというのだから、当然です。人口の減少は労働人口の減少を招き、農奴に頼っていた荘園制が成り立たなくなりました。地域によっては、農業の中心が人手のかかる穀物生産から、人手のあまりかからない羊の放牧に移行しました。ユダヤ人のせいでペストが流行したというデマが各地で広まり、ユダヤ人に対する迫害が横行しました。魔女狩りも始まりました。
 しかし最大の影響を受けたのは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会だったのです。これほどの悲劇を前に、何もできなかったという人々の声が、カトリック教会の権威を根底からゆるがしたからです。ペストの大流行から一〇〇年を待たず、カトリック教会に叛旗をひるがえす宗教改革運動が勃発し、プロテスタントが誕生したのは、決して偶然ではありません。

〜ハンセン病も梅毒もグローバリゼーションの副産物〜

 ペストが大流行する前はハンセン病が、大流行していました。ハンセン病はもともとは熱帯地方の病気だったようですが、聖地エルサレム奪回に出掛けた十字軍がエジプトあたりから持ち帰ってしまったらしいのです。
日本でもハンセン病は、現代までつづいた難病でした。『日本書紀』巻廿二を読むと、早くも飛鳥時代に、ハンセン病と思われる記述が見出せます。推古天皇元年(593)に、聖徳太子が飛鳥に『四天王寺四箇院』を建立しているのです。
 以来、奈良時代から鎌倉時代まで、ハンセン病の援助はもっぱら仏教によってになわれていました。大阪の四天王寺は、中世以降、ハンセン病に罹患した人々があまた暮らしていました。中世を代表する物語の『小栗判官』は、そのころ「業病」とみなされていたハンセン病に罹患した主人公が、熊野権現と熊野の温泉のおかげで病を癒したという内容であり、一遍を祖とする時宗の僧侶たちによって創作され、語り伝えられてきた歴史があります。
 ペストの次に大流行したのは梅毒でした。この病気は、アメリカ大陸の先住民のあいだに存在していた感染症と推測されています。欧米人で初めてアメリカ大陸を発見したとされるクリストファー・コロンブスの率いた探検隊員が、アメリカ大陸に上陸した際、原住民の女性と交わって感染し、スペインに持ち帰ってしまったようです。
 その後、イタリア征服に出掛けたフランス軍の傭兵としてイタリアに駐留したスペイン兵が、フランス兵に感染させ、そのフランス兵がアルプスの北方に持ち帰り、さらに大航海時代の波に乗って、またたくまに全世界に広まってしまったのでした。ということは、これもグローバリゼーションの副産物にちがいありません。
 日本には戦国時代の後期に、いわゆる南蛮貿易の担い手として渡来したポルトガル人やスペイン人によって持ち込まれ、またたくまに広がりました。黒田孝高(官兵衛)をはじめ、加藤清正、前田利長、浅野幸長など、戦国時代を代表する武将たち梅毒で死んでいます。
 江戸時代から明治前半期まで、日本人の死亡原因の第一位は梅毒だったという説があります。「お医者様でも、草津の湯でも、惚れた病は治りゃせぬ」とうたわれた群馬の草津温泉が大いに繁盛した理由は、ほんとうはハンセン病と梅毒に効くとされたからでした。江戸は男女比が五:三と、男性が圧倒的に多かったこともあって、遊郭や色街、あるいは岡場所と呼ばれる性愛中心の娯楽の場が発達し、梅毒の感染源になっていました。そのため、町民の大半が罹患していたという説すらあります。
 かつて「国民病」とか「亡国病」と呼ばれて恐れられた肺結核の蔓延は、むしろ明治維新以降の近代化の過程で生じています。劣悪な環境下における人口の密集化、工場や軍隊への大規模な動員などが、蔓延の原因でした。この点では、今回の新型コロナウイルスによる肺炎と共通する要素があります。

〜病気治療と宗教の栄枯盛衰〜

 以上にあげた実例のとおり、宗教の栄枯盛衰と病気、とりわけ感染症の大流行と、切っても切れない関係にあったことは、歴史が証明しています。結論から先に言ってしまえば、宗教は病気を癒すことによって繁栄し、逆に病気を癒やせないことによって衰退してきたのです。
宗教が病気を癒すことによって勢力を拡大した実例は、開祖や聖人と呼ばれた人物の多くが、病気治療によって有名になった事実から証明できます。たとえばイエス・キリストの言行録ともいえる『新約聖書』を読むと、イエスは多くの人々を病気から救っています。病気の種類はさまざまで、悪霊退治のような精神的な領域もあれば、婦人病のような生理にまつわる領域もあります。中には『ルカによる福音書』や『ヨハネによる福音書』に記される「ラザロの復活」のように、死人を蘇生させたという伝承まで書かれています。
イスラム教徒でありながら、イスラム世界のみならず、ヨーロッパのキリスト教世界からも、イスラム教が生み出した最高の知識人、「第二のアリストテレス」と讃美されるイブン・スィーナー(九八〇〜一〇三七)は、イスラム教神秘主義の大哲学者であるともに、当時としては世界最高峰の医学者でもありました。かれがヨーロッパの医学におよぼした影響は絶大です。著作の『医学典範』はヨーロッパ中世はもとより、地域によっては一七世紀まで、医学の教科書として使われた事実が、なによりの証拠です。
 仏教の場合も同じです。ブッダが直接、病人を治療したという話はないものの、ブッダの説法がインド医学の病因論・治療論にもとづいているという指摘があるのです。典型例は「十二因縁」です。人が迷いに惑わされたまま死ななければならない原因を、「無明」から「老死」に至る十二の過程として提示し、根本原因が「無明(根源的な無知)」にあることをあきらかにして、「無明」の克服こそ悟りへの道と説いています。また初期仏典には、薬剤の製法はもとより、脳外科手術と思われる記述すら見出せます。

