想像力豊かにプロセスや精神までさかのぼって見ることが肝要
「創造する伝統」を残していく、広げていくためには“現代的な味付け”と“徹底的な伝統の継承”の2つ考えなければならないという金子氏。
作品を見る側にも「鑑賞の論理」が問われると投げかけます。
(取材:ごとうあいこ)
前回、日本の工芸は、産業デザインと作家的な伝統工芸と分けて考えるべきという話をしましたが、大元には下支えとなっている職人仕事があります。近代的な作家活動というのも、そのベースがあって初めて花開くわけです。第一次産業革命以降、欧米文化を受け入れながらもアイデンティティを保持し続けた日本は、「伝統」ということを特に意識します。「創造する伝統」を残していく、広げていくためにはどうしても2つ考えないといけないんです。1つは、伝統に現代の味付けをするということ。もう1つは、徹底的な伝統の継承です。その両方がないといけないと思います。
徹底的な伝統の継承がなければ、ベースが崩れてしまう。第一次産業革命で全部根絶やしにしたヨーロッパには、このベースがないんです。日本は、近代化の波にぶつかりながらも手放さなかった伝統があり、現代に受け継がれている技術がある。これを重要無形文化財や人間国宝に指定し、残しているところもあります。
例えば、江戸時代に非常にレベルの高かった柿右衛門様式、今右衛門様式、鍋島様式など焼き物の技術。もし、柿右衛門や今右衛門が個人として作品を発表するなら、個性がないと作品にはならないけれど、重要無形文化財には団体指定があり、柿右衛門保存会、今右衛門保存会というように集団で指定できる。それはつまり、人間国宝級の技術を、個人ではなく集団で保有しているということです。これは技術の継承、徹底的な伝統の継承ですよね。
船大工や左官などの職人もそうです。例え、スタイルは現代風になったとしても、技術そのものは、本当に徹底的な伝統の継承でないとできない。漆喰なども、今は全国で職人が何人いるかわからないくらいのものになってしまっている。今、漆喰で新しい住宅を作ろうという人はあまりいないけれど、伝統的な重要文化財になっているものは、崩れることもありますから。その時に、だんだんできる人がいなくなっていくという現実もありますね。宮大工の木組み技術もそうです。
そういう職人技術の継承が現代まで受け継がれていくなかで、新しい創造も生まれるんです。むしろ、「創造する伝統」に必要な要素の1つ、”現代的な味付け”は、このベースがあってこそなのです。ただ、ここで問題になってくるのは、前回お話しした「できあがったものをどう見るか?」という観賞の論理です。技術や見た目の視覚的な判断ということではなく、創造と伝統が最も息づくところというのは、プロセスであるわけです。できあがったものを基準にすると、人によって見解がバラバラになるんですよ。
一番典型的な例が、「縄文的か? 弥生的か?」という見方です。日本の文化を述べる前に比較表現としてよく用いられるのですが、荒々しく力があると“縄文的”で、上品な格調の高さを示す場合に“弥生的”と言うんです。縄文的な造形か、弥生的な造形かということでね、いろいろなものを対比するわけなんです。
しかしそこで造形的な印象とは別の見解がでてくる。伝統をかたちとしてとらえるか? 精神としてとらえるか? で見方が変わるということなんです。つまり、できあがったものをいかに鑑賞するかではなく、縄文土器と弥生土器がどうやって作られたか、土器を作った縄文人、弥生人の精神までさかのぼらないと、本当の伝統がどこにあるかは見えてこないんですよ。
縄文土器の典型は、火炎土器といわれる炎があるようなデザインのものです。ああいうものは土をこねて、単にこう、ぐにゃぐにゃとしたらできるというものじゃない。「土を殺す」といいますが、土の性質を抑え込んで、型にギュッとはめて乾いたものをくっつけていかないとできないわけですよね。
一方で、弥生土器は、ものすごくカーブがきれいで、ふにゃっとなっているんです。ろくろを使いませんから、紐づくりでね。紐を作って積み上げていくんです。土の積み方を工夫しないと、べちゃっとへたってしまうから、合理的な積み方をしながら、へたらないようにかたちを探るんです。
縄文、弥生、両方の要素があって、それを作った当時の縄文人や弥生人が何をそこで思っていたかという部分に趣向のポイントを当てないと、本当の伝統の継承ということは、出てこないですよね。創造も生まれてこないんです。だから、あの時代はそういう土の作り方をしていたのか、ということを学ぶことが大事なんです。学んだ上で、それに近代的な趣向をどういうふうに味付けをするか、というのが、逆に出てくるわけですよ。
創造と伝統という塩梅を見るためには、想像力を豊かにしないといけない。作る人間が何をやってきたのか、何を継承するのか、継承したものに何を付け加えているのかを考えないと。それがね、今の日本人はものすごい弱いわけですよ。形式に弱いっていうかね。荒れたスタイルの作品だと、作った人まで荒れていると判断する。けれども、それは作家の表現のスタイルであって、本人が荒れたままではスタイルはできないんですよ。作家は「荒れたように見せるスタイルを作る」と意識的にコントロールしてスタイルを作っているんです。そこに鑑賞の論理をもっていかないと。
つまり、見る側としては、「できあがった作品自体を鑑賞するのか」「作品の精神までさかのぼるのか」で評価が分かれてしまうんですよね。作品ができるまでのプロセス、精神までさかのぼって考えることが「創造する伝統」には必要なんです。
(3へ続く)
金子 賢治(かねこけんじ)
茨城県陶芸美術館館長
東北大学大学院修了。サントリー美術館学芸員として勤務。1984年より東京国立近代美術館に勤務、文化庁文化部地域文化振興課美術品登録調査官を経て、2000年東京都区立近代美術館工芸課長。2010年茨城県陶芸美術館館長に就任。東京国立近代美術館客員研究員を兼務。主著に『現代陶芸の造形思考』(阿部出版)など。
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