「創造する伝統」ではない建築はない
日本にある伝統的な建物とは何を指すのか。古い建造物だからといって「一括りに伝統とはいえない」という建築史家の倉方俊輔氏。なぜなら、日本の歴史には大きな転換期があり、建築が生まれた時代に関わるから――。倉方氏が考える「創造する伝統」とは。3回にわたって連載します。
(取材:ごとうあいこ)
日本の場合は、1854年、幕末から明治に変わるときに社会が一変しました。西洋の文明が本格的に日本に流れ込み、そこから現代の社会につながっていきますが、近代化の前と後とでは歴史の分断がはっきりと見えるくらいに異なります。他国のように徐々に変化するのではなく、国民の合意の下でスパッと時代が分断されて文明開化した日本は、例外的であると同時に、伝統を意識したのも近代化してからだったといえます。
特に建築に関しては、近代以前は、そうした概念が存在しませんでした。建築とは、建物そのものを指すのではなく、建物に宿るもの、理念や目的を含めた概念を指す言葉です。美術と同様に、絵画や彫刻というそれぞれの手法ではなく、美の表現を集合体として総称する言葉なのです。そして、この概念は、アジアにはなく西洋から来ました。つまり、建築家は、潜在的な時代の要請に応えた世界観を建築物で表現し、まとめる人。実際にノミやカンナを手に大工仕事をするのではなく、概念からかたちを生み出す役割を持ちます。
近代化以前の建造物、私たちが“建物”とみなしているものは、今の観点からであれば「ここが連続している」とか「同時代の西洋やアジアとはここが違う」という議論はできるかもしれません。しかし、当時は、概念がなかったわけだから、話を発展させるような建築論は存在しません。例えば、法隆寺も最初に創建した607年と現在では社会状況は全く違っており、建造物が残っているからそのまま伝統も続いているとは言い難い。そもそも、近代化以前は建築という共通平面がないから比較ができませんし、伝統といっても何を受け継いで何を受け継がなかったのかと判断することは難しいからです。概念ではなく、木造建築など技法や技術、美意識については、伝統的といわれるものがどうつながっているかをある程度は語れるかもしれません。でも、当時の人が本当にそういっていたかはわからないでしょう。
私は「伝統」という言葉の意味は、大きく二つあると考えています。一つは、意識されていない継承で、もう一つは、意識的な継承です。意識されていない継承を指す「伝統」は、私たちが自覚なく行っていること。例えば冠婚葬祭などの儀式で行われる手順、さまざまな作法、自宅や店に据える神棚の位置からものづくりの工程まで、日常に入り込んだ慣習や風習も含んでいます。そういう類の伝統は、外にいる人間が気づく。海外や他地域の人が発見して“伝統”と呼ばれるようになり、その伝統は見つけた側にも刺激を与えることがあります。これは、単に変わったものを発見したということや、オリエンタリズムだという話ではなく、人間の領域、可能性が広がることを意味します。「こういう在り方もあるのか」という根源的興味が視野を広げ、刺激をし合うことで社会全体が豊かになるのです。ただ、本人たちが無自覚だった伝統に意識を向けたことで、伝統がよりいきいきと、意義のあるものに発展すればいいけれど、マニュアル化されることで形骸化してしまうようなら、それは伝統とはいえなくなりますよね。
もう一つの意識的な継承、これもとても大事でしょう。日本人が伝統をはっきりと自覚したのは近代以降であり、近代は世界的にも伝統を理解、認識した上で自覚的に操作する時代で、そこにまず関係したのが建築家という職業でした。近代から大きく開花した建築は、“権威(Authority:オーソリティ)”と結び付きを強くすることで、目覚ましく発展していきます。この権威(オーソリティー)は、人間の文明には必ず存在するもので、古代にも中世にも当然に存在したでしょう。人々が生活する中で、リーダーが生まれ、権威が生まれます。権力者がルールを決め、祭祀の仕方などに意図的に“伝統”を組み込みます。伝統は権威との結びつきが強いものです。時の権力者が伝統を新しくアップデートして広めるパターンは、人間が文字を使い始めた頃からすでに存在しているでしょう。これが意識的な継承、意識された伝統です。
権威が激しく変転する近代は、自覚された伝統が一層、輝いた時代です。古代は、西洋でも日本でも、集中的なオーソリティーの時代。中世は、オーソリティーの分裂時代で、キリスト教とローマ法皇、各王のオーソリティーが分立し、せめぎ合う中で発展した時代です。日本は、天皇だけでなく、武士や宗教勢力が強くなってきた頃ですね。近代に入ると次々に簒奪者が現れ、権威が長続きしなくなります。そして、権威が流動する近代は、簒奪者が伝統を変容させながらわかりやすく示そうとした時代なのです。
その一つの例が、16世紀から始まったキリスト教の宗教改革です。プロテスタントとカトリックの双方が互いに“伝統”をかかげながら論争しました。「自分たちこそが伝統」というカトリックに対し、プロテスタントは「聖書こそが伝統」と伝統を定義したといえます。伝統など明確にせずとも自分たちはすべてを引き継いでいるというカトリックに「明確に書かれた聖書こそが伝統、ここに書かれていないことは伝統ではない」と示すだけでなく、カトリックの中にある揺るぎない権威を自分たちの中心に据えることで、相手が否定できない状況を作ったのです。プロテスタントの主張を受け、カトリックはこれまで自覚してこなかった伝統を意識し、ルールやマニュアルに落とし込んだ上で「こちらが伝統だ」と反論。社会や政治を巻き込みながらより強く、わかりやすく権威を示しました。その象徴に使われたのが建築でした。
初期のフィレンツェのルネサンスの後、16世紀後半に権威がローマに移ってから、カトリックはシンボリックな建築物を建てます。古代ローマの権威を継承していることを示すかのごとく、古代ローマにあった形式とカトリックを融合させるように手を加えながら伝統を意識的に見せていきます。それを手がける人が真のアーティストであり、建築家と呼ばれる人たちでした。誰の目からも見えて、説明がなくても直感的にすごいと思わせられる建物に概念を与える役割。建築家という職業ができた時代が近代であり、彼らによって、伝統に新しいエッセンスが加わり、新たな衣をまとった伝統が目に見えるかたちで継承されていきます。近代以降の伝統は、創造する伝統としての性格を強めます。その代表格が、建築です。
(2へ続く)
倉方 俊輔(くらかたしゅんすけ)
建築史家。1971年東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学院修了。伊東忠太の研究で博士号を取得し、2011年から大阪市立大学准教授。日本の近現代建築の研究と並行して、『東京モダン建築さんぽ』『建築の日本−その遺伝子のもたらすもの』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』などの編著書の執筆、メディア出演、日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員、Ginza Sony Park Projectメンバーを務めるなど、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。日本建築学会賞(業績)(2016年)、日本建築学会教育賞(2017年)受賞。
「創造する伝統賞」の前身である「日本現代藝術奨励賞」の第13回受賞者。【ゲスト:倉方俊輔の最新記事】