〜日本仏教と医学〜

 日本に伝えられた仏典、たとえば奈良時代によく使われていた『陀羅尼集経』などの中にも、インドのアーユルヴェーダ医学や中国の漢方にもとづく薬剤の製法や具体的な治療法が、思いのほか詳しく書かれています。興味深いことに、伝統医学の研究者から、これらの処方の中には、実際に効き目のある例も少なからずあると報告されています。
 今なお使われているアーユルヴェーダ医学や中国の漢方の成立が古代にまでさかのぼり、しかも古代や中世では仏教僧こそ先端的な知識のほとんど唯一の持ち主だったことを考えれば、なんら不思議ではありません。江戸時代になっても、杉田玄白や高野長英といった医学者が法体といって、頭を僧侶のように剃りあげていたのは、その名残といいます。
 日本に初めて正式な戒律を伝えた鑑真(六八八〜七三三)は、『鑑真秘方』という医方の著作があるくらい、薬学に通じていました。
 真言密教の祖、空海(七七四〜八三五)も薬学に通じていて、著書に『本草』や『太素』など、中国の医学書をよく引用しています。ちなみに、空海は唐に留学するにあたり、当初は「薬生」、すなわち薬学研究者として登録していたという記述が、平安時代前期の文献に残されています。
 このように医学を重視する姿勢が、空海の衣鉢を継ぐ真言密教系の僧侶に顕著なことは疑いようのない事実です。その証拠に、古代から中世の日本で医学に通じた僧侶、すなわち「僧医」のほとんどが真言密教系なのです。
 たとえば、平安末期から鎌倉初期に京都の政界を代表する人物だった九条兼実は、仏厳という高野山系の真言密教僧からたびたび療治を受けています。鎌倉後期に奈良の西大寺を拠点に、戒律の復興を実践した真言律宗の叡尊(一二〇一〜一二九〇)と忍性(一二一七〜一三〇三)は全力をあげて病人の救済につとめ、欧米の医学史研究者からも高い評価を受けています。
 とりわけ忍性は弘安十年(一二八七)に、鎌倉近辺で疫痢が大流行したとき、拠点としていた極楽寺の境内に恒常的な病屋として鎌倉桑谷療養所を開設しています。以来二〇年間に四万六千八百人を治療し、そのうちの五分の四にあたる人々の生命を救ったことが、『元亭釈書』という書物に記されています。この割合はそのころの医療水準を考えるなら、驚異的ですらあります。
 叡尊を師として出家した梶原性全(浄観房 一二六六〜一三三七)は、極楽寺において医療活動を行うとともに、中世としては最高次元の医学書を二冊も書きあげ、この時代における最高の「僧医」という評価を得ています。
 山野を修行の場としてきた修験者(山伏)たちが、山野草に関する豊富な知識をもち、生薬を中心に薬学に通じていたことはよく知られています。現に、金峯山寺の門前にある店などで売られている「陀羅尼助」は、修験道がいかに深くこの領域にかかわっていたか、を教えてくれます。
ところが、室町時代後期以降になると、「僧医」を輩出する主な宗派が、密教系から禅宗系へと変わっていきます。日本医学中興の祖として「医聖」とたたえられる三人のうち、田代三喜(一四六五〜一五四四)と曲直瀬道三(一五〇七〜一五九四)は臨済宗の出身。永田徳本(一五一三〜一六三〇)は修験道の出身ですが、田代三喜に師事して学んでいます。
 その背景には、古代以来の貴族に代わって支配階層となった上級武士層の多くが、「有事に際してうろたえないように、心身を鍛錬できる」禅宗に帰依したことがあったようです。また、禅宗は中国生まれの宗派で、中国文化の伝達者でもあったので、中国医学すなわち漢方を学ぶには、つごうが良かったことも関係していそうです。

〜「祈り」は有効か?〜

 ただし、致死率が圧倒的に高い大規模な感染症の発生に、宗教がなかなか対処できなかったこともすでに指摘したとおりです。その結果、宗教が衰退する原因になったことも疑いようがありません。
 それでも科学、特に医学が未発達な段階では、宗教以外にすがるすべがなかったから、宗教の地位はまだ安泰でした。しかし、近代的な医学が発達してくると、そうはいかなくなります。一般の人々にとって、同じ科学でも、物理学や化学などは縁遠いでしょうが、生死にじかに関わる医学に限ってはとても身近だからです。
 わけてもペニシリンを筆頭に、抗生物質が使われるようになり、それまで不治とされたペストやハンセン病や肺結核から生還する人々がつぎつぎに現れると、状況は一変しました。こうして、人の肉体を病気から救うのは、宗教ではなく、医学の役割になったのです。
 というわけで、いまさら人命を救う役割を科学と争ったところで、意味はないと思います。むしろ宗教の原点に帰るべきではないでしょうか。
 では、宗教の原点とは何か。見解はいろいろあるでしょうが、「祈り」が有力な候補であることに疑いの余地はありません。「祈り」のない宗教はありえないからです。
 では、「祈り」とは何か。これまた見解はいろいろあるでしょう。そもそも、キリスト教やイスラム教のような一神教の「祈り」と仏教の「祈り」が同じとは思えません。
 一神教の場合、「祈り」は全知全能の超越者に対する「請願」というかたちをとります。わかりやすくいえば、徹底的に神にすがり、自己の運命を含むすべてを神にゆだねるのです。
 しかし、原則として全知全能の超越者を認めず、因果応報を説く、いいかえれば徹底的な自己責任論を説く仏教の場合、「祈り」はおのずから自発的な行動への誓い、すなわち「誓願」というかたちをとります。「請願」と「誓願」では、「せいがん」という発音は同じでも、意味は一八〇度ちがうのです。
特に大乗仏教の場合は「利他行」、すなわち他者救済こそ自己救済の唯一のすべにほかなりません。したがって、「祈り=誓願」は他者のためになされることになります。
 ここで、「祈り」が有効か否かを問う必要はないのです。「祈り」は宗教の専権事項であって、他の領域からあれこれ言われる筋合いはないからです。
 もちろん、科学的な実験によって、「祈り」をはじめ、もろもろの宗教的行為の効用を検証することを全面的に否定するつもりはありません。時と場合しだいで、試みても良いでしょう。
 しかし、この方向にこだわりすぎると、問題が生じます。科学によって宗教の効用を証明してもらうという事態におちいり、ついには宗教が科学に屈服することにつながりかねないからです。これは宗教の自己破産にほかならないから、よくよく考えておく必要があります。

〜「死は平等」は嘘である〜

 人はよく「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と言います。特に宗教にかかわる者は、永遠の真理でもあるかのように、言いたがります。
 しかし、「死は平等である」は嘘です。「死の前には金持ちも貧乏人もない」も真っ赤な嘘です。現実には、死は不平等であり、死は権力や経済力によって大きく左右されています。
「生命の値段」という表現は不遜もいいところで、私は大嫌いですが、話をわかりやすくするために、あえて使います。
 死が平等でないということは、「生命の値段」が異なるということです。
 実例をあげます。日本などの先進国では、数千万円から億単位のお金がかかる治療が認可され、現に実行されています。その一方で、開発途上国では一つが一〇〇円のアンプルが買えないために助かるはずの生命が、毎日のように、たくさん失われています。
 早い話が、先進国と発展途上国とでは、「生命の値段」がいちじるしく異なっているのです。これは歴然たる事実です。
 アメリカのような先進国でも、人種や職業によって、富裕層と貧困層によって、新型コロナウイルスによる肺炎のもたらす致死率に、いちじるしい差が生じているとたびたび報道されているではありませんか。
こんな状況で、「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と言えますか。そして、こんな状況がつづくかぎり、死は不平等でありつづけます。誰が考えても、すぐわかることです。
では、どうするか。申しわけありませんが、私にも、いますぐ実践できる具体的な解決策はありません。
 ただ、最低限できることはあると思います。少なくとも、宗教にかかわる者は、安易に「死は平等である」とか「死の前には金持ちも貧乏人もない」と口にしないことです。次に、まことに残念ながら「生命の値段」にいちじるしい差がある事実を、多くの方々に知っていただくことです。一般的な通念とはまったく逆で、耳障りの極みですが、それが、真の意味で、死を平等にするために、絶対に必要な最初の一歩だからです。

