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2020年03月31日

第11回 倉方俊輔(日本文化藝術財団専門委員/大阪市立大学准教授)

多様なものが熟成する日本には伝統が芽吹いている
チャンスを増やして可能性を高めてこそ花開く



「伝統は創造の種になり得るもの。何かを生み出すための源泉として多様に残すべき」と話す倉方氏。現代は、この“残す”ことが難しくなってきていると警鐘を鳴らします。一方で文化や社会のニーズが多様化し、地域性が伝統と創造を追い風に広がりを見せています。
(取材:ごとうあいこ)


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 創作する上で、自覚的に伝統を使うこと。調整したり、加工しながら伝統を取り入れ、操作しながら発展させるということを行った最初のジャンルは建築ですが、こうした創造は、絵画や音楽や工芸でも取り入れられ、自覚的なものづくりが波及するうちに、だんだんとジャンルの垣根がなくなってきました。現代になると、建築の世界観が、音楽や彫刻でも表現されたり、楽器や工芸とコラボレーションをするなど、それが顕著に見えてきます。

 1980年以降、グローバリズムの時代になると、ジャンルが横断的で、どこまでがアートの領域でどこまでがソーシャル活動なのかがわからず曖昧になっていきます。80年代以前の、50年代、60年代からメディアミックスの流れはありましたが、80年代以降は現代美術もモードが変わっていきます。それからもう一つは、文化的相対主義というか、西洋中心だったアートが多文化主義に移行したことも挙げられます。それまでマイノリティだと見なされていたもの、例えばオーストラリアのアボリジニアートなどが脚光を浴びるようになったり、ソーシャルアートも活気づいてきました。

 日本でも伝統といわれているものは、ソーシャルメディアなどの発達で、注目を集めやすくなりました。しかし逆に「辺境だからすごい」ということにはならなくなってきた。それまでは地域や辺境で残っていることがすごいといわれていたものも「辺境にあるから伝統なんだ」という理由だけで残る時代ではなくなってしまったのです。環境じゃなく、そこに根付く何が伝統なのかを自覚しないと、伝統は保持していけません。技法なのか知恵なのか、それを一歩踏み込んだかたちで広げてみる。それがもし何かの道具だとしたら、この地域では小さいものにしか使わないけれど、大きいものに応用するとか、特定のものにしか用いなかった技法を、全く別の分野で使ってみるなど、自覚的に伝統に創造をプラスしていかないと保てないのではないでしょうか。

 現代で劇的に変化したというものの一つが、食です。流通の発達で、世界中の食材がフレッシュなまま行き交う時代となっただけでなく、離れた地域の情報さえ簡単に入手できて直接行けるようになりました。大きな看板やどんな料理か分かりやすく記された店舗名がなくても、集客できる。食のローカライズ化が進み、地域性がより一層売りに出されるようになりました。伝統を意識したクリエイティブな一皿も作られるようになって、遠くからも人が集まります。地域のものを再発見し、伝統を自覚的に用いながら創造することは、工芸や他の分野でも同じこと。地域性という括りでジャンルなく横断的につながることが受け入れられるのが現代なのです。

 建物、演劇、音楽、食事、すべてが独立しているようで横断的につながっていることは、そこを訪れた人がどう感じるかということでもわかります。例えば、レストランなら料理の味だけでなく、空間、インテリア、音楽、サービス、劇場も然り。中でも立体空間を作る建築は、人が中に入れる唯一のメディアであり、建物そのものだけではなく体験全体を構成する役割、そして価値は大きいです。今はVRなど空間体験がコンピュータで叶うこともあるが、実際に中に入ってみたいと思わせたり、コミュニティの受け皿になるなど、体験の仕掛けを作る意味での建築性はすごくもてはやされています。一人気ままに読書したいと思い自宅にこもっていたのが、落ち着いて本が読める広いスペースに出かけていくと、同じように一人で黙々と読書する人たちが点在しているというように。一人で本を読むという行為は変わらないのに、同じことをしている人が同じ屋根の下に集まると、やがてコミュニティに発展する。これも、三次元だからこそ作れる建築の魅力だと思います。