〜電話による「声かけ」のすすめ〜

 ここからは、お医者さんや教育関係者、あるいはお坊さんというような、いわゆる指導的な立場にある方が対象になります。
 融通念仏宗の宗祖、良忍上人(一〇七二〜一一三二)は「念仏を唱えることで、私も仏も他人も皆一体となり、その結果として私の積んだ功徳が皆の功徳となり、皆の積んだ功徳が私の功徳となる」と説きました。「祈り」も同じです。「祈ることで、私も仏も他人も皆一体となり、その結果として私の積んだ功徳が皆の功徳となり、皆の積んだ功徳が私の功徳となる」はずです。
だから、一箇所に集まって、皆で祈れば良いのですが、今回は、残念ながら、それができません。たびたび報道されていますとおり、韓国のキリスト教会やイランのモスクに大勢の人が集まって礼拝したことで、爆発的な感染が生じてしまっています。
 そこで、提案したいことがあります。それは「声かけ」です。指導的な立場にある方から、多くの方々に、ぜひ「声かけ」をしていただきたいのです。
 この発想の原点は、以前、チベット旅行にご一緒したお医者さん(甲状腺癌治療の世界的な権威)から、退院された患者さんたちとのコミュニケーションを、どうとったら良いか?と尋ねられたことにあります。癌治療は予後がとても大切なのに、退院すると、それっきりになってしまうケースがあり、悩みの種だとおっしゃったのです。
 そのとき私が提案したのは、病院に勤務しています看護師さんたちに、退院された患者さんたちに、手紙を定期的に書いてもらうという方法でした。この方法は実践してみると、けっこううまくいったようです。とりわけ、一人暮らしの方には大好評だったと聞きました。
 今回の場合、濃厚接触は厳禁なので、直接「声かけ」はできません。しかし、文明の利器を使えば、なんとかなります。具体的にいえば、電話による「声かけ」です。
 常日頃、尊敬しています方から直接、電話をいただけば、いただいた方々は、驚くとともに、必ず喜ぶと思います。
 その際、ぜひ、「あなたのことを案じています」とか「あなたのために祈っています」とおっしゃっていただきたいのです。できれば、いっしょに「祈る」ように、すすめていただきたいのです。じつは私に知人に、自坊であろうと、出張先であろうと、どこにいても、似たことをすでに実践していますお坊さんがいて、信者さんたちから絶大な信頼を得ています。
 生の声は文字よりも、はるかに大きな力を秘めています。文字では伝わらない切実な思いも、生の声なら伝えられます。最近のスマートフォンや携帯電話は音質が飛躍的に向上していますから、なおさらです。
 一人ひとりに電話するのは、手間暇かかります。面倒でもあります。しかし、その効用は私たちが想像していますよりも、ずっと大きいはずです。

Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 15:10 | 科学隣接領域研究会 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
先輩研究者のご紹介(石川 智愛さん) [2020年04月06日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日は、2018年度に「SW-R発生時の記憶再生を支えるシナプス入力の時空間パターン」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、慶應義塾大学医学部薬理学所属の、石川 智愛さんから助成時の研究について、コメントを頂きました。

<石川さんより>
 私たちの脳は多数の細胞によって構成されています。その中でも情報処理の中心を担うのがニューロンと呼ばれる細胞です。ニューロンは他のニューロンと結びつき、発火することでお互いに情報を伝達します。
 これまでに、あるニューロン集団が特定の順番で発火する「シークエンス発火」という現象が報告され、このシークエンス発火によって情報が出力されると考えられています。このようなシークエンス発火は様々な脳領域で観察され、特に海馬で観察されるシークエンス発火は記憶や学習などにも深く関わることから、様々な研究が行われてきました。しかし、シークエンス発火が受け手のニューロンにどのように伝達されるのかに関してはほとんど明らかになっていません。
 個々のニューロンは他のニューロンにシナプス入力として情報を伝達します。シナプス入力を受けるのは、樹状突起上に存在するスパインという微細構造です(図1)。受け手のニューロンは同時に受け取ったシナプス入力を足し合わせ、閾値に達すれば、発火してさらに下流へと情報を送ります。この時、いつ、どこで、どのスパインが入力を受け取るのか、すなわちシナプス入力の時空間パターンによって、受け手のニューロンの発火パターンが大きく変わるのです。

図1.jpg
図1 海馬ニューロンの樹状突起とスパイン

 私たちは、海馬でシークエンス発火が起きた時の受け手のシナプス入力を観察することで、受け手のニューロンの特定のスパインが特定の順番でシナプス入力を受けるシークエンス入力の存在を世界で初めて発見しました。さらに、このシークエンス入力は近くに存在するスパインに収束していることも明らかにしました。
 スパインはわずか数μm(1 μm = 1 mmの千分の1)という非常に小さな構造です。さらに、シークエンス入力の存在を探索するためには、ごく少数のスパインの入力を捉えるだけでは不十分で、シナプス入力を大規模に観察する必要があります。私たちは世界最先端の工学システムを用いて(図2)、数百におよぶスパインへの入力をハイスピードで記録し、シークエンス発火時にニューロン内で行われる情報処理に関して新たな指針を提示しました。シークエンス発火の仕組みを明らかにすることは、記憶をはじめとした様々な脳機能の理解につながると期待しています。

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図2 実験のセットアップ

 この研究は、笹川科学研究助成にご支援をいただいて完成したものです。2018年に助成をいただき2020年にScience Advance誌に出版することができました。基礎研究をまとめるまでには多くの資金と時間がかかりますが、幅広い研究に対し、独創性・萌芽性を評価して支援してくださる笹川研究助成は、若手研究者にとって貴重なチャンスとなっています。学生でも応募でき、自由度も高く使いやすいので、ぜひ挑戦してみてはいかがでしょうか。最後になりますが、ご支援いただいた日本科学協会の皆様に感謝申し上げます。
<以上>

 笹川科学研究助成は1年間の助成制度であり、論文発行までに2年かかったとのことですので、全てはサポートできなかったかと思いますが、研究スタート時の足掛かりとなれたようで、うれしく思います。記憶という形の無いものが何であるか解明できるよう、頑張っていただきたいと思います。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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先輩研究者のご紹介(福地 智一さん) [2020年03月30日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日は、2018年度に「マウス肝臓発生における網羅的遺伝子発現の数理ネットワークモデル構築」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、静岡大学創造科学技術大学院自然科学系教育部バイオサイエンス専攻所属の、福地 智一さんから助成時の研究について、コメントを頂きました。

<福地さんより>
 昨今では次世代シーケンサーを初めとした高度な測定技術の普及により、生体内のすべての遺伝子の発現情報を低コストかつ短期間で測定することが容易になりました。またコンピューターの性能が大きく向上したことで、特別な計算機を用いなくても大規模なデータを解析することが可能になりつつあります。これにより大規模な生体データを情報科学的な手法を用いて解析する、バイオインフォマティクスの分野は急速に発展し現在も大きな注目を集めています。

 私は主に哺乳類の肝臓の発生や再生について研究しています。肝臓の発生についてはこれまでにも様々な研究が行われてきましたが、そのメカニズムのすべてが分かっているわけではありません。最近では網羅的データを用いた解析も行われ、様々な遺伝子やタンパク質の相互作用が明らかとなりましたが、これらの多くは膨大な生体シグナルのうち、少数の因子を断片的に見ているものがほとんどです。肝臓の研究に限らず、大規模データの有効な解析手法の開発とその体系化は今後の生物学における非常に重要な課題であるといえます。

 そこで私は笹川科学研究助成金によるプロジェクトの中では、肝臓発生時の遺伝子発現パターンを数理モデル化し遺伝子間相互作用を推定することで、そのネットワークモデルの作成を行いました。(図1)

図1 正常マウス肝臓の発生における発現変動遺伝子群の相互作用解析.jpg
図1 正常マウス肝臓の発生における発現変動遺伝子群の相互作用解析

 さらに、ヒト多嚢胞性肝疾患に類似した組織異常を示す、肝臓特異的Hhex欠失マウス(図2)における網羅的遺伝子発現と比較することで、肝臓発生における分化制御と病変の発生メカニズムの解明を試みました(図3)。今回の結果は網羅的発現データを用いた研究を行う際に、未知の遺伝子相互作用を予測する解析手法として、重要な成果であると考えています。

図2 胎生期のWTおよびcKOにおける組織変異.jpg
図2 胎生期のWTおよびcKOにおける組織変異
矢印=嚢胞、PV=門脈、スケールバーは100μm

図3 Hhexマウスのおける嚢胞発生の遺伝子ネットワーク予測.jpg
図3 Hhexマウスのおける嚢胞発生の遺伝子ネットワーク予測

 網羅的発現解析の低コスト化が進んでいるとはいえ、ビッグデータの解析には多くの予算が必要となります。助成金を頂いたことによって、非常に有効なデータを多数得ることができました。予算の運用以外にも申請書や研究報告書の作成を通じてひとつの研究プロジェクトを自分自身が主体になって遂行するという貴重な経験ができました。

 非常に挑戦的な研究であったにもかかわらず、多額の研究助成という形でチャンスを与えてくださった日本科学協会様にこの場を借りて改めて御礼申し上げます。これからも科学の発展に寄与するため精進していきたいと思いますので、今後も見守っていただければ幸いです。
<以上>

 笹川科学研究助成では、若手研究者が主体となって自身の研究プロジェクトを遂行するということを応援しており、次世代シーケンサーとビックデータの解析を組み合わせた、挑戦的な研究をすることができたとのこと、うれしく思います。今後も、科学の発展のために、頑張っていただきたいと思います。

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先輩研究者のご紹介(飯島 孝良さん) [2020年03月16日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日は、2018年度に「一休の「像」の文化史的研究 -室町期から近現代における「禅」イメージの形成史として-」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、明治大学文学部所属の、飯島 孝良さんから研究についてのコメントを頂きました。

<飯島さんより>
●我々は「禅」にどのように出会っているのか
 先日、恩師がタイに行った際に土産を買ってきてくださいました。

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【@2020年の正月をタイのバンコクで過ごした恩師の土産。でも、どうやらこの小坊主はタイ人ではないらしく……】

 これは何だろうかと思っていると、「土産物屋が、この小坊主を『イッキュウさんだ』というから、買って来たんだよ」とおっしゃるのです。一瞬、「えっ、どういうことだ?」と思いながらも、すぐに合点がいきました。
 というのも、タイや中国など、アジア諸国ではずいぶん前からアニメの『一休さん』が人気で、いわばあの名作ドラマ『おしん』のような知名度です。タイのお母さんのなかには、息子に「イッキュウ」と名づける方がおられるほどだそうです(NHK『日本人のおなまえっ!』2018年7月19日放送分)。
 とはいえ、気になる点はいくつも残ります。まず、このポーズ。どうして口をふさいでいるのでしょうか。あたかも「見ざる聞かざる言わざる」の「言わざる」のようですが、一休が臨済禅の僧侶であることを考え合わせると、「もしかしたら、禅宗で重んじられる“不立文字”(経典などのことばによって知性や判断を縛りつけられてはならない)という教えを示しているのでは」と思われてきます。ただ、もうひとつ気になるのは、タイは所謂上座部仏教に属しており、日本の臨済宗など禅宗が属する大乗仏教とは異なる流れにあります。そういう意味では、タイでの一休さん人気は、仏教の歴史的な流れとは無関係という外ありません。にもかかわらず、一休さんがここまで受容されているのは、仏教国のタイならではの「美しき誤解」といえるのでしょうか。
 実は、一休さんも、禅も、古今東西を問わずさまざまな形で我々の前に現れてきます。「禅文化」にちなんだものに、我々は意外なところで出逢うことが多いのです。それはどうしてなのだろうか?――端的に言えば、私の研究関心はこうしたところにあります。

●禅文化のなかの一休―その「語られる」イメージ 
 私が研究テーマとしている一休宗純いっきゅうそうじゅん(1394〜1481)は、御小松天皇ごこまつてんのう(1377〜1433)の御落胤ごらくいん(天皇の落とし子)とされる一方、居酒屋や色町など民の集う十字街頭を自由闊達に行き来する臨済宗大徳寺派の禅僧でした。更には、当時の主流派における堕落を痛烈に批判しながらも、晩年は大徳寺住持(四十七世)となって再興に尽力しています。これらは一見すれば矛盾してみえるのですが、その言動は凝り固まった常識や傲り高ぶり、或いは権威化や形骸化を一貫してゆるさない厳しい姿勢とも捉えられます。破天荒といえるその姿は、総体として在世当時から多くの耳目を集めることとなっており、近年にとんち話やアニメで知られる「可愛らしく賢い小坊主」というイメージと大いに異なるものです。
 その一休は、多くの文人や茶人と交流したと言われています。例えば『山上宗二記やまのうえそうじき』(天正十六[1588]年)によれば、一休が「茶祖」といわれる珠光しゅこう(1423〜1502)に宋代の高僧・圓悟克勤えんごこくごん(1063〜1135)の墨蹟を授与し、茶道は禅から強い影響を受けたといわれてきました。ただ、この逸話にある一休と珠光の交流には、現在は歴史学的に疑義も呈されています。つまり、一休と茶道との影響関係は、ひとつの「物語」として重んじられてきたものだというのです。ただ、少なくともここで重要なのは、何故そうした逸話が残されたのかではないでしょうか。
 茶道では、師資相承ししそうじょう(師から弟子に脈々と教えが受け継がれていくべきこと)が重視され、その作法において平常無事びょうじょうぶじ(普段どおりのありのままにこそ教えが体現されるべきこと)が重んじられますが、これらは禅宗で強調される基本的な姿勢そのものです。こうしたものに見出せる禅からの影響関係の出発点に、他ならぬ一休が据えられていたことに、「禅文化」の大きな特徴が見出せるように思います。言い換えれば、一休の〈像(イメージ)〉を介した「語り」の形成にこそ、禅が日本文化の中に位置づけられた一端が見出せるのです。
 一休に深く傾倒し私淑した文人は少なくなく、寛永年間頃には、一休のつい棲家すみかとなった酬恩庵しゅうおんあん(京都府京田辺市)に多くの文人が集い、一種の「禅文化」のサロンの様相を呈しました。佐川田喜六昌俊さがわだきろくまさとし(1579〜1643)は茶人や庭師や禅僧とも密接な交流を重ね、隠居後には酬恩庵のすぐ傍に黙々庵もくもくあんと号した居を構え、一休の下で生を全うせんと願ったと伝えられています。