 建築は人が入れるほど大きいので、ニーズがないと生まれません。社会の要望があって初めてできるので、一人ひとりの新しい考えで新しい建築全体の潮流が変わったりするということはあまりないんです。ただ、建築も多様であればあるほどいいし、工芸や音楽やその他のジャンルとも刺激をしあって可能性や知見を広げられる。伝統的とされているものを含め、あらゆるジャンルがその分野でしかできないこともあってそれが埋もれていることもあります。例えば、素材。自然のもので作るということは当たり前だった時代から、野山にはない素材を使っていかに丹念な仕事をするかというのが工芸作家の一番の技になりましたね。それが機械化されていくらでもできる時代になると、今度は新しい希少性の高い素材やエコロジーを考えるなどテーマ性を持たせるなど、変化してきます。そして、建築でこれをやろうとしても、面積が大きいからできないこともある。ただ、「この場所は地元の土を使う」など個々の仕事では可能でしょう。創造する伝統は、気づいた人が埋もれていた良さを引き出し、新しい価値を引き寄せていかないと生まれないものです。

 そして、新しいものは、才能がある人が何かをした時にしか生まれません。いかに教育しても、可能性を多少高めるだけであって、才能がないと厳しいというのも現実です。才能がある人が何かを生み出す可能性をより高めるためには、多様性が必要。いろいろなジャンルがあったほうが、その中でチャンスが増えていくからこそ、建築はなるべく多様なものを残したほうがいいと思っています。明治、大正、昭和初期、1950年代、1990年代、どの時代にもいいものがあります。日本は「残す」取り組みが世界で一番遅れていて、こうしたものを残さないと新しく才能がある人が出てくる可能性は低くなります。日本の江戸時代以前の伝統と西洋的なものをいかにミックスするかという、戦後の丹下健三さんとかモダニズム建築で初めて実現しましたよね。日本はいま、世界でも有名な日本人建築家を輩出していて、その数は一番多いけれど、それを知らない日本人も多いです。

 多様性でいうと、日本は中国やアジア諸国など他の国から入ってきたものを独自に応用し、発展させてきました。西洋からの流れもいち早く受け入れると同時に、伝統を自覚し、保護しました。絵画や彫刻、工芸、料理、すべて他国の模倣から始まっていて日本から生まれたものは基本的にないと考えられていますが、だからこそ、すごく多様なものが日本で熟成しているんです。日本の伝統といわれているものには、たくさんの芽がある。まだまだたくさんの種類があると思うし、創造的な頭と腕をもっている人、可能性に満ちている人はまだまだいると思うからこそ、これからの創造する伝統に大いに期待したいです。

(了)

倉方 俊輔(くらかたしゅんすけ)
建築史家。1971年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。伊東忠太の研究で博士号を取得し、2011年から大阪市立大学准教授。日本の近現代建築の研究と並行して、『東京モダン建築さんぽ』『建築の日本−その遺伝子のもたらすもの』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』などの編著書の執筆、メディア出演、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員、Ginza Sony Park Projectメンバーを務めるなど、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。日本建築学会賞(業績)(2016年)、日本建築学会教育賞(2017年)受賞。
「創造する伝統賞」の前身である「日本現代藝術奨励賞」の第13回受賞者。

2020年02月29日

第10回 倉方俊輔(日本文化藝術財団専門委員/大阪市立大学准教授)

真に創造的なものは世紀をまたいでも滅びない
いきいきとした姿で輝き続けるものが創造を呼ぶ



伝統には創造が必要で、人為的に変形させる荒技ができる人を「建築家」と呼んだ近代。「創造する伝統の中心には建築があった」という倉方氏。権威が変転した時代に生まれた創造を建築からひもときます。
(取材:ごとうあいこ)