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【A黙々寺跡を示す石碑。現在の酬恩庵の裏山に位置し、往時をしのばせる。】

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【B黙々寺跡にある石碑のひとつ。卵塔(禅宗によくみられる墓石)のような形状をしたところに「是什麽」(「何だ」の意)という禅語――禅の問答で相手の境地を訊ねる基本の句――が刻されているが、これは茶席に掲げられる墨蹟としても非常に多くみられるもの。】

 一休がこれほど人気を集めたのは、前述しましたように、常識や形骸化を繰り返し批判したその精神が、新たな文化を切り開こうとする文人へインパクトを与えたからだといえます。こうした影響を明らかにすることで、中世から近現代に到る「禅文化」の展開が窺い知れるのではないか――そう考え、関連の文献や史跡の調査のために東京と京都を行き来する日々を送っています。こうした作業を進めるうえでも、日本科学協会の研究助成はたいへん貴重な援助となりました。とくに当方は2年間にわたる助成を賜ることが出来、ここに改めて深謝致します。

●禅からZenへ―そして「日本」を捉え直す視点として
 こうしたことについては、国外でも御話しさせて頂くことがあります。縁あって、2018年春にはシカゴ大学で開催される日本研究ワークショップで研究を発表する機会がありました。“Problematic issues on the image of Zen culture and Ikkyū Sōjun”(「禅文化と一休宗純のイメージにおける諸問題」)と題した発表には、御列席の方からさまざまにリアクションを頂戴し、たいへん有難い一日でした。

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【C5th U ToKyo / U Chicago Graduate Japan Studies Workshopのパンフレット。】

 ここでは、日本仏教を研究しようとシカゴ大学に留学している各国の研究者と出逢うことが出来ました。歓待して下さった諸氏の研究にかける熱意は、ときに驚嘆と感激を与えてくれる程のものでした。大正大藏経を開きながら密教について熱っぽく語り合ったオランダからの研究者、近代日本仏教を瑞々しい視座から論じているイタリアからの研究者、……シカゴビールを傾けつつ、飽きることなく長時間にわたり語り尽くしたその空間は、初春の寒風をものともせぬものになりました。

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【Dシカゴ大学で催されたワークショップの様子(著者はスクリーンのすぐ左で拝聴している)。】

 このシカゴは、『禅と日本文化Zen and Japanese Culture』(英文初版1938年)などで国際的に禅文化を伝えた鈴木大拙(1870〜1966)が長く苦しい研究生活を営んだゆかりの地でもあります。大拙をはじめとして、20世紀は禅からZenへ「語り」が広く展開する時代でもありました。その意味でも、このワークショップは非常に印象深い催しとなりました。
 中世から近現代にかけてさまざまに展開した「禅文化」という「語り」を探究すると、それが如何に重層的な構造を有してきたのかを考えさせられます。日本の禅が歴史の中でインドや中国から多くの影響を受け、日本において「禅文化」という特徴ある変容を遂げ、更には世界各国にZen culture(s)として広く展開していった過程が明らかになればなるほど、禅が現代の我々にみせてくれる「イメージ」が如何に多様で豊かであるかを深く知り得るのではないか――そう考えています。そしてそれは、現代の日本人がどのように自己を認識するかという、きわめて本質的で不可避の問いを多角的に照らし直すものになるのではないでしょうか。

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【E一休研究の最新の成果は、芳澤勝弘編『別冊太陽 一休―虚と実に生きる』(平凡社、二〇一五年)を御参照頂ければと思います。拙論「一休はどう読まれてきたか」などが収録されています。】

<以上>

 一休さんは絵本などでも取り上げられるので、「桃太郎」や「金太郎」のような存在とみられることも多いように思います。一休はもちろん実在の人物で、禅の文化の普及に強い影響を与えたそうです。また、現代でもアニメがアジア諸国で放送されることで、禅の文化を広め続けているということに驚きました。今後も世界中でご活躍されますよう、陰ながら応援させていただきます。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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先輩研究者のご紹介(牛場 崇文さん) [2020年03月09日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。本日は、2018年度に「極低温環境下における高ダイナミックレンジ光ローカル変位センサーの開発」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、東京大学宇宙線研究所所属の、牛場 崇文さんから、研究について、コメントを頂きました。

<牛場さんより>
 私は重たい星同士の合体や超新星爆発などの宇宙で起こる非常に激しい天体現象から発せられる重力波を捉える研究をしています。重力波は1916年にアインシュタイン博士によって存在が予言され、約100年後の2015年にアメリカのLIGO検出器によって世界で初めて検出されました。2017年にはイタリアのVirgo検出器がLIGOに引き続き検出に成功しており、重力波の検出によって「ブラックホールがどのように形成されるのか」や「重元素合成がどのように行われるか」といった宇宙の大きな謎の解明に貢献することが期待されています。

 日本では三台目の検出器となるべくKAGRAと呼ばれる重力波検出器が建設されました。KAGRAは2019年10月に建設が完了し、2020年の2月25日から単独での観測運転を開始しました。現在は2020年4月までに国際共同観測に参加できるよう精力的に研究が続けられています。KAGRAはLIGO検出器やVirgo検出器と同様にレーザー干渉計型の重力波検出器となっており、複雑な構成のマイケルソン干渉計を構築して重力波を検出します。一方、KAGRAは他の二つの検出器にはない特徴を有しており、20K程度まで冷却したサファイア製の鏡でレーザー干渉計を構成します。

 助成時の研究ではKAGRAで冷却する鏡の位置を読み取る変位センサーの開発を行いました。KAGRAで構成する干渉計は3kmという非常に巨大なもので、鏡の角度が1°変わってしまうだけでも、3km先の光の位置は100m近く移動してしまいます。そのため、非常に高い精度で鏡の位置や角度を制御しなければ干渉計を構成することができません。加えて、KAGRAでは鏡を低温に冷却するため、極低温環境下でも使用可能なセンサーでなければなりません。そのため、センサー自身を独自に開発・性能評価を行う必要がありました。

 開発したセンサーは反射型フォトセンサーと呼ばれるもので、測定対象に非接触かつ非常に広いレンジで変位の測定が可能なものです(図1)。このセンサーに関して、低温でのキャリブレーション、低温化による出力変化、低温での長期安定性、センサーの個体差などの測定を行いました。これにより、重力波検出器KAGRAでの使用のみならず、衛星への搭載などの応用を見据えた非常に重要な基礎データの測定を行うことができました。また、本研究によってLEDのビームプロファイルを適切に用いることで、非常に精度よくセンサーのキャリブレーション結果を説明可能なモデルの構築にも成功しました(図2)。