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 前回、権威と伝統が結びついた象徴に建築が使われたという話をしましたが、近代ではこれが盛んに行われました。カトリックが古代ローマで存在した形式を用いながら自分たちがもっている伝統を加工していく。これは、固形化した権威の下での伝統しかなかった中世とはかなり違います。古代ローマのものを軸に歪めたり、重ねたりなど加工を施したバロック建築は、伝統の継承を匂わせながらも創造を加えることで新しく生まれ、生きた伝統を表現しました。伝統は固形化するものだというのは中世までの考えで、近代は、“伝統は変形させて生かすもの”という時代です。伝統には創造が必要であり、その先駆け、中心にいたのが、建築家なのです。あたかも伝統に沿うように見せながら、意識的に変革する。これができる人が真のアーティストであり、建築が一番早かった。それから、絵画や彫刻、工芸などに広がっていきました。

 建築の概念がしっかり確立されたのは近代からですが、西洋は、ギリシャ時代に建築論はあるし、ローマ時代も存在しました。その時代にはすでに建築家のような人がいて、コンセプチュアルな建物も作られていたんですよね。まだ、近代のような活躍はしていないとしても、西洋は日本の歴史のように明解な転換期はないから、建築についてもなんとなく伝統と絡めながら連続した話ができます。

 一方、日本の場合は、明治以前と以後がはっきりと違う。建物は建造物でしかなく、そこに概念はありませんでした。日本の建物は、左官屋や床職人、壁職人などパーツごとに専門の職人が作り、その職人たちを現場監督として大工棟梁が束ねることで作られていました。建築は建物を建てる行為でもなければ、技術の総称でもありません。現場監督としてその場に立つ大工棟梁は建築家ではないのです。建築家とは、世界観を持って概念を表現しながら全体を構成できる人であり、踏み込んでいえば、大工仕事ができなくてもつとまるということになります。

 明治以前で建築家の資質がある人を挙げるなら、織田信長ではないでしょうか。信長は、それまでの城とはまったく違う、天守閣がある多層の城を築きました。歴史の流れで少しずつ城が階層式になっていったのかと思いきや、そうではないんですよね。それまでは、平建ての城が主流だった中で、信長が琵琶湖の湖畔に建てた安土城でいきなり城が多層となったのです。豊臣秀吉や徳川家康など、後の武将たちは、安土城を真似して多層式の城を建てるようになったといわれています。この独創的な造りの安土城を考案した信長は極めてアーキテクト的な人物だったと思います。つまり、このように特異な発想を持ち、かたちにできる人が近代以前には皆無だったわけではないのです。ただ、新しいことをやらなくても、やっていけた時代だったというだけなんですよね。

 それが近代以降、新しいことを取り入れていかないと立ちゆかなくなるような社会状況となります。日本は西洋文化の流入で伝統が意識され、ものづくりがより創造的になっていく。建物も西洋からきた“建築”という概念を受け、近代以前のものと現代を融合させながらどう伝統と結びつけていくのかが考えられるようになり、最初に動いたのが伊東忠太でした。これが、日本の建築史の始まりです。そして近代の建築は、創造の宝庫だったともいえるでしょう。時代を超えてもワクワクするものが多いのです。

 本当に創造的なものは、世紀をまたいでも滅びることはなく、いきいきした姿で輝き続けています。ルネサンスやバロックでもたくさんの建築が生まれましたが、今見ても面白いのは、思考も刺激されるからです。「このかたちとこのかたち、こうやったらつながるのか」など発見の喜びがあったり、アイデアが生まれたりもする。逆に、模倣されただけのものや、形式だけ引き継いでいるようなものは、廃れるのも早いです。伝統芸能も、創始者の人のパワーはすごいけれど、後に続く者が形だけを真似したところで響かないでしょう。引き継いでいくほうも伝統に変化を加えなければ、伝統は死んでしまいます。これは専門家が見れば、一目瞭然です。だから、見る側も知識があると比較しやすいし、きちんと判断もできるから、専門家が守られるべき伝統を見極めるということも重要だと思います。

 私は、伝統と呼ばれ、保護されるべきものは、良し悪しは別として基本的に残したほうがいいと思っています。1980年以降、現代においては特に、残りづらくなってきていますが、どういうかたちであれ、残すべきです。例えば植物や病原菌なども、有事の際には使えるように残しているでしょう。そこから新しいものができる、特効薬などが生まれる可能性もあるからです。センスも同じことで、なるべく多様に残しておけば、創造の種になり得る。創造につながる可能性があるから残すということで、そのままの姿で未来永劫保ち続けるということではなく、何かを生み出すための源泉として、伝統的なものは多様に残すべきだと思うのです。