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図1 反射型フォトセンサーの概念図と実際に用いたセンサー

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図2 LEDのビームプロファイルとキャリブレーションカーブのモデル
 ビームプロファイルを適切に用いることにより、キャリブレーションの測定結果を説明できるモデルを構築した(右図青線)。

 日本科学協会笹川科学研究助成は駆け出しの研究者で研究資金の乏しい時期に非常に助けとなりました。また、研究途上の計画変更による予算執行の変更にも非常に迅速に対応していただき、結果として当初予定していた以上のキャリブレーションモデルの構築という成果を出すことができました。この場をお借りしてお礼申し上げます。
<以上>

 重力波検出器を建設するという壮大なプロジェクトであっても、センサーの開発といった基礎的なことの積み重ねが、非常に大切になってくると思います。KAGRAは岐阜県飛騨市神岡町にあり、スーパーカミオカンデの隣にあるそうです。KAGRAもノーベル賞級の成果が出せるよう頑張っていただきたいと思います。また、笹川科学研究助成は1年間という短い期間の助成制度ではありますが、研究者の方が使いやすい制度となるよう、事務局一同頑張りたいと思います。

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先輩研究者のご紹介(設樂 拓人さん) [2020年03月02日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。本日は、2018年度に「最終氷期の遺存植物チョウセンミネバリの本州中部における分布と植生の実態の把握」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、琉球大学所属の、設樂 拓人さんから助成時から最新の研究について、コメントを頂きました。

<設樂拓人さんより>
 私が笹川科学研究助成を頂いて取り組んだ研究課題は、日本国内での分布や生態が不明だった「チョウセンミネバリBetula costataの本州中部での分布の実態の把握」でした。チョウセンミネバリはカバノキ科カバノキ属の落葉広葉樹で、極東ロシア沿海州や朝鮮半島、中国などの北東アジアの大陸部の針広混交林に広く分布しています。また、日本でも栃木県などの本州中部山岳で観察例があります。本種は、日本列島が現在よりも寒冷乾燥な気候だった最終氷期(約7万年から1万年前)に、日本に広く分布していたと推定されていることから、最終氷期以降の気候変動の中で生き残ってきた貴重な遺存植物だと考えられています。それにもかかわらず、日本では観察例がとても少なく、未だに日本の植物図鑑にはちゃんと掲載されていません。また、国内でのチョウセンミネバリの写真も掲載されていませんでした。そのため、国内でのチョウセンミネバリの正確な分布や生態に関する情報が十分に把握されていませんでした。

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(写真1 チョウセンミネバリの樹形)

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(写真2 枝葉)

 そこで、私は本州中部におけるチョウセンミネバリの正確な分布情報を把握するために、本州中部山岳でチョウセンミネバリを探し回りました。私は、極東ロシア沿海州でチョウセンミネバリを観察したことがあるため、チョウセンミネバリを見分けることが出来ました。そして、調査を進める中で、長野県や富山県でチョウセンミネバリを見つけることができ、その分布情報や生態を以下の学術雑誌に発表しました。私の知るかぎり、この論文に掲載されたチョウセンミネバリの写真が、正式な書面に掲載された国内初のチョウセンミネバリの写真です(写真1,2)。

1. Shitara T, Ishida Y, Fukui S, Fujita J. (2019) New Localities of Betula costata (Betulaceae) from Nagano Prefecture, Japan. Journal of Japanese Botany 94(2): pp112-116.
2. 設樂拓人, 相原隆貴. (2019) 富山県におけるチョウセンミネバリBetula costataの分布の現状. 植物地理・分類研究67(2): pp149-151.

 チョウセンミネバリは、一見、ダケカンバBetula ermaniiに似ています。しかし、ダケカンバの葉の側脈は8-13対であるのに対し、チョウセンミネバリは8-15対前後であり、葉全体がダケカンバよりも細長く見えます(写真3)。また、種子につく「翼」は、ダケカンバよりもチョウセンミネバリは大きい傾向があります(写真4)。さらに、ダケカンバは、標高約1500m以上の亜高山帯に分布しているのに対し、チョウセンミネバリは、標高約1000mから1400mに分布している傾向があります。

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(写真3 ダケカンバとチョウセンミネバリの葉)
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(写真4 ダケカンバとチョウセンミネバリの種子)

 笹川科学研究助成のおかげで、中部地方の広範囲でチョウセンミネバリの分布を調査し、論文を出版することが出来ました。心より感謝しております。この研究を励みにこれからもより一層、面白い研究を皆さんにお伝えできるよう、努力していきたいです。
<以上>

 日本国内でも、まだ図鑑に載っていない植物があることに驚きました。山岳での調査は危険も伴い大変だったかと思いますが、このような地道な研究が研究成果につながるのだと思いました。今後も、図鑑に載っていないような植物を発見できるよう、頑張っていただきたいと思います。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 10:18 | 笹川科学研究助成 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
先輩研究者のご紹介(白川 未希子さん) [2020年02月25日(Tue)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。本日は、2018年度に「都市公園を活用した移動型遊び場のあり方に関する研究」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、神戸女子大学大学院家政学研究科生活造形学専攻所属の、白川 未希子さんからご専門の研究について、コメントを頂きました。

<白川さんより>
 私が研究テーマとして扱ってきた「遊び」は、子どもの健やかな成長にとって必要不可欠なものであり、心身の発達に欠かすことのできないものです。
 しかし子どものサンマ(時間・空間・仲間)の減少や、頻発する交通事故や犯罪にあうリスクなどが原因で、子どもが自由にいきいきと遊ぶ機会が少なくなっています。
 そんななか、「移動型遊び場(モバイル・プレイ)」と呼ばれるプレーカーやプレイバスの活動が東日本大震災以降、日本でも少しずつ注目を集めています。
 プレーカー等の活動は、プレイワーカー(遊びを支援する大人)が、遊びを子ども達が住んでいる場所の近くへ運んでいくことにより、外遊びの推進と子どもの居場所づくりにつながるアウトリーチ型の遊び場づくり活動のことです。

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(写真1:日本の移動型遊び場活動の様子)

 この取組はヨーロッパを中心に発展してきており、なかでもドイツの「プレイバス」活動は開始から約50年の歴史があります。ドイツではナチス時代の反省から、権力分散の強化により、「補完性の原理」の考え方が一般的になりました。「補完性の原理」とは小さいものができることに対して大きいものが邪魔をせず、できないことを補完する原理のことです。
 これは、ドイツの行政とNPOの関係性でも使われており、青少年の支援活動に実績のあるNPOが行政よりも優先権を得ることができます。この原理を徹底していることによりドイツでは多くのプレイバスのNPOが活躍しており、移動型遊び場活動が発展してきたといえます。

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(写真2:ドイツの移動型遊び場活動の様子)