(3へ続く)


倉方 俊輔(くらかたしゅんすけ)
建築史家。1971年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。伊東忠太の研究で博士号を取得し、2011年から大阪市立大学准教授。日本の近現代建築の研究と並行して、『東京モダン建築さんぽ』『建築の日本−その遺伝子のもたらすもの』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』などの編著書の執筆、メディア出演、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員、Ginza Sony Park Projectメンバーを務めるなど、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。日本建築学会賞(業績)(2016年)、日本建築学会教育賞(2017年)受賞。
「創造する伝統賞」の前身である「日本現代藝術奨励賞」の第13回受賞者。

2020年01月31日

第9回 倉方俊輔(日本文化藝術財団専門委員/大阪市立大学准教授)

建築家は、伝統に新たな衣をまとわせるアーティスト
「創造する伝統」ではない建築はない



日本にある伝統的な建物とは何を指すのか。古い建造物だからといって「一括りに伝統とはいえない」という建築史家の倉方俊輔氏。なぜなら、日本の歴史には大きな転換期があり、建築が生まれた時代に関わるから――。倉方氏が考える「創造する伝統」とは。3回にわたって連載します。
(取材:ごとうあいこ)


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 日本の場合は、1854年、幕末から明治に変わるときに社会が一変しました。西洋の文明が本格的に日本に流れ込み、そこから現代の社会につながっていきますが、近代化の前と後とでは歴史の分断がはっきりと見えるくらいに異なります。他国のように徐々に変化するのではなく、国民の合意の下でスパッと時代が分断されて文明開化した日本は、例外的であると同時に、伝統を意識したのも近代化してからだったといえます。

 特に建築に関しては、近代以前は、そうした概念が存在しませんでした。建築とは、建物そのものを指すのではなく、建物に宿るもの、理念や目的を含めた概念を指す言葉です。美術と同様に、絵画や彫刻というそれぞれの手法ではなく、美の表現を集合体として総称する言葉なのです。そして、この概念は、アジアにはなく西洋から来ました。つまり、建築家は、潜在的な時代の要請に応えた世界観を建築物で表現し、まとめる人。実際にノミやカンナを手に大工仕事をするのではなく、概念からかたちを生み出す役割を持ちます。

 近代化以前の建造物、私たちが“建物”とみなしているものは、今の観点からであれば「ここが連続している」とか「同時代の西洋やアジアとはここが違う」という議論はできるかもしれません。しかし、当時は、概念がなかったわけだから、話を発展させるような建築論は存在しません。例えば、法隆寺も最初に創建した607年と現在では社会状況は全く違っており、建造物が残っているからそのまま伝統も続いているとは言い難い。そもそも、近代化以前は建築という共通平面がないから比較ができませんし、伝統といっても何を受け継いで何を受け継がなかったのかと判断することは難しいからです。概念ではなく、木造建築など技法や技術、美意識については、伝統的といわれるものがどうつながっているかをある程度は語れるかもしれません。でも、当時の人が本当にそういっていたかはわからないでしょう。

 私は「伝統」という言葉の意味は、大きく二つあると考えています。一つは、意識されていない継承で、もう一つは、意識的な継承です。意識されていない継承を指す「伝統」は、私たちが自覚なく行っていること。例えば冠婚葬祭などの儀式で行われる手順、さまざまな作法、自宅や店に据える神棚の位置からものづくりの工程まで、日常に入り込んだ慣習や風習も含んでいます。そういう類の伝統は、外にいる人間が気づく。海外や他地域の人が発見して“伝統”と呼ばれるようになり、その伝統は見つけた側にも刺激を与えることがあります。これは、単に変わったものを発見したということや、オリエンタリズムだという話ではなく、人間の領域、可能性が広がることを意味します。「こういう在り方もあるのか」という根源的興味が視野を広げ、刺激をし合うことで社会全体が豊かになるのです。ただ、本人たちが無自覚だった伝統に意識を向けたことで、伝統がよりいきいきと、意義のあるものに発展すればいいけれど、マニュアル化されることで形骸化してしまうようなら、それは伝統とはいえなくなりますよね。

 もう一つの意識的な継承、これもとても大事でしょう。日本人が伝統をはっきりと自覚したのは近代以降であり、近代は世界的にも伝統を理解、認識した上で自覚的に操作する時代で、そこにまず関係したのが建築家という職業でした。近代から大きく開花した建築は、“権威(Authority:オーソリティ)”と結び付きを強くすることで、目覚ましく発展していきます。この権威(オーソリティー)は、人間の文明には必ず存在するもので、古代にも中世にも当然に存在したでしょう。人々が生活する中で、リーダーが生まれ、権威が生まれます。権力者がルールを決め、祭祀の仕方などに意図的に“伝統”を組み込みます。伝統は権威との結びつきが強いものです。時の権力者が伝統を新しくアップデートして広めるパターンは、人間が文字を使い始めた頃からすでに存在しているでしょう。これが意識的な継承、意識された伝統です。

 権威が激しく変転する近代は、自覚された伝統が一層、輝いた時代です。古代は、西洋でも日本でも、集中的なオーソリティーの時代。中世は、オーソリティーの分裂時代で、キリスト教とローマ法皇、各王のオーソリティーが分立し、せめぎ合う中で発展した時代です。日本は、天皇だけでなく、武士や宗教勢力が強くなってきた頃ですね。近代に入ると次々に簒奪者が現れ、権威が長続きしなくなります。そして、権威が流動する近代は、簒奪者が伝統を変容させながらわかりやすく示そうとした時代なのです。

 その一つの例が、16世紀から始まったキリスト教の宗教改革です。プロテスタントとカトリックの双方が互いに“伝統”をかかげながら論争しました。「自分たちこそが伝統」というカトリックに対し、プロテスタントは「聖書こそが伝統」と伝統を定義したといえます。伝統など明確にせずとも自分たちはすべてを引き継いでいるというカトリックに「明確に書かれた聖書こそが伝統、ここに書かれていないことは伝統ではない」と示すだけでなく、カトリックの中にある揺るぎない権威を自分たちの中心に据えることで、相手が否定できない状況を作ったのです。プロテスタントの主張を受け、カトリックはこれまで自覚してこなかった伝統を意識し、ルールやマニュアルに落とし込んだ上で「こちらが伝統だ」と反論。社会や政治を巻き込みながらより強く、わかりやすく権威を示しました。その象徴に使われたのが建築でした。

 初期のフィレンツェのルネサンスの後、16世紀後半に権威がローマに移ってから、カトリックはシンボリックな建築物を建てます。古代ローマの権威を継承していることを示すかのごとく、古代ローマにあった形式とカトリックを融合させるように手を加えながら伝統を意識的に見せていきます。それを手がける人が真のアーティストであり、建築家と呼ばれる人たちでした。誰の目からも見えて、説明がなくても直感的にすごいと思わせられる建物に概念を与える役割。建築家という職業ができた時代が近代であり、彼らによって、伝統に新しいエッセンスが加わり、新たな衣をまとった伝統が目に見えるかたちで継承されていきます。近代以降の伝統は、創造する伝統としての性格を強めます。その代表格が、建築です。

(2へ続く)

倉方 俊輔(くらかたしゅんすけ)
建築史家。1971年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。伊東忠太の研究で博士号を取得し、2011年から大阪市立大学准教授。日本の近現代建築の研究と並行して、『東京モダン建築さんぽ』『建築の日本−その遺伝子のもたらすもの』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』などの編著書の執筆、メディア出演、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員、Ginza Sony Park Projectメンバーを務めるなど、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。日本建築学会賞(業績)(2016年)、日本建築学会教育賞(2017年)受賞。
「創造する伝統賞」の前身である「日本現代藝術奨励賞」の第13回受賞者。