 私が研究を始めた当初は、日本の移動型遊び場のみ調査する計画でしたが、笹川財団の助成金を取得できたことにより、日本とドイツ、両方の移動型遊び場を現地調査することができました。
 また助成を受けたことで、研究費の運用方法、完了報告書作成など研究以外のことも学ぶことができ、とても貴重な経験となりました。
 今後日本で移動型遊び場を推進していくためには、子ども達に自由な遊びを提供する方法の1つとして、移動型遊び場という活動が行われているという事を、多くの人に認知・理解してもらうことが重要であると考えています。
 私の研究への財政的援助、大変感謝しております。ありがとうございました。
<以上>

 近年、日本ではテレビゲームなど家で遊ぶ子どもたちが増えていると聞きますが、体力を向上させてたり、コミュニケーション能力を高めたりするには、外で遊ぶことが重要であると思います。子どもたちが健やかに育ち、楽しめる遊び場を提供できるよう、陰ながら研究を応援させていただきます。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 11:03 | 笹川科学研究助成 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
先輩研究者のご紹介(遠藤 彬則さん) [2020年02月10日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。本日は、2018年度に「乳腺に特異的に発現するNrkが乳がんを抑制する分子機構の解明〜画期的乳がん治療法を目指した基盤研究〜」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、東京都医学総合研究所所属の遠藤 彬則さんから助成を受けた研究の進展についてコメントを頂きました。

<遠藤さんより>
 日本では、女性の生涯乳がん発症率は7%(14人に1人)におよび、残念ながら患者さんの20%以上は死亡してしまいます(2015年、国立がん研究センター がん対策情報センター調べ)。世界でも似たような統計結果が報告されていて、根本的な治療法の開発が望まれています。一般的な乳がん診断では、どのようなタイプの乳がんなのかをまず分類します(例えばトリプルネガティブ型など)。タイプにより、がん発症の原因や影響が異なり、再発率、転移率、そして死亡率にも違いが出ます。すべてのタイプの乳がんに効果的な治療法は、まだ実用化されていません。

 私の所属する研究室(当時)では、X染色体(男性は一つ、女性は二つ持っています)にコードされたユニークな遺伝子Nrkの働きを研究していました。Nrk遺伝子を持たないメスのマウスでは、「乳がんの発症」「胎盤の肥大化」「分娩異常」など女性機能に異常が見られます。乳がんの発症率は、90%という非常に高い頻度でした。

 今回の研究助成では、Nrkが乳がん発症を抑える働きについて重点的に解析を行い、Nrkが細胞の増殖を抑える普遍的なメカニズムを明らかにすることができました(図1)。さらに、Nrkが壊れやすく、不安定である可能性を示すことができました。つまり、乳がんを抑えるNrkを安定化し、助ける方法が見つかれば、「副作用が少なく、すべての乳がんに有効な画期的な治療法もしくは予防法」へとつながっていくのではないかと考えられます。今回の研究成果を生かし、さらに研究を発展させ、社会福祉に貢献していきたいと思います。

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図1

 日本科学協会 笹川科学研究助成は、学生さんを含めて様々なバックグラウンドの研究者による独創性・萌芽性をもつ研究を支える素晴らしいものだと思います。そのご支援を頂き、重要な研究成果を得ることができました。これらの成果は学会にて発表し、論文も投稿中です。御礼申し上げます。
 また、本研究は大学院生の内藤聡美さん(図2、米国細胞生物学会で発展研究を発表する内藤さん、2019年12月@ワシントン)をはじめ、福嶋俊明先生、駒田雅之先生のサポートにより予想を大きく上回り進展しました。そして、今回の研究助成での成果をもとにした発展を期待しています。この場を借りて感謝申し上げます。

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図2
<以上>

 がんは日本人の死因の第一位となっており、早急に対策をする必要があると思います。悪い細胞を除去するだけでなく、遺伝子レベルから研究されているとのことでした。根本的な解決策が見つかるよう、頑張っていただきたいと思います。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 09:52 | 笹川科学研究助成 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
先輩研究者のご紹介(重野 裕美さん 2) [2020年02月03日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日は、2018年度に「アート制作を通した病児と中学生の交流による教育の可能性について」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられ、私立長崎精道小中学校美術科の非常勤講師をされていた、重野 裕美さんから現在の研究についてコメントを頂きました。現在は、九州大学総合研究博物館 専門研究員としてご活躍中です。
 以前にもブログをご執筆していただいておりますが、(https://blog.canpan.info/kagakukyokai/archive/575)2019年4月からオランダで研究を開始されるとのことでしたので、これから海外での研究を考える方へご参考になればと、再度ご執筆をお願いいたしました。

<重野さんより>
 オランダへきて9ヶ月が過ぎようとしています。こちらでは,出会う人は初対面ばかりなので,挨拶の後は自己紹介という流れになります。今まで,図書館の方(ほとんどの図書館内に子どもアトリエ有り),アーティスト,ミュージアムの方などと会いしましたが,その都度,相手の背景を考えて共通点はないか,説明の長さはどのくらいが適当か,どのようなところをポイントに説明したらわかりやすいか,また相手は何を言いたいのかなど,毎回冷や汗を流しながらコミュニケーションをとっています。まずは言葉です。日々,英語に悪戦苦闘しています。
 昨年度は笹川科学研究助成を得ることができ,日本の子どもホスピス訪問インタビューをしました。偶然知ったのですが,そこでお話を伺った方々が参加したフォーラムに,オランダにある子どもホスピスの代表者がパネリストとして来日されていました。そこで,その施設「キンダーホスピス ビネンフェルド」へ訪問できればと思い,代表のストゥーリンガさんへ訪問インタビューの依頼メールを送ることにしました。何度かのメールのやり取りののち,昨年の12月5日に子ども達へのクリスマスプレゼントを持って訪問することができました。(プレゼントは,次女が研修した工房のドイツの木のおもちゃです。)

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キンダーホスピス ビネンフェルド

 豊かな自然の中にあるこのホスピスは,医師から治療困難と診断を受けた子どもたちのための宿泊施設であり,デイケアもできます。定員は12名,施設登録者は45名です。2002年にこの施設の前身が創設され, 2014年に現在の場所に拡大,移転しました。
 需要の高まりにより今年1月から同じ敷地内にデイケア用の施設が施工されます。ストゥーリンガさんは,元小学校の教師です。最初は施設の利用者が少なく,彼女は様々な場に出かけて説明をし,次第に理解が広まり今に至ります。しかし「ホスピス」という名称に抵抗がある保護者もまだいるそうです。これは日本でもよく聞きました。彼らの敷居を低くするために「子どもゲストハウス」という名前の方がいいかな,と少し考えているようでした。スタッフは,看護師が3名,専門家として理学療法士と言語聴覚士,遊び治療の専門家など5名がいます。地域の方達が協力的で,ボランティアには,洗濯をする人,ケアの周辺,庭師,調理をする人が来るそうです。多くの寄付も寄せられており,遊具の会社などと提携し寄付を募る工夫もされていました。施設内は,家庭にいるような温かい雰囲気で,壁面などの明るいデザインが目を引きました。

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   明るい雰囲気の施設内        大木の絵が描かれた階段の壁

 階段の壁には,大木の絵があり鳥達が描かれています。この鳥達はここで亡くなった子どもたちをイメージしており,それぞれに子どもの名前が書かれています。この鳥について抵抗感のある保護者の方達もいたそうですが,彼らに向き合うことの大切さを話し,今では理解を得られているそうです。別棟には子どもをなくしたご家族のための「瞑想の部屋」があり,ゆったりとしたソファが中央に設えられています。ソファに座ると大きな窓から自然が広がります。ここは親のためにも重要な役割を果たしているのだと思いました。

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瞑想の部屋と窓からの風景

 今後のことについては「今までは,医療について意識が向いていたが,発育について目を向けていくことが大事だと気がつきました。やり続けることが大事です。」と話されました。オランダには,このホスピスを含む子どもの医療機関のネットワークがあります。日本にもこのような全国のネットワークがあると保護者へ有意義な情報を送ることが容易になるのではないかと思いました。ストゥーリンガさんは今後この場をネットワークの新たな拠点にしたいと,さらなる展開について意欲的に話してくれました。
 訪問の数日後,彼女からメールが来ました。インタビューでアートについて聞いたところ「遊びの中にアートがある感じで,特別にアートを意識はしていない,専門の先生に任せている。」という話をしていただきました。メールでは,私がアート専門なのにそれについてあまり話せず申し訳なかった,とあり,ケアを必要とする子どものためにアート活動をしているグループを紹介してくださいました。多忙な中の彼女の心遣いに,ややもすると外国の中で孤独を感じる自分に,とてもあたたかな気持ちが広がり励まされたような気がしました。こちらでは新たな発見が多く刺激も受けますが,いつの間にか気持ちが弱くなっている時もあります。そのような時は,励まし合える仲間がいるとその辛さも乗り越えられるような気がします。
<以上>

 海外での生活は、言葉の壁などがあり大変かと思いますが、順調に研究が進んでいるようで、なによりです。オランダにて「出会う人は初対面ばかりなので、挨拶の後は自己紹介」となるそうですが、コミュニケーションをとるために挨拶、自己紹介は非常に重要であり、日本にいても意識しなくてはいけないと改めて気づかされました。子ども達や保護者の方達の憩いの場となるような空間が作れるよう、頑張っていただきたいと思います。

 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 09:27 | 笹川科学研究助成 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
先輩研究者のご紹介(小林 慧人さん) [2020年01月27日(Mon)]
 こんにちは。科学振興チームの豊田です。
 本日は、2018年度に「地上部と地下部の生態を統合した竹林拡大のメカニズム解明」という研究課題で笹川科学研究助成を受けられた、京都大学大学院農学研究科所属の、小林 慧人さんから研究内容について、コメントを頂きました。

<小林さんより>
 私はフィールドワークを通してタケ(以下、竹)の生態を理解したいと思い、博士課程で研究を進めています。

◆竹と人
 竹は、イネ科タケ亜科に属する常緑性の多年生草本のことをいいます。古くから人々の食糧や生活資材など日常生活に欠かせない植物として人里近くに植栽され、維持管理されてきました。しかし、近年のライフスタイルの変化にともない、日常生活の中で竹を利用する頻度が激減し、各地で管理されなくなった竹林が目立ってきています。
 その代表格が、背丈が10−20m超と大型なモウソウチクPhyllostachys edulisという種類です。食用筍などの目的で江戸時代に中国より導入され、当時の食糧事情もあってか爆発的に日本各地へ株分けされたと知られています。

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◆助成金をいただいて行なった研究
 私は地上部と地下部の両面からモウソウチクの旺盛な栄養繁殖の成長戦略を理解することを目指し、調査を行なっています。地下部の調査においては、一度掘り起こされたことのある場所(兵庫県淡路市)で、エアースコップという道具を用いて、地下50pまで再び掘り起こし、地下茎や根を露出させました(下写真)。そして、年間あたりに地下茎がどの程度生産されているか推定値を得るという研究を行ないました。

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 また、地上部の調査も継続的に行ないました。地上部の成長様式に関して調査していたところ、新しい竹(地上部の稈)をほとんど作ることができていない衰退傾向にある竹林(京都府井手町)もあることにたまたま気づきました。

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 カメラトラップを用いてモニタリング調査を行なったところ、私の調査地では、イノシシらによって地中にある小さな筍がたびたび食べられており(上写真)、それが原因で新しい竹がでてこないということもわかってきました。

◆ホットな話題
 竹は数十年以上もの間、旺盛に栄養繁殖を行ないますが、稀に一斉に開花し、その後枯れることが知られています。竹の花序はとても地味(下写真は左がクロチク、右がモウソウチク)なのですが、この現象は種類によっては1世紀に1度しか訪れないという非常に珍しい現象であり、「なぜ開花周期はそれほどに長いのか?」や「なぜ同調して咲くのか?」など、不思議で謎な点が多くあり、私にとって非常に魅力的な現象です。

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 私は、竹の開花現象について、納得・理解できることを一つでも増やしていきたいと思っています。明治期以来、約1世紀ぶりに日本各地で開花期に入ったと考えられているハチクPhyllostachys nigra var. henonisについては、まさに今が勝負の時のようですので、研究の主なターゲットとし、日本各地で調査を行なっています。

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 まずは各地で開花情報を集めようと、上の写真(滋賀県大津市)のような開花真っ盛りの林分を探し回っています。これまでに国内において500を超える林分を目にしてきました。竹研究関係者とともに情報を集める体制を作り(竹林景観ネットワーク:http://balanet.bambusaceae.net/タケ類の開花情報/ )、また、生き物コレクションアプリ「バイオーム」を用いて一般市民の方にも情報収集をお願いするということにもチャレンジしています。
https://www.sankei.com/economy/news/190614/prl1906140393-n1.html

 開花の見られる季節は主に晩春から初夏ですので、2020年のこれから来る時期に竹林に目を向けていただけば、1世紀に一度という貴重なハチクの開花現象を目にすることができるかもしれません。

◆最後に
 今振り返ると、研究資金源のなかった博士課程1年(当時)の私にとって、いただいた助成金は、自身の研究を前進させる大きな助けとなりました。大変感謝しております。2018年度の研究助成によって得たものを生かしつつ、これからもフィールドワークを大切に、魅力的な竹にフォーカスをあてた研究に邁進できればと思っております。
*文中の写真や画像はすべて筆者自身により取得されたものです。
<以上>

 イノシシが竹の生育に関わっていたということに、自然界の厳しさを感じました。予想外の出来事であったかとは思いますが、フィールドワークを大切にし、現地へ足を運んだことによって判明したことかと思います。竹の花だけでなく研究も花開くよう、陰ながら応援させていただきたいと思います。
 
 日本科学協会では過去助成者の方より、近況や研究成果についてのご報告をお待ちしております。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
Posted by 公益財団法人 日本科学協会 at 09:32 | 笹川科学研究助成 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
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